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礼拝説教(5月24日)


コリント人への第一の手紙1章18〜25節
      「キリストのかしこさ」
 コリント人への手紙は、パウロがエフェソに滞在している55〜56年ごろ書かれたものです。当時コリントという町は商業がさかんでした。経済的繁栄は人々の生活を豊かにしますが、一方、道徳面がすたれてきました。また宗教もさまざまな宗教が興り、人々は精神的に混乱したのです。そのような時代にある教会の人々にパウロは、十字架の信仰こそ本当の救い、神様の力をいただくまことの宗教、健全な日常生活をおくる「カギ」と声を発します。
18節では十字架の言葉=イエス・キリストの福音を見下げている人々に対して「滅ん行く者」とはっきりと語ります。ある人々は人の救いと十字架による死とが結びつかないこともありました。しかし、キリスト教信仰は、十字架と復活という道程を通らなければ、救いの恵みにあずかれないのです。これはイエス様が実際通られた救いの道ですから、否定
することはできません。ユダ人は特徴のひとつに血による贖い(あがない)、を重要視します。人間の救いには、神の御子イエス様の十字架の血が流される必要がありました(ヘブライ書9:22)。
21節に神様は宣教という愚かな手段によって人々を救おうとされた、とありますが、神様は全知全能のお方ですから、人間の救いもご自身でなそうと思えば不可能なことはありません。けれども、この上の動植物の管理を人間にゆだねられたように(創1
:28)、人間の救いも人々に託されました。それは十字架の救いがいかに尊く、救われた者から、まだ救にあずかっていない人々へ喜びが宣べ伝えられ、福音が地の果てにまで及ぶことを期待しておられるからです。
 本日の説教題は、「キリストのかしこさ」です。神様の知恵は、人間の知恵やこの世の知恵と比較にならないほど英知に満ちています。イエス様はこの 地に救いといっしょに「律法を成就」するためにも来られました。ユダヤ人の指導者たちはイエス様の一挙手一投足に険悪になり、殺意をあらわしましたが、イエス様は彼らの悪企みに、神様からの知恵をいただき、彼らのわな(試み)をはるかに超えて、対応されました。また、聖霊を受けた弟子たちも、キリストのかしこさを身にまとって、その信仰生活をあゆんだのです。
今、わたしたちもキリストのかしこさを与えられています。