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礼拝説教(10月 4日)


マタイによる福音書20章1〜16節 
                    『額いに汗してはたらく』
 イエス様はたとえ話をもって神の国のことを語られました。
神の国、この世の次元を超えた世界を神の国といいます。目には見えず、わたしたちの頭では理解できない世界ですが、しかし、たしかにこの世の中でも霊的な場面に出会うことがあります。わたしたちが住むこの世界は立方体、すなわち「三次元の世界」です。
これに対して、神の国、霊的世界は、三次元をも包み込む「四次元の世界」を言います。この神の国をわたしたちにわかるように、この世を例にとってイエス様は説明されました。
このたとえはぶどう園ではたらく4つのグループがあります。ユダヤ地方の労働は朝早くから日没まででした。時間になおすと朝6時ごろから夕方6時ごろまで、12時間の拘束労働でした。また賃金はその日のうちに支払うように律法で決められていました。
 第1のグループは「朝早く」、1日1デナリオンの日当をいただける約束で雇われました。暑いなか、ぶどう畑にすぐにはたらきに行きました。
第2のグループは「9時ごろ」です。マタ イ20章3 、4節に「主人は9時ごろ行ってみると、何もしないで・・・、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。20章5節 それで、その人たちは出かけて行った」のでした。
第3のグループは12時ごろと3時ごろの人々です。彼らにも「同じようにした」とありますから、「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と解釈してよいのだと思います。
問題は第4のグループです。主人は5時ごろ広場に行って、その人たちもぶどう園ではたらくことを告げますが、彼らの労働時間は1時間です。主人は前の3つのグループにはふさわしい賃金を払うことを約束しましたが、この最後のグループにはいくらの代価を払うことも申していません。
 さあ、日没が近づいてきました。主人は監督にこういいます。
8節、「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と。
9 節、「そこで、5時ごろに雇われた人たちが来て、1デナリオンずつ受け取った」。
第4のグループは1時間しかはたらかないのに1日の労働時間分、1デナリオンを受け取ったのです。うれしかったことでしょう。喜んだことでしょう。この世の計算でいくと、1時間=10分の1しか働いていないのですから賃金も10分の1しかもらえないはずです。
朝早くから働いた第1のグループは彼らの賃金も喜んでいる顔も見ていました。
第3のグループ、第2のグループ、も賃金を受け取り、第1のグループがいただく番になりました。彼らも他のグループと同じ1デナリオンです。
20章11節 、受け取ると、彼らは主人に不平を言います。「最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる1日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは」12 節。

 以上のたとえでわかりますように、天の国はこの世の尺度とは違うと言うことです。
神様の前ではみな平等です。ですから“神の恵みを感謝して力いっぱいはたらくものが報われる”と言えるのではないでしょうか。
早く信仰生活に入り、主イエス様の救いにあずかっていることを忘れて、「不平」をいっているならば、この世でも、天の国でも“何の恵みもわからない信仰者”といわれはしないでしょうか。そのような方は天の国への入場は後のなってしまうことを、教えられます。
信仰生活はたしかに平たんではありません。@苦難のときにはそれを神様の「試練」と思い、忍耐しましょう。Aどんなことも悪く見ればつまらなくなります。反対に感謝すれば、身の回りのことが「ありがたく」見えてきます。B神様の「しなさい」と言われることを、「額に汗して」やりましょう。この地上の生活は、天の国の準備期間なのですから。パウロはコリントの人々にいいます。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」と。
おわりに14節、15節に注目しましょう。
14 節、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。父なる神様の愛がこのことばから伝わってきます。神様はアブラハムに愛する息子イサクをささげるように命じられましたが、最後にはイサクをいけにえとしてささげなくてもよい、とされました。
しかし、父なる神様は御子イエス様を十字架につけることをゆるされました。
イエス様は十字架で血を流して救いを完成してくださいました。ここに神様の愛があります。
15 節、「わたしの気前のよさ」とあります。神様の気前のよさに学びましょう。
箴言11章25節に「気前のよい人は、自分も潤う」とあります。わたしたちはこの世の富はそんなにゆたかではありませんが、神様の子であるわたしたちが、霊的な富を神様に願えば無尽蔵に与えてくださいます。
したがって、神様から天の宝(神様の祝福)をいっぱいいただいて、この世の人々に流していこうではありませんか。
神様の祝福は「知恵」や「知識」や「寛容」や「忍耐」。「柔和」や「謙遜」や「決断」
や「聖」、「愛」、そして「気前のよさ」・・・。
お祈りします。