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礼拝説教(11月 15日) |
出エジプト記6章2〜9節、 ヘブライ書11章23〜27節
「救いの約束」
神様にあってどんな問題もプラスになる、というのがある方の持論ですが、前向きに考えるとそのようになっていきますね。
13日(金)オバマ大統領が来日され、鳩山首相との共同記者会見その他23時間の日本滞在のなかで、多くの日本との関係、世界との関係が平和に向けて何か前進していくような感じを受けました。神様はいかなるときも広い見地に立たれて、忍耐強く、計画を進められます。わたしたちも一時的な暗闇につつまれても、やがて日のあたるところに出れることを信じてすすみましょう。
先週は「神の選びの民」と題して創世記15章からみことばをいただきました。神はアブラムに「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」と言われました。
この神が今朝、モーセに言われます。「わたしは主である」と。主とは神様のことですが、
神様は今朝6章2節から9節までのテキストに実に多くのことを表しておられます。要点をまとめてみましょう。
@わたしは主である。Aわたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神として現れた。Bわたしは彼らと契約を立てる。C彼らにカナンの土地を与えると約束した。Dエジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞いた。Eわたしは(イスラエルの民との)契約を思い起こした。Fあなたたちをエジプトの重労働(奴隷の身分)から救い出す時が来た。G大いなる審判(さばき)によってあなたたちを贖う。
この中からDEFGについてみことばに聞きたいと思います。
創世記にヨセフをとおして飢饉から救われたヤコブの一族は、パロ王の好意を得て、エジプトに移り住みます。一族がエジプトに入ったのは70人でした。出 エジプト記1章5節 「ヤコブの腰から出た子、孫の数は全部で七十人であった」とあります。
カナンから引っ越してきた当時は、生活も豊かでしたが、ヨセフが召され、エジプト王も代が替わると、ヘブライ人に対する対応も代わって来ました。同11 〜14節「エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課し
て虐待しました。しかし、イスラエル人は虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、 粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた」とあります。時が変われば扱いも変わっていきます。エジプト人の彼らに対する扱いは過酷でした。同2章23〜25節「 それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ」彼らはうめき、叫びました。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いたのです。 神はその嘆きを聞き、彼らとの契約を思い起こされました。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められたのでした。何と彼らがエジプトに入ってから400年の長きにわたっての奴隷としての重労働だったのです。Fいまや、神様にとって「イスラエルの民をエジプトの重労働(奴隷の身分)から救い出す時が来た」のです。この400年間で同12章37節 「一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった」。とありますから、女性や子どもを含めたならば120万〜130万人になっていたでしょう。この人々を救うために神様は大きな決断をされます。G神様は「大いなる審判(さばき)によって、あなたたち(イスラエルの民)を贖う」と言われます。贖うとは失われたものを代価を払って買い取ることですが、今神様はイスラエルの民をいわば、エジプトの地より、神の民として買い取るために、羊の血を用意するよう命令されました。イスラエルの民120万人、1家族5人として24万世帯、これらの「各家庭の入り口の2本の柱とかもいに羊の血を塗りなさい」といわれるのです。1家に1匹、24万匹の羊が犠牲になります。同12章13節「 あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない」。これが「主の過越」です。
この後、神様はエジプトの指導者たちに神様が生きておられることを知らせるために、また、天地万物をご支配されていることを示すために、エジプトの初子を打たれます。同12章29〜30節「 真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった」のでした。しかし、神様は愛の方、どんなときにも選んだ民を見捨てることはなさいません。ただ、彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた」とありますようにこれは助けなければいけない、と思われたときに助けられたのです。しかし、神様は彼らを助け出すことが主な目的ではありません。彼らをカナンの土地に導いてイスラエルの民が神様を礼拝することが最終目的でした。わたしたちも神様が何のために救い、永遠の命を与えてくださったか、この目的、「神様を礼拝する」ことを常に忘れず歩みましょう。これは旧約聖書で神様の贖いの業ですが、新約聖書にいたっては神の子イエス・キリストが贖いとなってくださいました。イエス様は「晩餐」をとおして贖いの重要さ、「聖餐式」をわたしたちに残してくださいました。マタ イ福音書26章26節 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
同26章27 節また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。
「皆、この杯から飲みなさい。 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
同26章29節 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
お祈りします。
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