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礼拝説教(11月 22日)


サムエル上16章1〜13、テモテへの手紙第一 1章12〜17節
                  
『主の油そそぎ』
 神様はイスラエルの民が王様を願っていることに対して、サウルを王として与えられました。そのサウル王は初期においてはたいへん謙遜で、神に従順でした。しかし、時がたつと自分の分を超えた行動が出てきます。神様はもうこれ以上サウルを王としてたてておくことには限界を感じられたのでしょう。
そこで預言者サムエルに“エッサイの息子のなかに次の王として油を注ぎたい者がいるから、角に油を入れて彼のもとにいきなさい”と命令されます。しかし、サムエルはこの命令に難色を示します。それはサムエルの住む、ラマからベツレヘムに行くにはサウル王の住むギファを通らなければなりませんでした。サムエルが油の入った角を持っているとサウルの家臣に見つかり、「その油は何をするのか」と問いただされ、サムエルにどんな危害が及ぶかわからないからです。
そのようなとき神様は不都合が生じないように、“若い雌牛を引いて行き、「主にいけにえをささげるために来ました」と言いなさい”、と指示されます。サムエルは主の命じられたとおりにしてベツレヘムに入りました。不安げに見ている町の長老たちにも説明して、エッサイとその息子たちに話をはじめます。
 王としての任命である油そそぎになったとき、サムエルには長男エリアブが目にとまり、彼こそ油そそがれる者だと思いました。しかし、主は“容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは、人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る”といわれるのです。 エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせます。サムエルは「この者をも主はお選びにならない」と言います。7人の息子たちがサムエルの前をとおりますが、その中にはだれも神様が計画された王となるべき人はいませんでした。エッサイの心にもなかった8番目の息子ダビデが野から連れ戻され、サムエルの前に立たされます。
そのとき、主は“立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ、”といわれます。だれもが思ってもいなかった少年ダビデが神様の計画された、イスラエルの第2代目の王様になる人でした。
 サムエルは「油の入った角を取り出し、ダビデに油を注ぐと、その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった」とあります。油そそぎとは、王様や預言者、祭司がその職務に就くときに行う儀式です。祭司や預言者をとおして目に見えるかたちのあぶらと目に見えない油がそそがれます。その油は職務を全うするための知恵と力と言葉です。王は王様としての職務があり、預言者は預言者としての職務があります。神様はそれぞれのつとめをよ〜くご存知なのです。イエス様も救い主としての油を注がれていました。ペトロは言います。「つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。わたしたちは、イエスがユダヤ人の住む地方、特にエルサレムでなさったことすべての証人です。人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。 」(使使徒言行10:38 )と。
 神様は「容貌や背の高さには目を向けない。主は心を見る」(新改訳)といわれますから、わたしたちはいつも誠実な心をもって神様を礼拝しましょう。
神様は憐れみ深い方です。キリスト者を迫害する者からクリスチャンに変わって宣教しているパウロは「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」と一点の曇りもなく、イエスが救い主であることをテモテに告白しています(第一テモテ1:15)。また、「永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン」と栄光を主にお返ししているのです(同1:17 )。信仰者のあるべき姿をパウロの言葉はわたしたちに今日も確認させていないでしょうか。
お祈りをいたします。