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礼拝説教(11月 29日) |
テサロニケT 5章1〜6節 イザヤ書51章9〜11節
『キリストは来られる』
パウロにとってテサロ二ケの人々にこの手紙を書かなくてはならなかった理由はいくつかありますが、そのひとつにキリストの再臨が今日にも明日にも来るのではないかと、テサロ二ケの人々が心配し、仕事も手につかなくなっている、そのような状況にあったからです。ですからパウロは、5章1 節「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません」と言っています。2節の「主の日」については聖書の用語解説に「神の裁きが行われる日。この日、神は正しい人には救いを、悪人には滅びをもたらされる」とあります。聖書の神様はイエス・キリストをとおして救いにあずかることをすすめられますが、信仰をもってこの方を「主」、「救い主」と信じることはこのように大きな意味があります。
その主の日は時期はわからないけれども、3節「 人々が『無事だ。安全だ』と言っているそのやさきに、突然」やって来ます。しかし、救いにあずかっているテサロニケの皆さん、あなたがたは暗闇のなかにいるのではありませんから、主の日すなわち、キリストの裁きが突然あなた方を襲うことはないのです」と安心させます。人生は不安な材料をいただくと、いくらでも不安になってきます。ですから確かなお方から、「安心する言葉」をいただくことです。天の神様は真実な方、また、わたしたちを救うために御子イエス・キリストをこの地におくり、御子の十字架の血をとおして救いを完成してくださったお方です。このお方が、5節「 あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです」とパウロをとおして明るい材料をくださっています。何と感謝なことでしょうか。
6 節「従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう」とすすめます。
「眠っていないで」とは、使命を忘れて、霊的に無感覚の状態にならないこと、と解説にあります。わたしたちがこの地上にあるのは、世俗的な要求、「つまり、社会的な地位、名声、物質的、金銭的な富や肉体的要求を満足させること」だけにあるのではありません。ひとりひとりに神様が計画しておられる「命を使う」はたらきをするためにあります。
イザヤは「奮い立て、奮い立て/力をまとえ、主の御腕よ」と神様が起きてはたらいて下さるように預言していますが、
今日神様はわたしたちに、奮い立て、奮い立て/力をまとえ、神の武具を身に着けて(エフェソ6:11)、と言われているのではないでしょうか。主の再臨がいつ来てもいいように。
クリスマスが近づいています。あなたのキリストの愛をまとった行動は、きっと人々の霊的感覚をよびさまします。
お祈りします。
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