ホームページ タイトル 本文へジャンプ
礼拝説教(11月 8日)


創世記15章9〜18a  ヤコブ書2章14〜17節
                 
 「神の選びの民」
 神様はこの世に不必要な人は送っておられません。どんな人も神様にとって重要な人なのです。ただ、神に用いられるか用いられないかはあなた次第です。結果において大きな開きがでてきます。
神様に用いられることを願って「神様、あなたが選んでくださったわたしです。どうか、用いてください、」と祈りましょう。
 本日は創世記15章のアブラムをとおして「神の選びの民」からみことばをいただきましょう。
信仰の父と呼ばれるアブラム物語は12章からはじまります(17章からアブラハム)。彼は神様の導きで75歳で行く先も知らないで出発します。21章でひとり子イサクが誕生し、22章で「あなたの大切なひとり子イサクをささげよ」と神の命令を受け、息子イサクをささげようとした瞬間、神様からストップされました。主の山に備えあり。ユダヤ人はこのアブラハムを限りなく信仰の父として尊敬しています。また、わたしたちも同様です。

 今日のテキストから15:1「主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」とあります。
信仰者でない人も夢を見たり、幻が現れたりしますが、信仰をもっているわたしたちは、御ことばの裏づけが与えられ、よりたしかに「神様からの答えだ」と確信をもってその幻を理解することができます。アブラムも「わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」との幻をいただいて、神様の守りと祝福を感謝したことだろうと思います。
 彼にとって不安材料は自分の子が自分の財産を受け継ぐ「実子がいない」ことでした。しかし、神は4節、「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と言われます。彼はこのことばをいただいてどんなにうれしかったことでしょう。人生はできるだけ不安材料がなくなることです。アブラムの不安材料であった相続者は神のことば「天を仰いで、星を数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」という神様のことばで解消します。
 6節に アブラムは主を信じた、とあります。聖書の神様はわたしたちに「信仰」で生きることをすすめています。
律法主義に生きてきたパウロもイエス・キリストを信じる信仰によって、それからの人生が大きく変わりました。
神様は、アブラムの信仰を認め、彼を正しいものとみなされた後、9節「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい」と勧められます。それは神様にささげるいけにえでした。 これらの動物を持って来なさいといわれることは主がアブラムと契約を結ばれることの意味でした。
10 節、アブラムはそれらのものをみな持って来て、「真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた」とあります。動物を裂くと言う行為は、契約を破ったときにはこのようになりますよ、というしるしでした。それほど契約と言うものは重いものであります。神はアブラムにいわれます。「あなたの子孫にこの土地を与える。」と。広大な土地です。神が言われたのですから間違いありません。

この後彼は深い眠りに誘われ、暗黒の幻が襲います。それは彼の子孫がエジプト滞在中、苦役を強いられる=奴隷状態の400年でした。しかし、愛の神は彼の子孫がその後エジプトを脱出する、と言う希望の幻も見させてくださっています。
神様はこのようにアブラムを選び、祝福を与えられましたが、新約の中で12弟子たちの選びもたいへん特徴ある選び方をされました。使徒言行録にはキリスト教徒の迫害者、パウロも神が選んだ器であることをはっきり記録されています。9章1節「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」と彼のキリスト者迫害の念は高まっていました。ところが、途上、聖霊にうたれ、キリスト教徒に変わってしまいました。
同15 節、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」と。
アブラムを選び、パウロを選ばれた神様は、あなたも選ばれました。それは神のひとり子であるイエス・キリストの十字架をとおして、神に義と認められ、神様の栄光を現すためです。あなたは、自分は選ばれていないと思ってはいませんか?神様の計画は大きく深いです。一時的な艱難があっても決して望みを捨ててはなりません。

11月3日は教区主催の人間大学が浜松の障害者施設社会福祉法人「子羊学園」でありました。三方原スクエアという重度重複の知的ハンデイのある子どもたちの施設です。その後、遠州栄光教会に場所を移し「障害者と教会形成」と言う講演を山本誠先生がしてくださいました。障害者と健常者の違いはどこにあるのだろうか?。一言でいうとそのような内容のお話でしたが、先生の講演の中のビデオがすばらしいものでした。
 「神はどんな人をも見捨てたもうまじ」そのようにいえる気がします。ご紹介しましょう。。

 1987年、22年前にひとりの男の子が生まれました。両足がひざから下がなく、右手は5指がなく、左手は3本の指です。親はこの子を産んで、あまりの姿に驚き、病院にあずけて姿を消しました。保育園の園長をしていたkさんは里親としてこの子を育てます。
この障害をもって生まれた方、Sさんといいます。
kさんはこの子を自立した人間に育てようと、水泳教室に連れて行きます。そのために57歳で運転免許を取り、送り迎えをしてわが家で育てます。着るものもSさんに合う寸法に切断してミシンがけします。
泳ぎがメキメキと上達して、2004年アテネ、パラリンピックに日本代表として出場します。日本代表に選ばれるだけでもすごいことです。50メートルを泳ぎ、結果は8位でした。
浜松の高校を卒業すると、彼は早稲田大学にすすみます。kさんは彼が20歳になって里親として終止符を打つ誕生日にこれから自分で責任をとって生きるようにと実印を贈ります。
2008年S君21歳、北京パラリンピックに出場しました。みごと金メダルを勝ち取ることができました。
表彰台から控えにくると、待っていたおばあちゃんkさんに金メダルをかけてあげるのです。非常に感動的な一場面でした。
今年から東京のスポーツ洋品店でひとりの社会人としてすばらしい働きをしているそうですが、神はどんな人をも見捨てたりなさいません。あなたを選ばれた神様はあなたを用いたい、と願っておられます。あなたの思い、あなたの価値観で歩まれていたのでは神様はあなたを用いることができません。信仰をもって、ゆだねましょう。信仰は実践です。
ヤコブはいいます。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と。
S君は信仰をもったクリスチャンです。アブラムも信仰をもって神の言われることを実践して行きました。
わたしたちもまた、生きた信仰で歩みましょう。
お祈りいたします。