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礼拝説教(12月 13日)


             マルコ福音書1:1〜8  詩編85:9〜14節
                      「バプテスマのヨハネ」
 マルコ福音書1:1の「 神の子イエス・キリストの福音の初め」というマルコの書き出しは、イエス・キリストを神の子救い主としてこの世に現れたことを表題にかかげています。
そのマルコは救い主が来られる前に、神様がその道を整える先駆者を送り、準備させることを述べます。
3、4節、「荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と御言葉にありますようにヨハネは、悔い改めのバプテスマをヨルダン川で人々に授けます。それはこれからの生活が罪を告白して神のゆるしをいただく、神様の前にへりくだった信仰生活をはじめるための準備のバプテスマでした。人々はユダヤの全地方とエルサレムからヨハネのもとに来て、洗礼を受けます。

バプテスマ、それは大きく分けて2つに分類できます。
ひとつは水のバプテスマです。もうひとつは聖霊のバプテスマです。前者はヨハネが授けたバプテスマです。後者はイエス・キリストをとおして授けられるバプテスマです。
ヨハネの水のバプテスマは「生活を正しなさい、イエスを迎えるのにふさわしい準備をしなさい」とリビングバイブルでは訳されていますが、人間の方が神様の前に進み出て生活を改めることに強調点があることを知ることができます。
一方、イエス・キリストのバプテスマは、「聖霊」と「火」によるバプテスマでした。
初代教会では2つのバプテスマの区別がよくついていなかったようであります。
使徒言行録19章2節、パウロがエフェソの人々に対して、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。
19:3 パウロが、「それなら、どんなバプテスマを受けたのですか」と言うと、「ヨハネのバプテスマです」と言った。
19:4 そこで、パウロは言った。
「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」
19:5 人々はこれを聞いて主イエスの名によってバプテスマを受けた。
19:6 パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした。
イエス・キリストのバプテスマは神様の側から臨んでくださることがわかります。わたしたちはイエスの名によってバプテスマを受けていますから、信仰生活においてわたしたちが聖霊の助けを求めれば、聖霊がはたらいてくださることを新たに確認しましょう。

マルコ福音書1章7節に、 彼はこう宣べ伝えた。
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。
わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」とあります。「履物のひもを解く」仕事は当時奴隷のする仕事でした。バプテスマのヨハネは自分を奴隷以下の者です、と言っているのです。ヨハネの徹底したへりくだりです。彼のもとには弟子もありました。また、人々はヨハネを預言者と思っていました(マタイ14:5)。彼はいつも救い主を指し示していました。つまり、いつも自分の使命を見失いませんでした。最期、彼はヘロデ王に殺されてしまいますが、生涯イエス・キリストを指し示すはたらきに徹したのです。
そのようなヨハネをイエス様は次のように言います。
ルカ7章24節以下、 ヨハネの使いが去ってから、イエスは群衆に向かってヨハネについて話し始められた。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。
言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない、と。

バプテスマのヨハネの生き方から学びましょう。
人生はまじめにこつこつと努力すれば社会的地位があがったり、人々からの信望が篤くなってきます。しかし、最初の使命を忘れないようにしましょう。
人は富を蓄えるとつい偉くなったように思ったりします(箴 言28:11 金持ちは自分を賢いと思い込む)が、富も神様が与えてくださった、といつも感謝を忘れないようにしましょう。
御言葉に忠実に従えば、御霊もその人に味方します。また、
たとえこの地上の最期がどのような死に方であってもわたしたちの霊魂は天に国籍がある、ことを確信しましょう。
お祈りします。