|
礼拝説教(12月 6日) |
Uテモテ4章1〜5節、 詩編19編8〜11節
「御言葉を宣べ伝えなさい」 キリスト・イエスの使徒=福音宣教者となったパウロは愛するテモテに言います。「御言葉を宣べ伝えなさい」時が良くても悪くても、と。しかもこの命令を 神の御前で、キリスト・イエスの御前でおごそかに命じる、というのです。
御言葉=聖書、神様のご意図が反映された聖書全体です。聖書は約40人ほどの人間の手をとおして書かれていますが、真の著者・編集者は神様です。第Uテモテ3:16 に「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、」【口語訳】とあります。また、私たちの日本基督教団信仰告白の中に「聖書は聖霊によって神につき、救いにつきて全き知識をわれらに与うる神の言葉にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」とあります。神様の聖霊によって書かれた聖書は神様のご意図が一貫して流れている書物ということができます。そして、聖書は信仰者にとって信仰と生活との誤りなき規範、手本であります。
どうして御言葉を宣べ伝えなければならないのでしょうか。
人間の体すなわち霊魂はみことばを欲しているからです。肉体が食物を食べるように、霊魂も御言葉を食べるからです。
エレミヤは御言葉に出会ったとき喜びおどった、と言っています。「あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました」と。(エレミヤ書 15:16 )
また、パウロが言うには「人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、 真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」と。
人間は自分に耳ざわりのよい言葉を聞こうとしますが、神様はどんな人でも神の前に謙遜に、しかもどんな小さな罪でも悔い改めることを望んでおられます。
では御言葉にはどんな大きな宝がつまっているのでしょう。御言葉に価値がなければパウロもテモテにすすめません。
@御言葉には力と創造性があります。ペトロはエルサレム神殿の入り口で生まれつき足の不自由な方を御言葉=イエス・キリストの名によっていやしました。(使徒言行録3:1以下)
A御言葉には愛とゆるしがあります。ひとりの女性は姦通の女としてつかまって人々から神殿の境内で責められていましたが、イエス・キリストはそこから彼女を助け出し、罪をゆるされました。(ヨハネ福音書8:1〜)
B御言葉には真理があります。人間はどんなに巧妙に罪をかくしても真理であるイエス・キリストの前では罪を隠しとおすことはできません。人は皆へりくだって罪を認め、悔い改めなければならない存在です。(マタイ福音書3:1〜)
C御言葉にはいやしがあります。イエス・キリストは生まれつき目の見えない人をいやされました。(ヨハネ福音書9:1以下)また、長血をわずらっている女性がイエスの服に触れると彼女はいやされました。
D御言葉には弱いものを強くする性質があります。ある地方から4年前東北の大学に行った方がありますが、ご本人が「高校時代は弱い人間でした。しかし、神様は私をコリント第一の1:26以下の御言葉で強くしてくださいました」と告白しています。
E御言葉には謙遜と品性があります。イエス・キリストは、短い生涯の中で、いつも謙遜でした。(マタイ福音書11:29)
今日まで、御言葉を宣べ伝えた方はたくさんありますが、フランシスコ・ザビエルもそのうちのひとりでしょう。彼はイエズス会の宣教師としてインドのゴアに遣わされますが、そこで福音宣教のよきはたらきをして、1549年こんどは日本にやってきました。日本での宣教もはじめは困難を極めましたが、よく忍耐し、多くのクリスチャンが生まれました。
以上のように、御言葉にはすばらしい知恵と力があり、人々を謙遜な生き方に導きます。
|

|
|
|
|