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礼拝説教(6月28日) |
ヘブライ書9章:1〜8,22節
『心の洗たくは教会で』
聖日礼拝は年間52回ありますが、1回1回新鮮な思いをもって主を礼拝し、みこと
ばをいただきましょう。
キリスト教会は2000年間「教会」で礼拝をささげて来ましたが、このように継続して
いると言うことはすごいことではありませんか。神様の御守りがなければ続かない
ことではないでしょうか。
本日はまず、礼拝をささげる場所に注目してみましょう。
今日私たちは、教会(礼拝堂)で礼拝をささげます。マタイ福音書の中でイエス様は
「わたしは岩の上にわたしの教会を建てる」(同16:18)と言われました。この富士
宮教会も主が人をとおして建てられたものでしょう。125年の歴史をもっています
が今日までいろいろな方がイエス・キリストの信仰をもって人生を培ってこられま
した。現在40名の現住陪餐会員、礼拝出席24〜5名です。富士宮市の人口が
約12万人ですから、もっと多くの礼拝出席者があって「心の洗たく」をされてもよい
のではないかと思っております。皆さんはどうみておられますか?後ほどもふれま
すが、十字架につかれて流されたイエス・キリスト様の血は人間の奥深い、わから
ないようなよごれ(罪)も完全に洗い落としてくださるのです。しかも、イエス・キリス
ト様の「お名前」を用いればよいのです。新約時代の今日、画期的な恵みが与えら
れているのです。歴史を遡のぼること2000年、イエス様が活躍された時代の礼拝
場所はシナゴーグという呼び名の会堂でした。そこで礼拝がささげられていました。
ルカ福音書4章16節以下に礼拝の様子が書かれています。
それからさらに約1000年遡のぼると「神殿」で礼拝がささげられていました。この
時代ではソロモンの神殿が有名です。彼の父ダビデが神殿建設に必要な設計・資
機材等をすべて用意しましたから、ソロモンは神の知恵を駆使してふさわしい神殿
を建設すればよかったのです。
マタイ福音書に「栄華を極めたソロモン」とありますが(同6:29)、ソロモンに謁見し
に来た人々はソロモンの神殿はじめ、彼の業績に目を見張る思いがしたのです。
それからさらに遡のぼること約400年、そこにはをモーセをとおしての「幕屋」が
でてきます。
神様はモーセと山の上で会見され、神様と人々との「契約」を告げられます。
モーセはそれをたずさえて下山し、人々に主が語られたすべてのことばと法を読み
聞かせました。すると人々は皆声をひとつにして「わたしたちは主が語られた言葉
をすべて行います」と答えたのです(出エジプト24:1以下)。
彼らの同意が得られると、神はモーセに幕屋建設とそこに置く礼拝のための道具
を指示されました。人々はその資材を持ち寄りました。イスラエルの民が神様の指
示に従って造った幕屋、その模型がお手元にお渡しした資料です。本日の聖書ヘ
ブライ書9章1節に「さて、最初の契約にも礼拝の規定と地上の聖所とがありました
」という箇所の“最初の契約”にたどりつきました。出エジプト記24:1以下を読んで
いくとイスラエルの民の幕屋建設、それに続くところの礼拝は、神様と人々との「契
約」によって成立したことがわかります。
“人は神の掟を遵守する”そうすれば、“神は人々を守り祝福する”という関係です。
6節以下に目を留めてみましょう。祭司たちは礼拝するために第1の幕屋に入りま
す。第2の幕屋は至聖所と呼ばれそこにはだれも入ることができませんでした。
ただ年に1度、大祭司だけが動物の血をもって贖いの儀式をするために入ること
ができました。そのあがないとは、自分と民の罪をきよめるために入るのです。
この第一の幕屋から第二の幕屋に移動するときは、仕切りの幕が設けられていま
した。この幕はエルサレムの神殿にも設けられていましたが、イエス様が十字架に
つかれて死なれたとき「神殿の垂れ幕が真っ2つに裂けた」(マタイ27:51)とあり
ました。
この仕切りの幕が取り払われたのでした。本日の聖書箇所ヘブライ書の9章8節に
至りますと、「第一の幕屋が存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていな
いことを示しています」とありますが、イエス様の十字架を信じるものには聖所から
至誠所への道が開かれたことを意味します。
同11節に「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでに
なったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものでは
ない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、御自身の血によって、ただ一度聖所に
入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」とあります。
動物の血によるときの大祭司のあがないの儀式は良心をもきよめることはできな
かったが、イエス・キリスト様の血は罪のゆるしの他に良心をも清め、生ける神様
を礼拝するようにされたのです。
「心の洗たくに必要な洗ざい」それは、「イエス・キリスト様の十字架による血」です。
イエス・キリスト様を信じる信仰が与えられていることを感謝しましょう。
お祈りします。
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