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礼拝説教(6月7日) |
マタイ福音書 11章25節〜30節
箴言 24章5節
「わたしに学びなさい」
本日は、マタイ福音書のみ言葉とイエス様の愛と勇敢さと力を思わせる箴言のみ
言をとりあげました。
マタイ福音書でイエス様はまず、天の父に呼びかけられます。「天地の主である父
よ、あなたをほめたたえます」と。
わたしたちがいつも心に思い、口にすることは、このイエス様がなされている、神様
に呼びかけ、神様のすばらしさを、ほめたたえることではないでしょうか?
本日の聖書箇所にわたくしの聖書ですが「人生のファーストボタン」と書いておりま
す。いつどの集会でどちらの先生がなされた説教題かは書いていませんが、人の
なすことのまずはじめは父なる神様をほめたたえること、と言っておられるのであり
ます。アーメンです。
わたしたちの信じる神様は、この地にみ子をおくり、この方を信じるものには「罪の
ゆるし」と「永遠の命」を与えてくださいました。なんという特権、なんという感謝なこ
とでしょうか。互いにまずそのことに気づきましょう。26節に、これらのことを、知恵
ある者に賢い人に隠して、幼子のような人たちに、お示しになったとあります。
皆さまもご存知のように幼い子ども、幼児たちは、単純でかつ従順です。大人のよ
うに知識や経験も豊かでないですから、与えられたものをそのまま受け、疑いませ
ん。神の国はそのような素直な人たちに示されたというのです。信仰的あゆみは、
素直な反応が尊ばれます。
27節でイエス様は父なる神様から、すべてのものは任せられていると言われてい
ます。神様はイエス様に全権を任せてあります。
旧約聖書の創世記に出てくるヨセフという人は、奴隷から、後にエジプトの総理
大臣になった人ですが、彼は若いころエジプトのポテファルという人のところに奴隷
として買い取られました。そのところで彼は自分に与えられた仕事を忠実にこなし
ます。時がたって、主人ポテファルは、彼のまじめな生き方、きれいな仕事のこな
し方を見て家のことはすべて彼に任せます(創世記39章1節以下)。
イエス様にしても、ヨセフにしても、たてられた方に対して忠実に仕えました。
わたしたちも神様が信仰をもって、この教会につながって生きなさいとすすめてく
ださるのですから、今の状況を感謝して、神様に忠実に生きたいのです。
28節は有名なことばです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。(あなたがたを)休
ませてあげよう。」
多くの教会の掲示板にこの言葉が掲げられています。またこの言葉にひかれて教
会に来られた方がたくさんあります。
この28節以下には、3つの命令形のことばがあります。
第1はわたしのもとに来なさいです。今日、多くの人々が忙しく、疲れをおぼえ、そ
れを解決しないまま、負は積っていくばかりです。年間3万人以上の自殺者が出る
ということは、社会の病理現象と言ってもおかしくありません。家事や職場や経営
的忙しさで心も体も疲れた人々が多くあるのです。
そのような人々にイエス様=教会は、わたしのもとに来なさいと呼びかけておら
れます。心の相談にわたくし(福永)も来てほしいと願っています。来てくださらなけ
れば事がはじまらないのです。
聖書の中に長血をわずらって、多くの医者にかかったが、治してもらえなかった
女性がでてきます(ルカ8:43以下)。この女性がイエス様の通られることを聞いて、
通りに出て、人ごみの中を通行されるイエス様の後ろから、イエス様の服の房に
触れます。もうこの方にかけてみようとの思いだったのかも知れません。
すると、長年、なおらなかった病が、たちどころにいやされたと、触れた瞬間にこの
女性は悟りました。それと同時にイエス様は「わたしの服に触れたのはだれか」と
問われます。彼女は前にすすみ出て、ありのままをイエス様に話します。すると
イエス様は「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言って
くださいました。この女性はイエス様のところに行って(きっと心はブルブルふるえて
いたと思います)。
信仰をもって触れたから、いやしの御業が起きたのです。信仰は行動です。確かな
お方(イエス様)を信じて行動することなのです。
第2の命令形は、わたしの軛を負いなさいです。皆さんはひとりで人生の重荷を
負っていませんか。またその到達点も明確でしょうか?イエス様はわたしといっしょ
に軛を負いなさいと言ってくださるのです。
軛というものが、おわかりでしょうか。軛というのは耕(農)地をたがやすのに牛や
馬などの家畜を2頭だてでスキ等を引かせる「連獣具」です。(写真を参照ください)。
首と首が、ひとつの棒でつながれていますから、互いに寄りそうようにしてすすま
なければ仕事になりません。イエス様は「わたしの軛」とおっしゃいますから、生活
の中で、イエス様に寄り添うようにして、イエス様が導かれるようにすすみ行くので
す。人間は正しく生きているつもりでも、いつの間にか、自分の好きなように生きて
いて、神様の願う生き方とは、離れた生き方をしてしまいます。わたしは「道」であり
「真理」であり「命」であるという方イエス様と共にあゆめば最善の道を備えてくださ
ると信じます。
第3の命令形は、わたしから学びなさいです。ここでイエス様はご自身のことを柔
和で謙遜な者とおっしゃっています。
英語の聖書を見ると、柔和=gentleです。ジェントルマンということばがを若いころ
聞きましたが、紳士は柔和な人ということですね。どんなときも怒らない、またあわ
てない、心を騒がせない、そんな方として、イエス様を連想できないでしょうか。
また謙遜=humbleは、いつでもどんなときにも重要です。柔和で謙遜な、そして愛
あるイエス様も、3年半の公生涯の中で、無力な人や、下げすまれている
人々(取税人等)には、実に愛をもって接して行かれました。けれどもエルサレムの
指導者たちは策略をもってイエス様に対抗してきました。それでイエス様は神の知
恵(箴言24章5節)をもって対抗されました。柔和で謙遜なイエス様は根底にそれを
秘めながらも、神様からの知恵でもって、ひとつひとつ、十字架への道を築かれま
した。感謝しましょう。お祈りします。

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