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礼拝説教(7月26日)


マタイ福音書8章5〜13節
           
『これほどの信仰を見たことがない』 
イエス様は「山上の説教」(5〜7章)を終えられると、山から下りて、カファルナウム
に行かれました。カファルナウムはガリラヤ湖の北岸にあり、エルサレムから約13
0キロメートル離れたところです。
聖書付録にあります、聖書地図6を見てみましょう。
マタイ福音書
8:5 「さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て
懇願し」とあります。百人隊長が@イエス様に「近づいて来る」、そして、A「懇願す
る」この百人隊長はイエス様にどうしてもお願いしたい、その様な問題を抱えている
方であります。
6節を見ると「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」、
【リビングバイブル】では「先生。 うちの若い召使が体の麻痺で苦しんでおります。 と
てもひどく、起き上がることもできません。 どうか治してやってください。 お願いしま
す」としきりに頼みます、と訳されています。
百人隊長というローマの護衛隊:ヘロデアンテパスのもとで、軍隊の重要な地位に
あり、多忙な毎日の中にあった方ではないかと思われます。その隊長が一人の召
使いのことでイエス様にお願いにあがっている、のであります。部下のいたみもよく
わかる、たいへん思いやりのある百人隊長とみえませんか?。
上に立つもののお手本のような人ですね。
イエス様は、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われました。
これに対して百人隊長のことばは意外です。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根
の下にお迎えできるような者ではありません。」と言います。そして「ただ、ひと言
おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と言いますが、
この方は、イエス様の内側に秘められた大きな力、神様の権威を見ていたのでは
ないでしょうか。
また、「ひと言おっしゃってください」と言っていますから、彼はことばには力があり、
発したことばは実際にそのとおりになることを信じていたのではないでしょうか。
確かにことばには創造的な業が起こります。創世記1:3 神は言われた。「光あれ。」
こうして、光があった。使徒言行録3:6 ペトロは言った。「ナザレの人イエス・キリスト
の名によって立ち上がり、歩きなさい。」すると、「たちまち、その男は 躍り上がって
立ち、歩きだした」のです。
9 節で、「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に
『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『こ
れをしろ』と言えば、そのとおりにします」と。百人隊長は百人の兵士の指揮権、
命令権を持っていることをイエス様に申しますが、彼のことばには“わたしのこの
ような指揮権はあなたの神様の権威に比べれば取るに足りない、小さなもので
ございます”そのような、謙虚な心が表れていたのではないでしょうか。
10節イエス様は これを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っ
ておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と。
選民イスラエルは律法を守りとおして生きるのに夢中でした。ときには指導者の中
には謙遜さを装って、偽善的な人もあったのです。
ルカは同じ箇所をこのように表現しています。
◆百人隊長の僕をいやす
7:2 ところで、ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。
7:3 イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下
  を助けに来てくださるように頼んだ。
7:4 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただく
  のにふさわしい人です。
7:5 わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」と。
物事はあなたの企画・立案に賛成してくれる賛同者・援護者の多いほど、それは
実現可能となります。しかし、99人の賛成があってもあとひとりの人格者:聖霊様の
賛成がなければ、“その企画が成功した”と思っても、いつの間にか崩れていくの
です。多くの人がこの聖霊様の助け、援護を重要視していません。あなたのする
ことに神様がともにすすんでくださるようにしなくてはなりません。
ユダヤ人を愛して、自ら会堂を建てて、謙遜なあゆみをしている百人隊長は、聖霊
様も味方についておられたのではないでしょうか。
10節:イエス様は彼の生き方を見て、感心し、「はっきり言っておく。わたしはイスラ
エルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と言われました。彼の「謙遜」な
生き方に感心されたのです。
多くの人が自分は謙遜だ、と思っています。ではあなたは何を基準に「ケンソン」と
見ておられるでしょうか。
今朝わたしたちは「神様に従うか、否か」をもって、「ケンソン」の度合いを見たいと
思います。人はあるところまでは神様に従います。しかし、わが身が責任をとらなけ
ればならないところでは上手に逃げるのです。イエス様は「わたしは柔和で謙遜な
者だから、わたしに学びなさい」と話されました(マタイ 11:29 )。そして、最後の十字
架を負わなければならないときは十字架を負われたのです(マタイ27章1節以下)。
神様に従われたのです。
イエス様のこの「ケンソン」はことばだけでなく、実践が伴っていました。,
13節:イエス様は百人隊長に言われます。「帰りなさい。あなたが信じたとおりにな
るように」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた、とあります。
いやされた僕よりも、百人隊長の方が喜びが大きかったのではないでしょうか。
お祈りします。