ホームページ タイトル 本文へジャンプ
礼拝説教(8月30日)


フィリピ書2章1〜11節、詩編90編7〜12節
               
『キリストを模範とせよ』
 パウロが活躍した当時、エフェソの町には大きな偶像がありました。
パウロはアジアにあるとき、この文化によってたいへん苦労しながら伝道しました。
本日のテキスト、フィリピはマケドニア州に位置し、第2回伝道旅行のときに彼が行
った町ですが、ここは偶像との戦いではなく、教会の内部に問題があり、パウロは
フィリピの人々に対して一言いわなければなりませんでした。
すなわち、人間的な思いで党派を組んだり、教会の一致を妨げようとする動きがあ
ったのです。
いつの時代も教会を人間的な思いで動かそうとすると、不協和音が広がって不平
不満や分裂が起ったりします。教会はイエス・キリストによって救いにあずかった者
が心をひとつにしてキリストの御名をあがめ、すべてを感謝して、互いに仕えてあ
ゆむ(生活する)ところです。
フィリピ2章1 節 「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰
め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」パウロはこのよう
にいいますが、簡潔にいいいますと、フィリピの人々よ、あなたがたは、キリストを
信じ、キリストに従ったのなら、次のことを実行しなくてはなりません。同じ思いとな
り、同じ愛を抱き、心を合わせて思いを一つにし、キリストの教会を建てあげてくだ
さい。それが、わたしの喜びです、と。
このときパウロは牢獄の中でしたが、教会の動向はそのような牢獄の中にも聞こ
えてきていました。主の救いにあずかった者は気をつけなければなりません。
2章 3、4節何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手
を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注
意を払いなさい、とすすめますが、この言葉は一般社会にも仕事を進めていく上
で、通用する言葉だと思います。
5節から8節はキリストの謙遜を言っています。注解書には「キリストの謙卑」と書か
れていますが、キリストは神様の前に徹底してへりくだり、従順されました。
6節以下「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しよう
とは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられまし
た。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで
従順でした」と。パウロはキリストの直弟子ではありませんでしたが、祈りのなか
で、「キリストの謙卑」を示されたのでしょう。主イエスが自分を無にして、僕の身分
になり、人間と同じ者になられた。しかも十字架の死に至るまで従順でした、と彼は
見るのです。僕の身分とは奴隷を意味しますが、イエス様はゴルゴダの十字架に
いたるまで、ムチ打たれ、ツバキをかけられ、イバラの冠をかぶせられ、ムラサキ
の衣をかけられてはすぐにはがされて、ありとあらゆるはずかしめと苦しみ(映画
パッション)を受けられました。
このように、イエスは父なる神様の前に奴隷として仕えられたのです。
ここに「キリストの仕えるという模範」があります。
イザヤという預言者はその800年前に、キリストの苦難を幻で見ていました。
イザヤ53:章、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好
ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知
っている。
同5節 彼が刺しつらぬかれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕
かれたのは/わたしたちの咎のためであった。このところをリビングバイブルでは、
しかし実際は、私たちの罪のために傷つき、血を流したのです。 彼は私たちに平
安を与えようとして、進んで懲らしめを受けました。
彼がむち打たれたので、私たちはいやされました、とあります。
イエスの十字架の苦しみによって、十字架上で流された血(命)によって、わたした
ちの霊は罪ゆるされ、生きるものとなったのです。
 このように徹底して十字架の苦しみを負われたイエス様を、父なる神は高く高く評
価されます。
フィリピ2章9節、 「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお
与えになりました」。
わたしたちクリスチャンは「イエス・キリストの名」をとおして父なる神様に祈りをささ
げていますが、父なる神様はキリストの名に権威をおかれました。すべての祈りは
この名をとおして神様が聞かれます。
わたしたちもまた、神様の名があがめられるために、徹底して神と人に仕えること
を喜びとして歩みましょう。
イエス・キリストを信じる信仰が与えられていることを感謝しましょう。
 お祈りします。