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礼拝説教(9月13日)


コリント人への手紙第1、1章10〜17節、 エゼキエル書37章15〜19節
    
          『主にゆだねてひとつに』
 ♪このよつとめ いとせわしく・・・と賛美歌497番にありますが、この世の
流れにあわせると忙しく時間に追われてしまいますが、神様のみちびかれる歩調で
あゆむと心にゆとりが出てきます。神様を中心に生活するようにいたしましょう。
 本日はコリント人への手紙第1のみことばと エゼキエル書37章15節からのみ
ことばをいただきました。これらのみことばが一人ひとりの実生活に生かされ、
“福音には力がある”ことを体験されますようにと願っています。
パウロはコリントの人々に対して信仰者として、一致をすすめています。
1:10 さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに
勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにし
て、固く結び合いなさい、と。
世の中の会合はその集まりによってまちまちですが、ここ富士宮教会はキリストの
名のもとに“信仰によって生きる”人々の集まりです。キリストの福音によって生かさ
れ、この福音を世の中に宣教していこう、という人々の集まりです。そのような人々
がもし、「皆、勝手なことを」言っていたら教会は教会として機能していきません。
はじめて教会に来た人は“わたしが想像していた教会とは全然違う、”そのようなイ
メージをいだくのではないでしょうか。
牧師は神様がお選びになり、教会に遣わされた人です。○○先生のように、1教会
に40年仕える先生も中にはありますが、多くの教会では神様はときどき牧師を換
えられます。中には、牧師が換わると信仰がゆらいでしまう人があります。わたしは
今までは、その人がイエス様をしっかり見上げていないから、ゆらいだ信仰になって
しまう、と思っていました。しかし、黙想しながら考えてみると、正しくは“イエス様を
しっかり見上げてあゆむ訓練を受けていなかったから、”そのように揺れ動いた
信仰になってしまうのだ、と理解しました。どうぞ皆さん、福永牧師はイエス様を指し
示してあゆみます。「イエス様をしっかり見上げてあゆむ訓練」について来てくださ
い。神様は、今から訓練していかれます。
ヘブライ書に「およそ鍛錬(訓練)というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲し
いものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という
平和に満ちた実を結ばせるのです(12:11)。なぜ、「訓練」が必要なのか、と申しま
すと、神様のみ栄えのためにはたらくときどうしても、あなたの思いを捨てて、神様
に従ってもらわなければならないときが出てきます。そのようなとき、あなたの自尊
心を捨てる訓練をしておかないと、それがじゃまをして神様の計画がなっていかな
い。せっかくいいところまで積みあがっても、だいじなところで、とまってしまう、からです。
イエス様は十字架の死を迎えるまで、神様に従われました。
フィリピ書、「キリストは、神の身分でありながら、人間と同じ者になられ,へりくだって,
死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(2:6〜8)。
皆さん、イエス・キリスト様の救いを宣教してまいりましょう。
イエス様の救い、それはすばらしい「恵みの人生」です。
イザヤは預言します。
「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」(52:7 )。
今日、イエス様の福音を喜びながらお伝えする人には、イザヤの預言のとおり、
美しく、またお伝えするその足は、「恵みの人生」なのです。
本日の旧約聖書のエゼキエルと言う人も預言者でした。彼は南王国、ユダの国の
バビロンに捕囚される時代の預言者ですが、神様はこのような状況下でも「神の民
よ、希望をなくさないように!わたしはあなたがたをひとつにする。」とエゼキエルを
とおして預言してくださいました。
すべてのことに感謝して、みことばを信じてあゆみましょう。
お祈りします。