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礼拝説教(9月20日)


創世記45章1〜8節、  ヤコブ書2章8,9節
                
「わたしはヨセフです」
 聖書、創世記は37章からヨセフ物語です。
本日の45章は、ヨセフ物語の中でも最高潮の場面でしょう。
ヨセフ物語は長く、また、ポイントがたくさんあるため、1回の説教では語りつくす
ことはできませんが、本日のもうひとつの新約聖書、ヤコブ書のみことばと平行し
ながら見ていきたいと思います。
父ヤコブの年寄り子であったヨセフは父からだれよりも多くかわいがられ、特別待
遇を受けていました。そんなヨセフは兄たちの前で“兄たちよりも自分が高いくらい
に着き、兄たちは彼に頭をさげる”夢の話しをしました。兄たちは彼に対する憎悪
の念と、ねたみでヨセフを殺したいほどに激怒しますが、ルベン兄さんの思いやり
で彼は九死に一生をえます。兄たちから最後は、イシュマエル人に奴隷として売ら
れるのです。
人生には、いろいろな苦労を忍耐し、好転のときを待つことは大切です。ヨセフの
苦難と忍耐の歴史はここからはじまります。39章でヨセフはさらにイシュマエル人
から、エジプト人ポテファルという人のもとに奴隷として売られますが、ヨセフはここ
でしばらくはたらくことになります。神様のあわれみにより、ヨセフには、特別なこと
(神の霊)が付いていることがわかります。
2節 主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。
5節 主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中に
も農地にも、すべての財産に及んだ。
21節 主がヨセフと共におられ、恵みを施し、・・・。
このように、「主がヨセフととものいてくださった」ことに注目しましょう。
人間は弱く、自己中心ですが、主がともにいてくだされば、怖れも、欲望も、理不尽
なことも薄れていきます。ただ神の栄光のためにひたすら善をしたくなるものです。
ヨセフはこの主人の奥様の誘惑にあいますが、その誘惑にのりませんでした。
ぬれぎぬを着せられて主人から投獄されますが、それも弁解せず、神様にゆだね
ました。その後ファラオ王の御用に仕えていきます。彼はこのときも決して神様より
前に出るすなわち高慢になる、ことはありませんでした。
41章33節  このような次第ですから、ファラオは今すぐ、聡明で知恵のある人物を
お見つけになって、エジプトの国を治めさせ、また、国中に監督官をお立てになり、
豊作の七年の間、エジプトの国の産物の五分の一を徴収なさいますように。
ファラオ王はヨセフのこれらの助言に深く感動し、「 お前をわが宮廷の責任者とす
る」と宣言します。いまやヨセフはエジプト国の統括責任者となりました。

当時世界的な飢饉が起り、ヨセフの父や兄弟たちのいるカナン地方も食料は底を
つき、窮してきました。エジプトに食料があると聞いて、ヨセフの兄弟たちは穀物を
買いにきます。兄たちが何回か穀物を買いに来ると、ヨセフは兄たちや父の昔のこ
とが思い出され、ついにおさえきれず、「わたしはヨセフです」と身を明かすのです。
そして彼は「 しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったり
する必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わ
しになったのです」(45:5)。
「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオ
の顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです 」(45:8)。
「わたしはヨセフです」という彼は、神様がいつも中心という考え方をしています。
彼の神中心の信仰をわたしたちも学びましょう。
ヤコブ書に、
「 もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊
い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするな
ら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます」、
( 2:8、9 )とあります。
神様を中心とするヨセフは、兄弟たちを自分のように愛しました。彼が旧い過去に
とらわれていたなら、きっと憎悪の念に駆られたことでしょう。「わたしはヨセフです」
という彼のことばに何の恨みも感じられません。すばらしい信仰です。
「わたしはキリスト様に救われた○○です」とキリストにある信仰者を世に示してあ
ゆみましょう。
お祈りします。