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礼拝説教(2月 14日) |
マルコ福音書4章35〜41節 ヨナ書1章1〜16節
『嵐はおさまった』
イエスは人々のニーズに応えてあゆまれました。その行動は柔和で謙遜でした。(マタイ11:29)
先週はマルコ福音書2章から、中風の人の罪のゆるしと病のいやしをとおしてイエスが神様にしかできない罪のゆるしをなして「神の御子として」この地に来られたことを確認しました。
本日のテキストを見てみましょう。
イエスは弟子たちに「向こう岸に渡ろう」(ガリラヤ湖の東岸)と言われて、舟に乗り込まれると艫(トモ=船尾)の方で眠っておられました。四方を山に囲まれたがリラヤ湖はときどき突風が吹きはじめます。このときも湖は大荒れとなり、弟子たちは危険を感じてイエスを起こします。(嵐で水が小舟の中に入るのを想定すると、人は仰向けに寝ておられない。イエスはマントをかぶり、ひざまづいて祈っておられたのではないだろうか、だから、見た者の目には眠っておられるように見えたのではないだろうか、と思います)。
イエスは起き上がると「風を叱り」、「湖に黙れ、静まれ」と声を発せられます。「すると、風はやみ、すっかり凪になった」(同39)のでした。ここでイエスは自然界をもご支配されていることが見えてきます。
弟子たちは、イエスが自然をも手中に入れて制することがおできになることを改めて知って、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いにぼう然としている様子がうかがえます。
本日は旧約聖書のヨナ書もテキストにはいっています。ヨナは預言者でした。神様から「アッシリヤの二ネベに行って神の言葉を伝えよ」との命令を受けますが、彼はタルシシュ行きの船に乗って、命じられた二ネベには行きませんでした。神様の命令にそむいたのです。
4 節「主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかり」となりました。
船乗りたちは恐怖に陥り、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとしたり、自分の神に助けを祈り求めてました。しかし、嵐はおさまらず、犯人探しのためにクジを引きます。そのクジはヨナにあたりました。ヨナは自分の職業、その他いっさいを話し、自分を海に放り込めと責任をとります。15
節「彼らがヨナの手足を捕らえて海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静ま」りました。
旧約聖書においては問題の人(ヨナ)が責任をとり、海へ投げ込まれることで嵐はおさまりました。
新約聖書ではイエスが神の権威をもって「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と」命令されると嵐はおさまりました。
今日の御言葉から、
@ 新約時代に生かされているわたしたちは「神の権威」を畏れるものとなりましょう。
神様は確かに御子イエスをこの地で十字架につけ、わたしたちの救いを完成してくださいました。したがって、まことの愛のお方です。このお方に、わたしたちはどんな小さな罪(=的はずれ)も正直に申しあげ、またどんな小さな誇りに思うことも、この体をとおして神が御業を現わしてくださった、と神様に栄光をかえしましょう。
ヨナが乗組員たちに「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい」と言った態度は、神を畏れる生き方です。
A弟子たちはすっかり凪(なぎ)になった湖とそこに立っておられるイエスとを見て、ぼう然としてしまいました。
そこでイエスは「まだ信じないのか」と言われます。先週の聖書箇所でイエスは中風の人をつり下ろした4人の人の信仰を見て感心されましたが、今日の弟子たちの信仰がないのには落胆されました。
ヘブライ人の手紙11章6 節で「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。と言っています。
イエスの弟子たちに対する「まだ信じないのか」と言われたことばには、信仰をしっかり持ちなさい、信仰で生きる者にはどんなに大きな力が与えられるか、その体験を早くしてほしい、励ましと一方ではいらだちの感さえ伝わってきます。
神様はわたしたちが信仰で生きることをどんなに願っておられることかがわかります。
お祈りします。
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