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礼拝説教(2月 21日)


         マルコ福音書1章14,15節  エレミヤ書31章31〜34節
             
「時は満ちた、神の国は近づいた」
 本日のテキストは聖書の中の画期的な御言葉です。
新約聖書の世界において「時は満ち、神の国は近づいた」というのです。
「時」とは、神様の定められた時です。旧約時代から神ご自身が「約束」を成就するために定めておいた日が来たというのです。
また、「神の国」とは、この地に「神様のご支配される世界」が実現したことを意味します。
すなわち、神の特別な恩恵によって人はだれでもイエス・キリストをとおして救いにあずかることができる、このように画期的な救いの道が開かれたというのです。
「近づいた」と言っていますから、厳密にいうと未完了です。しかし、イエスの歩まれた3年半の公生涯が「近づいた」ときならば、イエスの「十字架と復活」をとおして「実現した」と理解することができます。
そのように神の国が近づいているから今の生活を改めて“この画期的なニュース”に耳を傾けなさい、というのです。

 歴史を遡ること約3400年、神はイスラエルの民がエジプトの奴隷であったときモーセをとおしてエジプト脱出を導かれました。脱出後モーセはシナイ山で神様から神の掟=「律法」を授かります。
彼は山を降りて、イスラエルの民にその「律法」を読み聞かせます。すると、彼らはその「律法」を“守り、行います”と約束しました。そこでモーセは動物の「血」をふりそそぎます。ここに神と人との「契約」が成立したのでした。(出エジプト記24章1節以下)
これが旧い契約=「旧約聖書」の中の契約部分です。

 人間は一面では実に几帳面です。しかし、神様と約束したことをすべて実行するかというと、年月がたつと形式的になって行く面もあります。
「律法」が与えられて約700年経過すると、神様は預言者エレミヤ(エレミヤ31章32節)をとおして「わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、」と言われます。
新約聖書の中にイエスは「律法」の空文化している彼らの生活を嘆いておられるところがあります。参照してみてください(マルコ福音書7章1〜13節)。

 神様は人間の不完全なところをよく知っておられ、そして、憐れみをかけてくださる方です。預言者エレミヤをとおして「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、」(エレミヤ31章31 節)と言われます。
ここでいう「新しい契約」が新約です。イエス・キリストをとおして結ばれる神と人との新しい契約です。
「この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない」と言われるものです。(エレミヤ31章32節)
モーセの時のように石の板に書かれた「律法」ではなく、神の御子「イエス・キリストの十字架の血」による契約でした。
神様はエレミヤをとおして「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」と言われるのです。(同31章33節)
 イエス・キリストを主と信じる者にはその生活を悔い改めると、「真理」へ向かう心と、「救い」にあずかっている平安と、これからも天の御国で賛美をささげられる「希望」とをその心に与えてくださいます。
アーメン、感謝します。
 お祈りします。