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礼拝説教(2月 28日) |
マルコ福音書3章28〜35節
「立ち止まってみる」
今教会は教会のこよみで言いますと、イエスが「“十字架への道 ”」を歩まれたことを心に留めながら、自分もまた“克己の生活をする”という「受難節」の期間(2月21日から4月3日まで)を歩んでいます。
イエス・キリストはひたすら十字架目ざして進まれましたが、わたしたちは「立ち止まって」自分をふりかえることも必要ではないでしょうか。そのとき、その人がどのような「曲尺」(かねじゃく)をもって自分を点検するか、たいへん重要です。多くの人が自分の経験、価値観ではかります。キリスト者は聖書を「曲尺」としてはかることを常としています。
その聖書はわたしたちに、真理に従うことをよしとしているか。どんなに罵倒されても神様をみつめ、じっと忍耐しているか。
世の中の富や快楽の方に心が埋没ていないか、隣人をやさしく受け入れる愛は健在か。
どんな人にも謙遜な対応ができているか、等いろいろなところを見つめなおし、修正するように導いてくれます。
本日のテキストでイエスはたいへん厳しいことを言われます。罪にはゆるされる罪とゆるされない罪があり、
聖霊を冒讀する罪はゆるされない、と。聖霊を冒讀する罪についてヘブライ書で説明されています。
「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、
神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。
神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」と。
ユダヤ教の指導者たちは、神の恵みにあずかりながら、今日のテキストの前半でイエスをサタン呼ばわりしています。
わたしたちは聖霊の恵みにあずかったなら、御霊の実を結ぶように歩まなければなりません。
神の恵みに感謝して、賛美しようではありませんか。
さて、本日のもうひとつのポイントは、イエスが「神の御心を行う人」はわたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。
(マルコ3章35節)といわれます。
家族 @肉親の家族、に対してA霊的(神の)家族があります。
イエスは血族関係の親兄弟を否定はされませんでしたが、A霊的(神の)家族を重要視されました。
なぜでしょうか。霊的家族は神様に栄光をお返しするのが中心です。また、死後の世界においても神様を賛美し、
お仕えしていく、と言う点で永遠のつながりがあるからです。
神の家族として、
1,教会につながる・・・礼拝をささげる。2,兄弟姉妹と交わる・・・奉仕の機会で仕え合う。
3,神様と交わる・・・祈りをとおして。
4,兄弟姉妹と協力しながらイエスを宣べ伝える。・・・人が救われることは、神様の喜ばれること。
「天において大きな喜びがある、」と知った者は、キリストを宣べ伝えるのに喜びを見出します。
お祈りします。
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