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礼拝説教(3月 21日) |
マルコ福音書10章32〜45節
「身代金として」
本日の聖書の32節に、イエスの一行がエルサレムに向かうとき、
イエスは先頭に立って行かれた、とあります。
エルサレムに行かれるのは、苦しみを受け、十字架につけられ、殺される、そのことのためであります。
それなのにイエスは先頭に立って、すすまれます。なぜでしょうか。明確な目的を持っておられたからと思います。
イエスの中に“死んで、三日の後に復活する”という望もないわけではありませんが、それよりも“すべての人の救いのためにわたしイエスは十字架に就くのだ”
という大きな使命をにぎっておられたから先頭に立って行かれたと思います。
目的が明確に確立していると、目の前の苦難や誘惑はその人をたいして動揺させたりしません。
今日のポイントのひとつとしてイエスの行動から「目的を明確にする」そのことを学ぶことができます。
イエスは12人を呼んで、十字架と復活について語られます。
すると、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、「先生、お願いがあります」と申し出ます。
しかしその申し出はイエスが天にあげられて栄光をお受けになるとき、その右と左に座らせてくださいという、いわば自分たちの栄誉を求めるお願いでした。ふたりは漁をしているとき、イエスに声をかけられ父も網もそこにおき、イエスに従った人です。イエスに呼ばれて純粋な思いで従ったのでした。
しかし、いつの間にかキリストに聞き従うという素朴な信仰が忘れられてしまったのです。ほかの10人の弟子たちも彼らの行動に対して「腹を立て」ています(マルコ10:41)から、この10人の献身度合いもヤコブとヨハネとあまり変わらないといっても過言ではありません。
人間は一度確立した清い信仰が半永久的に続く、そのような強い意思を持った人はいません。ときには初心が忘れられ、いつの間にかこの世の富や名誉がその人の心を占めてしまうようにもなります。
日々へりくだって信仰の原点に立ち返るよう「御言葉の導き」を願わなければなりません。
この世の価値観にある弟子たちをイエスは責めず、受け入れ、大事にしてくださるのです。そして仕えることの重要性を教えられます。
今日、神様の寛容な愛と正しい道への導きはわたしたちの上にもそそがれているのです。
最後にイエスは信仰者にとって大切なことを語られます。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と。
仕えることに徹することは大事なことですが、
仕えるという大事なことを継続して行くにはどんな裏づけを持っている必要があるでしょうか。
わたしたちキリスト者にはイエス様の「十字架のあがない」であります。
“主イエスの十字架のあがないによって今の自分が在る”ここに仕えることの原点を置こうではありませんか。
そしてイエスは本日のテキストの中で最も重要なことを話されます。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、
また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と。
身代金、かつてそれは捕虜や、奴隷を買い戻すために支払われていました。悪くは、犯人が要求する代金です。
わたしたちが罪の縄目から解放されるためには、
パウロが「罪の支払う報酬は死です」といっているように、死をもって代価を支払う必要があります。
イエス・キリストは十字架の死をもって罪の代価を支払ってくださいました。
イエスはご自分の命をもって、罪に必要な身代金を支払ってくださいました。
この身代金によってわたしたちは罪の奴隷から解放されているのです。
感謝をもって信仰生活を歩みましょう。
お祈りします。
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