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礼拝説教(3月 7日) |
マルコ福音書8章27〜34節
『あなたはメシア(救い主)です』
聖書地図からイエスの足跡を見ると、イエスは公生涯の3年半、足のはこべるところにはどこにでも行って「神の国は来た」ことを話されたように見えます。
今日のテキストもガリラヤ湖から約40キロ離れた、フィリポ・カイサリア地方に弟子たちと赴かれました。
その途上イエスは弟子たちにたずねられます、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と。
弟子たちは『洗礼者ヨハネだ』と言う人もいますし、ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます、と答えますが、
イエスの真の問いは、寝食を共にしている弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(8章29節)と問いたかったのではないでしょうか。
この問いは今日ここで礼拝をささげているあなたにも同じように「あなたはわたしを何者だと言うのか。」と信仰を問われているのです。
わたしたちは信仰でイエスは「神の御子」、「救い主」、「天から来られた方」、「いやし主」、「愛のお方」、「わたしの主」、・・・・ということができます。
あなたの中から「イエスは主」という確信に満ちたイメージが湧き起こっていますでしょうか。
牧師はいつも皆さんが主イエスを見つめ、共に歩むように祈り、メッセージもそこに帰着してきました。
31節に「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、
とあります。イエスはイザヤが「苦難の僕」を預言した(イザヤ書53章)ように、エルサレムの指導者たちによって殺されることをすでに知っておられたのでしょう。
“ことになっている”という表現があらわしています。そのことは神のお定めになったことなのだ、という言い方であであります。
しかし、この十字架の死は“復活と表裏一体”であることを同じように“ことになっている”という言葉が受けています。
本日の御言葉jから今日のポイントを確認します。
1、神はイエスを唯一の救い主としてお立てになっている、と言うことです。
他の人ではありません。エリヤでもない、どんな預言者でもできない。神の御子にしかできない救いのわざです。
このお方が十字架と復活をとおして人間に唯一の救いの道を開いてくださったことを信仰で受け取りましょう。
2、神が与える苦難、
神が与える苦難を感謝して受けましょう。イエスは預言をとおして自分に迫る苦しみを知っておられました。
人間は道理に反すれば苦しくなります。しかし、神が与える苦難は道理に反してない。神の御旨に背いているものでもない。
それなのに次々と苦難はやってくる。そのようなとき「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶ」(詩編107:19)と、
それは神がイエスの十字架から復活を用意されたように、あなたの苦難もそれを乗り越えた時「感謝のいけにえをささげ/御業を語り伝え、喜び歌う」(詩編107:22)境地に導かれるのではないでしょうか。。
主イエスの復活にも似た神の平安を得られるのではないでしょうか。
お祈りします。
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