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礼拝説教(4月 18日)


                 ヘブライ人への手紙11章1〜6節
                       「信仰による恵み」
2010年度の教会目標をかかげて富士宮教会があゆみはじめました。
週報の表紙に出ています、【 主題聖句 】をごいっしょに唱和してみましょう、「神は御自分を求める者たちに報いてくださる方である」(ヘブライ書11章6節)。
【 教会標語 】もごいっしょに唱和しましょう「恵みにあずかる教会」。
このヘブライ書11章6節 には前半部分があるわけですが、それを整理してみますと、次のようになります。
@“信仰がなければ”、神に喜ばれることはできません。
A“神に近づく者は”、
   A 神が存在しておられること、
   B 神は御自分を求める者たちに報いてくださる方である
     ことを、信じていなければならないからです、となります。
神さまに喜ばれる生き方、そのためには、「信仰」が必要です、と言うのです。
信仰とは、一般的にその人が崇敬する神仏を信じ、そのヘえに聞き従う、と言えると思います。
ウイリアム・バークレーという聖書学者は「宗教は人間が神を意識するときにはじまり、神の存在を否定するときに消滅する」といっています。
神さまを意識して、神さまの存在を認めるときわたしたちの中に、AのB、「神は御自分を求める者たちに報いてくださる」物的・精神的なはたらきがはじまり、恵みが現れるのだと思います。
キリスト教の神さまは、わたしたちに「イエス・キリスト」というかたちでご自身を現してくださいました。
わたしたちが信じている神さまはこのお方(三位一体の神)です。このお方にたずね、求めましょう。
11章1節で、信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです、とありますが、あなたの望んでいることがらと神さまの思いとが一致することが大切だと思います。
この世界では人間のさまざまな思い、願い、それらよりも、神さまの思いが成っていくからです。
旧約聖書の箴言にはこのように書かれています。
「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(新共同訳聖書19章21節)、「人の心には多くの計画がある。しかし【主】のはかりごとだけが成る」(新改訳聖書19章21節)と。
神さまの思いだけがなっていく、というのですから、この聖書の言葉を信じるなら、
神さまの御旨を見つけるように努力した方が賢明な生き方のようです。
 ダビデ王は神殿の建築を願い、それに向かって努力しました。しかし、建てるのはその息子ソロモンでした。
「父ダビデは、イスラエルの神、主の御名のために神殿を建てようと心掛けていたが、主は父ダビデにこう仰せになった。『あなたはわたしの名のために家を建てようと心掛けてきた。
その心掛けは立派である。しかし、神殿を建てるのはあなたではなく、あなたの腰から出る息子がわたしの名のために神殿を建てる』と。主は約束なさったことを実現された。
主が約束なさったとおり、わたし(ソロモン)は父ダビデに代わって立ち、イスラエルの王座につき、イスラエルの神、主の御名のためにこの神殿を建てた」とあります。(列王記上8:17 〜20)、神さまの神殿建築の思いはダビデ王ではなく、ソロモン王であったことがわかります。
 イエスさまの十字架も「人間の救いを完成するため」に神さまは十字架を必要とされたと理解します。
その十字架の後には、復活のできごとが起こったのですから。
あなたのもとにたいへん苦痛をともなう仕事(奉仕)が持ち込まれるかも知れません。
祈り、平安が来たならそれは神さまの御旨であるかも知れません。喜んでお引き受けください。
今日のテキストの前に 「正しい者(義人)は信仰によって生きる」(10章38節)とあります。
神さまの御旨を受け入れる人こそ「義人」であり、「信仰」によって生きる人です。
その人は神の「恵みにあずかって」信仰生活をおくれる人です。
ダビデは神に賛美をささげました。
23:1 【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。
23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
   主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。
 この1年、神さまの「恵みにあずかって」信仰生活をあゆみましょう。
お祈りします。