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礼拝説教(4月 25日)


                   ヨハネ福音書13章31〜35節
                  
「新しいおきて」
 神さまはあなたを自由に生きる者としてお造りになりました。あなたの責任範囲において。あなたがこの世の富に価値をおき、それに邁進するのもよしとされていますし、一方、あなたが「新しいおきて」を見つけてその方を信じて生きるのもよしとされました。
本日の中心的な聖句、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ですが、
この言葉は11人のお弟子さんたちに言われた言葉です。
というのは13章31節に「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた」となっています。このユダ(イスカリオテのユダ)が出て行ったのは、イエスを祭司長たちに売り渡すために、「出て行った」のです。聖書においてこの箇所は重要な意味をもつものです。
 イエスはユダが出て行った後、「今や、人の子(=イエス・キリスト)は栄光を受けた」と言われます。
一般に栄光とは“かがやかしい名誉”なことでしょうが、イエスの言われる栄光は十字架の死、であります。
十字架の死、この世の人にとってそれは悲惨に見えますが、天上ではこの十字架の死は復活とつながり、復活をとおして神の右に着座する、まさに「栄光の座」をいいます。
 そのような栄光の座に着く前にイエスは弟子たちに「新しいおきて」を与える、と言われます。
イエスの言う「新しいおきて」とは何でしょうか。“互いに愛し合う”ことです。
しかもその愛は、「わたしがあなたがたを愛したように」という愛なのです。
「新しいおきて」に対して「旧いおきて」はあるのでしょうか。
マルコによる福音書の ◆最も重要な掟の中で、イエスはお答えになっています。「第一の掟は、これである。
『 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」
(同12章30,31節)といわれます。旧約時代には全身全霊で唯一の神を愛し、
また、自分を愛するように隣人を愛する、ことでした。しかし、この掟、人間には頭ではわかっていても、実生活で全うするのは非常に困難でした。
これに対し「新しいおきて」は“互いに愛し合う”ことです。イエスの愛それは「十字架の死」が愛の極みでした。
イエスは自分を犠牲にしてわたしたちを愛してくださいました。
その愛をもって愛し合いなさいとすすめられるのです。
イエスの3年半の公生涯の中で、人々を愛して歩まれたところを福音書の中から見てみましょう。
 ヨハネ福音書8章2節からは「裁きか、赦しか」の有名なところです。
イエスが神殿におられたとき、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえたという女性をイエスの前につれてきて、普段愛を語っているあなたはこの女性をどうしたらよいかと詰め寄りました。それに対してイエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、この女に石を投げなさい」と答えられましたが、彼らはだれひとりこの女性に石を投げる者はいませんでした。
イエスもまた、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」と赦しと愛を示されました。
しかし、イエスはこの後この女性のためにも十字架で罪の赦しの裁きをお受けくださいました。
 また、マルコ福音書5章1節以下には、墓場に足かせでつながれた男性が出てきます。彼は多くの悪霊に悩まされ、
自分を石で打ちたたいたりして、苦しい中にありました。
イエスはこの男性を解放するため、近くにいた二千匹ほどの豚を犠牲にされました。
このことで豚飼いたちや町の人々はイエスにその町から出ていってもらいたいと催促します。
イエスはひとりの人を本来の姿にもどすために、豚の犠牲も自分の身が犠牲になることもいとわれませんでした。
イエス・キリストの根源は愛です。人を救い、解放し、いやすためには、どんな苦難も恥も惜しまれませんでした。
このお方が「互いに愛し合いなさい。
  わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われるのです。
お祈りします。