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礼拝説教(4月 4日) |
マルコ福音書16章1〜8節
『イエスはよみがえられた』
イースター、主のご復活をお喜び申しあげます。
死人がよみがえる。そのようなことは頭(理性)では理解できませんが、
聖書に書いてあることは信仰をとおして見ると、信じることの方が賢明のようです。
マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ、3人の女性は日曜日の朝早く墓に行きました。
3人はイエスの体に香油を塗ろうと出かけたのでした。
ただ、墓の入り口をふさいでいる大きな石をどのようにして移動するか、これが心配のタネでした。
しかし、着いてみると石はわきへころがしてあります。
神様のことはわたしたち人間が先走って心配することは要らないようであります。
5節、 墓の中に入ると、イエスの遺体はなく、白い長い衣を着た若者が座っています。
その若者はいいます。
@「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたイエスを捜しているが、
あの方は復活なさって、ここにはおられない。ここがお納めした場所である」、と位置まで示すのです。
3人の女性にとってはイエスの遺体がないことも驚きですが若者がイエスの復活を教えてくれることも
驚きでした。ただこの人たちは、「・・・イエス様はいまどこに?」と必死になって問いたださなかったのか、
不思議でなりません。
A若者はもうひとつ重要なことをこの人たちに告げます。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。
かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と、弟子たちに告げなさい。」と。
墓の中での白い長い衣を着た若者は「天使」と思います。予期していなかった天使が彼女らに語りかけたのですから、
震え上がり、墓を出て逃げ去ったのもむりもないことです。
しかも正気を失って、何がなんだか分からなくなってしまいました。
聖書はこのように復活のできごとをわたしたちにリアルに伝えてくれるのですが、聞いているわたしたちが、この出来事をどのように理解するか、たいへん重要です。
トマスは、復活のイエスが弟子たちのところに来られたとき、彼らと一緒にいませんでした。
他の弟子たちが復活のイエスに出会ったことを話しても、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」とキリストの復活を信じませんでした。イエスの復活を信仰で受け取ろうとしていません。
また、エマオ途上の2人の弟子たちにイエス御自身が近づいて、
「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われたとき、二人は暗い顔をして立ち止まってしまいます。
その一人が「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
とイエスにたずねますが、さらにイエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は「ナザレのイエスのことです。
この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
それなのに、祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
ところが仲間の婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
ここまでの聖書の記事を読むと、この2人の弟子は、復活のイエスと同行しているということに全く気づいていないようです。
しかし、パウロはダマスコ途上の復活のイエスに出会ったことをたいへん重要なこととして信仰で受け取り、自身の中に握っていました。
したがってどのような場面でも彼は「復活の主イエス」を語りました。(使徒言行録22:6以下)復活の主イエスとともに歩むわたしたちも、イエス・キリストは墓からよみがえられた。イエス・キリストは死からよみがえられた。
イエスは今も生きてわたしとともにいてくださる。
イースターのこの朝からこのことを告白しつつ歩もうではありませんか。
お祈りします。
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