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礼拝説教(5月 16日) |
「イエス・キリストを知る」
本年度、富士宮教会の主題聖句は「神は御自分を求める者たちに報いてくださる方である」です。
ヘブライ書11章6節からいただいていますが、11章6節には、前後があります。
それは、
「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神が存在しておられること、
また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、
信じていなければならないからです」というものです。
神様に喜ばれる生き方、それをだれもが望んでいるわけですが、
それには、“神が存在しておられること”と
“神は御自分を求める者たちに報いてくださる方である”ことを信じていなければならない、というのです。
神様は全能のお方です。そのことを信じて、神様を求める信仰をもって歩みましょう。
本日の聖書はイエス様が父なる神様と祈りを通して対話し、地上の最終的な歩みを確認しておられるところです。
「父よ、時が来ました。」それは十字架の時であります。
神様は子(=イエス)にすべての人を支配する権能をお与えになり、イエスを信じるものに救いと永遠の命を与えられました。
「永遠の命とは唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」、と聖書はいいます。
神様とイエス・キリストを知ること、これが永遠の命というのですが、この「知る」という言葉は、@「認識する」知識として知るという他に、
A「理解する」肌で感じる、という使い方、そしてB「洞察する」普通ではわからないことを見抜いたり、将来を見通したりする。そのような広い意味があります。
ある面では人生は神様を深く知ることに使うことにあるのかも知れません。
旧新約聖書に書かれてあることは、神様のほんの一面であり、聖書を読んでその言葉を「黙想」したならば、御霊のはたらきによって、肌で感じたり、また普通ではわからないことを教えられたり、
預言書をとおして将来を見通す力が与えられたりすることを考えると、
一生かかっても神様を知り尽くすことはできないのだと思います。
偉大な人は死をもって自分の生きざまを表わしますが、
イエス様は神様にすべてをゆだね、十字架の死をとげられました。
人の目には、この世に負け、敗北のみじめな死と映るかも知れません。
しかし、パウロが言うように「 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
このように神様とイエス・キリストは深く洞察しなければ見えない部分がたくさんあります。
アブラハム・リンカーンは56歳という年齢で地上の生涯を終えましたが、奴隷解放という大きなはたらきをしました。
彼はその幼いときから母ナンシーに聖書による教育を受けました。彼は父なる神とイエス・キリストを知ることに、多くのときを費やしました。
御言葉によって人格を形成しながら、つぎつぎとそのはたらきを拡げて行きました。
彼の奴隷解放のはたらきに力を与えたのがストー夫人の小説でした。このようによき仲間の協力もあって大きなはたらきを成し遂げたのでした。
しかし、彼のはたらきの根底にあったものはいつでも聖書でした。
終わりに、詩編102編13〜19節の御言葉を味わいつつこの週を歩みましょう。
主よ/あなたはとこしえの王座についておられます。
御名は代々にわたって唱えられます。
どうか、立ち上がって/シオンを憐れんでください。
恵みのとき、定められたときが来ました。
あなたの僕らは、シオンの石をどれほど望み/塵をすら、どれほど慕うことでしょう。
国々は主の御名を恐れ/地上の王は皆、その栄光におののくでしょう。
主はまことにシオンを再建し/栄光のうちに顕現されます。
主はすべてを喪失した者の祈りを顧み/その祈りを侮られませんでした。
後の世代のために/このことは書き記されねばならない。
「主を賛美するために民は創造された。」
お祈りします。
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