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礼拝説教(5月 2日)


                      ヨハネ福音書15章1〜8節
                     『わたしにつながっていなさい』
 今朝、イエス様はわたしたちに「わたし(イエス)につながっていなさい」といわれます。
そして、わたしたちが神の国のことを理解するためにぶどうをもって説明されます。
ご自分を“ぶどうの木”に、お弟子さんやわたしたちを“ぶどうの枝”に、
父なる神様を“農夫(栽培人)”にたとえられます。
けさは本ものの、ぶどうの木と花をつけたぶどうの枝とを皆さんにまわしていますが、木の部分と枝の部分とがはっきり分かれていることにお気づきのことと思います。
イエス様は「ぶどうの枝はぶどうの木につながっていなさい」と命令形でいわれます。枝が木につながっていることはそれほど重要なことなのです。
それは4節「ぶどうの枝が、(ぶどうの)木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができない」からであります。
すなわち、春に花をつけたぶどうの枝はぶどうの木から栄養分をいただいて成長し、夏から秋にかけてその実をみのらせていきます。農夫(栽培人)は小さな実をテッカしたり、消毒したりして収穫時期を待ちます。やがて実り、収穫したぶどうの実は食用に用いられますが、ぶどうの枝は農夫(栽培人)によって来年また実を結ぶように剪定され、手入れされます。
剪定されて不要になった枝は集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまいます。
 わたしたちの「信仰生活」もこれと同じようなことが言えます。
イエス・キリストを主とし、洗礼を受けてキリストの教会につながった人は主の訓練を受けつつ礼拝をささげます。その礼拝の中で神の言葉をとおして栄養分をいただきながら、祈りの中で神様と交わりをもちます。
信仰の成長にしたがっで神様のすばらしさがわかり、それを世の中に示して行きます。これが信仰による御霊の実です(ガラテヤ書5章22、23節 、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)。
イエス様はこれらは「自分では実を結ぶことができない」といわれます。ですからわたしたちは教会をとおしてイエス様といつもつながっていなくてはならないのです。
しかし、わたしたちはどんな困難があっても教会といつもつながっているでしょうか。自分の身の回りのことが忙しくなったり、教会で自分の意図することに反する決定や事態が起こったりすると、教会生活が(礼拝を休むとか、献金をおこたるとか、与えられた奉仕を放棄するとか、)消極的になったりしていないでしょうか。
あなたが教会から後退することが枝がぶどうの木につながっていないことを意味します。
御霊の実はさまざまな障害や苦難をのり越えて、豊かに実を結ぶことができるのです。
また、神様との交わりの中で、悔い改め(剪定)を導かれたならば、すなおに悔い改めをささげましょう。それが「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」ところの聖句です。
しかし、父なる神様はいよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさるのです。
 今朝、テレビで長妻厚生労働大臣と日野原重明先生その他のゲストがこれからの日本の高齢化社会にどのような心構え、ヴィジョンが必要であるか等、話し合いがなされていました。
日野原先生、来年10月で100歳になられるそうですが、考え方も足取りも実にしっかりしておられます。
あの前向きで相手を引きつけるお話は先生の信仰から来ているように思います。
先生はキリスト教信仰者であるということはあまり口にされませんが、
しかし、その根底にはいつも聖書の言葉と祈りがあって“イエス様にしっかりつながって”必用な栄養分をいただいておられるようにお見受けします。
先生のあの前向きで、健康な生活習慣はだれでもがあこがれてしまいます。
 イエス様は言われます「 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と。
キリストの言葉をわたしたちの内にたくさん蓄えるようにつとめましょう。
そして豊かに実を結ぶと、それによって、わたしたちの父なる神様は栄光をお受けになります。
お祈りいたします。