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礼拝説教(5月 30日) |
ローマの信徒への手紙 8章1〜17節
『神の子とする霊』
聖書は多方面から神は聖なる方、愛なる方、また、人間は罪から救われなければならない存在といっています。そして、救われた者は、神の義をまとい、「聖なるあゆみ=聖化」を生きることを期待されています。
イスラエルの民は律法が与えられて後、自分の力で神の律法を守りとおすことはたいへんむづかしいと覚えていました。そこであわれみ深い神様は、御子イエス・キリストをこの地の送り、信じる者には「神の子」として救いを与え、「アッバ父よ」と呼べるものにしてくださいました。
8章1節、 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、(=御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断された)信じる者を罪と死から解放したからです(8章2、3節)。
「神の子」として、すなわち霊の人として造りかえられたわたしたちは、8章5節、 霊に従って、霊に属することを考えてあゆみましょう。なぜなら、肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であるからです(8章6節)
。「霊に属すること」をもっと具体的にいうならば、神様が喜ぶことをすることです。神様はわたしたちがへりくだって、自分の思いを捨て神様に仕え、またとなり人に愛をもって仕えることを願っておられます。主にある多くの先達が今日まで主に仕え、平和を築いてきました。神様が喜ぶことを神様にたずね、実行してきました。
「肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません」とパウロはいいます。8章8節、事実、人間的な思いでなされたものはいろいろなところで行き詰まりをみます。
キリストがわたしたちのうちにいてくださるのですから、天の父はわたしたちのこのからだを生かしてくださいます。
このように肉を離れて霊で生きる、頭では理解できますが長年この世の価値観=肉の思いで生きてきたわたしたちはいつのまにか“肉の思いに従っている自分”に気づくのです。そのときに、どのようにしたらいいのでしょう。パウロは「霊によって体の仕業を絶つ」ことをすすめるのです(13節)。「霊によって体の仕業を絶つ」とはどのようにすればいいのでしょうか。
祈りをとおして聖霊で満たされることではないでしょうか。
わたしたちが聖霊で満たされると肉に執着する思いは少なくなり、肉的な体の仕業を絶つことができていきます。
使徒言行録を見ますと、ペンテコステ(使徒2章1節以下)の後、ペトロは聖霊に満たされ、イエス・キリストによる「救いの道」を力強く語りました(使徒2章14節以下)。
彼が語ったそのとき救いの道を信じ、仲間に加わった者は3千人もいたのでした。
神様に用いられることはなんとすばらしいことでしょう。
お祈りします。
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