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礼拝説教(6月 13日)


             使徒言行録16章16〜34節
              
『牢獄でも賛美をうたう』
 使徒たちはエフェソに来て、安息日には信徒とともに川のほとりの「祈りの場所」に行って、そこで礼拝をささげていました。彼らに占いの霊に取りつかれている女奴隷がつきまとい、そして彼女は、パウロたちの後ろについて来て、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」としつこく叫ぶのです。パウロはたまりかねて、イエスの名によってこの女性にいる悪霊を追い出します。
 ところが、この女性の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことに腹を立て、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行きました(使徒16:19 )。
役人は彼らの訴えを信用し、ふたりを鞭で打ってから牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じました。看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめました。
彼らはこのように獄舎に堅くとじこめられたのです。
 しかし、彼らは主に賛美をささげることが造られたものの正しいつとめと思い、牢の中で賛
美をはじめました。夜もふけて「突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた」のです。
しかも「牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった」というのですから単なる地震ではありません。神様が介入された御業です。このような宗教的現象は、理性では説明がしにくいのです。
 看守は即座にこのことで自分の身にふりかかる責任問題を思いました。彼は囚人たちが逃げたと思い込み、責任をとって自殺しようとします。
しかしパウロは、地震後、間髪をいれず囚人たちに、こう叫んだのではないでしょうか。
“みんな、落ち着いて、だれも逃げてはなりません。こんどつかまったら必ず打ち首です”と。
そして、自害しようとした看守に向かって、「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」、
パウロは獄舎の中は平穏であることを言ったのでしょう。
 看守は建物以外は何ら変わったことのない囚人を確認すると、、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」とたずねました。
看守はパウロとシラスの信仰に驚いたのです。“この人たちは背中にむち打ちの傷を負いながら、牢に入れられても神を賛美する。
しかも脱走しようと思えば逃げられる者をひとりも逃がさず、平穏でいることができる。たいしたものだ。自分の生き方と比べると雲泥の差がある、わたしもあのような生き方がしたい”。
まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けました。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ(16:33 〜34)、のでした。
相手の方から「わたしもあのような生き方がしたい」と福音に耳を傾けてくる。そのような伝道は最高の伝道ではないでしょうか。
お祈りいたします。