貴方を許す唯一の

 爆音でもうすぐ店にやってくる人物を知る。
 夕食には早すぎる時間。店内には客の姿はない。退屈という名の病で死にそうだった朱貴はその音に反応して一人微笑んだ。
「朱貴さんっ!」
「あら?」
 爆音は確かに神行水龍≠フ音だったのだが駆け込んできたのは戴宗ではなく翠蓮だった。
「珍しいね、どうしたの?」
「あの、私もよく…分からないんですけど…」
 慌てている所為というわけでなく、どう説明していいのか分からないというように歯切れの悪い困惑の声。
「おたくのお友達が派手に喧嘩してんぜ」
 後からゆっくり歩いてきた戴宗が面倒くささを隠そうともせずに告げる。
「そうなんです、宋万さんと、杜遷さんが…喧嘩、というか…?」
 翠蓮は尚その表現に戸惑っている。
「…それで、私のところに来てくれたのね?」
「あ、はい。戴宗さんにお願いして連れてきてもらいました。朱貴さんに、知らせなきゃと思って…」
「私の力じゃあの二人は止められないけどねェ」
 肩を竦めて見せると翠蓮は細かく首を横に振る。
「止めるだけなら、止まってるんです」
「うん?」
「ワケの分からねー喧嘩なんだよ」
 二人が喧嘩の様子を見た限りでは。杜遷が一方的に宋万を殴り。殴られた宋万は何故か殴られるために杜遷に突っ込んでいくように見えるのだという。今は二人を別の部屋に隔離して、宋万を張青が押さえつけて止めているが、放せばまた杜遷のところへ走り出しそうに興奮しているのだとか。
「なかなか面白いことになってるじゃない」
 朱貴は目を細めて笑っている。不謹慎ではあるが、常と変らぬ朱貴の表情に翠蓮は幾らか安心したようだった。
「杜遷さんはけろっとしてるんですけど…二人とも喧嘩の理由は誰にも話してくれなくて。宋万さんは、まだ落ち着かないし…それで」
「私の出番ってワケね。ブラボー! 翠蓮ちゃん、いい判断なのよね!」
 軽い調子で翠蓮の頭を撫でてやると、じろりと戴宗に睨まれた。わざとやっているのだから戴宗の反応は朱貴を楽しませるに過ぎない。
 朱貴には揉め事の原因におおよその見当がついていた。だからといって解決の道があるわけではないが。他の誰かよりは内情が分かるだけ自分が仲裁にあたるのがいいだろう。そういう意味で翠蓮の判断は確かに正しい。
「じゃぁ、翠蓮ちゃん、ちょっとお店お願いね」
「え? ええっ!?」
「こんな時間に滅多にお客なんか来ないし、もし来ても水だけ出してお待ちくださいって言っとけばいいから。大丈夫、翠蓮ちゃんがニコニコしてればお客さんは皆許してくれるよ。戴宗くんは私をバビュンと梁山泊まで送ってくれる?」
「やだね。タクシーじゃねーんだよ」
「あら、そ。間に合わなくて、あの二人の派手な喧嘩が再開しちゃったらゴメンね?」
 翠蓮に向かってそう言うと、戴宗は渋々来た道を引き返す。
「すぐに戻るから、お店よろしく」
「は、はい…」
 消え入りそうな心細い返事を聞いて朱貴は密かに微笑む。あの健気さが可愛い。
「おい、行くならとっとと行くぞ」
 戴宗が先に行って急かす。
「はいはい、よろしくね」
 まず、草や木片を弾き飛ばすように大きな剣を振る。このときの衝撃波が先ほど聞いた爆音と同じ音だ。そして戴宗にしがみついて一瞬で終わる水上の旅。
 確かに早くて便利なのだが乗り心地はイマイチ。急がなくていいのなら船の方が好きだ、と比べる必要のないものを比べて心の中に感想を述べる。
「やー…何度やっても便利なのよね。ありがと、じゃ、翠蓮ちゃんのところへ戻って一緒に店番お願いね」
「はぁ?」
 不満たっぷりの返事は明らかな拒否の意思表示。
「あの店、梁山泊の入り口だって知ってる人間が集まるから、怖いオジサンたちがぞろぞろ来ることもあるのよね。翠蓮ちゃん一人じゃ…」
「っ! 笑えねーんだよ! 先に言え、そういうことは!」
 朱貴の台詞を最後まで聞くこともせずに戴宗はまた水の上を渡っていった。この素直でない素直さが面白い。
 ひらひらと手を振って見送る朱貴はいつもどおりの楽しそうな笑顔。
 そして、振り返り、目の前の梁山泊を仰ぎ見た。
「さて、お友だちをなんとかしなくちゃね」
 独り言をいう朱貴の顔には苦笑と呼ぶのに相応しい、普段とは少し違う笑顔が浮かんでいた。正解のない問題に取り組むように、幾らか気が重い。
「…うん、そうね、若者に頑張ってもらおうかしら」
 歩くうちに朱貴は何か思いついたようにパッと明るい笑顔に戻る。何事も楽しくやらなくちゃね、と己のモットーを呟いて足取りも軽く塞内に入った。



 むっすりと黙った杜遷。
「粘りますね…。うーん、そこまでして話したくないっていうのはどういうことなんでしょう?」
 杜遷の前に座って呉用が困り果てている。
「すごく下らない事か、すごく大事な事なんでしょーよ」
 面倒くさそうに返事をするのは杜遷ではなく楊志だ。杜遷は止めに入られた直後から暴れることもなく、特に腕力の必要な場面はないだろうと判断され呉用が話を聞くことになった。現在の頭領である晁蓋は相手の宋万の方の話を聞いている。ただ、もし暴れた場合、呉用一人ではどうにもならないので一応楊志が付き添いとしてここにいる。彼は通りがかったところを晁蓋に見つけられてこの任務を与えられたので完全にとばっちりなのだから、面倒くさそうでやる気がないくらいは仕方がない。
「別に何か罰を与えるとかじゃないですから…原因のヒントのヒントくらい教えてくれませんか…?」
「…」
「…」
「…」
 沈黙のあと、呉用の深いため息。
 何度となく繰り返したこの会話にすっかり飽きていた。本当はもう暴れる様子のない杜遷をこうやって拘束している意味すらないということに気づいてはいる。ただ、家屋の破損にまで至った喧嘩の理由がまったく分からないでは済まないというだけの話。しかもこの梁山泊の古株二人の起こした事件なのだ。現在の梁山泊中枢の一角である呉用の立場から言っても原因不明のまま無罪放免というのも上手くない。かといって拷問までして問い詰めるというのもおかしな話だ。
「やー…珍しい面子ね」
「朱貴さん! 早かったですね!」
 部屋に入ってきた朱貴を呉用は救世主到来とばかりに歓迎した。
「早かった? 呉用先生、私を呼んだの?」
 現在の梁山泊で第二位の位置にいると言っていい呉用のことを大抵の人間は「様」や「殿」をつけるよりも親しみをこめて「先生」と呼ぶ。晁蓋や白勝がそう呼ぶのを聞いてなんとなく釣られているというだけなのかもしれない。
「はい、先ほど使いを送ったばかりですが…」
「そう、翠蓮ちゃんの方が先生より上手だったのね」
 朱貴は翠蓮に助けを求められて来たのだという。この状況を打破するためなら最早誰のお陰でも構わない。
「さっきまでは、幾らか喋ってくれたんです。喧嘩をしたつもりはないとか、怒ったから殴ったわけじゃないとか…僕にはもうさっぱりで」
「あれだけ派手にやったのに?」
 朱貴が杜遷に話しかけると、何か言いたそうな顔をしたが、結局口は開かなかった。どうやら朱貴はこの部屋に来る前に現場を見てきたようだ。
「宋万さんの方は晁蓋が相手をしていて、暴れるのをやめて落ち着いたと思ったら、今度は岩のように黙って動かないそうで…そんな向こうの様子を聞いたら『ぼくもそうしよう』って、このとおりなんですよ」
 呉用が情けない声で説明すると朱貴は顎を触りながら頷いた。
「黙ってられない杜遷がこんなに黙ってるなんて相当苦しいはずなのよね。くすぐっちゃおうかしら」
 おどけた調子で朱貴が手を動かしながら杜遷を見る。ポーカーフェイスの苦手な性質らしく、内心かなり焦っているのが手に取るように分かった。
「…と、まぁ冗談はさておいて」
 朱貴は少し真面目な顔つきで呉用を見た。
「私、この件には心当たりがありすぎるのよね。一週間くらい前かしら。私も宋万から相談…ていうか、打ち明け話? そんなのを聞かされたのよね。私は杜遷ほど親切じゃないから殴ってなんてあげなかったけど」
 壁にぶち当たっていた呉用たちとは裏腹に、朱貴は二人が喧嘩をしたと聞いただけで思い当たることがあるという。呉用も楊志も、おまけに杜遷まで驚いたような、喜んでいるような。期待に満ちた目で朱貴を見ていた。
「私の言ってることが的外れだったら首を振るくらいしてくれる?」
「うん、いいよ」
 杜遷はうっかり声に出して頷いた。こんなに崩しやすい壁を崩せずにいた二人は杜遷の間抜けさよりも自分たちの無力さに打ちひしがれている。
「でね、呉用先生、気を悪くしないで聞いて欲しいんだけど」
「はい」
「この件は一旦こちらに預けてもらえないかしら。当事者じゃない人にペラペラ喋りたいような話じゃないのよね」
 呉用の頭の中で色々なことが渦巻く。この喧嘩の経緯を聞くにあたり朱貴を呼ぶことはすぐに思いついたのだが、実行しなかったのはこんな展開を危惧してのことだ。
 梁山泊の元三頭領が自分たちに聞かせたくない話。それがどんな内容なのかとても気になる。話せない理由がもっと気になる。一番心配なのはその理由が今の梁山泊の脅威となる何かに結びついていたら、ということだ。
「それは…」
「もちろん、私たちで解決できなかったらまた協力して欲しいんだけど、本当はこんなに大事になるようなことじゃないのよ。現頭領と参謀さまのお手を煩わせるほどのことじゃないのよね」
 朱貴が話すと杜遷がうんうんと大きく頷いて見せる。
「やー…呉用先生は心配性だから三人だけで話をつけるなんて言うと、私たち三人が結託して何か企んでるんじゃないかって考えるかもしれないと思って…当事者であり、常に中立の彼をご用意してみましたー」
 朱貴が拍手して、今入ってきた部屋の入り口を振り返る。
「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーん!…くらい言ったら?」
「…言いません」
 今まで隠れているように言われたのか、拍手と同時に入ってきたのは林冲だった。
「この一件を預かっていただく豹子頭くんー!」
 朱貴の変に高いテンションを無視するように林冲は話し始める。
「私もまだ状況が飲み込めているわけではないですが…」
 林冲は他の四人を順に見回す。
「確かに当事者ではあると思います。そして当事者以外には理解しにくいだろうというのも分かるつもりです。晁蓋殿にも、呉用殿にも、後ほど報告できる範囲で報告いたします。どうか一度この喧嘩、私に預けていただけませんか」
 軍に所属していただけあって林冲は頭領と参謀に「殿」をつける。
 呉用から見れば林冲は十分に元祖替天行道のメンバーに他ならないのだが、彼は自分を義賊と認めていないというのも知っている。力を貸しただけのはずがなしくずしに今の状態になっているということだ。
「当事者…ですか。つまり、替天行道が梁山泊に入ったときの出来事と関係があるんですね…?」
 林冲が入山してから晁蓋たちがこの梁山泊へ来るまで。それほど長い間があるわけではない。元梁山泊の三人から見れば同じ新参者に過ぎないはずだが、林冲が当事者と呼ばれるということは、つまり。元の頭領、王倫との間に起こった惨劇が関係しているということ。その一件に関して一応の話には聞いているが詳しくは知らない。
「やー…ご明察。呉用先生には敵わないわね。でも豹子頭くんに一回任せてもらえないかしら。その方が宋万にとっても、私たちにとってもありがたいんだけど」
「…でも」
 晁蓋に「そっちは任せた」と言われたのだ。ただの晁蓋ならそれでもいい。今はこの梁山泊の頭領となった晁蓋に任されたことを他人に押し付けていいのだろうか。
「はいはい、じゃーそうしてもらうしかないでしょーよ」
 葛藤中の呉用の首根っこをつまんで引きずるように楊志が立ち上がった。
「ちょ、放してくださ」
「うるさいねー、任せたって言っときゃイイんだって。晁の旦那なら分かってくれるでしょーよ。どーにもならなきゃまた頼ってくるって言ってんだし」
 青いあざのある顔で爽やかに笑う。
「オレだってここに加わるまでに色々あったぜ? 知ってるでしょーよ、呉用ちゃんが考えた罠だったんだ。オレもあのあたりのこと、よく分かってない奴に話すのはやだね。そーゆーことだから、オレたちは退散、退散っと」
 分かるも何も、呉用が立てた生辰網強奪計画を迎え撃ってくれたのがこの楊志なのだ。結果から言えば成功したことになっているが、上手くいきかけた作戦が彼のお陰で台無しになった。正確に言えば彼だけの所為ではないのだが。確かにそんな失敗談を当事者でない誰かに話すのは呉用も嫌だ。気持ちが分からないわけではない。
「でも、僕は…」
「じゃ、豹子頭、あとヨロシク」
「あ、ああ…」
 まだ喚く呉用を引きずりながら、青面獣はひらひらと手を振って部屋から出て行った。
 引きずられながら呉用は気づく。晁蓋が楊志を見張りに置いたのは、万が一のときに杜遷を押さえるというより、こんなときに自分を連れ出すためだったのかもしれない。
「…僕って頑固で融通が利かないですよね…」
「それが分かってりゃ、いいんでしょーよ」
 自虐的な呟きに特にフォローもされないまま呉用は大人しく引きずられていた。



 先ほどまで呉用が座っていた場所に朱貴が、楊志が座っていた場所に林冲が腰をおろした。
「やー…しかし、面倒なことしてくれたのよね」
 テーブルに肘を乗せ頬杖をつきながら朱貴は本性を表すように鋭い目つきで杜遷を睨んだ。ときどきこうやって笑顔の朱貴から豹変して見せるが別段それを隠しているということはないようだ。にこやかで人当たりのいい朱貴も、ナイフのように鋭い朱貴も、両方合わせて彼なのだ。それを林冲が理解するまでには少々時間がかかった。
「ぼ、ぼかァ宋万に言われて仕方なく付き合っただけだぜィ」
「それでも梁山泊内での私闘は禁止でしょ。民家がひっくり返るような殴り合いは喧嘩って言われても仕方ないじゃない。他所でやりなさいよ、まったくもう、無駄に力有り余ってて困るね」
 朱貴がここまで遠慮のない言い方をする相手はやはり元梁山泊の頭領だった杜遷と宋万だけだった。最近はその範囲が少し広がったように感じる。本人が自覚しているかどうかは定かではない。
「…やりすぎかな、とは思ったよ」
 二人のやりとりを林冲が怪訝な顔で聞いている。それに気づいて朱貴が取り繕うように説明を始めた。
「ごめんね、置いてけぼりで。やー…どこから話そうかな。私が宋万に聞いた話からでいい?」
 問われて林冲は頷く。問われていない杜遷もなぜか頷いた。
 朱貴の中ではすべてが分かりきったようになっているというだけで、杜遷でさえ解説が必要な状態なのだ。
「一週間くらい前ね。あの宋万が私に話したいことがあるなんていうから何事かと思ったら…王倫の裏切りを事前に知っていたんですって。本人から直接打ち明けられて、一緒に裏切るように言われたそうよ」
 朱貴はさらりと口にしたが林冲は驚きを隠せない。
「それは…!」
「裏切り行為? 本人もそうだって言ってたから、そうなのかもね。でも、だからどうしたってことだと思うのよ。今更でしょ。まぁ…知ってたならなんで相談してくれなかったのかとは、少し思ったけどね」
 早口でまくし立てる朱貴はどこか悔しそうに見えた。
「気の済むまで殴ってくれて構わないとか暑苦しいこと言うから、私は別に腹も立たないし殴る理由もないって断ったの。それでおしまい」
 殴る理由は十分にあるような気がする。林冲は身をもってあの惨劇を体験した。あれを事前に知っていて何も行動に移さなかったのは腹を立てる理由にはならないのだろうか。
「…私だったら、って考えたの」
「何がだィ?」
 少し歯切れが悪くなった朱貴に杜遷が尋ねる。
「王倫に、一緒に裏切らないかって話を、私がされたら。…杜遷と宋万に相談する? しないわね、あの頃の杜遷なら何かの間違いだって信じてくれないだろうし怒るに決まってるからね。宋万は…やっぱり信じてはくれなくて聞かなかったことにされそう。…寝返るってのもナシ。それは、だって…ありえないのよ、叛徒の頭領が仲間を売ったくらいで官職に就けるなんて甘言、信じられるわけない。王倫も騙されてたのよね。どうせ、上手くいってても王倫はどこかで…こう、」
 細い指で自分の首を切るような仕草を見せた。
 冷静になればそれは分かりきったことだ。仲間を売ったところで山賊の頭領を生かしておくほど軍も役人も甘くはない。道術を何かに利用されることはあってもまともな官職につけるということはないだろう。利用するだけして用が済んだら捨てられる。そんなところだ。
「でも、ここにい続けたら王倫はいずれ自分たちを売る…それを知ってたら…私だったら行方をくらますわ。もうそんな梁山泊に未練もないし。適度じゃないスリルが待っているならとっとと逃げ出す。どこかでまた店でも出すわよ。…逃げる前に一応杜遷と宋万に忠告くらいはしてあげるかもね。…気が向いたら、王倫にも罠じゃないのかって言ってあげるかしら?」
 朱貴らしい、と林冲は思う。飄々としていて抜け目がない。自分が損をしない生き方を知っている。その生き様を浅ましいとも思わずこうやって語ることもまた彼らしい。
「杜遷だったらどう? 王倫様に誘われたらどうしたと思う?」
 話を振られて杜遷は少し考えるような顔をした。これは意外だ。そんなことはさせないと即答するだろうと林冲は思ったのだ。
「あの頃の…ぼかァ…王倫の言うことは全部正しいと思い込んでたからねィ。仲間を殺すっていうのは…賛成しないけど。お前だけに話したとか、ついて来いとか言われたら…のこのこついて行ったかもしれない」
 真剣な口調で杜遷は言った。
「悩めば宋万や朱貴っちゃんに頼るだろうけど…ぼかァ悩みもせずに王倫の言うことは全部信じて、言いなりになったと思う」
 そこまで純粋に誰かを信じるということが、林冲には考えられないことだった。たとえば自分は王進をそれほどまでに疑うことなく真っ直ぐに見てきただろうか。そう考えて、やはり杜遷の王倫に対する忠誠心は並外れていたことを今更知る。
「王倫ったら、さすがというか。なかなか見る目あるのよね。選べない宋万を…一番、弄び易い相手を選んでその話を持ちかけたんだから」
 林冲と杜遷が朱貴を見る。今の発言の意味を問う視線だ。
「だってそうじゃない。私に言えばここから去った。杜遷なら盲従するだけ。面白くないでしょ。どうせ打ち明けるなら、どちらも選ぶことが出来ずに心の中で苦悶する相手がいいに決まってる。…ちょっと二人とも、なんでそんな目で見るのよ」
 杜遷と同じく林冲も朱貴を気持ちの悪い虫でも見るような目で見ていた。そういう嗜虐趣味はないし、理解もしたくない。
「豹子頭くんならどうしたと思う?」
 朱貴の目つきが少し変った。初対面の頃によく見せた、試すような、値踏みするような、品のない見つめ方をする癖があるようだ。
「…私は王倫をよくは知りません」
 頭領が仲間を売ったという事実だけであの時はカッと頭に血が上った。だがそれだけでこの話に参加は出来ないように思う。
「じゃ、よく知ってる人物で考えてみて。晁蓋様がこの梁山泊を官軍に売り渡すつもりだって貴方だけに打ち明けるの。それで、一緒に来ないかと誘われたら、どうする?」
 朱貴は知らずに言ったのだろう。彼の言葉が林冲の遠い過去とリンクする。自分を金に替えた産みの親。親になると約束して裏切った義賊。憎しみに駆られ二度と人を信じまいと誓った幼い自分。
「…倒します」
 王進に出会い、その生き様から色々なことを学んできた。だが。
 裏切るという行為は林冲にとって最大の悪であることに変わりはない。
「そのときは晁蓋殿でも私が処断します」
「…それから?」
 朱貴は尚も試すような問いを重ねる。
「…それから…。呉用殿あたりにここを追い出されるか…他の誰かに敵討ちだと殺されるでしょう。晁蓋殿は人望がある方ですから。…それでも、許せないものは、許せません」
 きっぱりと言うとさらに。
「晁蓋様の企みがあらわになって、誰も貴方を処分しようとしなかったら…貴方が次の頭領ね。それでも?」
 ようやく朱貴の意図が掴めてきた。林冲はここに来てからも義賊を嫌っていると公言してはばからない。それなのにすっかり仲間扱いされて今ではそれなりに発言力のある地位に納まっている。この矛盾を突きたいのだろう。
「今の梁山泊には、もし晁蓋殿がいなくなっても…私より頭領に相応しい人材がいくらでもいるでしょう。自分が頭領の器でないことくらいは分かっているつもりです」
 朱貴の挑発に乗ることなく、淡々と事実を述べる。朱貴は少し残念そうに苦笑いしてから、まとめるように言った。
「豹子頭くんは問答無用で相手を処断する、と…。王倫が相手でも同じでしょうね。仮にここの頭領をやっていても王倫は決して豹子頭くんには言わない」
 朱貴は話題を少し変えてまた話し始めた。
「宋万から話を聞いたときにはなんで相談してくれなかったのかって、少しだけ腹も立ったのよね。でも…あの事件の前に相談されたらどう返したか、考えてみたら…私は信じなかったと思うのよね。いくらなんでも王倫もそんな馬鹿じゃないと思ってたから…それにあんな反則技使ってるなんて知らないじゃない。むしろ宋万を疑うね。王倫にあらぬ疑いをかけて第一頭領の座から引きずり落とそうと考えてるんじゃないかって。王倫の行動を調べるより私は宋万の行動にチェック入れると思うのよね」
「ぼくもそれは考えてみたよ。相談してくれたらって思ったら悔しくて、もし事前に相談されたらどうしたかを…宋万を殴ってる間も、ここで呉用先生に話をしろって言われてたときも、考えてたけど…。やっぱりぼくも信じなかったと思う。…珍しく朱貴っちゃんと同じだねィ。そんなことを言う宋万を殴り飛ばしたかもしれない。王倫様がそんなことするわけがないって、宋万の言うことなんか信じなかったと思うねィ」
 全く性格も思考回路も違う二人が同じ行動を取る。それだけ王倫は彼らから信用されていたのだろう。
「豹子頭くんは?」
 また話を振られる。過去にこの場に存在しなかった自分の意見など聞いて何の役に立つというのか。
「…晁蓋殿がそういうことを企てていると誰かから…呉用殿あたりから聞いたら、という話ですか? …それは呉用殿お得意の信用の置ける人物かどうかを判断するための下手な嘘だと決め付けますね」
 答えを聞いて朱貴も杜遷も苦笑した。
 呉用がそうやってちょくちょく人を試して回るのは有名な話だ。林冲も実際に嘘情報を聞かされたことがある。恐らく梁山泊に住む殆どの人間が一度は何らかの方法で試されているに違いない。
「呉用先生じゃダメね。親しい仲間…戴宗くんあたりならどうかしら?」
「その場で蛇矛の餌食にしてやりますが」
 親しい仲間で出てくる名前が実に不本意な名前だったので即答になった。
「仲良しねぇ」
「どこがですか」
「杜遷が宋万を殴ってやるって言ったのと同じだもの。仲がいいから喧嘩するの」
 大いに反論したいが朱貴が相手では敵わないだろう。楽しげに微笑む朱貴を思い切り睨んでみたが平然と笑顔のままで受け取られる。やはり言い返しても無駄だ。かわりに先ほどから気になっていることを問う。
「…私の意見は必要でしょうか。誰かに置き換えてまで私の考えを聞く理由が分かりません」
 朱貴に呼ばれてついてきたのは、今日の喧嘩が王倫の起こした事件に関係していて、当事者の林冲に聞いて欲しいと頼まれたからだ。
 王倫のしたことは部下だった三人に大きな影響を与えたであろうことは想像に難くない。その経緯を後から入山した現在の頭領たちに軽々しく話したくないというのも理解できた。だから引き受けたのだが、自分もそこにいたとはいえ三人から見ればたまたまそこに居合わせた部外者に過ぎないはずだ。林冲はひたすら聞き役に徹するつもりで来た。こんなに己の意見を尋ねられるのは想定外だった。
「別にたいした意味はないのよね」
 朱貴はきれいに笑顔を作る。彼がそう言うと余計に意味がありそうな気がしてしまうのは自分だけではないはずだ。むしろそれを承知で言っているのだろうと林冲は思う。
「ただ、そうやって考えてもらった方が私たちの考えてること、より分かってもらえるじゃない? あとで上にどう報告するかは豹子頭くんの自由だけど…報告される側からしたら、よく理解した上で報告されたい。これって変かしら?」
「…変ではないですが」
「それに、私と杜遷だけで話してたら、客観的じゃないと思うのよね。同じような状況で第三者も同じように考えて行動するかどうか…それを確かめるのに使ってるのは認めるわ。不愉快だったらゴメンなさい」
「…いえ…理由が知りたかっただけですから。そういうことなら結構です」
 何か引っかかるものが残っていないといえば嘘になる。だがさらさらと紡ぎ出される言葉に特に反発するような部分は見つけられない。
「報告、ということなら。まだ今回の喧嘩についての話は伺っていませんが…」
「そうだったねィ。でも、朱貴っちゃんのときとほとんど同じだぜ。…確か最初に、朱貴っちゃんに話したら『どうしても殴って欲しいなら杜遷のところにでも行きなさい』って言われたって言ってたっけ」
「…やー、そんなこと言ったかしら。…なに? 私がけしかけたみたいじゃない」
「宋万は朱貴っちゃんの所為だとは思わないと思うけどねィ」
「当たり前でしょ、私の所為じゃないもの」
 唇を尖らせて見せる朱貴に林冲も表情を緩めた。ここにいない宋万も含めて三人は本当に仲がいいと思う。バランスがいいというべきだろうか。互いにないものを上手に補い合っているように見える。
「私にけしかけられてから、一週間も経ってるってのが宋万ってカンジよねぇ。熟考タイプにも程があるわよ。私に相談してきた時点で、今までそんなこと悩んでたのって思うほどの長考だったのに…さらに一週間。王倫も見てて面白かったと思うわ。長く苦悩されるほど楽しかったでしょうから」
「ぼくにも出来ない芸当だねィ。思い立ったら即実行だから」
「杜遷は対極なのよね。だから二人でいるとちょうどいいの」
 それは本人達もよく分かっていることらしく杜遷は歳の割に幼く見える顔で誇らしげに笑って見せる。そして話を戻した。
「王倫の企みを知っていて、一緒に裏切るように誘われたって話を聞いて。ビックリしたし、腹も立った。でも、腹が立ったのは知っていたことじゃなくて、相談してくれなかったことだ。相談するに値しなかったぼく自身に腹を立ててたってのもあるよ」
 思い返して、杜遷は苦々しい表情になる。朱貴と違い素直に感情が表に出るので変に頭を使わずに話を聞ける分、楽な相手だ。
「宋万が、自分は裏切り者も同然だから、気が済むまで殴って欲しいって言った。ぼかァ、殴りたいほど宋万には腹が立ってなかったし、今日までずっと一人で悩んでいたのなら、殴る必要なんかないと思ったんだ。確かに宋万は知っていたのに動けなかった。でもその分の罰はもう受けてると思うんだ。誰にも言えずに悩んで…ずっと苦しかったと思う。だから殴らない、って言ったよ。ぼかァ朱貴っちゃんみたいにすらすら上手に説明できないけど…ちゃんと殴らない理由も説明した」
「でも殴ったんでしょ?」
「うん。断ったのに珍しくなかなか引き下がらなくて、宋万がそこまで自分の意見を押し通そうとすることってないんだよねィ。いつもはぼくがワガママ聞いてもらう方だから、たまには宋万のわがままをきいてあげるのもいいかと思って。ぼくの気は済んでるけど。宋万の気が済むのに付き合ってやろうと思ったんだよ」
 だから喧嘩をしたつもりはない、という発言になったのか。林冲は納得していた。見たわけではないが、殴られる側の宋万が自ら杜遷に向かって何度も突進したというのも、これで理解できる。
 当事者以外に話したくない理由もよく分かった。説明すれば宋万が当時の仲間に裏切りとも取れることをしていた事を話さなくてはならない。林冲は杜遷の話を聞くまでに彼らの当時の心境をよく理解させられていた。だからこそ、宋万が動けなかった理由も分かるが、いきなり今日の出来事だけを聞かされれば、宋万は裏切り者だと結論したかもしれない。朱貴が長い前置きをしたのも、自分に意見を求めて考えさせたのも、宋万を庇うためだったのだろう。
 本当に喧嘩をしていがみ合っているのなら、決してできない友人への気遣いが二人から滲み出している。
「分かってくれるかィ、林師範。ぼかァ宋万と喧嘩はしてないんだよ。宋万が苦しそうだから、殴られて気が済むんならそれもアリかと思って協力しただけなんだ」
「…気は済んだのでしょうか」
 理解はできたが、解決したとは思えない。宋万が殴られて納得できたのなら、止めに入られてすぐに冷静になれたはずだ。
「…それは…ぼくらじゃ分からないや」
「私たちが何をしても、何もしなくても同じなのよね」
 二人は互いを一度見てから、林冲に向けてそう言った。
「誰も宋万に腹を立ててなんかいないんだもの。宋万を許せるのは世界中でたった一人…」
 唯一の存在の名前を聞いて。
 林冲は自分が呼ばれた本当の理由を思い知らされた。



 林冲が報告をしに行くと言って部屋を後にした。杜遷は一応拘束中の身なので勝手に出歩かない方がいい、ということで、朱貴も付き合って解放の時を待つ。戴宗が一緒なら店は大丈夫だろう。客は逃げるだろうが、少なくとも空き巣に店内を荒されるようなことはない。
「宋万がアレを王倫から聞かされてたっていうの、本当はちょっと悔しかったのよね」
「? 何が悔しいんだィ?」
「王倫がそういう話を持ちかけるなら私を選ぶと踏んでたんだもの。やー、もうちょっと信用させておけばよかった」
「変なことで悔しがるんだねィ」
「あら、杜遷、悔しくないの? 大好きな王倫様が宋万を選んだのよ」
 意地悪い言い方をすると杜遷は情けない表情になる。
「ぼかァ、ぼくじゃなくてよかったと思ってるよ。あの状況でぼくが裏切って皆を後ろから攻撃してたら…。考えるだけで怖いや。杜遷が裏切らなくて本当によかったよ。怒るどころか感謝したいくらいだねィ」
「王倫も欲張らないで杜遷にしておけばあの場は上手く切り抜けられたかもしれないのにね」
 今だから冗談のように話せる。梁山泊には新しい仲間が次々に入山し、新たな頭領と、新たな組織が出来上がりつつある。朱貴は相変わらず酒店の店主で、梁山泊の入り口を司るという役目を担っている。杜遷と宋万はそれぞれ兵を率いる将校だ。
 王倫の裏切りなど遠い過去のよう。月日の経過で言うなら遠い過去とまでは言えないがそういう感覚なのだ。目まぐるしく変化する梁山泊に身を置いていると、あの事件を思い出すことさえあまりなかった。
 そんな変化の中でずっと一人で悩みを抱え込んでいた宋万。そんな彼だからこそ王倫の玩具として選ばれたのだろうと朱貴は思う。理由は先ほど林冲の前で述べたとおり。玩具は面白くなければ意味がないからだ。そういうところは自分と王倫の感性は似ていたと思う。
「林師範は上手くやってくれてるかな」
「さぁね。…余計なことは言わないとは思うけど」
 宋万の過去の失態を知られる範囲はなるべく狭くしたい。そう思って林冲を選んだのは間違いではなかったという確信がある。それよりも、だ。
 朱貴には林冲に是非口に出して言って欲しい言葉があった。どうやら杜遷にはその意図は伝わらなかったようだ。別に杜遷には分からなくてもいいことだ。彼には縁のない話のような気もする。
「おぅ、邪魔するぞ」
 部屋の入り口から低い声が聞こえた。鮮やかな緋色の着物が揺れる。
「晁蓋様」
 現頭領の登場に驚いて二人は同時に名を呼んでいた。宋万から事情を聞きだそうとしているのは晁蓋だと言っていた。林冲は晁蓋と宋万の両方に二人の意見を伝えたのかもしれない。
「もう篭らなくていいぞって言いに来たんだが…ちょっと待て。…若いモンを苛めて楽しいのか? お前ら」
 煙草の煙をくゆらせて実に大儀そうに言う。
「やー、苛めたなんて人聞きの悪い」
 杜遷は意味が分からない、と表情で雄弁に語っている。朱貴だけが晁蓋から咎めを受ける形になった。
「でも、晁蓋様がそうおっしゃるってことは…」
「はっきり言ったぜ。自分を許せるのは自分だけですってな。宋万も頷いて、訳の分からんうちに一件落着させられちまった。このオレ様を差し置いてやってくれるぜ」
 朱貴は満足げに笑う。林冲に言わせたかった言葉はまさにそれだ。嫌悪すべき義賊に身を置くことを林冲自身が自分に許せずにいる。すっかり梁山泊の一員になった今でも彼の中にその罪悪感が残っているのを見て取り、今日の一件をとりなす事で宋万だけでなく林冲にもそれを伝えられれば上出来だと思った。ほぼ思い描いたとおりに事が運んで朱貴は上機嫌だ。
「楽しそうだな、朱貴」
「やー、そうかな。晁蓋様は不機嫌そう」
「結局、喧嘩じゃなくて杜遷が宋万にたかった虫を払ってやっただけなんて報告受けて、ゴキゲンでいられるほどデカイ器でもねーんだよ」
 林冲はそういう口実でこの騒動を終わらせようとしたようだ。真面目な彼らしく嘘はお世辞にも上手いとは言えない。
「うーん、そうね、苦しいわねぇ。ちゃんと言い訳も考えてあげたらよかった」
「説教しといて、弁護に回らせて、そこを抜かったらダメだろう。オレはともかく呉用はそれじゃ納得しねぇ。林冲と宋万が何か喋くってる間に呉用が納得する言い訳を考えろ」
 どうやら、晁蓋はこちらが話したくないという事情を察して聞かずに済ますつもりらしい。態度も大きいが器も十分大きい。新たな頭領は話の分かる男だ。
「そうねぇ…、杜遷も考えなよ。なんで宋万を殴ったか、呉用先生が納得するような言い訳よ」
「えぇ? そんな難しいこと言うなよ…。うーん…うーん…」
 唸っている杜遷と、黙して頭をフル回転させている朱貴。そんな二人を特に頭を使うことなくぼんやりと眺める晁蓋。
「みんなは一人のためにってか…仲いいよなァ…お前ら三人」
 考え込む二人には晁蓋の呟きは届かなかった。
「…杜遷が宋万に稽古をつけてやってたっていうのはどうかしら?」
「…。虫よりはマシか…?」
 朱貴の発言に晁蓋は首を傾げた。確かにまだ苦しい。
「あ、あ! そうだ! 新技の開発! ぼくらコンビ技あるだろ? でも林師範に破られてるし、だから、新技編み出そうって前に話したことあるんだ。その練習だったってのはどうかな? 王倫の連れてきた刺客にもあんまり効かなかったから、新しいのを研究中ってことにする」
「殴り合ってどうやって技出すんだ?」
「え? ええと…未完成だからみんなに秘密にしたいんだ。殴り合ってたように見えたのは、理由があるけど秘密なんだ」
 杜遷にしては上手いことを言う。新技を開発するのに殴りあう必要はないだろうが、家屋を壊してしまうほど暴れた理由にもなるし、黙秘をしていたのにも説明がつく。
「よし、それでいいか。じゃ、出ていいぞ。ペナルティは壊したものの修繕に積極的に参加することだ」
 晁蓋は自ら杜遷の軟禁解除を宣言し、騒動に対する罰を科した。
「はい! ご迷惑をかけ申し訳ありませんでした!」
 兵隊のように敬礼して杜遷は部屋を出る。
「おい、朱貴」
 あとに続いて出ようとした朱貴を呼び止める。
「? なんでしょ?」
 とぼけて見せるがどうやらこの頭領はずいぶんと頭が回るようだ。思考パターンは既に読まれている。林冲に言いにくいことを態と言わせたこともお見通しだ。王倫よりも楽しませてくれそうな頭領で朱貴は気に入っていた。
「戴宗の奴も姿が見えねーんだが」
「あら? そう? 見てないけれど」
 口元は笑っていたが朱貴の言葉は一切信用しないと言いたげな目つきで睨まれる。
「あれも何か抱えてやがるようだが…」
 戴宗が抱えているのが何なのか朱貴も知らない。ただ漠然と、彼は誰よりも自分を許すことを覚えた方がいいということだけが伝わってくるのだ。晁蓋も同じ事を感じ取っているに違いない。
 早くそのことに気づかなければ戴宗自身を滅ぼしかねない。そんな心配をしたくなるような危険なものを抱えているように見えて仕方がないのだ。根拠はないが確信に近いものが何故かある。
「あんまり苛めるんじゃねェぞ」
「やー、苛めるなんてとんでもない」
 今頃、翠蓮と二人で店にいるはずだ。ままごとみたいになんとか店を守ろうとしてくれているだろうか。それとも晩に来るお客のための材料を平らげてしまっただろうか。なかなか進まない二人の仲が進展しているのならそれはそれで微笑ましくて面白いのだが。
「可愛がってあげるって言ってくださいな」
「…ったく、程ほどにしとけよ。ガキだと思ってるといつの間にか追い越されて…仕返しされても知らねェぞ」
 呆れたように言い捨てて、晁蓋は先に部屋を出た。
 少し遅れて朱貴も外へ出る。
 どうせ他人が何を伝えても、伝えなくても。結局彼を許せるのも彼自身のみ。だとしたら。ヒントをあげるついでに、少しばかり意地悪い方法を選んで楽しむことが悪いこととは思えない。
「さて、店に戻って今日の話をしてあげましょうか」
 独り言を口に出してみると、先ほどの晁蓋の忠告を思い出す。
 戴宗が自分に仕返しできるほどに成長してくれるのなら願ってもない。そんな相手を欲しているのだ。
 若者には頑張ってもらわなくちゃね、と。梁山泊についたときと似たような台詞を残して、今度はそこを後にする。
 来たときとは対照的にのんびりした船の旅。小船に揺られながら戴宗にどういう話し方をしたら効果的かを思案していた。意地の悪い笑顔になっていると船頭に忠告されたが、改めることはなかった。
 朱貴はそんな自分を既に許してしまっているのだから。




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20100319 サイトにて公開