星を数える者

 みしり。嫌な音で振り返る。
 テーブルが一つ割れていた。頭の中の数字が弾け飛ぶ。拳を突き出したまま固まってこちらを見ている劉唐と目が合った。王定六とふざけていたとかそんなことだろう。原因などどうでもいいか。
 数字が全てで、今はその数字も頭から消えてしまった。
 大きく息を吐く。何も言葉になって出てこなかった。
 がしゃん、と派手な音を立てて何かが落ちた。体が宙に浮かぶように軽い。
 ふわふわと歩いて、外へ。
 夜の外気は程よく冷えて気持ちがいい。ふわふわ、まだ体は異様に軽い。どこへ向かって歩いているのか自分でもよく分からない。
 軽いはずの足取りが、不安定で夜の景色がぐらぐら揺れた。くるりと回って。星空が見えた。倒れたのかもしれない。
 満天の星空。
 そうだ、星を数えよう。あのときみたいに。





 十字坡の店には重苦しい空気が残されていた。
「こ、今回の方が怖いっス」
 王定六は割れて斜めになったテーブルに器用に立って蒋敬が消えた出入り口を見ていた。
「今更机一つ壊れたからってなんなのさ」
「そう言ってやるな、お嬢。今の今まであいつは…」
「分かってるわよぅ。だから私だってあの子には滅多に痺れ薬盛ったりしないじゃない。そりゃ毎度苦労をかけてるとは思うけど…あんな大きなため息だけ残されたんじゃこっちも対応に困るわよぅ」
「確かに、普通にキレてくれて方がマシだな」
 孫二娘と張青は澱んだ空気を払いのけるようにいつもの調子で話し始めた。花和尚がここにいれば豪快に笑い飛ばしてくれただろう。頭領がいたら何かしらの指示を出してくれたかもしれない。だが生憎二人は今夜十字坡へ来ていない。
 この数日、蒋敬は雑務に追われ、寝る時間も食べる時間も惜しんで請求書の束と格闘していた。ここにいる誰もがその束の中のいずれかの請求書と直接関わりがある。それだけでなくここにいない戴宗の分まで律儀に届いて彼の仕事は更に増えた。普段なら泣き言や小言をぶつぶつ呟きながら計算するが、忙しすぎて声を出す暇もない、というように黙々とソロバンにかじりついていたのだ。
 一応、周りも気を遣ってはいた。せめてあの伝票の束が片付くまでは大人しくしていようと、誰が言うともなく無言の規則が出来上がっていたのだ。
 以前にも暴れすぎた挙句、蒋敬を怒らせたことがあった。そのときは今日のように静かにではなく怒鳴り散らして怒り狂っていた。普段大人しい人間が怒ると怖い。その場にいた全員を着席させ、小一時間ほど説教をされた。
 彼の言うことがいちいちもっともだったので皆ぐうの音のも出せずに聞いていた。
 一時間が経過する前に、うっかり宋江までも説教していたことに気づいて蒋敬の怒りは逸らされた。その後「蒋敬ばかりに任せきりだった私にも責任はある。これでも現役の役人です。事務仕事なら私が」と頭領が言い出して、蒋敬の手伝いを始めて。その慈愛の精神に基づく伝票処理は、大いに蒋敬を困らせて、丁寧に丁重に断りを受けていた。
 そんな騒動も数日経てば替天のメンバー一同の頭からは消え失せてしまう。いつもどおり、あり余る力で店や備品を破壊しまくり。外へ出てはしなくてもいい揉め事を作って更なる出費を増やす。彼らにとっては木造の物を壊すことなど紙を握りつぶすのと同じような感覚なのだ。
 結果一人だけ人並みの力しか持たない蒋敬が毎日見たくもない請求書と闘う羽目になる。
「…これ」
 劉唐は先ほどまで蒋敬が使っていた椅子を少し動かした。
 いつも己の心臓のように大事そうに抱えていたソロバンが床に落ちている。劉唐が知る限り彼がこれを手放した姿など見たことがない。正確には食事のときや、両手を使う作業の際はもちろん持ってはいないはずだが、劉唐の脳内にはソロバンを大事そうに抱えた蒋敬の姿しか思い浮かばなかった。
「蒋敬がソロバン落とすところなんて初めて見たっス」
 王定六は物珍しそうにのんきな声を出す。
「それしか取り柄ないのにねぇ」
「お嬢は蒋敬に何か恨みでもあるのか?」
「別にィ。ああいうケチな男好みじゃないだけ。顔は可愛いのに」
「…。花和尚に聞いたことがある。替天行道に誘われて同志になる前は剣や棒も人並み以上には使えたらしい」
 張青が意外な情報を持っていた。
「ここじゃ人並み以上って程度じゃ使えないのと同じっス」
 もはや蒋敬に気を遣って大人しくする必要がなくなったと判断したのか王定六は跳ねて足の裏を打ち鳴らした。
 確かにこの替天行道のメンバーは皆、常識外の強さだ。人並み以上がどの程度かは分からないが、彼らの力を見て事務仕事に徹すると決めたというのはありそうな話だった。
「他に取り柄がないわけじゃない。他は切り捨ててそれだけに専念すると決めたんだろう」
 劉唐が拾ったソロバンを見ながら張青は静かに話した。
 手の中の計算器具はあの細い腕で毎日持っているにしてはずっしりと重く頑丈そうで、使い込まれた優しい手触り。
 劉唐はじっとそれを見た。他を諦めて、これを捨てたら、蒋敬には何が残るのだろう。
 そう考えるが早いか足が外へと向いた。
「追いかけるっスか?」
「…忘れ物、届けるだけだ」
「苛めたらダメっスよ!」
「るっせ!」
 既に多忙で飽和状態だった蒋敬にトドメの一発を入れてしまったのは自分だ。先ほど拳で真っ二つに割った机をちらりと見てから劉唐は店を出た。


 一歩目から劉唐は己の浅はかさを思い知る。
 店を出たはいいがどちらへ向かえばいいのか皆目見当がつかない。
 道なりに進んでいればいいがあの覚束ない足取りを思い出すとそれも怪しい。森へ入り込んで崖から落ちたりしていなければいいが。
 最悪の方向へ思考が及んで劉唐は頭を振った。
「劉唐」
 ふいに頭上から声が聞こえた。
「?」
 振り返って見上げると、店の屋根の上、眩しいほどの星空をバックにモコモコしたシルエットが浮かび上がっていた。戴宗と双璧を成す問題児、公孫勝だ。
「なんだ、帰ってやがったのか」
「帰って…? そうか、ここは十字坡だったのか」
 迷子が帰宅したことさえ理解していなかったことに劉唐は呆れる。
「先ほど出て行ったのは?」
「蒋敬だ…ってお前、いくらなんでも忘れんなよ。同志だろーが」
「…。蒋敬…?」
 あのふかふかした頭の中身はどうなっているのだろう。一番人間離れした存在であることは確かだが、その思考回路も常人には理解し難い。
 仲間を忘れるとはどういうことだ。そう劉唐が怒鳴ってやろうとしたとき。
「それはまずい」
 少しだけ緊張感のある声が聞こえた。どうやら忘れていたわけではないらしい。
「マズイって、何が」
「さァ」
「お前なァ…」
「蒋敬ではない誰かに見えた。見えたというか…感じた」
 劉唐は片手に持っていたソロバンを見た。この暗さでは蒋敬が愛用のソロバンを持っていないことなど見えなかったはずだ。道士がわけの分からない術を使うことは知っているが、そういう人智の及ばないような感覚まで持っているとは知らなかった。だが、公孫勝が感じた≠ニ言うのは妙に説得力があった。今の蒋敬は、普通の状態ではない。それは店を出て行ってしまったときから誰もが感じていたことだ。
「お前、蒋敬がどっちへ行ったか分かるのか」
「案内しよう」
 言うと同時に淡い光が公孫勝の顔の前に灯る。拳ほどのシャボン玉がふわふわと降りてきてついて来いというように進んでいった。うっすらと追≠ニいう文字がシャボン玉の中に見える。
「蒋敬でも、そうでなくなっていても連れて帰れ」
「テメー、オレに指図してんじゃねェ!」
「治癒泡で元に戻るといいが」
「オレが、ちゃんと蒋敬を連れて帰ってやる。迷子は大人しくしてろ! …テメー、迷子中ちゃんとメシ食ってんのか、コラ。食うものくらいあるから降りて中の奴らに声でもかけやがれ!」
 大声で言いながら光るシャボン玉について行く。「劉唐は面白いな」という声が聞こえたが無視をした。自分は迷子になるくせに道案内はできる道士の術に幾らか疑問は感じながらも、他に頼るものもないのでゆっくりと動く光の玉に従った。


 道ではない野原を少し歩くとシャボン玉がくるりと輪を描くように飛んで弾けて消えた。あそこか。劉唐が駆け出すと。
「ふぎゃっ」
 何か変な感触のものを踏んだ、と思ったら声が聞こえた。
「わ、悪ィ」
 短い草の中に仰向けに寝ている蒋敬だった。どうやら勢い余って踏んだらしい。どこを踏んだのか分からないがあまり痛がっている様子はない。黙って上を見ている。月のない夜だが星明りで照らされて顔はよく見えた。幾筋もの涙の跡が光っている。見てはいけないものを見てしまった。そんな気がして劉唐は顔を覗き込むのを止めた。
「何…してんだ?」
 蒋敬の細い指が真上を指した。
「星を」
 その指が空を区切るように大きく十字に動く。
「星を数えて…」
 少し向きを変えてまた十字に動く。
 星、と小さく呟いて劉唐も空を見た。今にも零れ落ちてきそうな無数の輝き。それが蒋敬と繋がらない。星を見上げるといえばまず思い浮かぶのは占い師。その次は詩を嗜むような風流人だ。仲間で言うならあの訳の分からぬ道士あたりが星を見上げる姿が似合うだろう。それを現実主義者の見本のような人物が見上げているのに違和感を覚える。
「数えようとしているのに、数えられなくて…」
 声が泣きはじめた。
 泣いている蒋敬を見るのは珍しいことではない。破天荒すぎる仲間の行動についていけないらしく、よく涙目になりながら悲鳴を上げたり、小言を言ったり、逃げ回ったりしている。だが今の涙が今まで見たそれとは違うものだということは劉唐にも分かった。
「僕から数字がなくなったら…もう…」
 こちらを見ずに上を向いたまま涙を溢れさせた。
 確かに蒋敬ではない何かになっている。無理のしすぎだ。体力は人並みだろうに、十字坡の誰より寝ていない、食べていない。気になってはいたが黙々と伝票に向かっている蒋敬に休めと言う度胸がなかったのだ。情けない。
 劉唐は手にした彼のソロバンを思い出した。渡した方がいいのだろうか。逆効果ということもあるのか。これが重荷になって、蒋敬は壊れたのではないか。
 迷ったが、他に出来ることが思い浮かばない。凹んでいるのが自分なら武器を持っていた方が少しは落ち着くような気もする。
「忘れ物だ」
 わざと大きな音を鳴らしてソロバンを差し出すと、蒋敬は驚いたような顔をした。それから嬉しそうに笑って両手を伸ばしてきた。
「ああ、これを、忘れてきたのか」
 先程までの力ない言葉と違って、妙にはっきりした声が聞こえる。もう泣いてはいないようだ。
「すいません…じゃなくて、ありがとう、かな。ありがとう、劉と…え?」
 渡そうとしたソロバンを掴み直して、劉唐は強く引いた。じゃらり、と珠が鳴って蒋敬の手が離れる。
「あ、あれ?」
「やめた」
「ど、どうして? 僕のだよね!? 届けてくれたんじゃ…!?」
 蒋敬は起き上がってソロバンに手を伸ばす。触らせないように腕を頭の上に持ち上げる。身長差は大きい。これで蒋敬が立ち上がっても手は届かない。
「これ持たせたら、テメーまた戻って計算始めるだろうが」
「はぁ…。そりゃ、やらなきゃならなないことが山積みだし。期限迫ってるのもあるし」
 ソロバンを手放すとまた壊れた状態に戻るかと少し心配したが杞憂だった。元通りの蒋敬だ。何もソロバンが蒋敬の本体や能力そのものというわけではない。
 飽和した疲労が数字を、計算を、ソロバンを一時忘れさせた。本人はそれに気づかずメソメソしていた。そういうことだろう。
「だから、渡さねェ。テメーは仕事しすぎなんだよ。ちょっと休みやがれ」
 起き上がった蒋敬の額を少し押してやった。ぱたりと元の通り草の中に寝転ぶ。
 それから、蒋敬は何かを諦めるように長く息を吐いた。表情はいつになく穏やかだ。大人しくここで少し休憩することに納得したように見える。
 公孫勝には蒋敬を連れて帰ると言ってきた。もう先程までの危うさは感じないが、ここに残して一人で帰る訳にも行かない。劉唐も蒋敬の隣に腰をおろす。
 ふと、何か思い出したように蒋敬は劉唐を見上げた。
「…もし、机を割ったこと気にしてるなら、別にそれで怒ったわけじゃないよ?」
「うっせ! それもあるけど、それだけじゃねーんだよ」
「それもあるんだ」
 蒋敬が少し笑った。
「あれは…まぁきっかけではあったけれど。劉唐くんの言うとおり、ちょっと頑張りすぎてたのかな。それがあのときたまたま弾けちゃっただけで…気にしなくていいよ、ちゃんと劉唐くんの請求書に加えとくから」
 冗談のように言って笑う。蒋敬の場合、これはただの冗談ではない。後日、個別に配られる請求書にはキチンとあの机の修復代も入っているに違いない。本人に悪気はないが、そういう奴なのだ。
「そーゆーわけにゃいかねーんだ。オレはお前に一発殴られる覚悟で来たんだからよ」
「殴っても請求書には入れるよ?」
「ゴチャゴチャうるせーんだよ! それでもだ。いいから殴っとけ」
 最初こそ、蒋敬を飛び出させる原因を作ってしまったことを悔やんだ。だが、きっかけを与えたのはむしろ良かったのではないかと、劉唐は思い始めていた。蒋敬が殴りたくないのならそれでもいいか、とも思う。
「仕方ないな…」
 劉唐の考えとは裏腹に蒋敬は割りと乗り気で起き上がっていた。腕をぐるぐる回し始める。
「…もしかして、机のこと本当はかなり怒ってるんじゃ…?」
「そんなことないですよ?」
 普段仲間には使わない敬語が出て劉唐を怯えさせる。
 覚悟して喰らった拳は、劉唐を吹き飛ばすということはなかったが、うずくまらせる程度の威力は持っていた。
 替天行道に加わる前は剣も棒も人並み以上に使ったそうだ。という話をうずくまったまま思い出していた。


 男同士の正しいコミュニケーションを取った後、蒋敬は一度だけ殴ったことを詫びてまた寝転んだ。
「せっかくだから…少し休ませてもらおうかな。間に合わない分は…いいや、明日考えよう。僕の自己管理がなってなかった所為だから仕方ない」
「おう、そうしろ」
 劉唐はポケットを探って常備している飴玉を取り出した。
 蒋敬の上にかざして落とすと礼を言われた。本当は店に戻って腹いっぱい食べさせたいがあそこへ帰ると蒋敬は仕事を始めてしまう。折角休憩する気になったのだ。なるべく遠ざけておきたい。
 そしてまた隣に腰をおろす。蒋敬はもう大丈夫だから先に戻っていいと言ったがこちらの都合でそれは出来ない。王定六とどちらが先に見つけて帰るか競争をしているから見張っておくのだと嘘を吐いたが、蒋敬はくすくす笑うだけだった。
 取り上げたソロバンは蒋敬の目に入らないように自分の体で見えない位置に置いてある。
 これが落ちているのを見たとき。もう蒋敬は戻らないのではないかと不安になった。いつも不平不満がいっぱいで泣き言ばかり言っている経理担当。いつ自分達に愛想を尽かして出ていっても不思議ではないようにも見える。
 正直なところ、自分は蒋敬のことをあまりよく分かっていないのだと思う。拳で語り合える他の仲間のことは、暴れたり騒いだりしているうちになんとなくお互いに理解できる部分がある。だが蒋敬と殴りあったり一緒に破壊活動に勤しんだりする機会はない。そうなると言葉を重ねて理解していくしかないのだが、どうも穏やかに話すのは苦手分野だ。
 ついさっき一度殴られただけで何か分かったような気になったが、それは気になったというだけだ。
「やっぱり返してくれないかな。どうも手持ち無沙汰で」
 蒋敬は両手を組んだり離したり、空中にソロバンでも浮いているかのように珠を弾く真似をしたりしている。いつも肌身離さずいるのだから、落ち着かないのだろう。
 劉唐は少し考えてから。
「ダメだ」
 あっさりと却下した。
「えぇー」
「るっせ。お前、オレが大怪我して動けないときにヌンチャク寄越せって言ったら渡すか?」
「あぁ…あー…。なるほど…?」
「頭イイんだろ。しっかりしやがれ」
「頭は普通。計算がちょっと出来るだけだよ」
 ちょっとではないだろう。そして蒋敬のように計算が出来て頭が良い訳ではないというのは劉唐には理解し難い。
「本当は、それがなくてもあのくらいの計算はできるけどね」
「マジでか」
「マジで。ためしに、そうだな…五桁の数字を二つ」
「オレが言うのか?」
「うん」
「五桁って…一、十、百…」
「万で始まる数字」
「パッと出ねーよ、あー…と。五桁なら一二三四五と六七八九…あァ? 四つしかないか?」
「いいよ、それで。一万二千三百四十五と六千七百八十九。二つを足すと一万九千百三十四。引くと五千五百五十六。かけると…」
 足し算と引き算は流れるように言ったがここは呼吸一つ分ほど間が空く。
「八千三百八十一万二百五。割ると…」
「おい、蒋敬。テメーは今休憩中だろうが。頭使うんじゃねェぞ、コラ」
 止めなければいつまででも二つの数であらゆる計算をし尽くしそうな勢いだった。そもそも、その計算結果が合っているのかそうでもないのか劉唐に分かるわけがない。いや、蒋敬に限って数字に関して間違いなどあるはずはないのだ。神算子の名前は伊達ではない。
「なんでそんなの暗算で出来てんだよ。コエーよ、お前」
「足すのと引くのはなんとなく出来るんだよ。掛け算からは頭の中にそれと同じものを頭の中に置いて、そこで計算すればいい。本当のソロバンより早いよ、頭の中だからね」
 脳内ソロバン。そんなものが内蔵されているらしい蒋敬は楽しそうに話した。
「てか、それなら、これはいらねーじゃねぇか」
「要るんだよ。僕が数字に強いと言っても記憶違いが全くないとは言い切れないからね。頭の中のソロバンは早いけど、時々置いてあった数字を忘れたり間違えたり…するかもしれない。人間だからね。だからそこに数字を置いていくんだ」
 空中のソロバンを弾く仕草をして「数字は正確じゃなければ意味がないから」と付け加えた。
「…と、こんな話は興味ないか」
「いいから、好きなこと喋ればいいだろ。今日は愚痴でも何でも付き合ってやる」
 正直なところ、蒋敬が何を話しているのかさえ、劉唐には理解不能だった。だが星の下で聞く声がいつになく弾んでいたのは確かで、数字や計算が本当に好きなのだということだけはよく分かった。たまには言葉で話し合うのも悪くないと少しだけ思う。
「さっき言ってた星を数えるってのもお前なら出来るんだろうな」
 星空を見上げてなんとなく言うと蒋敬は「え」と驚いたような声を漏らす。
「な、んで、それ…?」
「アァ? オレがここに来た時、こんなことして言っただろ」
 劉唐が空に向かって大きく十字に線を引く真似をすると蒋敬は悲鳴のような声を上げて顔を覆った。
 それを見聞きしたとき自分が不釣合いだと感じたことを思い出す。確かにそう感じたが、似合わぬロマンチックな趣味だと恥じるほどのことでもない。
「なんだよ? どーした?」
「本当に僕がそれを…?」
「言ってた」
「うわあああ…最悪だ」
 頭を押さえたままゴロゴロ転がり始めた。
 どうやら壊れていた間の記憶が曖昧らしい。ということは自分がぼろぼろと泣いていたことも知らないかもしれない。劉唐は見てしまった涙を忘れることにした。
「あー…恥ずかしい。それは、その、えーと…」
 口の中でもにょもにょ言いにくそうにしている。
「数えられるんだろ?」
「星を? 流石にそれは無理。案外早く動くものだから数える前に沈んじゃったり、どこまで数えたか分からなくなったりするよ」
 そんなこともあるのか、と思う。それから満天の星を見上げて無理もないと納得する。無数の星とはよく言ったものだ。この蒋敬が数え切れないくらいだから、本当に莫大過ぎて数などあってないようなものなのだろう。
「それで、その、空に線を引くのは、ね」
 話したくないのなら無理に話さなくてもよいのだが、蒋敬は言い訳したそうなので聞いておく。今夜はひたすら甘やかしてもいいだろう、と思う。
「僕が勝手に星を数えた気分になる、ズルなんだ」
「ズル?」
「全部数えるのが無理だから空を八等分くらいに分けて、数えやすそうなところをざっと数えて、八倍すればなんとなく全部の数を出せた気分になるでしょ? …いや、なるんだよ」
 劉唐が理解していない様子を察したのか語尾を言い直してため息をついた。解さない話し相手にがっかりしたのかと思ったが。
「そんなことまでして数えようとしてたのか…」
 独り言のように付け加えた。どうやらため息は蒋敬自身に対してのものらしい。
「さっき、劉唐くんがソロバン届けてくれるまで、数が上手く数えられなくて、五十数える間に三十が何度も出てきたり、二十から先に進めなくてぐるぐるしたり…してた覚えはあるんだけど」
 そういえば十字を書きながら数えられないと嘆いていた。あのときの蒋敬はどこかが壊れていたのだ。五桁の計算を暗算でやってのける人間が五十の数を数えられなくなれば嘆きもするだろう。
「だからってズルして数えても意味ないのに」
「…星を数えるって何か意味でもあるのか?」
 劉唐が尋ねると蒋敬はしばらく黙った。何か考えているのか、答えたくないのか。判断しかねていると言い難そうに小さな声が聞こえた。
「自分がここにいていいのかって不安になったり…僕って必要かなって思うとき…数えるんだ」
 意外な答えに劉唐は思わず座りなおした。蒋敬の顔を見ようとしたが少しだけ向こうに顔を傾けていてよく見えなかった。
「最初に数えようとしたのはね。替天行道に加わるかどうか決めるとき。僕みたいな計算だけが取り柄の男が世直しなんて大それたこと考えていいのか、この国を照らす星だなんて言われてあっさり思い上がっていいのか、なんて考えたら…夜、眠れなくなって…それで、たまたま星を見たんだ」
 蒋敬が真上を向いて星を見た。劉唐が心配するような儚げな表情にはなっていない。ただ昔を懐かしむようにただ星空を見上げている。
「眠れないから暇つぶしに星でも数えようって…。それで数えていたら、だんだん空が明るくなって、星は見えなくなって。そのとき、夜空を照らす星は夜明けが来たらあっさり見えなくなるようなものなんだって。なんだか、納得できたんだよ」
 蒋敬は首を動かして劉唐を見た。表情は穏やかで微笑んでいるようにも見える。
「この国は今真夜中だから星は幾らあっても邪魔にはならない。数え切れないほどあってもいい。でも、世直しが実現して、安心して暮らせる新しい国が出来たら…夜明けが来たら星は消えていいんだ。所詮、そんなものなんだって」
「そうなりゃ替天行道は用済みだからな」
「僕だって世直しに参加してもいいんだって、何か吹っ切れたのが星を数えたお陰だったから。…だから、自分がここにいてもいいって確認する意味で時々数えるんだよ、数え切れない星を。初心に帰るって感じかな」
 こういう笑顔を自嘲というのだろう、と劉唐は思う。ここにいてもいいか、なんてことを真剣に何度も考える機会があったというのも信じ難い。生涯一度も考えたことのない論題だった。
 蒋敬の視線は自分を飛び越えて、劉唐が隠しているソロバンを見ているようだった。
「僕には計算しかなくて…他に取り柄もないし…だからそのソロバンは僕の…象徴っていうのかな。トレードマーク? ちょっと違うな…なんていうのか、僕が替天行道に加われたのはこの計算が人より出来るってことだったから。だから…僕の存在意義って言うのかな。それがそのソロバンに詰まってるような」
 他に取り柄がないのではなく、自分で切り捨てたことを知っている。それはそれで潔いと思う。自分に同じことが出来るだろうかと考えて劉唐は相槌を忘れた。
「…なんだか、女々しいよね。そんなものに存在意義を預けてるなんて。分からなくなると星を数えて自分で自分を慰めてるなんて」
「ちょ、待て、おい。待て、違うぞ。…その…あー…っと」
 替天行道の共通の意識として、蒋敬には感謝しているのだ。頭領と花和尚と蒋敬の三人の代わりは誰にも勤まらない。
 好き勝手暴れていられるのは、調達した資金を管理して、運用して、物資を上手く調達して、ときどき煩いくらい小言を言ってたしなめてくれる蒋敬がいるからだ、と程度の差はあれ誰もが思っている。彼がいなければ志とは無縁のところで浪費がかさみ、食べるものにも困窮するただの賊徒となりかねない。
 だからこそある種の敬意さえ持っているのだがどうやらそれは本人に伝わっていないらしい。
「…ぅあ〜! ったく、こういうのはオレの言うことじゃねェんだよ、クソっ!」
 自慢の髪を乱暴に掻き毟って叫ぶと蒋敬は不思議そうな顔をしていた。素直に感謝しているなどと口に出せる劉唐ではない。
 だが伝えるべきことであるとは思う。
「…いいか、蒋敬。オレも王定六も戴宗も頭がいいとは言い切れねーが。自分が誰のお陰で食いっぱぐれないでいられるか、くらい考えることもあんだよ」
「…ハァ」
「ハァ、じゃねーぞ。コイツは確かにお前の象徴だ。オレはこれが床に落ちてるの見て、お前がもう戻らねーつもりなのかと思っちまった」
 ソロバンを持ち上げてじゃらりと鳴らす。蒋敬の手にあるとき、これはこんなに喧しい音は出さない。
「お前がいなきゃ、困るんだよ。…組織としてだぞ!? 替天行道がやっていくにはお前がちゃんと金の管理しなきゃって意味で」
 慣れないことを言った所為で結局ぐちゃぐちゃになった。体中がむず痒い。
 蒋敬は笑っていた。
「ありがとう。劉唐くんて、人が好いよね」
 否定しようとして喚くと更なる言葉が重ねられた。
「僕が替天からいなくなると思って、心配して追いかけてきてくれたんだね」
 喚くことさえ出来ないほどの図星を刺され、劉唐はふて腐れてしばらく黙った。口のへの字にしながらその場に寝転んで星を見上げる。
「…ありがとう」
 もう一度言われたが返事をしなかった。
 少しすると隣からかすかな寝息が聞こえはじめた。
 寝不足と過労で壊れたのだから眠れるのなら寝たほうがいい。だが初夏とはいえ外で眠るには少し寒くないだろうか。背負って帰ろうか、とも考えたがようやく眠れたのだ。自然に起きるまでそっとしておきたい。
 そっと寝顔を見る。暗いので顔色までは分からないが星明りでもくっきりとクマが分かった。これからはこんなに疲れ果てる前に止めてやらなくては。
 無防備に草原で眠る同志を守るつもりで、劉唐は野原に腰をおろし星でも見ていることにした。
 生憎、満天の星を見ても存在意義だの替天行道にいる理由だのという小難しいことは少しも考えられない。やりたいようにやって何が悪い。そういう結論にしか至らなかった。
「…」
 テメーら、無駄にキラキラしてんじゃねーぞ、コラ。今度コイツが数えに来たら、自分が居たいから居るでいいんだって、教えてやれ。
 煌く無数の星たちに心の中で言っておいた。
 星だってたぶん輝きたくてあそこで勝手にキラキラしているのだ。それでいい、と劉唐は思った。





 翌朝。
 劉唐は迎えに来た張青に背負われていた。大きな背中は妙に落ち着いて心地よく、そう感じる自分が嫌だと思い直す。
「医者を呼んだ。もうすぐ来るだろう」
 喉が痛い。頭が痛い。体も痛い、そして熱い、だるい。
 眠っている蒋敬が風邪などひかないようにと、唯一の上着を脱いでかけてやった。劉唐は起きているつもりだったので、上半身は裸でもなんとかなると考えたのだ。それが甘かった。
 気づけば自分もいつの間にか眠っていて、立派な風邪ひきの出来上がり。
「あいつがいれば医者を呼ばなくてもよかったんだが…」
 張青は静かに話した。熱で朦朧とする頭でも誰のことかすぐにピンときた。
「例のごとく屋根の上でな、慌てて走ってきた蒋敬を見たら『おかえり、蒋敬』と言ってふらっといなくなっちまったんだと」
 蒋敬が元に戻ったことを見届けてから消えたのだろう。ちゃんと降りてメシは食ったんだろうな、と確認したい気もしたが声を出すのも面倒なほど具合が悪い。
 店が近づいてきた。走ってくる足音が聞こえる。王定六だ。
「ホントに馬鹿のくせに風邪ひいてるっス! 劉唐、間抜け〜」
 反論する元気がない。それが分かると王定六は黙ってついてきた。少し心配そうな表情が視界の端に入る。馬鹿にされるより不本意だ。
 もう一つ店から駆けて来る足音。
「お医者様、来てくださってますよ!」
 仲間以外がいると蒋敬は敬語になる。王定六とは反対側の隣に並び、劉唐にだけ聞こえるように小声で言った。
「この治療費と薬代だけは経費で落とすよ」
 星を数えるようなロマンチストとは思えない、実に蒋敬らしい気遣いの言葉を頂戴する。彼にとってはものすごい譲歩だ。
 風邪をひいた甲斐もあったと思えばいいのだろうか。
 やけに清々しい顔をした蒋敬。その顔を見ると劉唐はそれでいいかと納得していた。




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20091207 公開