百回裏切られたなら

 目の前で仲間の体が人の形でなくなった。何人も、何人も。
 それでも信じられなかった。
 百の裏切りに匹敵する惨劇。
 この梁山泊が内側から壊されることなど考えたこともなかったのだ。
 考えたこともない。そうか。だから自分を第二席に置いたのか。
 さぞ扱いやすかったことだろう。





 豹子頭との戦いに清々しく負けた。悔しいと叫んだがどちらかというと自分は喜んでいたのだと思う。
 致命傷を受けるべき場面で相手は武器を壊した。そしてそれを槍の手解きをしたと言い張り、挙句本人が倒れた。
 実戦ならば甘さは死に繋がる。だがこれは入山試験だ。
 その甘さを杜遷は気に入っていた。自分と宋万の技を凌ぎ、さらに反撃することのできる若者にその甘さが残っている。それは人として好ましいものだ。
 後で聞いた話によると戴宗の相手をした朱貴の方も似たようなことになったらしい。
 その甘さが彼らを殺さなければいい。朱貴は心配そうに細い目を更に細めてそんなことを言っていた。柔らかな物腰の中に厳しいものを持っていて、それでも最終的に優しさが残る。真顔の朱貴が珍しかったのでじっと見ているとくすぐられて笑わされているうちにいつものおどけた朱貴に戻っていた。
 王倫に試合の結果を報告すると、杜遷は試合で破壊された雷電金剛杵を直すために試合場まで下りて来た。部下が何人かで移動させようと奮闘している。
「見事にやってくれたねィ」
 杜遷が落とされた錘を拾うとそれだけで周囲から感心したような声が漏れ聞こえた。自分がこの梁山泊の第二席にいられるのは王倫がこの怪力を認めてくれたからだろうと思っている。宋万との連携技、阿吽の虚空は今日のような個人戦にも使えるが、むしろ官軍を相手にしたときにより大きな成果を見せるはずだ。
 早く官軍を相手にしたい。王倫が時は近いと山の上から梁山泊中に話しかけるたび杜遷の体は騒ぎ立った。
 今日の入山者は官軍との戦いの時を更に縮めるに違いなかった。
 それを考えるだけでも嬉しくなり、武器を壊されたことなど問題ではないと思える。
「丈夫な綱があったらそれで繋ごう。ぼかァ振り回せさえすりゃ後はなんとでもできる」
 笑って言うと仲間達も笑った。船を繋ぐための太い縄を使うといいと言う者。それを取りに行った者。振り回しても解けないように結び方を考えてくれる者。皆、家族のようで温かだった。
 梁山泊が好きだ。改めてそう思う。
 この国全部が新しくなって、梁山泊のようになる。王倫の理想が実現すればそうなるのだ。国中が豊かで家族のように優しくなれる。夢のようだが実際にこの島の中で実現しているのだ。これを広げていけばいい。
 一応の修復を終えて杜遷が錘を振り回す。帯電すると縄は熱で燃え始め結び目が焼け落ちてしまった。
 金属の鎖がいいという案が出る。どこかに適当な鎖がないかと探して回った。
 協力して武器を直しながら杜遷はここでの第二席を与えられていることを誇らしく思った。





 武器の修繕を終えると日が暮れかかっていた。部屋に帰る途中、療養所の近くを通った。あの怪我だ。二人に会えるとは思っていない。それでも仄かな期待と共に遠回りをしていた。顔を見るだけでもいい。なぜそんな気分になるのだろうと少し考え、自分は思った以上に二人を気に入っているのだと気づく。
「あ、君は」
 朱貴が相手をした少年が不確かな足取りで療養所の外を歩いていた。幾重にも巻いた包帯で顔ははっきり見えないが、不遜な感じの目つきは健在だ。
「起きて大丈夫か」
「ギガ豚まん食ったら治った」
 強がった言い方に杜遷は笑った。
「朱貴っちゃんのあれを食ったのかィ。あれさえ食えば大概の怪我は治ると思うぞ、ぼかァ」
 笑うと相手も口元だけにやりと笑った。
 強がっているが立っているのがやっとという様子だ。体は華奢でこんな子供が朱貴に勝ったというのが未だに信じ難い。梁山湖のほとりで食堂などやっているが朱貴の実力はよく知っている。第四席に甘んじているがあのナイフ投げの技に勝てるとは思えなかった。負けるとも思ってはいないが。
「アレは裏メニューだからぼくらでもなかなか食えないんだぞ。頼んでも朱貴っちゃんの気分で断られる」
 仲間とこんなどうでもいいような話をするのが好きだ。戴宗のほうは会話が面倒だと目で訴えているようだがまだ解放してやる気にならない。
「気分、ね。らしいっつーか」
「だろ? 朱貴っちゃんじゃなきゃ、ぼかァ怒って店を壊すところさ」
 朱貴のモットーは本人曰く楽して楽しく≠セ。食堂で入山希望者の選抜などをやっているのも、梁山泊で暮らすのは窮屈だとか、叛徒の片棒担ぐのもいいが料理人も続けたいとか、そんな理由だった。自分らしくというのを大切にする朱貴らしい理由だと思う。
「…おたく、もしかして」
 戴宗の良くない目つきが更に悪化してどこか意地悪な印象に変わっていた。
「楽して楽しく≠ネんて本気にしてんじゃねーだろうな」
 ちょうどそのことを考えていたので心を読まれたような嫌な気分になる。
「は? だって、それは朱貴っちゃんが…」
 短く息を吐いて、蔑むような視線を向けられる。
 そのモットーはいつも朱貴が言っているのだ。そしてそれを行動でも表している。本気にしない理由など、どこにもない。
「笑えねーな。楽してるヤツがあんな大技出せるわけねーだろ。おたく、どっか足りねーの?」
 何を言われているか、理解するまで時間がかかった。
 いつも軽い調子で笑っていて。普段は気さくな料理屋の店主で。いざというときは驚くようなナイフ捌きを見せる。そのナイフの腕に感心すると、客が来ないから暇つぶしに投げていた、なんて答えた気がする。そして、自分はそれを鵜呑みにしたのだ。
 少し考えれば暇つぶしでできるレベルではないとすぐに気づいただろう。それをしなかった。人知れず努力している姿など朱貴の普段の様子からは微塵も感じなかったからだ。
「…」
 怒りに似た感情が体を駆け巡っている。だが目の前の少年にそれは向けられていない。
 腹が立つのは己に対して。ほんのひと時朱貴と対峙しただけの子供に分かることを、何年も仲間だと言いながら何も理解していなかった自分が無性に腹立たしい。
「ありがとう!」
 大声で言うと驚いたように少し退く。急な動きが辛かったのか顔が苦痛に歪んでいた。大事なことを教えてもらった。だからここは感謝の言葉だと思ったのだ。
「でもチビッコはもう寝たほうがいい。寝ないと治らないし大きくならないぞ」
「チビッコってゆーな! 余計なお世話だ! おい、放せ!」
 軽々と持ち上げて部屋の中に連れて行く。林冲はぐっすりと眠っていた。隣のベッドに戴宗を下ろす。一緒に入山した女の子がその横で椅子に座ったまま眠っていた。色々あったから疲れていたのだろう。戴宗もそれに気を遣ったのか部屋に入ってからは喚かなかった。
 戴宗は不機嫌なオーラを分かりやすくこちらに発していたが気にせずに手を振って部屋を出た。
 彼らをますます気に入っていた。
 だが療養所を出るとそれも忘れた。戴宗をベッドに戻したのは半ば八つ当たりだったのかも知れない。
 杜遷は再び体中を駆け巡りはじめた憤怒をどうしようかと考える。一番に思い浮かんだのは相棒の宋万の顔だった。





 第二頭領の杜遷も第三頭領の宋万も個人の部屋を持っている。兵達はもっと簡素な兵舎に住んでいる。
 宋万の部屋を訪ねると、ただならぬ様子にでも見えたのか黙って迎えてくれた。
 梁山泊は一つの街のようになっていて酒も肉も手に入る。ここを訪れるときは酒くらい持参するのが常だが今日はそんなことに気が回らなかった。
 宋万は椅子を勧めて酒の入った瓶と二つの杯を置いた。
「ぼかァ自分の単純さが悔しいんだ」
 戴宗とのやりとりは説明せずにそう言った。宋万は「ん」と相槌のように声を出しただけだ。
 杯に酒が満たされて、それを一気に飲み干す。酒豪というわけではない。ただ今日はどんなに飲んでも酔いそうにない。
「朱貴っちゃんの強さはどこからか降って湧いたとでも思っていたんだ。楽しそうにいつも笑ってて、それでも強いのが朱貴っちゃんなんだと…」
 説明もせずに自分の言いたいことだけを勝手に喚いていた。宋万は時折杯に酒を注ぐ以外は黙って飲んで聞いているか、唸るような返事をするだけ。時々こんなことがあるので慣れているのかも知れない。これでは男のヒステリーだと頭のどこかで冷静な自分が嘲笑っている気がする。
「ぼくだけ気づかずにいて…宋万は知っていたんだろう?」
「…んん…」
 少し考えるようにしてから初めて宋万は話し始めた。
「オレは…気づかないようにしていたように思う」
 短い返事は理解し難いものだった。察したのか宋万は補足するように更に話す。
「朱貴はオレやお前と違って察しがいい。オレがそう思っていたら、朱貴もそれに気づくだろう。…オレが気づかないフリをしているのも伝わっていたかもしれないが」
「今日会ったばかりのチビッコに分かるようなこと、バレたからどうだっていうんだィ」
「朱貴はオレ達にそれを知られたくないのだと思う」
 内に向かっていた怒りが外へ、朱貴への怒りに変わる。なぜ、そんな水臭いことを考えるのか。自分にとって梁山泊は家族だ。隠し事が一切いけないとまでは言わない。だが頭領同士なのだ。素顔の一部くらい見せてくれてもいいだろう。
 自分が単純で下らない男だからか。だからいつも茶化して、はぐらかして。楽しく陽気な朱貴という一面しか教えてもらえないのか。
「ぼかァ考えが足りないから、おだてて第二頭領なんかにまつり上げられて、喜んで。あいつは馬鹿で扱いやすいと、そうやって笑っているのかィ」
 勢い余って出すべきでない言葉が口から出ていた。
 宋万は厳つい顔を更に険しくして首を横に振った。
 余程のことでない限り、宋万は否定の返事をしない。大きく間違えたこと以外は頷いてくれるのが宋万なのだ。
「…朱貴だけでなく、オレもお前にそんなことに気づかずにいて欲しいと思った」
「なぜだ! なんでぼくばかり仲間はずれに」
 宋万がまた首を振る。何を否定されたのかさえ、頭に血が上って分からなかった。
「んん…。上手く言えん。朱貴とお前はそういう形がいいのかと…。朱貴ならこんなことも上手く喋るのだろうが」
 立ち上がっていた。
 結局、本人と話すのが一番早い。宋万は険しい顔のままゆっくりと頷いた。行け。そういう意味だろう。
 部屋を飛び出して金沙灘へ走った。




 本来、梁山泊から勝手に出ることは許されていない。
 だが第二頭領となれば話は別で船着場へ行き、朱貴に用があると伝えると難なく船は出た。
 行ったり来たりを繰り返す複雑な水上の迷路が今日は短い。そういえば普段は酔ってしまうのだと船を降りてから思い出した。
 朱貴の店はまだ明るかった。こんな田舎でも繁盛している。
「しゅ…」
「いらっしゃいましー。あら、お客さん、どうしました?」
 どうしたも、こうしたもない。朱貴がいきなり目にもとまらぬ速さでナイフを投げ、頭を掠めた。掠めたというより、皮一枚斬ってくれたようだ。痛みはないが視界が赤い。
「や、大変。ささ、奥の部屋で手当てしましょう」
 他の客の前を通り過ぎる。手をつかまれて店の奥の朱貴の部屋まで小走りさせられた。
「他のお客が帰るまでここで大人しくしてるのよ」
 店のものより粗末な椅子とテーブル。顔の血を拭われて、押さえていろと言うように布の上に自分の手を持っていかれる。
「朱貴っちゃん、ぼかァ」
「しー。困るのよね。梁山泊の第二頭領が堂々とこの店に現れたんじゃ私が関係者だって言ってるようなものじゃない」
 頭が痛いような仕草でため息。
 確かに軽率ではあった。いや、軽率すぎる。梁山泊は叛徒の集まりなのだ。その第二席が呼ばれてもいないのにこんなところにのこのこ現れてはいけない。店主を気安く名前で呼んだりするのはもっての外だ。ここに役人でもいれば朱貴の店に目をつけられるところなのだ。
「反省するなら大人しくしてて、ね?」
 子供に話しかけるような声。こっくりと頷く。
 水でも浴びたように正気に戻った。それを見て取ったのか朱貴はホッとしたように笑って店に戻っていった。どうやら忙しい時間に来てしまったらしい。
 部屋でのんびりと待った。美味そうな匂い、笑い声。派手さはないがいい店だ。梁山泊にさえ加わらなければもっと大きな街で商売ができるだろう。如才ない朱貴なら上手くやりそうだ。
 腹が減ってきた。
 杜遷はぼんやりと、一体自分は何をしにここへ来たのだろう、などと考えていた。
「血、止まったみたいだね」
 ぼんやりし続けているといつの間にか朱貴がいた。布から手を放すと血は止まっていた。派手に血が出るだけの浅い傷だったようだ。傷も髪の中だから誰にも分からないだろう。やはりナイフの腕は見事というしかない。
 まだ店からは人の気配がする。
「お腹空いてるんじゃないかと思って。これでも食べてもう少し待っててね。お酒もいる?」
 目の前にこの店の名物メガ豚まんが山のように置かれた。酒は辞退する。営業用の笑顔で手を振って朱貴はまた店へと戻った。
 迷惑をかけて怒られるかと思っていたらこの気配り。流石だ。何もかも敵わない。そんな気分になった。
 何を考えるのも億劫になりひたすら貪り食った。腹は膨れていくが体のどこかに穴でも空いたような。そんな虚脱を覚える。
 最後の客が帰り、片づけをしていた使用人も帰り、人の気配がなくなる。朱貴が現れたのはすっかり夜も更けた頃だった。
「ゴメンねー。遅くなって」
 酒瓶と杯を持って向かいの席に座る。
「朱貴っちゃん、飯は食ったのかィ」
「そりゃ食べたわよ。まかないって言って厨房でぱぱっと食べられるようになってるの。交替でね。お酒、付き合ってくれるんでしょ?」
 朱貴が酒を注いでくれるとそれだけで美味そうに見える。料理の腕だけでなくこういうところもこの店が流行る理由だろう。断る理由もなく杯を受け取っていた。
「聚義庁には今夜はここに泊まって行くって伝えちゃったけど」
「あ、ああ…ありがとう」
「先に宋万が言い訳考えてくれたみたいなのよね。どーせ無断で突っ走って来ちゃったんでしょ。それが杜遷のいいところでもあるんだけど」
 朱貴は笑って飲み始めた。図星過ぎて返す言葉もない。
「それで? どーしたの?」
「あー…」
 面と向かって何を言えばいいのか分からなかった。そもそも最初は朱貴に腹を立てていたのではない。自分の鈍さが許せなかったのだ。
「その…ぼかァ、単純で馬鹿だから」
「そうねぇ」
 真顔で返事をしてからけらけらと楽しそうに笑った。からかわれている。いつものことと言えばそうなのだが。
「朱貴っちゃんがなんでも上手くやってのけるのは、朱貴っちゃんだから当たり前だと思ってたんだ」
 少し考えるように斜め上のほうを見るような仕草。それから朱貴は何かピンときたような顔になった。
「今日の入山者に何か言われた?」
「あァ…その、朱貴っちゃんが本当に楽ばかりして生きてるわけないって話を」
 宋万は朱貴がそれを知られたくないと考えているようだった。
「やー…。参ったね。それって戴宗くん? そうよねー…」
 机に伏すようにして朱貴はうな垂れていた。珍しい。
「宋万に話したら、朱貴っちゃんはそれをぼくらに知られたくないと思ってるって。なんでそんなに水臭いんだってことになっちまって」
 ここへ来た言い訳をするようになってしまった。なんだか情けなくて飲まずにはいられず手酌で何杯か飲んだ。
「そうねー…。まったく、余計なことを」
「え?」
「なんでもないよ。私のモットーにケチつけられてちょっとイラっときただけ」
 そのモットー自体が嘘だというのが今回の発端ではある。
「嘘ってわけじゃないのよね。努力はしてないなんて言ってないし。なんていうか…そーねぇ。そういう私を見せたいのよね。カッコつけたいわけ」
 努力の跡など残さずに涼しい顔でなんでもやってのける。そういう自分を演出してきたのだろう。そして自分はその演出された朱貴を鵜呑みにしていた。梁山泊に暮らす全員が気づいていたわけではないだろう。だがこれほど近しい同志でありながら気づかないのは自分だけに違いない。
「人知れずナイフ投げの練習なんてスポ根みたいで興ざめなのよね。私らしくないじゃない」
「でも気づかないのはぼくだけだ」
「だから、そのままでいて欲しかったってことなの。折角虚勢張ってるんだから誰か鵜呑みにしてくれる仲間がいなくちゃ私が馬鹿みたいじゃない」
 宋万が自分と朱貴の関係はそのままがいいと言っていた。つまりそういうことなのか。
 朱貴が見栄を張りたいがために自分が愚かなのだとしたら。それはそれでいい。そんな気もしてくる。
「それに、杜遷、自分が単純馬鹿だの愚鈍な豚以下の存在だのって言うけど」
「そこまで言ってない、言ってないぞっ!」
「同じ、同じ。でもそーじゃないのよね。私たち頭領にも役割分担てものがあるのよ」
 優雅に酒を口に運ぶが朱貴が酔ったところなど見たことがない。今日は少し饒舌になっているだろうか。
「王倫様は心を掴む話が上手。だから一番上にぴったりでしょ」
 そんな風に考えたことはなかった。王倫は杜遷にとって神にも等しいこの世の救世主なのだ。だが、言われてみればいくら朱貴が何でもこなすと言っても王倫の代わりにはなれはしないだろう。
「宋万は頷く係り。杜遷や私が話すとうん、うんって言うでしょう。大きく道を間違えたときは修正もしてくれる。聞き上手なのよね」
 確かに猪のように突っ走る自分を宋万は方向を間違えないようにしてくれる。阿吽の虚空はまるで自分達の関係のようだと思ったことがある。突き進むのが自分、軌道修正するのが宋万。実際の生活の中でもあの技と同じことをしてくれる。だから安心して突進できるのだ。
「朱貴っちゃんでも誰かに相談することなんかあるのかィ」
「あるよ。私も梁山泊に加わるときなんか結構悩んだりもしたんだから。宋万て不思議よね。こっちが喋るだけ喋って、ただ聞いて頷いてくれるだけなんだけど。それだけで一歩踏み出す気になったりね」
 それはよく分かった。確かに宋万は頷く係りなのだろう。その宋万に今日は何度首を横に振らせただろう。頭に血が上って軌道修正する方も大変だったに違いない。
「案外王倫様も宋万には色々相談してたりしてな」
「今はともかく昔はそうだったみたいね。兵の中でも思い悩んだら宋万に話すってこともあるみたい」
 宋万はすごい。あの王倫の相談役さえやっていたのだ。一歩を踏み出させる。それは国を救う志のために立ち上がるとき、大きく働いたのだろう。
「そして、私は疑う係り。ここで入山希望者の選抜なんかやってるんだもの。疑ってなんぼなのよね」
 中も外も。と朱貴が小さな声で付け加えたが意味はよく分からなかった。疑うという行為と自分には大きな隔たりがあって、だからこそ朱貴のことは理解し難いのかもしれない。
「そりゃ性格も悪くなるのよ」
「朱貴っちゃんはいいヤツだよ」
 世辞や付き合いでこんなことを言う人間ではない。本心でしか語れない。朱貴はそれをよく知っていはずだ。
「ありがと。いいのよ、そういう自分が嫌いじゃないの」
 自嘲ではなく、きれいににこりと笑う。そういうところも含めて朱貴の演出なのかもしれない。彼は自分のなりたい自分を回りに見せているのだ。
「さて、それじゃ杜遷は何の係りでしょう」
 クイズを出された。自分の取り柄はなんだろうか。
「…力持ちってことかィ?」
「ブー。そーゆー全然分かってないとこがイイのよね。杜遷は私と逆。信じる係り」
「信じる…?」
「王倫様を信じる。同志を信じる。それってすごいんだから。梁山泊は一つの街みたいだけど皆一つに纏まってて家族みたいに仲がいいでしょ? それって誰がそうしたか知ってる?」
 呆然として首を横に振る。
「王倫様がどんなに上手に心を掴んでも一つの街が一つの家族みたいになるなんてそう簡単にはできないのよ。誰かが一人一人と毎日普通の話をして、無条件の信頼を誰にでも見せる。そうすると誰でも悪い気はしないのよね。そーゆー人間が上層部にいると、ここでは安心して暮らせるって思えるのよ」
 同志と普通の話を毎日するのは自分の日課というか、生活の一部だった。単純で疑うことなどしないから同志であれば誰でも信頼した。朱貴が加えるに相応しいと判断した、同じ志を持って集まった仲間だ。当たり前のことをしただけだ。
「それは私には出来ない。疑うのが性分なんだもの。王倫様が親しみ易すぎると威厳がなくなる、宋万は来るものは拒まないけれど自分から近づくのは苦手かもね」
 なるほど、と思ってしまう。朱貴と話すといつもこうなる。
「だから王倫様が杜遷を第二頭領に選んだのは、何を大事にするかで決まったと思うわけ。志以外の、もっと暮らしと密着した部分での兵と兵との繋がりを大事にしたいからってことなのよ」
 愚かなほど単純でもそこを買われたというなら悪い気はしない。むしろ王倫にそこを認められたなら自分はこのままでいいのだと思えた。
「私みたいに疑ってばかりの人間がいつも梁山泊にいたら、あの中はもっとギスギスした嫌なところになってたはずよ」
「そんなことは」
「そういうことはね、取り繕えないものなの。杜遷にしかできないこと、実はいっぱいあるんだから」
 朱貴は杯を置くと微笑んで杜遷を見つめた。
「だから、第二頭領の座を私に譲りたいなんて考えなくていい」
 驚いて指一本動かせなかった。それは、杜遷が心の中でさえ明確な言葉にできずにいた感情だった。昨日今日できたものではない。思いの深いところにある黒い塊。自分はどこを取っても朱貴には敵わない。そういう気持ちが少しずつ溜まって、いつしか隠しきれない塊にまでなっていた。
 朱貴と交替して第四頭領なんてムシのいいことは言わない。一人の兵でいいと思った。力しか自慢するところのない自分が頭領に向いているはずもない。
 王倫に認められたときは嬉しかった。だがその地位は自分と釣り合わないと感じずにはいられなかったのだ。
 杜遷がはっきり意識したこともない感情まで朱貴は理解していた。
 やはり敵わない。ここまで差を見せ付けられるといっそ清々しかった。
「杜遷は、周りだけじゃなくて自分のことをもっと信じてごらんよ。私が唯一疑わなくていいのは単純で疑うことを知らない誰かさんだけなんだから」
 感極まる。いつの間にか涙が出ていた。朱貴は茶化すことなく、気を遣ったのか、新しい酒瓶を持ってくると言って席を立った。
 敵う、敵わないの話ではなく、適所適材ということなのだろう。そのくらいは杜遷でも理解できた。
 用心深い朱貴が自分を信じると言った。そして今の地位は相応しくないとは思わなくていいのだそうだ。
「やー、こんな話を杜遷とするのは珍しいね」
 涙を拭いたのを見計らったようなタイミングで朱貴が現れる。
「せっかくだし、今夜は言いたいことぶちまけちゃおうか」
「いいねィ。ぼかァ朱貴っちゃんの本音ってやつを聞いてみたい」
「どこまで本音か疑わなくていいの? 私、嘘は吐かないけど隠し事はするよ」
「でもそれを疑わない。それがぼくなんだろ? 百回裏切られても止めない、それがぼくだ」
 朱貴は楽しそうに笑った。
「そうそう、それでイイの。楽しく飲みましょ」
 いつもの調子に戻った。
 楽しく二人で飲んで、潰されて、起きたときには。心に抱えていた錘のようなものが消えてなくなっているのに気づいた。




 目の前で同志が物のように壊されていく。
 家族のように親しかった仲間が物言わぬ肉の塊に変わる。
「…どうして!?」
 救世主と信じて疑わなかった男がいやらしい笑みを浮かべる。
「それに答える必要は…無いなァ、杜遷」
 王倫が裏切る。天地がひっくり返るよりもあり得ないことだった。
「イイ加減にしなよ、杜遷。王倫が同志を殺したんだ」
 朱貴は冷静だった。疑う者。自分のことは疑わないと言っていた。つまり杜遷以外の全てを彼は疑っていたことになる。王倫も含めて。
 王倫が自分に近い場所に朱貴を置かなかった理由がようやく分かってきた。
 この惨状を目の当たりにしてもまだ信じたいと願っている自分を第二頭領に置いた理由も。
 昨夜の朱貴の話も嘘ではなかったのだろう。恐らく最初はそうだったのだ。王倫はどこかで変わってしまった。そう思うしかなかった。
 そして朱貴は王倫が裏切る可能性さえ頭に置きながら、自分には隠していたのだ。こんなことが起こることを朱貴も望んでいたわけではないだろう。
 まったく、単純で扱いやすい人間だ。
 裏切った王倫への怒りと。昨日どこかへ消えたはずの己への怒りがぐるぐると渦巻いた。今は抑えることなどしなくていい。
 百回裏切られたなら千回信じよう。千回裏切られたなら一万回信じよう。
 それしか自分にはないのだから。
 杜遷は直ったばかりの雷電金剛杵を握り締めた。
 一緒に直してくれた仲間の半数は、既に人の形をしていなかった。






履歴

20090927 公開