上手に息をするための

 小さな手で包帯を巻きながら。明りに照らされる医師は難しい顔をしていた。
 初めのころは叱った。無駄だと分かると説得が始まった。それでもやはり変わらないことが分かると。
 無言になった。
 医者の忠告を聞かぬ患者は見捨てられても仕方がない。
「…できる限りでいい。ワシに伝わるかどうかはさておいて、こうなるときの気持ちを言葉にしてくれんか」
 包帯を巻きながら目を合わせずにそう言われた。
「難しい…ですよ。アタシもぐちゃぐちゃになってて…切らないとどうしようもない状態だから…」
「そのぐちゃぐちゃとやらを聞きたい」
 自分の体を傷つけるときの心理状態。言葉にするとどれも嘘っぽくて、上手く言えない。
「…矛盾だらけで、どうにも」
「矛盾だらけでいい。短い単語で、並べ立ててくれ」
 今日に限って安道全は譲らなかった。
「そうですか。…じゃぁ…消えてなくなってしまいそう、とか。消えてなくなりたいとか。自分がどこにいるのか分からなくなる感じ…。あと泣きたいとか、寂しいとか、苦しいとか、切ないとか、死にたいとか、死にたくないとか、切りたいとか、切ってはいけないとか…医師にダメって言われたことも思い出して…でも我慢していたら消えてしまいそうで、怖くて、怖くて…。怖い、が一番近いような…?」
 言いながらうんざりする。大の大人が、子供に聞かせるようなことではない。たとえ彼が立派な医者であってもだ。
「切ったあとはどうじゃ。改善されるのか?」
 どうやら説得よりも理解することにしたらしい。こんな自分を理解などされたくない、という気持ちと、友人として是非聞いてもらいたいという気持ちが、薛永の中で回り始める。
 そして渦の中心で冷めた自分が本音をこぼす。どうせ話しても理解されることなど決してない、と。
「改善というか…ホッとする…に近いですかねぇ? ああ、ここで、生きているって。まだ生きているって。気持ちと体が繋がっているって…痛いのと、血が流れるのを眺めてちょっとだけ安心するような…?」
 自身でさえ理解できないのだ。どんな名医でも理解できなくて当然。難しい表情のままの安道全に少しだけ安心する。こんな気持ちを、分からなくていい。
「普段は怪我人の処置も見ないようにしているくせに、不思議じゃの」
「それは、本当に不思議。アタシ医師が傷を縫うところなんか絶対見ないのに」
 自分の腕を切って流れ出る血を見ると安心する。痛みと血の赤が自分をここに、今いる場所に繋ぎとめてくれるように感じる。痛いことも血を見るのも大嫌いなのに、このときだけは、別人のように自分の腕を切り裂ける。
 安道全は考え込むように無言で包帯を巻き終えた。
「寝るぞ。眠くなくとも横になれ、薛永」
「アイサー! 夜中にお手数かけました」
 元気な声を出すと、無理に元気なフリをするなと怒られた。もう、どれが本当の自分なのか。無理をしているのか、そうでもないのか。薛永自身にさえ分からない。
「…もし今度」
 処置が済むと眠気に襲われたのか吸い込まれるように寝床に入った安道全が、ぼそりと言った。
「はい?」
「また切らないではいられなくなったら…」
「…はい」
「先にワシの首を絞めろ」
「はぃいいい!?」
 横になりかけて、跳ね起きた。
「何言ってるんですか、医師」
「止めろと言っても止められん。尋ねてみたものの…理解も難しいとなると…ワシには、もう」
「…医師?」
 返事の替わりに寝息が聞こえた。安道全の唯一子供らしいところは夜に弱いことだ。
 お手上げの患者に、自分の首を絞めろ、という指示は。
 彼らしくない。
 諦めて心中でもする気なのか。それだけはあり得ないことだ。彼は医者だ。
「…治療…ですか?」
 起こさないように呟く。心中に比べれば、はるかに彼らしい動機ではある。指示は首を絞めろ、であって、首を絞めて殺せ、ではない。やはり心中など彼が考えるはずもない。
 医者の首を絞める、という療法などあるのだろうか。そんな馬鹿な。
 寝言だったのではないか。そう思うことにして薛永も横になった。



 ◆




 息が、苦しい。
 刃物が気になる。もう二度とこんなことをするな。いつか安道全が懇願するように言っていた。
 命令も懇願も届かないほどに、苦しい。怖い。
 すぐに手に取れないように刃物は薬箱の取り出しにくい場所に入れてある。
 もう無理だ。消えてしまう。このままでは。消えたくない、消えたくない、消えたくない消えたくない消えたくない消えたくない。
 薬箱に手を伸ばして、もう一つ安道全の言葉を思い出した。
 ワシの首を絞めろ。
 前回切った時だ。寝言かと思った。
 あれから何日経った? 思い出せない。本当に寝言だとしたら、何をする、と怒られそうだ。
 怒られる自分を想像して、少し気持ちが楽になった。安道全は、単に自分を起こせという意味で言ったのかもしれない。
 刃物を探すのをやめ、安道全の寝息を聞いて近づいた。暗闇で何時間も起きていたので目が慣れている。苦労もせずに安道全の側に座った。
 ワシの首を絞めろ。
 そこまでしなければ起きないということだろうか。安道全に手を伸ばす。両手で、首を。
 何をしているのだろう。
 小さな体に覆いかぶさるようにして喉を押した。子供の首は思っていたほど細くはなかった。人間の頭部の大きさは体に比べて変化が少ない。それを支える首も頭で考えるほど細くはない。妙に冷静にそんなことを考えている。
「…っ!」
 安道全の声にならない声を聞いた。目覚めたようだ。まだ、手を離せないでいる。
 いったい、じぶんは、なにをしている?
 両手で包み込んだ首を、押さえる。ゆっくり力を加えていく。このまま気管を握りつぶしてしまうことも容易いだろう。苦しいはずだ。
 荒い息遣いが聞こえる。違う、これは薛永自身の呼吸だ。安道全はまだ息ができないまま。苦しい。締っているのは安道全の首なのに、絞めている自分も苦しい。息が出来なくなる。
「…医師?」
 この暗闇で、さすがに表情までは見えない。だが、緊張して強張る体は、一向に抵抗する気配がない。
「医師、どうして」
 このままでは殺してしまう。恐ろしくなって手を放した。どんなに病んで、狂って、壊れた自分でも。そんなこと一度も望んだことはない。それだけは自信を持って言える。彼を失ったら、それこそ、本当に生きている意味さえ失ってしまう。
 咳き込んで、荒い呼吸音。
「どうして、抵抗しないんですか」
「…苦しい、な」
「当たり前です。首絞められたら苦しいに決まってます」
 安道全は起き上がって薛永の前に座り直した。薛永の方は自分のしたことが、安道全のしたことが、全てが分からなくなって腰が抜けたようになっている。
「分からないからじゃ」
「は?」
「お前の、その苦しいというのは、ワシには理解できん」
「いいんです、こんなの、分からない方が」
「ワシは嫌じゃ。お前が苦しいとき、ワシも苦しくなればいいと、思った。ワシも生きていられないと思うほど苦しくなればいい、そう思った。…馬鹿げたことを言った。反省している」
 安道全の手が、薛永の顔に触れた。
「お前に、死ぬより辛い思いをさせることまでは、考えなかった。すまん」
 小さな手は、薛永の包帯を何度も撫でる。
「すまん。医者としてではなく、ワシの身勝手だった。だからもう泣くな。悪いのはワシじゃ」
 包帯を触っているのではなく、濡らした涙に触れていたのだ。いつから泣いていたのか、薛永には自覚さえなかった。
「すまん、薛永。このとおりじゃ」
 こんなに何度も謝る彼を見たことがない。
「医師」
 涙を拭おうとする手を捕まえて、両手で握りしめた。
「許しませんよ。こんな怖いことさせて。新しいトラウマが出来ました」
「…そう、じゃろうな…」
 安道全にも自分の表情などまったく見えないだろう。
「だから、医師。アタシが怖くて不安でたまらない時は、どんなに眠くても起きてください。叩き起こしますから。起きなかったら切りますから」
 涙が止まったかどうかは分からないが、薛永は笑顔で話していた。
 見えないが声の調子で伝わったようだ。安道全が安堵したように息を吐く。それから少し照れくさそうな声で言った。
「そうじゃ、起こせ、というのを忘れていたのう」
 分かりたい一心で首を絞めろと言ったのは、見当違いも甚だしいが。医者の安道全よりも、薛永の友である安道全が勝ってしまったということなのだろう。彼にもこんな失敗があるかと思うと微笑ましい。それ以上に、気のふれた自分をそこまで思ってくれたことが嬉しかった。
「今度から起こせ。首は絞めなくていい。切るのはワシの方が上手いぞ」
「メスは嫌です! 痛そう!」
「痛いのがいいんじゃろう?」
「な、なんだかイヤラシイです、医師ったら! もう!」
「お前こそ、ワシを寝かせないと言ったじゃろ」
「ち、違います! そういう意味じゃなくて…もう! ダメですよ、そんなことどこで覚えちゃったんですか!?」
 嬉し泣きの涙さえ引っ込んだ。
 小さな親友は確かに名医だ。
 この日を境に、自らつけた傷跡は増えていない。


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20101202 ブログにて公開
20101231 サイトに移植