その日は米の一粒さえ喉を通らないらしかった。
珍しいことではない。無理に食べさせたこともあるが、すぐに戻してしまう。
この薬師の体は生きることを拒んでいる。
食欲も睡眠欲もない。性欲もないのかと尋ねると、その言葉に驚いて「医師、そんなこと言っちゃいけません」なんて子ども扱いをして答えなかった。変な意味ではなく、三大欲求がすべてないのかどうか確認したかっただけなのだが。恐らく、ないか、それと同等と見なしていいほど弱いに違いない。
自分の相棒は、自分の抱える最も難しい患者でもあった。
病んでいるのは体ではない。
心なのだ。
体中に巻いた包帯の下を一度見てしまったことがある。
いつも、寝るのを見届けようと頑張るのだが、先に眠ってしまう。目の前で患者でも唸っていれば何徹でもできるのだが、いざ寝床に入るとあっという間に眠りに落ちてしまう。このことに関しては幼い体を憎む。
そうやって先に自分を寝かしつけてから、薬の補充をしたり、手に入りにくい薬草を探したりしているらしい。昼間は自分に振り回されている。相棒の個人的な時間は自分が寝た後にやってくる。時々夜中に目を覚ますと、起こしましたかと申し訳なさそうに長い体をぺこぺこさせる。そして布団へ戻すのだ。完全に子供への対応だがそのときは眠くて怒ることもできず、すぐにまた眠ってしまう。
一度だけ、夜中に目を覚ますと、見慣れない者がそこにいた。
仕草で相棒と分かったが、小さな明かりの中に浮かび上がっているのは別の生き物のように見えた。
「これは見苦しいものを」
その姿に驚いたのに気づいて恥ずかしそうな声を出した。包帯を巻きなおしていたのだと言い訳するように付け加えた。
暗かったので傷跡なのか、火傷の跡なのか、もっと別のものなのか分からなかったが。包帯の下は全身が何かに覆われていた。生々しいものではなく、もう古い、決して元の肌には戻らない何か。
それがなんなのか。尋ねることができなかった。
相棒はそれを優しさだと勘違いしたようだ。
だが、それはただ単に怖かっただけだった。そんな状態になった理由を聞くのが怖かった。医者としてあるまじき行為だ。見知らぬ症例を目の前にして正体を知りたいと思わない。そんな自分に自分で驚き、失望さえした。
きっと包帯の下のあれは相棒が心を病んだ理由に直結している。そう思ったらとても恐ろしかった。
そしてそのまま。未だ尋ねられずにいる。頭で考えるだけなら、考えてみた。そもそも薬師の肌の色はおかしい。毒でああなったと考えれば一応の説明はつくように思う。それとも薬草の研究のために自分で実験した結果そうなっただけで、心の傷とは関係ないということもあり得る。
彼の過去を知るのが怖い。心を病ませた原因を知って自分にはどうにもできないのだと思い知るのが怖い。
大切な相棒に医者の自分は何もできないのだと、考えることさえ嫌だ。
自分は神医と呼ばれるが、圧倒的に人生経験が足りない。知識や技術ではどうにもならないのが心の病だ。自分にはまだ癒す術がない。
「食欲が出る薬は飲んでいるんじゃろうな?」
こんな風に問い詰めるような言い方しかできない子供なのだ。
「アイサー! ちゃんと言われたとおりに」
「…他の薬に変えたほうがいいかのう…」
「いつものことだから気にせずに。医師はたくさん食べて。食べないと大きくなれませんよ」
こうやってちょくちょく子ども扱いして誤魔化す。
本当に子供だ。医者のくせに患者の病状を問うことさえ満足に出来ない。
促されるまま飯を食べた。
「…大きくなったらワシを担がなくてよくなるのう」
「今度はアタシが担がれる番?」
包帯から覗くぎょろぎょろした瞳が笑った。
担がなくていいならもう要らないなどと考えない。いい兆候だ。それとも嘘が上手くなったのか。他の患者の嘘はすぐに分かるのに相棒の嘘だけはどうしても分からない。飯を食べられないほど具合が悪いのに、こうやって笑ってもいられるのだ。
こんなときとても寂しいと思う。気を遣われるのが悲しい。無理をして笑われるのが辛い。
それ以上に相手は辛いのだと思うとそれも苦しい。
「…ワシが大きくなったら…」
「…?」
包帯の下の何かをしっかり説明してもらいたい。心を病ませた何かを教えて欲しい。
そして。医者と薬師としてでなく。
信頼できる友として扱って欲しい。
支えることができる大人として付き合いたいのだ。
自分はまだ未熟な子供だ。それは自分が一番よく理解している。
医者として信頼はできても、友として信頼するには至らない。その程度の存在だ。
体は小さいままでもいい。むしろ大きくならなければ乗り物として相方を必要としているという口実がいつまでも使える。死に向かう相棒を止める口実は多いほうがいい。
だから、体の成長はこのまま止まってしまえばいいとさえ思う。
「ワシが大人になったら教えて欲しいことがあるんじゃ」
「ま! 医師ったらいやらしい! アタシそーゆー話はお役にたてないってば」
今言える精一杯のことを言うと何を勘違いしたのかもじもじしながらそんな風に言った。
猥談の一つもまともにできるくらい大人になれば、対等に付き合えるのだろうか。今のところ、女性の好みさえ自分にはない。これも子供の証拠だ。
女の好みを語り合えるようになる。目標としてはいささか品がないが、ひとまずそこを大人になる目安にすることに決めた。