目を覚ますと

 目を覚ますと。
「安道全医師、気がづきました?」
 二つのお団子に結った髪が特徴的な影が見えた。
「す、い…れん?」
 声が上手く出なかった。
「具合はどうですか? 起きられそうですか?」
 心配そうに言われて体のことを気にしてみたが、何かで縛り付けられたかのように起き上がれなかった。感覚はあるが、少しも動かせない。
「ワシは…どうした…?」
「熱を出して倒れたんですよ。薛永さんが仰るには、この前同じ病の患者さんを診たからその時伝染ったんじゃないかって」
 翠蓮はいそいそと何かを持ってきた。薛永の、いや、薬の臭いだ。
「薛永さんから、目が覚めたら飲ませてくれって言われてるんです」
「…薛永は」
 薬を託して薛永はどこへ行ってしまったのだろう。目を覚まして彼がいないことなど滅多にないことだ。
「どこじゃ? 薛永」
 呼べば飛んできてあの無暗に元気な声で返事をしてくれるのだろうと思った。
「…今は、ちょっと忙しいかもしれないです…」
「忙しい?」
 薬師が忙しいとはどういうことだ。感染性の下痢でも流行してしまったか。
「医師は、早く良くなることを考えてください。お願いします」
 翠蓮の表情には、なにか切羽詰まったものがあった。
 薬を飲もうと思ったが体は相変わらず指一本さえ動かすことができない。首だけを必死に持ち上げようとすると翠蓮が後頭部に手を当てて支えてくれた。
「薛永さんのお薬です。すぐに良くなりますよ」
 弱く笑って苦い煎じ薬を口に当てられた。苦い。渋い。変に甘い。つまり不味い。
 舌に味以外の刺激を感じて、ようやく失態に気づく。
 痺れ薬、だ。


 ◆


 目を覚ますと。
「あ、大丈夫ですか?」
 気の弱そうな男がおろおろとしながら尋ねた。
 替天行道の大蔵省、いつもソロバンを心臓のように大事に抱えている…。名前を思い出そうとしたが一文字も思い出せない。怪我ばかりする輩の名前はすぐに覚えるのだが。患者にならない面子は顔と名前が一致しない者もいる。その一人だ。裏方同士は顔を合わせる機会も少ない。
「…ワシは」
 どうしたのかと尋ねる前に思い出した。倒れたらしい自分に薛永か、若しくは飲ませた翠蓮が痺れ薬を混入したのだ。翠蓮がしたのなら自身の判断ではあるまい。上の方の誰かが、そうでもしないと大人しく寝ていないと思ったのだろう。
 まだ体が動かない。痺れ薬が効いたままだ。
「医師を見張っていろと言われました。もう少し寝ていてください」
「薛永はどうした?」
 なぜ、目を覚ますたびにいないのか。
 男は気まずそうに視線を逸らした。
「…何が…」
 妙に静まり返ったこの部屋は、診療所の中ではない。首を動かせる範囲で見回してみたがどこにも見覚えがなかった。
「ここは、どこじゃ?」
「あ、ここは…誰だったかな? 誰かの個室を借りています。診療所がいっぱいなので」
「診療所がいっぱい?」
「あ、そ、それは…その」
「はやり病か?」
「いえ、その、僕は戦力外ということで…翠蓮さんは動物を避難させに行ってしまったし」
 戦力外。意味が脳に届くまで時間がかかる。
「戦、なのか?」
 寝ている間に何があった。なぜ、自分はこんなところで寝ているのか。医師である自分が治さなくてはならない患者が診療所に収まりきらないほど担ぎ込まれているというのに。
「あああ…言うなって、言われてたのに」
 情けない声を出して寝台の横で頭を抱えている。
「薛永がワシの代わりを?」
「…はい。医師のほかに医術を学んだ方はいないので…いつもそばで医師を見ている薛永さんが」
 病ならともかく。外傷は薛永には荷が重すぎる。
「ダメじゃ、あれは血が苦手じゃ。ちぎれそうな腕など見せられてみろ、倒れるぞ」
「頑張ってくれていますよ」
 無理をして我慢しているのだろう。なぜ自分を叩き起こさないのか。熱があろうと何だろうと自分にしかできないことなのだからやらせるべきだ。
「いや、いかん。ワシが」
「ダメです」
 その時の声だけは押さえつけるような強さがあった。
「医師は寝ていてください。頭領命令です」
「…?」
 なぜそんなところからそんな命令が出るのか。意味が分からない。
「ともかく、薛永に軍医は無理じゃ。あの…なんと言ったかのう…? 仕立て屋の…縫い物担当がおるじゃろう」
「候健さんのことですか?」
「それじゃ。薛永よりは上手く縫うじゃろう。針は焼いて使うように言え。糸は…せめて沸騰した湯で煮てから使え」
「はい、伝えます」
 そろばんを抱えたまま真剣に頷いた。
「それから白勝を助手に使え。医学には明るくないが機転がきく。勘もいい。薛永の側に白勝をやってくれ」
「分かりました」
「あとは女をなるべく使え。血に対しては女の方が何倍も強い。薛永が倒れたら叩き起こしてくれるじゃろう」
 強く頷いてから男は立ち上がりかけ。
「医師が起きていると、僕はここからそれを伝えにいけないんですよね…」
 そっと手を安道全のまぶたに置いた。視界が暗くなって。
「おやすみなさい」
 薬のせいか、そのまますべてが途切れた。





 目を覚ますと。
「安道全医師〜! 起きてほしいっス!」
 やけに賑やかな声が聞こえた。
 声のする方、左側に首をねじると、賑やかな小僧が少し離れた場所にあるもう一つの寝台に並んで寝ていた。
「あ! 起きたっス! やった!」
「あー…王定…四」
 勘で呼んでみたが、噴き出してから、けらけらと明るい笑い声を聞かせる。
「ブー! 王定六っス!」
 何度も言うが患者にならない人間を覚えるのは苦手だ。足の速い小僧は敵の攻撃に当たりにくい。全ては言い訳でしかないが。
 王定六は首も曲げずに上を向いたまま、瞳だけをこちらに向けていた。
 不自然な動きに医者としての嫌な予感がした。
「お前、どうしてここで寝ている?」
「それしか出来ることが無くなっちまったからっス。オイラも情けなくて」
 安道全から目を背けるように瞳を動かすと、大粒の涙が王定六の顔を濡らして落ちる。それを拭うこともできずにただ上を向いたままだ。
「…感覚はあるのか?」
「全然! オイラ今、生首で浮かんでるような感じっス! あー! こんなところで生首になって生きてるなんて飽きたっス! アニキと走りたいのに…!!!」
 生首という言葉にぎくりとした。胸がざわざわとする。
 王定六の涙は止まることがない。それでも声は妙に明るい。
 頸椎のどこかで神経が切れたのだろう。
「でも、安道全医師なら治せるって…薛永医師に言われたっス!」
 薛永に「せんせい」がついていた。本人が聞いたら止めてくださいと身をよじって照れるだろう。それだけ、患者に認められているということだ。
「ああ、治す。待っていろ、今…」
 起き上がろうと試みたが指先に力を込めてもびくともしない。
「まだダメっす! 医師は今は星の力使っちゃダメっス! 一人で寝てるの寂しいから起きてって叫んだけど、ホントは寝てなきゃダメっス。オイラそのためにここで見張ってるっス」
 安道全の持つ力は、魔法のようにどんな怪我でも病気でも撫でただけで治せるという反則技のような力だ。だからこそ戦のときは必要不可欠なのに、どいつもこいつも口をそろえて寝ていろという。自分の怪我や病気だけは自分では治せないという不便なところもあるのは確かなのだが。それにしても。
「良くなったら…起き上がれるようになったら、一番でオイラのこと治してほしいっス」
「言われんでも一番側にいる患者から治す」
「へへ、嬉しいっス! オイラまた走れるようになるっスね?」
「当たり前じゃ。ワシを誰だと思っておる」
 王定六はしばらく笑っていたが、やがて声が小さく消えて。
「医師、早くよくなって欲しいッス」
 涙をためて懇願されては敵わない。安道全は自ら瞳を閉じた。


 ◆


 目を覚ますと。
「あらン。目を覚ましちゃった?」
 艶めかしい声が聞こえた。苦手な相手だ。
「王定六が騒いだりするから…」
 いつも羽織っている布を両手に持った孫二娘が視界に入る。うつろな、目をしていた。
「ま、あいつがひとり騒いでてくれたから医師の居場所も分かったんだけどね」
 隣に寝ていたはずの王定六は消えていた。
「動ける体ではなかったはずじゃが」
「喧しいから居なくなってもらっちゃった。医師と二人きりになりたくて」
 ウフフ、と気味の悪い笑い方をする。何か普段とは違う身の危険を感じた。
「可愛くなっちゃって…医師の宿星って、残酷よねェン。他人を治すのに、自分の成長を犠牲にしてたなんて。気の毒で涙が出そう」
 妖しく微笑みながら、孫二娘は布を手にして安道全の顔に押し当てた。
「要らないんじゃない? そんな星」
「…っ」
 ぎゅうぎゅうと口の中に布を押し込まれ声を出せなくなった。
「ねぇ、医師。私思うんだけれど…その宿星さえあれば医師じゃなくてもいいのよね…?」
 体は動かず、声も封じられた。安道全は孫二娘の声を聞く以外のことができない。
「どうやったら宿星は移るか…なんて。簡単なことなのに。どーして皆やらないのかしら。男って肝心な時に肝心なことが決められないのよねェ」
 孫二娘の身の丈ほどある包丁の光が見えた。殺される。逃げなければ。体中に動けと命令するが、従わない。重い物の下敷きになったように動けない。
「こんなに可愛い医師を殺すのは本当に忍びないんだけど、仕方ないじゃない? 分かってくれるわよね?」
 口調は問いかけだが光のない目はすでに結論がでているのだと語っている。
 動けない医者は殺してしまえばどこかに星は移る。どこか、であって、必ずしも近くの誰かとは限らない。探し出すのに苦労することがある、ということを孫二娘は考えられる状態ではないらしい。
「大丈夫、痛いのは一瞬よ。たぶん」
 包丁の光が動く。逃げようとしてもがいても首しか動かない。もがきつつ、こうして死は、納得もなにもない状態で与えられるのだな、と悟ったようなことを考えていた。
「笑えねーんだよ」
 不機嫌そうな声が聞こえ、孫二娘が吹き飛ばされるように視界から消えた。
 戴宗、と呼びかけようとしたが口の中には布が押し込まれていて声が出ない。
「…っ! あら、見つかっちゃったの? もうちょっとだけ、見逃してよォ」
 孫二娘は部屋の端まで飛ばされたようで、甘えたような声が離れた場所から聞こえた。
「るせーんだよ、ウシ女。冗談は乳だけにしろ」
「いいじゃない! あいつ死んじゃうかもしれないのよ!? あの馬鹿、私を守って、あんな…!」
 声の出せない安道全は、自分の命が戴宗によって救われたらしいことと、孫二娘が後先も考えられない状態に陥った理由を理解した。
 張青が死にかけている。自分さえそこに行けば助かる命が消えかかっている。
「安道全先生なら患者のために死んでくれるわよ!」
「コレ、殺して助かるんなら止めねーよ。宿星探しがどんだけ面倒か、おたく分かってんだろ?」
 人のことをコレ呼ばわりで指さすのは気に入らないが命の恩人なので今日だけは許してやろうと思う。
「じゃぁ、どうしたらいいのよ…っ」
「…」
 泣き出した孫二娘に戴宗は答えなかった。側にいてやれ、とかなんとか言うことがありそうなものだが、この男はそういう気の利いたセリフを吐くつもりはないようだ。
「おい、ここはバレたから移動するぞ」
 戴宗は軽々と安道全を抱き上げて、腕に抱えて部屋を出る。壁際で泣いている女がちらりと見えた。
「〜〜〜〜〜」
 口に入っているものを出せというつもりで、声とも音ともつかぬものを鳴らして聞かせた。
「イんじゃね? そのままの方が静かで」
「〜〜〜〜〜!」
 怒った顔でもう一度やると渋々という感じで布を出し、捨てた。どこに向かっているのか分からないが戴宗は誰も追ってこれないようなスピードで走っている。いや、彼にとっては速足くらいなのかもしれない。
「診療所じゃ」
「はぁ?」
「張青が死にかけているんじゃろう。ワシを早く連れて行け」
「それができりゃこんなところに隠しとくわけねーだろ?」
「隠す?」
「今、殺されかけたの忘れちゃったんでちゅか〜?」
 声と表情でこれでもかというほど馬鹿にして、戴宗はどこかへ向かっている。建物を出て梁山泊内のさらに上へ向かうようだ。
「ワシを診療所へ連れて行け。動かなくても側に行きさえすればなんとかなるじゃろう」
「だーかーらー…」
 何か言おうとして、止めた。
「だからなんじゃ?」
 訊いても答えない。安道全には分からないことだらけだ。
「そうじゃ、王定六はどうした? さっきの部屋の近くに…。まさか」
「生きてはいるさ、オレたちの心の中でな」
「!」
「実際にもくたばってねーって。ウシ女もチビ医者以外殺す気はなかったんだろーぜ」
 少しだけ安心する。起き上がれたら一番に治すと約束したのを覚えておこうと思った。
 どこだか分からないが、先ほどより広めの部屋に着いた。
「よくあそこに駆けつけたのう」
「診療所で軽く手当されてたら、悲鳴あげたり、フラフラどっかいくとこ見ちまって…渋々な」
「なるほど、お前も怪我人か」
 赤子でも抱くようにして戴宗の腕の中に収まっている今なら可能なはずだ。せめて彼の傷だけでも治したい。
 体の力は入らなくとも、星の力とやらははっきりと感じられた。普段より強い気さえする。
「あっ! オイ、やめ…!」
 気づいた戴宗は叱ろうとしたが時すでに遅し。
 平気そうにしていたが、だいぶ深い傷だった。この見栄っ張りの強がり男め。
「あーあー…、おたく何してんの?」
「ワシは医者じゃ。患者がいれば治す」
「あーそー。ご立派だねぇ」
 呆れたように言いながら、また寝床に入れられる。
「あー、面倒くせー。どーせ任務失敗だ。おたく、今自分の手も見えないだろ?」
「手? ああ、持ちあがらん。痺れ薬のせいじゃろう」
「面白いモン見せてやるよ」
 腕をつかまれる感覚はあった。そして目の前にぷらん、と力の入らない手が向けられる。三歳児くらいだろうか。幼い手だった。
「…?」
「おたくの手だ。足も見るか? 可愛いぞー?」
 意地悪く笑った戴宗が腕を放す感じ。そして足をつかむ。持ち上げられる。
 やはり細く小さな幼子の足が見えた。
「分かったか?」
「…」
 分からない。脳が情報を受け付けない。
「おたく、力の使い過ぎで成長が止まるどころか、どんどん若返ってるんだけど…知ってた?」
「…」
 知らない。今まで、そんな兆候はなかった。確かに成長は犠牲にしてきたが、背が縮んだりさらに幼くなるようなことは一度もなかった。
「宋江が言うにはとにかく星の力を使わないで安静にしてろって。あの目で見て相当ヤバイらしいから、なんか無茶なことしたんじゃねーの」
 どこかで、頭領命令、と聞いた気がする。夢の中のようにぼんやりとした記憶しかない。
「分かったら、大人しく寝てろ。オレ治したせいでさらに縮みやがって…胎児に戻ってもママの腹に入れるわけにもいかねーからな」
 背中を向けて、戴宗は足早に去った。
 そんな馬鹿な。
 意味が分からない。
 そんなに無茶なことなどした覚えが…。
 ない、はずだ。
 目が覚める前のことを思い出せない。もやがかかったように、記憶が霞んでいる。
 熱があって、倒れた? それはどこで誰に聞いたのだったか。体はいつから動かなかっただろうか。
 思い出せない。
 思い出せない。
 思い出せな


 ◆


 目を覚ますと。
「安道全医師、気がづきました?」
 二つのお団子に結った髪が特徴的な影が見えた。
「す、い…れん?」
 声が上手く出なかった。
「具合はどうですか? 起きられそうですか?」
 体は油が足りないカラクリのように軋んだが、起き上がることはできた。診療所の、薛永と寝泊まりしている部屋だ。私室は別に用意してくれたようだがそちらには殆ど泊まったことがない。診療所と繋がっているここが一番便利だった。
 翠蓮は安心したような顔で、安道全の額に手を当てる。
「熱は下がったみたいですね」
「ワシは…どうした…?」
「熱を出して倒れたんですよ。薛永さんが仰るには、この前同じ病の患者さんを診たからその時伝染ったんじゃないかって」
 そう言われても少しも思い出せない。何をしているときに倒れたのだろう。一時的な記憶の混乱か。
「薛永はどうした?」
「医師の替わりに、診療所で頑張ってますよ。今、梁山泊の中ですごい下痢の人が大勢出てしまって」
「食あたりか」
「それが、共通して食べたものがないって…。流行性のお腹の風邪かもしれないって、薛永さんが」
 さすがに安道全の側でいつも治療を見ているだけのことはある。薛永の見立てで間違いないだろう。
 ずっと患者をともに診てきたのだ。薬師とはいえそこらの医者よりまともな治療をする、と自分が言うのだから腕は確かだ。難を言えば血に弱くて外科的な処置はとても苦手なところだろうか。
「薛永さんからお薬預かってるんですけど」
 翠蓮は煎じ薬の粉と器具を持ってきてテーブルに置いた。
「やり方が分かるのか?」
「それは、聞きました。でもちょっと自信がないので…」
「ワシはどうも薬を作るのは苦手じゃ。手順だけならよく見ているからわかる」
「あ、じゃぁ、私がやるので、間違いそうだったら教えてもらえますか?」
 翠蓮は丁寧に、説明を受けた順番で薬を作り始めた。
 無暗に真剣なままごとのようだ。薛永は器用に欲しい薬をすぐに作ってしまうが、普通はこうなのだな、と新鮮なものをみたという気分だった。安道全が飲める状態になるまでは少し時間がかかりそうだ。
 湯が沸くまで翠蓮もやることがない、という状態になったところで。
「あ、ごめんなさいっ。医師は病気なのに。ずっと起きたままで…辛くないですか?」
「大丈夫じゃ」
「お湯が沸くまで寝ていてください」
「いや、このままでいい。寝るのに疲れた、というのも変じゃが…」
 長い間眠っていたのだろうか。また横になるに抵抗を感じる。
「…何か…」
「どうしました?」
「嫌な夢を見た気がするのう」
「夢…ですか」
「そうじゃ。寝ていたら…体が動かなくなって、戦が始まったというのに、ワシは…」
 思い出そうとするだけで嫌な気分になった。
「何か最後に、とても嫌なものを見たような…」
 ふと、自分の手を見てみた。いつも通りの子供の手だ。握ったり開いたりしてみて、自分の物だと確認した。
「手、ですか」
「いや…どうだったか…。何か戴宗が憎たらしい顔でなにか見せたような気がするんじゃが…」
「夢の中でも、そうなんですね」
 翠蓮は苦笑した。
 湯が沸いて、薬は最終工程に入った。
「そう緊張しなくとも大丈夫じゃ。ちゃんとできておる」
 作ってもらっているというのに、こういう上からの物言いしかできない。翠蓮は気分を害すどころか、嬉しそうに返事をして深呼吸を三回した。それからまた作業に集中する。
「…完成です」
 ふーっと息を吐いて、茶碗に移した薬を運んできた。
「上出来じゃ。ワシよりも上手い」
「そんなわけないですよ」
「薛永に聞いてみるといい。ワシは本当にそれが出来ん。まず分量を量るというあたりから面倒になる」
「お二人は本当に補い合ってるんですね。さぁ、医師のお墨付きの薬です、どうぞ」
 薬を差し出された。これがとても不味いことは知っている。それを堪えて飲んだ。不味い。今度、薬を美味くする薬を開発してはどうかと薛永に提案しようと思う。
「お付き合い、ありがとうございました。熱はもうないみたいですがもう少し寝てください」
「もう寝たくない」
「医師、子供みたいですよ」
「もう寝るのは嫌じゃ。嫌な夢ばかりで」
「そんなんじゃ、大きくなれませんよ。それどころか、縮んでしまうかも」
 翠蓮のものではない、おぞましい声が聞こえた。起きていたはずなのに、いつの間にかまたベッドに寝て動けなくなっていた。
「怖い夢は本当に夢でしたか」
 腕を捕まれて小さな手を目の前に突き付けられた。夢だ、これも夢だ。目覚めなければ。もうこんな夢は嫌だ。


 ◆


 目を覚ますと。
 一人きりだった。
 目を覚ました、と感じたが安道全はどことも知れぬ場所に一人立っている。
「…薛永?」
 相棒を呼んでみたが返事はない。悪い夢のように白ばかりで果てのない世界。
 そうか、夢かもしれない。先ほどまでのあれも全部。
 先ほどまでの?
 何か悪い夢を見ていた気がするが思い出せない。
「おはよぅ。安道全医師」
 いきなり目の前に男が現れた。懐かしい、となぜか思う。
「久しいな、晁蓋」
「そうか? オレはいつも見てるからそんな感じはしねーけどな」
 小汚く無精ひげを生やした顎をさすって笑う。その仕草もどこか懐かしい。
 そうか、これは、夢だ。
「迎えに来たのか」
「そんなんじゃねーって。オレぁ、ただ見て笑ってんだよ。その、宿星ってやつ? 難儀なモン背負わされて、苦労してるのを、見下ろして笑ってんだよ」
「悪趣味じゃの」
「だってそうだろ? そんなモンなかったお蔭でオレは一人で勝ち逃げだ。なぁ薛永、勝ち組から言ってやろうぜ」
 晁蓋がそういうと、いつの間にか薛永が彼の傍らに立っていた。棒切れのような体が晁蓋の大きな図体と態度で隠れていたのかもしれない。
「旦那、そんな意地悪いうものじゃありませんよ」
 そういえば薛永もまだ星を持っていなかった。正しくは持っているのかいないのか分からないがまだ発動させるに至っていない。
「薛永」
 呼んだが薛永はいつもの軽快な返事をしなかった。ゆっくりと首を安道全に向けて、にこりと笑う。包帯の隙間から覗く目は優しげなのに、ひどく恐ろしいものに思えた。真っ赤に血走っているように感じて、見つめ直したが、そんなことはない。気のせいだ。
「アタシは迎えになんか来たくなかったんですよ」
 いつだって安道全を乗せていたのに、変なことを言う。
 晁蓋の横にいつまでも立っている。なぜ、こちらに来ない。いつも二人でセットだっただろう。
「薛永


 ◆


 目を覚ますと。
 誰かのすすり泣きが聞こえてきた。
「だれじゃ?」
 安道全の声に驚いたような気配があった。
「医師、目が覚めましたか」
 慌てた様子で翠蓮が側により覗き込んだ。前に見た時より随分と疲れた様子だ。
「…何か、夢をみていたようじゃ」
 どれが夢でどれが夢でないのか。判別できなくなっている。
 戴宗に見せられたあの小さな手足は、今もそのままなのだろうか。確認しようにも指一本満足に動かない。
「翠蓮、戦はどうなった?」
「今日はもう、一度みんな戻ってきたんですが…」
 今日は、とつくということは戦いが終わったわけではないということだろう。
「…戻って、来ないんです」
 翠蓮が俯いて、小さくつぶやいた。
「みんな戻ってきたのに…」
「…戴宗か」
 俯いたまま無言で頷いた。
「宋江さまも、今回は特殊な任務は与えてないって…きっと戻ってくるって…言うんですが」
「あれだけ速ければ誰にも捕まらん」
「…そう、ですよね…」
 不安そうな声に詰られている気がした。怪我を治したから、戴宗はまた無茶をしたのだ、と。翠蓮にそのつもりはなくとも、そう聞こえてしまった。
「翠蓮、ワシは今何歳くらいに見える?」
「…!」
 翠蓮の表情で、一番夢であればよかった部分は残念ながら現実だと知る。
「前に見た時よりも縮んだか?」
「医師、どうして」
「戴宗がここへ運んだ。そのとき手足を見せられた。ワシが戴宗の傷を治したからじゃ」
「…戴宗さん…が。…ま、まったくもう…困った人です。帰ってきたら怒ってあげなくちゃ」
 無理をして少し笑う。その笑顔が痛々しかった。
「のう…翠蓮。宋江と話せるかのう」
「え?」
「頭領を呼びつけるのは無理か。…色々、夢を見た。夢を見ながら考えたというのも変じゃが…ワシは、ここで星を誰かに譲ろうかと思っての」
 翠蓮が青い顔をして何か叫んだ。だめです、とかそんな言葉かもしれない。悲鳴に近くて聞き取れなかった。
 当然と言えば当然か。星を譲るというのはつまり死ぬということなのだから。
「星は宿主を選ぶ。地霊星はワシを選んだ…ということは次も医術の心得がある者を選ぶじゃろう。ワシが知る限り…ワシ以外で一番の医術を持った医者は、今は薛永しかおらぬと思う」
 翠蓮は首を横に小さく振りながら、声も出せずにいた。
「せっかくじゃ。ただ殺されるより、胎児に戻るまで力を使い果たして…誰かを治して譲りたい。ワシは医者じゃ」
 深く考えたわけではない。夢に晁蓋が出た気がする。迎えが来た、という気がした。
 そして一番効率的な手段を考えるとそれが一番良いと思えた。そのあと、星を薛永に渡せれば言うところなしだ。孫二娘に殺されかけたのは夢か現か、よくわからないが。本当だったのならあのとき殺されてもよかったのだ。あのときはまだ薛永が今、自分に次ぐ医師に成長していることに気づいていなかった。
「今のワシには患者のところまでいくこともできん。誰かの仕込んだ痺れ薬のおかげでな。だから、宋江の許可を取るか、診療所まで連れて行ってもらえんか」
 翠蓮は恐ろしいものを見るような目でこちらを見ながら、ゆっくりと後ずさった。
「ダメです…そんなの…。だって、それは…」
「こうしていても犠牲者が増えるばかりじゃ。星の行く先が分かっていれば探す手間も省ける。きっと大丈夫じゃ。薛永はまだ星を持っておらん。あれが腕の立つ医者だというのはワシが保証する。きっと…」
 翠蓮はお団子から落ちる髪を揺らして大きくかぶりを振った。
「ダメ…ダメなんです…っ」
 大粒の涙をこぼして、堪えきれなくなったように走ってどこかへ行ってしまった。
 悪くない提案だと思ったのだが。翠蓮を泣かせるほどのまずい部分があったようだ。
 どのあたりがまずかったのだろう。自分は死ぬことになるが、それは仕方のないことだ。他の犠牲者が減るのなら医者の命くらい軽いものだ。実に上手いことを考えたと思ったのだが。
 どこに泣くような要素があったのか。
 見慣れぬ天井を見ながら考えてみた。





 目を覚ますと。
 どこかで見た景色だった。土ぼこりがひどくて視界が悪い。戦の音が聞こえた。
「いやじゃ! 薛永! どうして…!」
 よく知った声が近くで聞こえた。
 泣き叫んでいる。いやだ、いやだ、と。子供のように。
 安道全はこの場面を知っていた。別の角度からそのシーンを見直しているのだ。
 土ぼこりがいくらか風で流されてすぐ隣に自分が座り込んでいるのが見えた。
 思い出したくない。脳が危険信号を発している。
 座り込んだもう一人の自分はなにかを抱えて泣き続けていた。
 安道全は、それが何かを知っている。
「星の力とやら…今使わずにいつ使うというんじゃ! 治せ! 安道全! 貴様それでも神医と呼ばれる医者か! 治せ! 戻せ! 元通りに、治せ!」
 大声で叫んで立ち上がる。抱えていたものを空に掲げた。
「…っ」
 それは瞳が血の色に染まった、首だけになった薛永だった。


 ◆


 目を覚ますと。
「薛永」
 相棒が心配そうに覗き込んでいた。
「よかった、今、恐ろしい夢を見たんじゃ」
「夢ですか?」
「そうじゃ、お前が…お前の生首を」
 手で抱えていたそれを天に掲げるポーズを見せようとしたが手足が動かない。
 寝床に縛り付けられたように体が動かない。
「アタシなら、そうなっても生きていそうですけどね」
「確かに、今生きているのも不思議な生き物ではあるな、薛永は」
 冗談に安心して、安道全も少し笑った。
「そうなったら、医師の力で治してくれるでしょう…いえ、治してくれたじゃないですか」
 背筋の凍る思いだった。
「…まさか」
「ただの夢じゃないですよ、それ」
「ワシが…?」
 生きていればどんな重篤な患者も治せる。だが決して死人は蘇らない。医術は生者のためのものだ。
「アタシを生き返らせるために医師は星の力を暴走させました。アタシが目を覚ましたら、隣に赤ん坊がいてね、そりゃもうびっくりしたんですから」
 笑い話のように言うが、その内容は笑えない。星の力を暴走させた者は何人か診てきた。使い果たすものは様々だがとにかく、生き死にに関わるようなことになるのは間違いない。安道全の場合はこれまでの成長を使い果たした、ということなのか。
「寝る子は育つってね、医師はすやすや寝ている間にどんどん元の医師に近づいていたんですけど。大きくなってきたら、治療するだのなんだのと…困ったのでちょっぴり薬を使いました」
 許しを請うように両手を合わせている。
「正解と言えば正解じゃな。ワシは胎児になるまで使うぞ」
「もー、医師、替わりは利かないんですから止めてください」
「替わりは…そうじゃ、翠蓮に話を聞いたのか? いや、宋江からか?」
 薛永は情けない顔で頷いた。
「では患者のところへ連れて行ってくれ。大丈夫じゃ。ワシの替わりはちゃんといる」
 安道全の星の力が発現するまえからずっとともに医術を行ってきた。薛永ならば万能薬のような医者になれる。そう確信する。
「そうじゃ、王定六と約束をしたんじゃ。一番に治すと。…最期に、になってしまうかもしれんが、王定六のところへ…」
 薛永は無言で顎を横に振った。間に合わなかったのか。脳の支配を失った体は、神経の切れ方にもよるが、長く持たないことも多い。
「張青は生き延びたか? 重体だと聞いた」
 やはり薛永は首を振る。そちらもだめだったか。今日はいくつ命が消えてしまったのだろう。
 早く、薛永に渡しておけばよかった。
「医師、ごめんなさい。アタシ、ひとつ嘘吐きました」
「嘘?」
「安道全医師は、確かに星の力を暴走させてアタシを助けようとしてくれたんです」
 言い回しが気になった。
「暴走した星の力で、戦場で傷ついた人たちの傷がいっぺんに消えました。すごく広範囲で、敵も味方もなく、全ての命を癒して…でも、死人は蘇りませんでした」
 がくりと、薛永がうなだれた。
 いや、包帯で繋がっているように見えていた首が、落ちそうなほどに傾いたのだ。
「それを知ったら医師がまた暴走するんじゃないかって、心配して…みんなで生きていることにしてくれたんです」
「せ、つ…え」
「アタシを医師の次にすごい医者だなんて思ってくれて、本当に嬉しいです。でも、ごめんなさい、医師。アタシもう」
 首の重さに負けて、包帯が解けた。安道全が横になっている寝台にごろりと。真っ赤な目の薛永が転がった。
「乗せて歩いてあげられないみたい。…自分の首も上手く乗らないんだもの」
 首だけの薛永が申し訳なさそうに笑った。


 ◆


 目を覚ますと。
「薛永!?」
 起き上がって叫んだ。体が重い。あつくて、息苦しい。
「アイサ! どうしました?」
 元気な返事をして薛永が現れた。診療所の控室のような場所に寝ていたらしい。
「薛永、薛永」
 体が思うように動かないが、寝床から降りて薛永に駆け寄った。腕を引いて肩に乗せろと合図する。
「どうしたんです? まだ寝ていないと」
「早く!」
「アイサー…?」
 屈んだ薛永の肩によじ登る。普段なら立っている状態でも飛び乗れるのに、熱のせいか肩までがとても遠く感じた。
「首は繋がっているか? どこか痛いところはないのか?」
 薛永は嘘を吐くから、自分で包帯の上から首を触った。骨と包帯ばかりの筋張った首は、ちゃんと胴体と繋がっている。
「どうしたんです? 医師」
「嫌な、夢を…たくさん見た。何度目を覚ましても、夢の中で、起きても起きても、薛永がいない。いたと思ったら…」
 思い出して薛永の顔にしがみついた。涙が出ている。見られたくない。
「もうあんな夢はいやじゃ。薛永は夢ではないな? お前は本物の生きている薛永じゃな?」
「アタシ死んでたんですか? 人の夢の中で死ぬと長生きするって言いますよね」
「長生きしろ。ワシより長生きしろ」
「順番てものが…」
「それでもワシより長生きしろ。一秒でいいから長く生きていてくれ」
「はいはい」
 なだめるように返事をして安道全の頭を撫でた。
「まだ熱がありますね。もう少し寝た方が」
「いやじゃ、ここがいい。ワシはここにいる。風邪くらい薛永にうつせば治る。薛永の病気ならワシが治せる。一件落着じゃ」
 はた迷惑な論理をこじつけた。涙を薛永の包帯にごしごしとなすりつけて、頭を放さなかった。
「よっぽど怖い夢だったんですねぇ…というか…それって」
 顔に安道全がしがみついた状態のままで薛永は部屋の中を歩いた。
「『民奮』の幻覚作用かしら」
 薛永がビンを片手に首をかしげる。安道全も一緒に傾いた。
「そういう副作用が起こることもあるんですよ。もっぱら小さい子供にですけど…。ああ、医師は…そうでした」
 安道全の年齢を思い出したように薛永は一人納得している。
「よく利く薬なんですけど、医師には別の薬の方がいいみたいですね」
 安道全は恐ろしい夢の正体を知って安堵しつつ。取り乱しすぎた今の言動が恥ずかしくなってきたり、そんな薬を作った薛永が悪いという八つ当たりに近い気持ちになったりで。
 べちん、と薛永の額を叩いた。
「ア、痛」
「ともかくワシはここから降りん」
「分かりました」
 苦笑いで承諾された。
「阮家の三人が、医師が病気だって聞いて、すぐそこでお鍋を準備してくれてるんですよ」
「それは美味そうじゃな」
「そろそろ食べられるんじゃないかしら。行ってみましょうか」
「うむ」
 さすがに顔にしがみついたままでは体裁が悪い。寝巻姿ではあるが、肩の所定の位置にきちんと座り直した。
 診療所の出口に近づくといい匂いが漂ってくる。
「あ、医師! 起きていいの?」
 象でも煮るのかと思うような巨大な鍋が診療所の前で煮えていた。小五が笑顔で迎えてくれた。
「もう大丈夫じゃ」
「顔、赤いけど…」
 小七は余計なことに気づく。
「まだ熱があるのに起きるって聞かないんです」
 薛永の頭を殴った。医師も子供みたいなところあるんだなぁ、と阮家の下二人はしみじみと話し合っている。
「emergency!」
 鍋の向こう側から小二の声が聞こえた。
「兄ィ、どうしたー?」
「扈三娘、襲来」
「うえぇ、そりゃ緊急事態だ。小七、鍋を守るぞ!」
「どうやって!?」
「頑張って!」
 小五も小七も鍋の向こうにかけていった。怪獣でも現れたかのような反応に薛永は笑い出し、安道全も釣られて少し笑う。
「医師たち、早く、あるうちに食べてください!」
「戴宗まで来やがった。医師たち、早く。薛永さん、早く自分たちの分確保して!」
 妙に緊迫した声が飛んできて可笑しい。
「いただきましょうか」
「そうじゃな」
 食べたら大人しく寝ようか。薬の副作用と分かってから安道全はとても落ち着いていた。
 こんな賑やかな日常がこれからも紡がれていくのだ。
 恐ろしい夢は、この日常に感謝できるようにするための訓戒なのかもしれない。いや、悪趣味なこの梁山泊の守護神ともいうべき存在が暇つぶしにちょっかいを出してきただけのような気もする。
 とにかく安道全はかつてないほど、この下らなくも暖かい現実に深く感謝していた。


 ◆


 目を覚ますと。




















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20101207 ブログにて公開
20101231 サイトに移植