道士の作った泡の中は不思議と暖かい。傷が見ているうちに塞がっていく。何か見えないものが体に作用している。不快なものではない。
「やー…それにしても…すごいね」
朱貴はもう一度上を見上げた。王倫と戴宗の仲間だという道士が互いに巨人を操って戦っている。この世のものとは思えない光景だった。
翠蓮も扈三娘も同じく感心したように、あるいは飽きれたように見上げている。人智を超えたものが目の前でうごめいているのだが、不思議な泡の中にいる所為か、どこか現実味がなかった。
戴宗は地面に寝転んでいた。その方が上空を見上げやすいのかと思ったが、視線がそちらへ向けられていない。目は開けているが何も見ていない、そんな気がした。
朱貴は上空を眺めるのを止めて泡の外を見回した。
四人の不思議な力を使う敵が封じ込められた泡がある。そこは身動きもあまりできないようだ。林冲、杜遷、宋万は別の泡の中でまだ倒れたまま。だがこの泡に包まれているのだとしたら三十分後には回復するのかもしれない。
杜遷も宋万も仲間に取り押さえられているうちに、敵の攻撃をまともにくらって倒れた。朱貴も同じように操られた仲間に囲まれたが、多少の怪我を負わせるのは仕方がないと割り切った。二人が回復してそれを知ったらさぞ怒られるだろう。
自分は怒られたほうがいい。いや、是非とも叱って欲しい。
動かない二人を見ながら願うようにそう思った。
泡の外。つまり回復も束縛もされていない場所では仲間達が何が起こったのか分からないという様子で上空での戦いを眺めている。王倫の術で操られていたときの記憶がないようだった。泡の中にいる朱貴に気づいて助けようとしてくれる者もいたが、三十分で出られると伝えた。
空の騒ぎに気を取られ、まだ気づいた者は少ないが、彼らの足元には仲間だったものが転がっている。王倫に操られあの四人の攻撃をまともに受けた者たちだ。
これで満足か。あの屍骸を見てお前は満足するのか。
細い眉を顰めて自分を罵った。
梁山泊の第四頭領。最初は王倫の話が面白そうだと思った。だが、王倫は年月とともに変わってしまった。官軍と戦う気などもうないのだろうと思った。梁山泊での最高権力者。それに満足してしまっている。そう見えた。
朱貴は倦んでいた。この国を変えよう。そう熱く語った王倫に従ったのだ。その気のなくなったお山の大将には関心がない。
表面上は変わっていない様に取り繕っても、もはやその熱意はない。湖のほとりで外から梁山泊を眺めていた朱貴にはそれがよく分かった。王倫からもう入山者を増やすなと言われたときは自分の気のせいではないと確信し、失望した。林冲という大物でさえ追い返せと命令が来て、もはや王倫を見限るときが近いのだと悟った気になっていた。
ここに篭っている同志たちには相変わらず上手な演説でも聞かせ続けたのだろう。兵たちに朱貴ほど倦んでいる様子はなかった。
自分は飽きやすい性質なのだろう。
適度なスリルを常に感じていないと生きていると実感できない。部下達にそんな風に言っていた。それも嘘ではない。ただ、前に進んでいるという実感さえあればそれはスリルでなくてもよかったはずだ。
戴宗や林冲が何か別の目的で入山を求めているというのは店での入山試験で気づいた。そして二人は十分に強かった。命令を無視して彼らを入山させることにしたのは、この停滞した面白みのない梁山泊を変えてくれそうな気がしたからだ。
それで少しでも楽しめたらいい。
そんな程度の気持ちだった。
もう一度誰のものか分からないような酷い死体を注視する。
ああなったのは自分かもしれなかった。
退屈だ、もっと刺激を、と思っている間に、王倫は想像以上に変わってしまった。あの道術というのは昔から使えたのか、最近覚えたものなのかは知らない。ただ、何かおかしい。それを感じていながら、この裏切りに気づかなかった。叛徒の頭領が仲間を官軍に売り渡す。そこまで堕ちたか。王倫に対してそう感じたが、自分がこの事態に陥るまでそれに気づかないという失態を恥じる気持ちの方が大きかった。
何がスリルだ。これがお前の望みか、朱貴。
同志に襲われ避けながらも自分に毒づいていた。わざわざ何か行動を起こさなくともスリルなら嫌というほど用意されていた。そしてその気配を掴んでいながらつきとめようとしていなかった。
杜遷が、宋万が、林冲が倒れた。戴宗も甘いと思ったが林冲はそれ以上らしい。操られただけの人間を傷つけることを自分に許さなかった。戴宗は足が恐ろしく速い。操り人形では彼を捕まえられなかったのだ。
仲間を傷つけるのを躊躇わなかったのは自分だけらしい。
戴宗に「何か隠してんだろ?」と訊かれたとき、否定した。投げるものが無くなったということではない。この場を戴宗や扈三娘と切り抜ける方法はない、という意味だ。
自分ひとりだけ助かる道ならあると思った。戴宗も万策尽きたという口ぶりだったがまだ表情には余裕があった。それを利用すれば。
何か策を持ちかけられたら頷いておく。それが賭けに出ていい策なら乗る。そうでなければ、戴宗を倒すことで敵との交渉の糸口にする。本人曰く替天行道の一員の首だ。安くはないはず。交渉が通じる相手には見えないがこのまま戦うよりはいくらか可能性が高いだろうと思った。
そんなことを考えているうちに本日の救世主の登場となった。
あの道士が現れなければ、戴宗を背後から刺し殺していたかもしれない。女二人は他に利用価値があるとまで考えた。
「馬鹿だ、俺は」
口をほとんど開かずに呟いていた。裏切った王倫と大差ない愚か者だ。
日頃から退屈を遠ざけようとスリルを求め、いざ特大のそれが現れたら生きるために仲間を傷つけ、どんな卑怯な手段も厭わない。自分の残酷さは理解しているつもりだったがここまでとは思わなかった。自分自身にひどく失望している。仲間に手を出せずに倒れた杜遷や宋万の方が余程強い人間のように思えた。
泡の中をゆっくりと一周してまた中央に戻ると寝転んだ戴宗に話しかけた。
「戴宗くんはまだ何か策があったんじゃないの?」
することのない三十分は時間が経つのが遅い。ぐるぐると考えても仕方のないことを考えてしまう。自分を見限ってしまいそうな暗い思考から抜け出したかった。
「…ねーよ。策なんて」
「そう? それにしては余裕ありそうな顔に見えたけど」
「おたくもな」
寝転んだまま口元を歪めて笑った。
「策じゃねーけど、オレはおたくとあのメスを敵に献上してやろうと思ってた」
「なんですって!?」
「た、戴宗さん!?」
女性陣にも聞こえたようで非難するように叫んだ。
「命乞いなんざ趣味じゃねーが、オレにはオレのやらなきゃならんこともあるんでね。こんなところで殺されてやる暇はねーんだよ。おたくらの命でカタがつくならまーイイじゃん?」
女の子二人は口々に異論を申し立て泡の中が賑やかになった。
朱貴はただ笑っていた。
利用してやるつもりだった子供もこちらを利用することを考えていた。それを簡単に口に出してしまうところが心地いい。どこまで本気か分からない。朱貴もよく他人からそんなことを言われる。どうやら本当に同種の生き物らしい。
結局どこか似た者同士ということだろう。それだけのことなのだが、今の朱貴にはなによりの救いになるものだった。
「やー…やっぱり私が気に入っただけのことはあるのよね」
「げ、なにそれ」
笑って言うと戴宗は迷惑そうに顔をしかめた。そして朱貴から目を逸らし、ぼそりと言う。
「手品ヤローは自分も隠し事してるくせに、人に裏をかかれると腹立つんだ?」
一瞬、何を言われたのか考えた。苛立っているのを見透かされた。それは驕っていた自分へ対しての憤りだったが、戴宗から見れば王倫に裏切られたことで怒っているように見えたのかもしれない。
読みは半分外れていたが自分の怒りに気づく人間は少ない。朱貴はますます戴宗を気に入っていた。
「そりゃそーなのよね。だって…そーいうものでしょ?」
「だな」
にやりと笑う口元。似た者同士だと互いに確認するような会話だった。
「献上するのに翠蓮ちゃんが入ってないってことは…戴宗くんは彼女のナイトってことでいいのかしら」
話題を変えようとしてからかうと打てば響くように二人同時に否定してきた。任務がどうのと言い訳をするので聞き流す。若いっていいね、と言うと更に反発してきた。こういうところが若い。からかい甲斐のある相手は好きだ。
それからしばらく話をしたが戴宗は面倒くさそうに会話から外れた。寝転んで何をしているということもなさそうだが何か考えているようにも見える。三十分経ったあとのことを考えているのだろうか。敵の話では星の力というものを戴宗も持ってはいるのだという。持っているだけで扱えなければ意味がないらしいが。
どうやるのか探っているのかもしれない。
「あの変な力、なんとかしないと…」
扈三娘もそれが気になるようだった。戴宗になんとかしろと直接言いはしなかったが他に道はないと思っているだろう。
「あの人たち…なんだか嫌な感じです…。強いとか怖いとかだけじゃなくて…なんだか…。星の力って…一体…なんなんだろう…」
翠蓮は不安そうだった。戦う術を持たない彼女は守られるばかりで足を引っ張るのが辛いのだろう。懸命に観察して何か見つけ出そうとしている。上手く言葉にならないのがまた辛いという感じだ。
「変な力…そうなのよね。何かの術ってわけでもないのに自分自身じゃなくて武器まで変化しちゃって」
「パンダまで…」
「まったく…この夢いつになったら覚めるのかしら。弓に羽根が生えたりパンダが被り物になったりボールが鎧になったり…あの空の巨人も全部夢だわ、全部夢に決まってるんだから」
がばり、と戴宗が起きた。
「え?」
「な、何?」
ばたり、と戴宗はまた寝転んだ。
「なんでもねー」
それきりどんなに話しかけても返事をしなくなってしまった。何かを掴んだように朱貴には見えた。
この泡が破れたら。
待っているのは更なる惨劇か。救いの道が見えるのか。
もし無事に生き残ることができたら。
心の真っ直ぐな同僚に叱ってもらおう。
それから似た者同士の彼と仲間になるのも悪くない。
彼がいるということは、替天行道の世直しとやらは自分のような思考回路の持ち主でも参加できるということだ。
何より、彼らと一緒にいるのは楽しいだろう。退屈だと言う暇がなさそうだ。楽かどうかは分からないが、楽しければそれでいい。
自分らしい理由だと朱貴は満足していた。
いつの間にか自分への怒りも収まっている。結局、嘘つきで快楽主義者の冷酷な自分が嫌いではないのだ。
終。