人別つ道

 伸ばした髪を揺らして駆けて来る。何度見てもあの髪形はいただけない。似合わないどころか視覚への暴力のように感じる。
「本当に、行くのか」
 切れた息をようやく整えて湿った声を出す。乱れた髪を撫で付ける仕草がまた不気味だ。言うと怒るので最後くらい言わずにおこう、と珍しく気を利かせてみた。
「もっと喜んだらどうだ。これまで散々に目の敵にしてきた連中が出て行こうというのだ」
 別れくらいは言いたかった。だから一人、待っていたのだ。宿敵のようだった親友を。
「・・・いつか、分かり合えると思っていた」
「分かり合えていただろう、あの青二才が現れるまでは」
 彼こそが我らが分岐点。
 皮肉の応酬に明け暮れるのが日課だったこの男との、この島との別れを決意させた異質な存在。己は彼を異物と感じた。だがこの島の大多数はそうは感じないらしい。
 好ましく、麗しい、甘美な幻惑に囚われてしまった。こちらからはそうとしか見えない。この男ほどの僧でも。
「戒律に縛られるのは馬鹿げている、悟りは苦行の果てにあるとは限らない、もっと広い目で世の中を見て、もっと自由に修行をすべきだ。・・・・これら全て、お前の言って来たことと何が違うというのだ」
 暑苦しい声と顔で今更のことを繰り返した。
 今日はそれに付き合おう。分かり合えないことを理解するために。
「おー、まさにそれは我信条。よく理解しているものだ」
「破戒の限りを尽くしたお前だ、私よりあのお方のおっしゃる意味が理解できるはず」
「破戒は破戒。あの小僧に通じるものなどない。まだ分からんようだな・・・」
 この島の住民の大半は何百年という歳月を戒律と規則でがんじがらめにされながら生きてきた。それが不自由などとは考えもしない。だからこそ甘い言葉に誘い出された。皆が足並みを揃えて尊い教えを踏み越える勇気を、あの若者は与えてしまった。なんという口車。小賢しい。
 あの男さえ現れなければこの島で男子が髪を伸ばすことなどなかっただろう。この不気味な生き物を作ってしまっただけでも彼の罪は重い。
「あのお方、とやらの思想とは破戒のそれとは大いに異なる。我らが戒律を破るのはそれにより悟りの道を探す故だ。それぞれの道がある。だからお前にそれを勧めたことはなかったはず。破戒僧はあくまで僧だ。今のお前はどうだ?」
 何か言い返そうとして、無駄だと思ったのか厚い唇を閉じる。服装も髪型も今や自分の方が余程戒律に縛られた僧に見える。この逆転さえ彼らには異常と感じられない。長く縛られすぎたのだ。解放の喜びは正常な思考を停止させる。信念さえ曇らせる。
「お前はまだ僧のつもりでいるかもしれん。だがな、アレは違う。あいつはいつかあの力でこの島を滅ぼすぞ」
 確かに破戒の限りを尽くしてきた自分だからこそ彼を危険だと感じることが出来るのだろう。すでに解放されていたからだ。
「いや、自ら神をさえ名乗るのかもしれん」
「馬鹿な。スカイピアではあるまいし」
「その頃にはお前さんもまた、あのお方を神と崇めるのだろう」
 相手は馬鹿馬鹿しい、と鼻から息を吐いた。風圧で飛ばされそうだと冗談を言うと、では私が風神を名乗りましょう、と珍しく冗談で返した。分かっているのだろう。自分を止められないこと。そしてこの島を包んでしまった不可解な異変もまた止められないことを。
「ならばあの男は雷神か」
「下らない、あのお方にそんな野心など」
「・・・それが既に篭絡されている証拠・・・ああ、もうやめようか。何度繰り返しても同じこと」
 残念なことに彼には恐らくそうさせるだけの知恵と力がある。強大な力は隠しておいていたずらに恐怖を与えず、奇跡をもたらし、蜜のような言葉で人心を惑わす。
 いつの日か、この島を滅ぼす破壊神となるか。それとも強大な力の前に自らを滅ぼすか。
「だからと言って下界へなど」
「下界、下界と見下しているから理解も出来ないのだろう。破戒と同じ。下には下の掟があろう。それを知り見聞を広めるのもまた我らの道だ」
 青き海には何が待っているのか。今はまだ分からない。そこでも自分たちはやはり掟の中からはみ出そうとするのかもしれない。これまでもそうやって生きてきたのだから。
 だがそれは、膿んだこの島で暮らすよりはずっと正常な、そして清浄な道に違いないと信じる。
「それは・・・その道は天道に続くのか?」
 引き止めるような視線が粘度を持って法衣の裾を引いた気がした。
 ああ、自分もまだ未練があるのか。
 どこまで破戒の限りを尽くしてもまだまだ遠い。人は人である限り本当の悟りへは辿り着けないのではないだろうか。そう感じる瞬間がある。今がまさにそれだ。
 名残惜しい。
 この島も、この真面目くさった天敵も。白い雲も白い海も。
 何もかも捨て去る覚悟でいたというのに。友人の一言で揺らぐ決意。己もまたただの人であると教えられる。
「それを確かめるためにあるのだろう、全ての僧は」
「空よりも下界にそれを求めるのか」
「ならば天道とはなんだ。限りない大地へ行くことか?」
 虚を突かれた。そんな表情を見せた。
 そうか、あの小僧はそんな大それたことをもう言っているのか。やはりこの島にはもういるべきではない。居場所がないと言った方が正しいだろうか。遠からず従わない者を排除する向きへと動くだろう。我々はその有力候補となる。
「そうか、ではお前はその道を行け」
「・・・」
「我々は己の道を信ずる。お前はお前の信じる道を行けばいい。それに変わりはない」
 別れの言葉を告げたが、まだ迷っているようだった。
 それとも。
 お前も来いと言って欲しかったのだろうか。
 生憎あの小僧のような人の心を読む力はない。奇跡のような力もない。ただ己の行くべき道は分かっている。それだけだ。
「・・・そうだな。破戒の果てに故郷を捨てる、か。それもまたお前らしいな。ウルージ」
「言ってくれる。そうだろうとも、だからお前はこの島を、ビルカを守れ」
 親友は常に対極の道をいく。それを自分もこの男も知っている。だからこの別れさえ。必然なのだ。いつかこうなることは遥か昔から予感していた。
「それが私らしいだろうか」
「ああ、嫌になるくらい堅苦しいお前さんにはお似合いだ」
 笑って背中を向けた。共に旅立つ仲間の乗った船が遠くに見える。
 もう引かれる感じはしなかった。
 しばらく白い雲を踏みしめてから一度だけ振り返る。
 こちらを見つめる大きな体は一歩も動かずまだそこにあった。振り返ったことに驚いたような気配だけが伝わってきた。
「お前さんにその髪型は似合わん!悪いことは言わん!剃れ!」
 余計な世話だと叫ぶ声が聞こえた。
 自分に言われれば意地になって切らないだろう。それならそれでもいい。あの癖のついたおかっぱのような微妙な長さだから悪い。顔だか首だか肩だか分からない辺りに掛かって気色が悪いのだ。どうせ伸ばすなら背中の羽の間に全部落ちてしまうほど長く伸ばせばいい。そうすれば名前と釣り合うシルエットに戻るだろう。
「お前こそ、そのピアスが気色悪い!全く似合っていないといつ気づくのか!」
 最後の悪口が聞こえた。ならば絶対にこのピアスだけは貫こう。
 いい別れだ。湿っぽいのは柄でないから。
 そうだろう?
 親友ヤマのロングヘア姿を想像して吐き気を催し、二度と振り返ることなく船へと歩いた。




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この文は全編が「笑うところ」です。
全然笑えなかった人は・・・私の力不足ですな。私の度量がうかがえる。

20080904 某ブログにて公開
20100228 本サイトにて公開