月に似たもの

 瞬く星から雫が落ちるように。澄んだ音が夕闇の浜辺を包んでいる。
 細い月が雲の向こうに沈みかける頃、ウェイバーが海を滑ってきた。音が止みハープを持った少女がビーチを駆けていく。
「へそ!父上!」
 身の丈ほどもあるハープを抱えて少女がにっこりと夕焼けよりも目映い笑顔を見せる。ウェイバーから降りた男が彼女の頭を撫でた。
「へそ、コニスさん。今日もよい空ロブスターが獲れましたよ」
「わぁい!今日もごちそうですね」
「帰りましょう。こんなに遅くなってしまってスイマセン」
「いいえ、父上。私こそ一人でビーチに来てごめんなさい」
 互いに頭を下げあって、やがて親子は一人乗りのウェイバーを引きずって家路につく。
「今日は一度も裁きがありませんでしたね」
「はいっ」
 コニスと呼ばれた少女の弾ける笑顔を見て男も釣られて微笑む。
「それがなにより…」
「はい、本当に」
 少女は真剣な眼差しで両腕におさまりきらない竪琴を見つめながら長い階段を登った。



 父親のもとを訪れた客を部屋の入口からこっそりと見ていた。貝<Gンジニアの父親のところに仕事を持ち込むのは大体見知った人なのだが。その日来たのは初めて見る若い男性だった。
 エンジェル島の人ではない。コニスはまずそう思う。
 上半身には何も身につけず鮮やかすぎるズボンと帯と腰布。柔らかな色合いを好むスカイピアとは明らかに異文化の服装だった。その上背中には羽がない。羽なしは神様、青海人、またはあまり口をきいてはいけない人たちだけだと幼いコニスも知っている。羽の代わりに四つの太鼓を繋ぐ輪が背中に刺さっているのを見て痛くないのだろうかと思った。
 二人は静かに話をしていた。声を荒げることもないが、かといって笑い合うこともない。コニスはそれをやはり静かにやや緊張して見守っていた。内容は分からないがそこを立ち去ることが出来ない。息苦しいような気がして胸を押さえる。
 隠れていたつもりだが話の途中で男は振り返ってコニスを見た。慌てて隠れようとする前に、目が合って男の顔はにっこりと笑顔になる。長い耳も目立ったが心から楽しそうな笑顔に逃げ出す足が止まった。
「コニスさん」
 名前を呼んだのは父親。何かいけないことをしたように咎めを含んだ声だった。
「ヤハハ、いいじゃあないか。ちょうど出かけるところだ。小さな子供を残していくのは心配だろう」
 いいえ。私もう一人でお留守番できます。父上がお仕事のときはいつも一人で待っているし、お料理も少しだけど覚えました。
 言おうとして。言えなかった。男はこれ以上ないほど機嫌良さそうに笑っているのに。何故か逆らう言葉は出てこない。
「…コニスさん」
「私も行きます。父上」
 上手く笑えない少女を父親が困った顔で抱きしめる。男はその様子をつまらなそうに見ていた。

 船は雲の川を進んでいく。大きな木々が歓迎していない呟きをざわざわと漏らしている。
 貝船を運転する父親の顔色は青ざめていた。木の影で薄暗い所為ではない。よく近所の人は彼をいつも困った顔をしていて表情が分かり難いというがコニスにとってはそんなことはなかった。こんなに青ざめた父親を見るのは二度目だ。一度目はコニスの母親を、彼にとっては妻を亡くしてしまったときだった。ハンドルを握る手も微かに震えている。
 助手席から振り返って見ると後部座席に乗った耳の長い男が大きな口を開けて寝ていた。体の大きな彼にはこの貝船は小さすぎる。そう言いたげに行儀悪く足を船の外へ投げ出し寝転んでいた。
「大きなお口…」
 寝顔を見ると先ほどまでの緊張が解けコニスは微笑んで規則正しく動く大きな口を見ていた。
「スイマセン、コニスさん」
「…父上?」
 いよいよ父親の表情は険しくなっていた。
「何日もかかるような仕事ではないのですぐに迎えに行きます」
「はい」
「それまでその方の言うことをよく聞いてください」
「はい」
 父を安心させようとコニスは力強く頷いて見せた。それでもそのあと、父親は何度も何度もスイマセンを繰り返す。
 母が亡くなってから父は変ってしまった。そしていつの間にか自分も「ごめんなさい」が口癖になってしまった。親子で謝り合う姿は傍から見れば滑稽だろう。だがこれは母親のことを思い出す二人の儀式のようなものだった。
「さてと」
 謝り合うのを止めたのは後ろの座席にいた男の声だった。大きな欠伸と伸びをしてまだ眠そうな半開きの目を父親に向ける。
「お前はこのまま進め。手を出すなと伝えてあるから心配はない。私もすぐ追いつくだろう」
「はい、スイマセン」
 男は立ち上がりコニスを抱き上げた。父とは違う筋肉質の太い腕が片腕で軽々とコニスを支えている。
「私は託児所に行ってくる。しっかり掴まっていろ」
「はい」
「スイマセン。コニスさん、神・エネルに粗相のないように…」
 その名に体中が強ばってしまった。
 羽なしは神様か青海人か関わってはいけない人のどれかだと。幼いコニスも知っていた。だが、まさか。母親を殺した男だとは。思いたくなかった。
 笑顔に足が竦んだのも。言葉に逆らえなかったのも。当然だったのだ。ガン・フォール様を追い出して神の座に君臨したのがこの男。母を含め多くの人の命を奪って見せたのもこの男なのだ。スカイピアは今この男に屈服している。
 理解して硬直しているコニスの目の前に神を名乗る独裁者の顔があった。整った顔立ち。やる気のなさそうな、それでいて酷く残酷な光を放つ瞳。ちょっと大き目の口がにやりと歪んだ。
「では行くぞ」
 ヒュウと風を切る音と、時折木の枝に下りたときの衝撃。ぎゅっと目を閉じてコニスは男にしがみついていた。
「怖いか?」
 風の中問う声が聞こえて薄く目を開けた。がっしりした肩の後ろになびく長い耳たぶと自分の髪が不規則に揺れて、景色がものすごいスピードで去っていくのが見える。
「は…」
 答えようとしたが風が邪魔して声にならない。
「そうか速過ぎるか。気持ちよいと思うのだがなあ」
 言ってもいない答えを聞いて男は少しだけスピードを緩めた。目が開けられる。顔を上げると男が、いや神・エネルが先ほど見せたのとは違う穏やかな微笑みを浮かべてコニスを見ていた。
 父親以外の男の人の顔をこんなに間近で見たのは初めてだった。神であり独裁者であり決して逆らってはいけない恐ろしい人。その名を口にしただけで裁きに遭った人もいるという。それなのに。自然なその微笑を綺麗だと思ってしまった。
 ごめんなさい。母上。この人は母上を殺したのに。
 コニスが心の中で母親に謝るっていると。
「お前は父親そっくりだなあ」
 言われたことのない言葉に驚く。コニスは誰の目から見ても母親似だった。
「顔ではない。声が似ているのだ」
 呆れたような顔をしてそういうと、それきり前を向いたまま何も言わずに走り続けた。

 巨大豆蔓を登っていく途中。真っ白な世界に浮かぶ小さなエンジェル島やその何倍もある神の島を見下ろしてコニスが「わぁ」とか「あぁ」とか小さく感激の声を出す。その度エネルは立ち止まってしばらくゆっくりと歩いた。
「おれも初めてここに登った時はそうだった」
 そう言って笑いながら景色を見せてくれた。先ほどまで怖くてたまらなかったのにコニスは抱いていてくれる相手が誰なのかをしばし忘れて景色に見入っていた。
「夕焼けも綺麗だぞ」
「きっとそうでしょう…楽しみです…」
 ぼんやりとそう呟いてから、ふと我に帰った。
「あの、ごめんなさい」
「何がだ」
「ええと、え、エネル様…私ずっと抱っこされて…ええと、畏れ多くも…」
 堅苦しい尊敬語が上手く出てこない。それほどこの男と尊敬語が結びつかないのだ。今は全く威厳や尊大さが滲み出てはいない。凶悪で残酷な人殺しにも見えない。優しくてパワフルなお兄さんという肩書きの方が合っているように思う。
「ごめんなさい、私、自分で歩きます」
「お前の足では登りきれん。神を乗り物代わりにしたことは大目にみてやるからこのままでいろ」
 確かに巨大豆蔓の勾配はきつく子供の足で登れる高さでもない。いや普通大人でもこんなところには登れないだろう。
「…そんなに神らしくないかなあ…」
 ぼそりと呟く声がした。
「え?わぁ!」
 聞き返した時にはまたスピードを上げて走り出していた。

 神の社に到着。かなりの距離があったと思うが時間にすればほんの数十分で着いてしまった。常人ではあり得ない脚力で巨大豆蔓を登りきり、尚息一つ乱れていない。人間離れした体力にようやくコニスは気づいて遅ればせながら驚いた。
「この娘を預かった。面倒をみてやれ」
 大きな門をくぐるとエネルは誰にともなくそう叫ぶ。雲で出来た床に下ろされて、初めて見る神の社を見渡した。周りを囲む壁には太鼓と同じ模様が並び、派手な色使いの屋根や柱がエンジェル島の建物とは全く違う印象を与えた。偉い人はこういう所に住むのか、とキョロキョロするコニス。ヒゲと髪の毛の境目が分からない不思議な格好をした男性が何人か建物まで続く道を作るように立っていた。
 うろうろする子供を神兵もエネルも楽しそうに見ている。社に子供を入れるのは初めてだった。
「お帰りなさいませ、エネル様」
 建物から三人女性が出てきた。
「ああ、まだ途中だ。私はもう一仕事してくる。夕暮れ時には戻るだろう。この子供は貝エンジニアの娘だ。私の設計に間違いがあるわけもないのだが…一応プロの意見を求めた。この娘、母親はいないらしい。一人残すのも無用心だからと父親が心配するのでなあ。ここで預かることになったのだ。何日かかるか分らん仕事だ」
 エネルは女性たちにすらすらと嘘を吐いた。
 何が無用心だ。ガン・フォール様が神だった頃のエンジェル島はとても平和だったのに。神の裁きがない限り今でもエンジェル島は素敵なところなのに。わざわざ連れてきたのは自分を人質にするためだ。
 コニスはすっかり自分の立場を理解していた。父親は自分のためにしたくもない仕事をしなくてはならない。
 ごめんなさい、父上。ごめんなさい。
 心の内で謝りながらエネルと自分への憤りで唇を噛む。
 泣いてはいけない。神の機嫌を損ねれば父親がどんな目に遭うか分からない。そして人質は元気で待っていないといけない。ここで殺されてしまったら。父親は独りぼっちになってしまう。そして、そうとは知らずに居もしない人質のために働き続けることになる。
 泣いてはいけない。泣いてはいけない。
 そう思えば思うほど視界は涙で歪んでいく。
 大きな目から涙が零れそうになる間際。ふわりと優しい腕がコニスを抱き寄せた。
「可愛いお嬢さんね、お名前は?」
「…コニスです」
「緊張してるのね、コニスちゃん。大丈夫。おばさんたちは子供のお世話は慣れているの」
「大きな子供のね」
 女性たちはエネルのことを言ってクスクスと笑う。
「ヤハハ!言ってくれるじゃあないか」
 本人も大声で笑っていた。
 自分は人質なのに。なんだろう。この穏やかな空気。まるで家族みたいに冗談を言って笑っている。神様とそれに仕える人たちがこんなに普通の話をするなんて。不思議。
 緊張はまた解けてコニスも少し笑った。
「そうだ。滅多に来ることの出来る場所ではない。折角なのだから楽しんでいけ」
 それを確認してエネルは社から消えた。
「…え?」
 エネルが今まで立っていた場所には。何もなかった。忽然と消えてしまったのだ。
「そういう方なのです」
「気さくなところもあるのですが決して逆らってはいけない方ですよ。神は全てをご存知です」
 呆然とする少女を静かな声で諭す。先ほどまで楽しそうに笑っていた女性たちは寂しそうな微笑を浮かべて神が消えた場所を見ていた。彼女達の表情をコニスはエンジェル島で嫌というほど見た。神・エネルが君臨してからというもの毎日のように。悲しみを堪え、怒りを抑え、日々耐え忍ぶ人の顔だった。

 社の大人たちはコニスに優しかった。子供の来ない政の中心におもちゃの類はなかったが髪を結ってもらったり果物をおやつに貰ったり本を読んでもらったり。鬼ごっこやかくれんぼのときは大人たちの方がはしゃいで見えるほどだった。
 楽しく遊んでいるコニスをかき抱いて泣き出す者も居た。大人しく抱かれながら亡くした自分の子供を思い出しているのだろうとコニスは思った。この社の人間は皆一様に翳を背負っている。神・エネルはエンジェル島の住人だけでなく自分の側にいる人たちにまで何か酷いことをしたのだろう。幼さゆえの観察力で漠然と、だが確信を持ってそう思い至る。
 やがて日は傾き。朱色の塊が薄い雲の向こうでゆっくりと姿を隠していく。広い海も、小さく見えるエンジェル島も、神の島の緑の森も。何もかもがオレンジ色に染まる瞬間。ビーチで見るのとはまた違う神秘的な夕焼けにコニスは見惚れていた。門の外へと連れてきてくれた女性が「綺麗ですね」と言う。コニスも同じように言った。他に言葉が見つからない。
 夕日を追いかけるように細い月がまだ暮れきらぬ空にかかっていた。見つけてコニスは目を伏せる。
「夕日は好きだが月は嫌い、か?」
 頭に手を置いて声をかけたのは神・エネルだった。突然現れたことに驚き、当たり前のように「おかえりなさいませ」と声をかけた女性に更に驚く。
「驚いたのか?こういうのを神出鬼没という。ヤハハ、勉強になるだろう」
 しゃがんでコニスの目線に合わせ神は得意気に言った。まるで本物の神様のよう。そう思わせる力だった。そしていつもコニスが言葉にする前に答えてしまう。思ったことを全て知っているようだった。
「それは心綱だ。神はなんでもお見通し、というわけだ」
 また心を読んで笑った。「神は全てをご存知なのだ」大人たちが諦めた表情でよく使うようになった表現を思い出す。本当にこの人は他人の思うことが分るのだ。
 能力も知性も体力もガン・フォールを凌ぐ資質を兼ね備えている。だがコニスにはどうしても目の前の男を神と認めることが出来なかった。
「さあ、おれはお前の問に答えた。お前も答えろ。月は嫌いか」
 なぜそんなことにこだわるのだろう。不思議に思いながらコニスは月を見ないように目を伏せたまま答える。
「…お月様はきれいで優しい感じがして…どちらかといえば好きです。でもあの細い月は嫌いになりました」
「嫌いになった?」
「父上の目に似ています。この頃父上はあんな目ばかりしています」
 誇り高い死を選んだ妻。それを止めることも、共に死ぬことも出来なかった父。残された者は罪を背負い謝罪が口癖になるほど毎日謝り続けた。笑顔は消え下向きの弧を描く月のように悲しげな表情しか見なくなった。
「この頃…か。なるほど? 私の所為という訳か」
「…っ! そ、そのような…!」
 とっさに上手い方便が出るわけもなく言葉を詰まらせる。沈黙は肯定と同じだ。怒らせてしまう。だが焦るばかりで声さえ出ない。
「我はあの月も好きだがなあ…バナナみたいで」
 見上げながらぼんやりとそういうのん気な声にコニスは呆気にとられた。
「バナナ…?」
「嫌いか?バナナ」
「いえ、美味しいです」
 答えながらつい笑ってしまった。三日月を見てバナナみたいだという大人が神だと言い張っているのが可笑しかったのだ。
「エネル様はもう少し太ったバナナの方がお好みでは?」
「ヤハハ、もっともだ。あんな細いバナナは嫌だなあ」
 女性とエネルのやりとりも下らなくてコニスは声を出して笑った。
「やっと笑った」
 目の前でにっこり笑うとエネルはコニスの頭をごしごしと強く撫でた。
「おれが好きなものをおれの所為で嫌いになったと言われては放っておけん。来い」
 大きな手がコニスの手を引いた。歩幅が違うことに数歩で気づきエネルが歩みを緩める。神兵や侍女が出迎えの挨拶をするが殆ど答えずに真っ直ぐ進んでいく。社の神の座にコニスもエネルの隣に並んで座った。
「バナナを」
 エネルがそう言っただけで女性の一人がエネルの手によく熟れたバナナを持たせて皮を剥き始める。
「…」
「一人で剥けないと思ったな?失礼なやつだ」
「あ、その…ごめんなさい」
 思ったことが筒抜けになるというのはこういうことか。コニスは言い訳も出来ずに困り果てる。
 ぱくぱくと大きな口でそれを食べてしまうとまた「バナナを」と言って一本取らせた。
 今度はその女性に任せずコニスの目の前にそれを差し出した。
「そうだ。我はバナナの皮を剥けない。お前が剥いてくれ」
 冗談だとは思わずコニスは言われるままエネルの手にあるバナナの皮を剥いた。偉そうにするくせにこんなことも出来ないなんて可哀相に、とまで思った。エネルはそれを楽しそうに眺めている。
「ヤハハ、よくできました。ほら食べていい」
 剥き終えたバナナをコニスに手渡す。断る理由もなくお礼を言って受け取り食べる。神の手から貰ってもバナナはバナナ。普通に美味しい。もぐもぐと食べながらやはりこの人が恐ろしい神だとは思えないと考えた。月を見てバナナみたいだと言ったり果物を剥けなかったり。恐ろしくもなければ神らしくもなかった。
「そうかなあ…ではどうしたら神らしくなると思う」
 心を読まれるたびに自分の迂闊さにがっかりした。口に出さなくとも不敬なことを考えるだけでもいけないのだ。
「…神様はこの国のことを考える人だと思います」
「我も考えている。お前たちにはそれが理解できんだけだ」
「…そうなのですか?」
「国のことを考えない神などいるわけがあるまい。私は皆の、この空の幸せをちゃんと考えているぞ」
 見上げるエネルの顔は少しムッとしているようだった。
 思いもよらぬ答えにコニスはバナナを食べるのをやめてその顔に見入った。あんなに人を殺したのにもなにか訳があるのだろうか。住民達がそれを理解しないだけでこの人は悪い人ではないのだろうか。
 真っ白な光を見上げた日をコニスは思い出す。
 エネルの統治で既に何人もの住人が裁かれ犠牲になっていたあの日。不思議な力を恐れず理不尽を理不尽と言える人間が集会を開いていた。コニスの母親もその中にいた。彼らは叫んだのだ。「我々はエネルを神とは認めない」何度も何度も声高らかに叫んだのだ。
 その日の裁きは一際大きくエンジェル島を穿った。沢山の犠牲者を出し、それ以来誰も神・エネルに逆らう者はいなくなった。
 コニスの父親は裁かれた妻達の行為を「愚行」と呼び常に周囲に対して謝り続けた。コニスもそれに習った。ビーチから見た真っ白な光の中。集会とは関係のない人も大勢巻き込まれたのだという。そのことをいつも申し訳なく思ってごめんなさいと口に出した。母親の「愚行」は家族の罪であり、誇りでもあった。スイマセン、ごめんなさいと言うたび母は正しいことを言って命を投げ打ったのだと密かに父親と心の中で彼女を称えていた。彼女は勇者の一人だった。穏やかなスカイピアの住民には稀な性格の母親をコニスはひっそりと尊敬していた。
 全てを知っているという目の前の人物はそんなことまで知っているのだろうか。
 その上で理解に乏しい国民の幸せを願っているというのだろうか。
「理解されようとも思わん。だからお前たちに媚びることも私はしない。従わなければ殺す、それだけだ。怯えながらでも従っていれば裁きを落とすこともない」
 そう言った一瞬。眠そうな目がまた残忍な色を帯びた。侍女たちの顔がいくらか翳ったことにエネルは気づき、コニスは気づかない。
 それは一瞬の出来事だった。すぐにまたやる気のなさそうな目に戻る。
「だがそれを理由にあの月を嫌いになったとなれば我も何か手を打たねばなあ…どうだ。バナナは美味いだろう。あの月も嫌ではあるまい」
 日が暮れ彼方に沈もうとする月をまた見て。俯きコニスは首を横に振る。それを見て大袈裟にエネルは腕と足を組んで考えるポーズをとる。食べ終えたバナナの皮をそっと侍女が受け取ってくれた。
「難しいなあ…ではお前の父親がああいう目をしなくなればよいのだな?」
「…ええと…多分そう、です」
「では父親の喜ぶことをしてやればいい。何をしたら奴は喜ぶ?」
「え、ええと…ええと…」
 二人で考え込む。コニスは自分が出来る事を必死に考えた。だが自分には父親に笑顔を取り戻すことなど出来ないことを既によく知っていた。
 でも神様なら。ふとコニスは隣の男を見上げた。
「ん?おれが誰かの為に何かすると思うのか?」
 幸せを願うと言う割にこの調子だ。あてにしていいやら悪いやら。話すほどに彼のことが分からなくなる。
「…裁きの落ちない日は父上も少し元気です」
「それは無茶な願いだ。聞き届けられん。非はお前たちにあるのだからな」
 コニスはしゅんとして下を向く。エネルは面倒くさくなったのか体を伸ばして大きな欠伸をした。
「…ああ、そうだ。それもあの月に似ているなあ。お前ちょっと弾いてみろ」
 侍女の一人が手にしていた竪琴に伸びたついでで目をつけた。はい、と静かな返事をして絃を弾く。ポロンときれいな音がしてそれが連なり曲になる。コニスは椅子に膝をつき神の斜め後ろに控えたままで竪琴を弾く女性を見つめた。聞いたことのない美しい音色に驚き魅了される。
「ヤハハ、気に入ったようだな。それはお前にやろう。どうだ、あの月にそれも似ているだろう」
 緩やかな曲線で出来た竪琴を笑顔で差し出され両手で受け取る。
「でも私、これ…弾けません」
「練習すればいい。その女も元から弾けたわけではない。あの男が仕事を終えるまで教えてもらえ」
「はいっ!」
 腕の中におさまりきらない楽器を嬉しそうに眺めて弦を指で弾いてみる。それだけでも水の雫がはねるような美しい音がした。
「エネル様はこれが好きですか?」
「そうだなあ。嫌いなら側には置かんな」
「私一生懸命練習します。上手になってエネル様を喜ばせます。エネル様の為に毎日奏でます」
「…なるほど。では私はそれを聞いて気分がよくなるたびに裁きを一つ容赦しよう。そうすればお前の父親の憂いもいくらか軽くなる」
「そうしたら私、あのお月様を大好きになれます」
 件の細い月はもう雲の向こうに沈もうとしていた。
「よし、一件落着だ。幸い私は耳がいい。お前があのビーチで弾いても私にはよく聞こえる。頑張って練習するがいい」
「はいっ」
「神を相手に交換条件とは…なかなか聡いじゃないか。父親似というのは撤回しておこう。母親の勇気と父親の知性を受け継ぐ者だ。おれはお前を気に入ったぞ、コニス」
 頭をまた撫でられた。自然と笑顔になれる。沈んでしまう前にコニスは細い月を見た。悲しい瞳ではなく神を喜ばせる楽器に見える。もう悲しい気持ちにならないことに気がついた。

 コニスは神の社で楽器を習い、時折エネルの遊びに付き合って過ごした。やはりエネルは神様というより子供より子供っぽい普通の人に見えた。食事も一緒にとったがあまり上品な食べ方ではない。我侭な子供のようなことを言ったりしたりで周りの人に迷惑をかけてばかりいる。そして他の大人と同様に幼いコニスには優しかった。少し子供っぽいただの人だ。
 だが彼は確かに神であり自分達の運命は彼の手の中。その人物を知り、心を和ませる手段を手に入れたコニスはその特権に感謝して痛々しいほどに努力を重ねた。
 やがて父親が仕事を終えて親子揃ってエンジェル島に戻った。無事戻ってこられたことを感謝してコニスは一人でも毎日毎日竪琴を奏で続けた。



 長い階段を登る途中。またあの光が島のどこかに降るのが見えた。少し遅れて轟音があたりを包む。
「ああ…」
 父親は見上げたまま嘆きの声を零した。少女は呆然として光の柱を見上げたまま立ちすくんだ。また一つ。誰かの命が失われ。悲しむ人が増えた。絶望で目の前が真っ暗になる。
 うそつき。うそつき。うそつき。神様のうそつき。今日もいっぱい弾いたのに。一生懸命弾いたのに。
 心の中で罵って。それからすぐに今登ってきた階段を駆け下りた。
「コニスさん!?どこへ…!?」
「ごめんなさい、父上!ビーチでもう少し弾いてから帰ります!」
 涙を零しながらエンジェルビーチへ向かい少し高くなったお気に入りの場所でハープを構える。
 私が下手だから神様が気に入ってくれない。私はもっと練習してもっと上手にならなくては。涙を拭って薄暗くなった海に向かってポロンポロンと絃を弾く。
 あの約束をした日から月はまた一巡して陽を追いかけるように沈む細い月が見えた。一ヶ月も練習したのにまだ上手でないからエネル様は怒ったのだろう。私のせいでまた一人誰かの命が失われた。ごめんなさい。ごめんなさい。堪えてもあふれてくる涙を何度も拭いながら途切れ途切れに音を出す。
「違うなあ」
 のんびりとした聞き覚えのある声が後ろから聞こえた。
「え、ねる、さま…」
 すぐ後ろに派手なズボンの耳の長い神が立っていた。
「うそつき!エネル様のうそつき!」
 泣きながら思わず叫んでいた。それは努力を認めてくれない意地悪な人への八つ当たりのようなものだった。
「お前は考え違いをしているぞ。私は約束を守っている。嘘吐き呼ばわりは心外だ」
 罵られてものんびりとした口調は変わりなく宥めるようにコニスの頭を撫でる。
「では、どうして…!」
「それを弾く時お前は何を考えている」
 頑張って今日も裁きが落ちないようにしよう。もう誰も死なないように。これ以上誰も悲しまないように。
「それは約束と違うなあ。お前は私のために弾くと言った」
「…?」
「私を思って弾かない音は私の心を和めることがない」
 何を言っているのか。泣き腫らした目をきょとんとさせてコニスは考えていた。
「エネル様を…思っていない…」
「そうだろう?お前が考えているのは父親かせいぜいこの島の住民のことだけだ」
「エネル様を…思って…。エネル様は私に想って欲しいのですね…?」
 考えを整理しながら口に出してみるとなんだかとても変なことを言った気がした。神ともあろう人が自分のような子供から思われることを願っているなんて。
「…たまには憎しみ以外の声が聞きたいと思って何が悪い」
 拗ねたような顔でいうエネルを見て。コニスは声に出して笑ってしまった。
「おかしいか」
「おかしいですよ…神様なのに、そんなこと」
「そうかなあ。だが約束は確かにそうだったはずだぞ」
 エンジェル島の人だけでなく身の回りの人にまで何かひどいことをした神さまは全てを知っている。誰からも心から慕われることがないことを分かっている。それはとても寂しいことなのかもしれない。
「…はい。私、毎日エネル様を想って奏でます」
 自分一人でも毎日彼を想ってあげるのはきっと彼にとって心地いいことなのだ。竪琴の上達はすぐには出来ないがそれは今すぐにできそうだった。
「分ればいい。約束だぞ」
「はい」
 コニスはにっこり笑って返事をした。神様は誰かに思って欲しいだけだったのだ。本人さえそれに気づいていない。それが子供よりも子供っぽい神様らしくてなんだか微笑ましかった。愛しいとさえ思う。
 神出鬼没な神・エネルは笑顔を見届けると目の前から消えてしまった。
 コニスは海の方を向き、神の島に向かって竪琴を弾いた。
 星座が歌うような音色がビーチに響く。先ほどまでよりも音は優しくなったようにコニス自身も思う。
 それから毎日そこで竪琴を弾いた。
 子供みたいに寂しがり屋の神様がどうか心安らかでありますように。
 エネル様は今何をなさっているだろう。
 この曲を聞いてくれるといいけれど。
 私の心を聞いていますか。エネル様。
 エンジェル島の白い浜辺は毎日毎日、何ヶ月も、何年も。コニスが成長して竪琴が大きすぎるということがない大人の女性に成長しても。
 淡い恋にも似た声を乗せた竪琴の澄んだ歌声が響き続ける。神の裁きは余程のことがない限り滅多に下ることがなくなった。

 奏でるコニスの瞳は軽く閉じられ、またそれを社で聞いているエネルの瞳も安らかに閉じていて。竪琴が歌う間、下向きの弧を描く細い月のように優しい形になるのだった。



20070414 前サイトにて公開。えれはいむさんに捧げました
20100319 本サイトにて公開