目を開けるとテレビで見たことのあるおばさんが無暗ににこやかな表情でこちらを見ていた。ドアと座席の隙間に貼られた小さな広告。
名前は思い出せないけれど、まだ小さな頃によくテレビに出ていたおばさんだ。予知とか予言とか。よく当たると言われて一時期テレビに出ていた気がするがいつの間にか消えていた。何か悪いことでもして捕まったんじゃなかっただろうか。インチキがバレたんだったか。
とにかく最近まで失脚していた預言者おばさんがまた本を出したらしい。懲りない人だ。
その程度の感想を持ったかどうか。半分しか開いていない目で紫とピンクの広告を睨んで欠伸をひとつ。この悪趣味な広告の所為で目が覚めてしまったような気がして、完全なる逆恨みだがもう出てくんな、クソババア。などと心の中で悪態をついた。
「お目覚めか?」
右隣に立っている友人がにやけた顔で訊いてきた。奇跡的に、若しくは腐れ縁と言う方が正しいか。小中高と同じ学校に通うことになった幼馴染、土田ハル。名前は漢字で書くと華流。本人はこの字を気に入っていないらしいが俺の当て字よりは数段マシだ。
こうして満員に近い電車でほぼ毎日顔を合わせるのも約束したわけではないが当たり前になっている。友人というよりは別の家に帰る兄弟のような感覚。
ずっと同じクラスというわけではなかったけれどとある共通点により小学生の頃から縁があったのだ。今やおれの一番の、名前なんかよりずっとひどいコンプレックスとなったもの。
俺は真横にある学生服の肩から視線を上へと滑らせる。
ああ、また遠くなった気がする。こいつ、また身長伸びやがった。
「ハルは余裕だな」
内なる嫉妬は奥へとしまい込んで目の前の問題へと話を向ける。
一ヶ月前、ピカピカの高校一年生になった俺たちは一週間も経たないうちに一つの噂を聞いた。古典の栗田は侮るな。それがどこの仮入部でも聞かされる先輩からのアドバイスだったからだ。
そしてそれが本当に的確なアドバイスだったことを今まさに痛感している。まさか中間、期末の定期テスト以外に毎月復習テストと称して成績に大いに影響を与える小テストを準備しているとは。普段の聞いていても聞いていなくても寝ていても喋っていてもお構いナシの栗田の授業からは想像もしなかった展開だった。
「おれは諦めてんの。偉いねェ、アスくんは」
頭をくしゃくしゃと撫でられて不愉快だったので腕を軽く払いのける。慌てて一夜漬けの無駄な足掻きをした後の眠い朝、いつも通りの髪型をキープするために費やした時間を無駄にされたことはまぁいい。そんなのせいぜい十分かそこいらだ。適当に触っていれば元に戻る。
気に入らないのはこの見上げる感覚。
小学校までは小柄な男子として学年の中で一、二を争っていた俺たち。だがハルは中学に入った頃から今まで留めておいた成長を爆発させるようにして俺を置き去りにした。いや、未だにどちらかというと背の高い方ではない。百六十五ない身長は本人としてもまだ物足りないだろう。
だがそれより十センチも低い俺から言わせれば贅沢な話だ。俺の縦方向への成長は未だ何かに阻害されているように爆発的進行を見せずにいる。親はのんきなもので二人とも背の低いほうではないからそのうち伸びるだろうと楽観しかしていないが。男子高校生となった俺としては死活問題。いつか、では困る。ハルに見下ろされるばかりか頭を撫でられるという屈辱まで味わって尚、悠長な己の成長ホルモンに一言物申してやりたいところだ。
童顔でこの身長じゃまるでピカピカの中学一年生だ。そろそろ本気を出せ、俺の成長ホルモン。と、毎日のように念じているが一向におれの祈りは届く気配がない。仕方がないので髪型くらいはビシッと決めてやる、という思惑はイマイチらしい。ハル曰く「ジャニーズジュニアとかにいそう」という全く嬉しくない印象を与えているだけだそうだ。その「ジュニア」が外れる日を待ち続けるのが俺の仕事みたいなもの。言われなくても牛乳とは既にハルと同じくらい親密な仲だ。
「俺も諦めて寝りゃよかった」
結局一夜漬けして分かった事は。一カ月分の授業内容を一夜にして覚えることは無理である、という自分の能力の限界についてだけだ。ハルは要領がいいから諦めてよく寝た挙句俺と同じくらいの点数を取るのだろう。もう十年の付き合いだがいつも俺たちはこんな感じだ。
欠伸をもう一度して車両の壁に貼られた小さな広告をぼんやりと眺めた。慈愛をもって真実を射抜く瞳とかなんとか。キャッチコピーの華美で毒々しい書体が俺の不機嫌を煽った。
「そんなものあったらテストの答えでも見せてくれっての」
ハルが先に言った。激しく賛成だ。俺たちは諦めの混じった複雑な笑顔でおばさんの顔を指で弾いて八つ当たりしていた。まだ降りる駅まで数分かかる。
「さっきみたいなうたた寝でも飛ぶのか?」
ハルは話題を変えた。気分の暗くなるテストの話から離れたかったのだろう。
「んー・・・。どうかな。飛んだ気もする」
これは俺が小さな頃からよく見る夢の話。夢というか、目を閉じたとたん見える幻のような。
自分ではない誰かの背中を突き破るように羽が生えるところから始まる。自分ではないのに俺の意識はそいつの中にあって。でも横から、今ハルを見上げているようなこんな角度からそいつの顔を見ている。顔も体も自分ではない。髪は長いけれどたぶん男。顔は毎回見るけどよく覚えていない。外人みたいに鼻が高くて、起きてから考えるとあれは天使か何かじゃないかと思う。そういえば口元はいつも自信に溢れた笑みを浮かべている。天使というよりはもう少し邪悪な笑い方だ。顔についてはそれだけしか思い出せない。
男が生えた羽を一度ばさりと動かすと羽根が舞い散る。それから意識は空へ。翼が空気を掴んで地面へと叩きつける。何度か繰り返すうちにふわりと体が浮かんで。上昇。上昇。上昇。
そこからは毎度少しずつ違う。旋回したり、ただひたすら速く飛んだり、急降下したり。ともかく俺はその知らない誰かと意識を共有して飛びながらひたすら楽しんでいる。飛ぶことを。羽の先が空気を切り裂く感じとか。旋回するときの微妙な羽根の調節とか。鳥にでもなったようにそんなことを楽しいと思っている。
ただそれだけの夢。
「ていうか、もう寝るのと飛ぶのと同じだから、夢で見たって感じじゃねェんだけど」
「なんか高校入ってからのがひどくなってね?」
にやけた面を更に楽しげに歪める。中学辺りから散々からかわれてきた事項だ。大抵どんな夢判断でも空を飛ぶ夢が指し示すのは欲求不満とか自由への解放だとか。あからさまに性的欲求だって書いてあることもある。だから他の奴には滅多に話さなくなった。下世話な冗談も聞き飽きた。
つまりにやけたハルは空飛ぶ夢が頻繁になるほど俺の欲求不満がひどくなっていると言いたいのだろう。
「んー、それは、ある、かな」
欲求不満云々は別にして、確かに高校に行くようになってから頻度は増した。
「いい感じになりたい相手でも出来ちゃったかな?かな?」
そっちに関しちゃ身長と同じで歳相応の興味ってやつが沸いてこない。知っているくせに意地の悪い質問だ。
「じゃなくて、この朝の電車が一番・・・」
言いながら目を数秒閉じてみる。
とたんに羽が背中を突き破って生えてくる。上を見ると雲のない空。翼を大きく動かして。湿った地面から乾いた空へ。上昇、上昇・・・。
目を開けると目に痛い広告が飛び込んできた。
「今くらい目瞑っただけで空まで飛んじゃうんだよなァ」
「・・・何それ。いつから?」
ハルの顔から軽薄そうに見える笑いが消えた。真面目に心配されるのが嫌だから言わなかったのだが隠しておくのも限界があるだろう。正直に話すことに決めた。
「毎朝じゃねェけど。大体この電車だろ?この時間に落ち着いてから多いような・・・?」
「早く言えよ、馬鹿。じゃ、一本遅く・・・は出来ないから早くするか?」
「いいよ、別に。気分悪いもんじゃねェし」
当たり前のように自分も電車変える気になっているハルはいい奴だよな、と幼馴染の有り難味を再確認。
でも、本当に嫌な気分になるものではないから。むしろ他の夢と違って楽しくて元気が出るような気がする。どんなに飛んでも目が覚めたとき疲れを感じたことはない。問題があるとすれば、あっちの世界の方が俺にとっては居心地がよすぎて目を開けると少し残念に感じることだろうか。
「いや、でも・・・クスリなしで飛んじゃうのってヤバくね?」
「ヤバけりゃとっくの昔にどうにかなってるって」
何しろ物心ついたときにはそんな夢ばかりみていたのだから。悪影響があるのならもっと前から症状が出ていてもよさそうなものだ。今更、少し頻回になったところで俺の生活に支障は全くない。
「こう・・・新しい環境とか?そういうのに慣れるまで気づかないところで疲れとか溜まっててさ。そんで朝の電車で眠くなりやすいとか。そんなんだよ、きっと」
ハルがいつものへらへらした笑顔を取り戻さないのでそんな風に言ってみる。今考えた適当な希望的観測。
「それじゃこの電車っての関係ねェだろ」
頭の回転数は敵わないようだ。朝からよく働く脳みそだ。もう少し鈍いくらいの方がこういうときは嬉しいんだが。
「分かったよ、じゃァ実験な。明日一本早くしてみて、それで元に戻ったら、な」
「よし」
返事を聞くと満足そうに悪役のような笑みを浮かべる。俺のために言っているのに悪者は自分の方だと主張しているわけだ。ハルは俺を甘やかしすぎじゃないか。照れ隠しかもしれないけれど。
それから降りるべき駅に着くまで。ハルとおれは一本早い電車に乗るための労力に対する責任をどちらが負うべきかについて議論した。俺の為ではあるが意見を押し通したのはハルな訳で。そんな理由で毎日缶コーヒー一本奢らされたんじゃ小遣いが消し飛ぶ。冗談半分の言い合いだったが一時限目に待っているテストから意識を逸らすにはもってこいの話題だった。
見慣れた駅に着いて。ハルの目の前のドアが開く。同じ制服の連中に押し流されるようにして下車。改札を抜けると少しだけ混雑が和らぐ。
なんだかハルの背中が遠い。追いついてこない俺に気づいてハルが振り返る。立ち止まって、驚いたように口をあんぐり開けていた。特に疲れている覚えはないのに足が前に出ない。自分でも不思議だ。
ようやく止まっているハルに追いつく。何故か体が重い。上手く歩けない。
「おま・・・何誘拐してんだ」
「は?」
指差されて振り返ると学校指定のバッグに小学生がくっついていた。本来ならもっと先の駅で降りるはずの私立小学校の制服を着た女の子。髪は短めだけどボーイッシュな感じのしない可愛らしい子だった。
「え?」
三年生か四年生・・・もしかしたら低学年かもしれない小さな女の子はきょとんとした顔でおれのバッグに手を置いていた。なるほど、これが体が重くて前に進まなかった原因か。
「アス、お前これは犯罪だろ」
「いやいやいやいや、俺が連れてきたみたいに言うなよ。違うから。えっと・・・どうしたの?降りる駅、間違えた?」
その場で膝を曲げて屈み女の子と同じ高さに視線を移動。カバンからは手を離して少女はじっとおれを見ていた。追い越していく同じ制服の連中は時々何事かと彼女を見るが立ち止まることなく流れていく。おれとハルと少女だけが流れに乗らず動かない。
「・・・間違えてない」
ぽつりと小さな声が聞こえた。
「大庭さん。大庭未来、さん。貴方で間違いない」
それは確かに俺の名前。当て字なのに完璧に漢字で呼ばれた気がする。うん、間違えてはいない。
いや、そうじゃなくて。
「なんで、俺の名前・・・?」
「手を」
少女は小さな手を差し出した。握手でも求めるみたいに。
「?」
振り返ってハルを見上げてみたが俺と同じく困惑した表情。目が合うと少しだけ笑う。
「もしかしてお前のファンなんじゃねぇの」
「バァカ、んなわきゃねーだろ」
「握手くらいケチケチすんなって」
他に名案も浮かばなかったのでとりあえず訳の分からないまま女の子の手を握る。
「−あ」
思わず口から何か声が出た。
目を開けているのにあの感覚。目を閉じたときに見る夢の。浮遊感。風の感触。心地よすぎる空の幻。上昇。上昇。上昇。切り裂く冷たい空気が夢よりもずっと鋭くて。何倍も速く飛んでいる感覚。
「分かったら、一緒に来て・・・下さい」
少女の声で我に返る。手を離すと幻は消えた。
「分かったらって・・・」
呆れたようなハルの声が聞こえる。
「ああ、わぁ、どうしよう」
おれは少女を見ながら膝も両手も地面についた。混乱する俺を見据える瞳は相変わらずきょとんとしているような、それでいてぼんやりしているような。不思議な無表情だった。
「どうしよう、ハル。おれ、分かったみたい」
「は? 何が?」
「わかんね・・・」
「何だよ、それ」
何が分かったのか。さっぱり分からないのに。何かが分かってしまった。
たとえばこの子が自分と同じ、飛び方を知っているに違いないこと。
たとえばこの子と一緒に行けば俺が何者かを教えてくれるだろうこと。
そしてそれは俺の人生の根底を揺るがすような結果になるだろうということ。
全部予感でしかないのに、何故か確信していた。まるで漫画や映画の主人公みたいに自分の使命を思い出したような感じ。
「私と来て、下さい」
取ってつけたような不慣れな丁寧語が小学生らしくて少し可愛い。いや、そんなことはどうでもよくて。
「ハル、今日、俺遅刻・・・や、欠席かも」
座り込んだままハルを見上げるとなんだか不機嫌そうな顔をしていた。
「・・・一限目のテスト、どうすんだよ」
そんなものどうだっていい。
そう思えるくらい遠い世界の話に聞こえた。ついさっきまでの自分はどこへ消えてしまったのだろう。
「悪ィ、ハル。適当に言っといて」
すぐ側に立つハルとの間にも地球の中心部分に届く深い亀裂が入ったような。もうそちら側へは行けないという諦めと寂しさがハルの存在を遠くする。世界が俺から遠ざかる。
その分彼女が。初対面の少女の存在がどんどん自分の中で大きく膨らんでいくのが分かった。彼女のことをもっと知りたい。つまりそれは自分のことを知りたいというのと同意義だということも分かってしまった。
「悪ィ」
片手を上げてもう一度謝るとハルは悔しそうな、裏切られたような、傷ついたような、複雑な目で俺を見て。
「・・・そこまで言うなら仕方ない。アスは極度のロリコンで小学生に一目惚れしてストーカー化したってゆっとく」
冗談で言ったのだろうが、もう俺はそれならそれで構わないとさえ思っている。
だってもう二度と。
ハルと電車で学校に行くなんて。そんな普通の朝はやってこないということも。
俺は分かってしまったから。
そして次の日。
いつもの電車。
いつもより幾らか楽しそうにへらへら笑っている隣の友人。
「なんかお疲れじゃねぇの?」
「お陰さまで」
あの予感は間違いだったのか。いつも通り駅でハルと会い、昨日と同じ広告を睨みながら同じ電車の同じ車両の同じ場所に乗っている。
「それにしても・・・気象庁ってのがまたびっくりだよな」
ハルは他人事のように軽く言う。まぁ実際ハルにとっては見事なまでに他人事だ。
やや疲労感は残っているもののいつも通りの朝を満喫していた。
「なんか、他人事で悪いけどさぁ、楽しみだよなー。呼び出し来るの」
「いいな、他人事で」
「ホント、おれ、そういうのない普通の人間でよかったって心底思う」
そろそろ怒ってもいいだろうと思ってムカツキをハルの脛に向かってぶつける。
「痛! やめて、アス君、暴力的ー。公務員がそういうのってよくないと思いますー」
「うるせェ」
つまりこれは。
どうやら普通の人間ではなかったらしい俺が。
日常を取り戻すために一日喚いたり叫んだりぐちゃぐちゃになって奮闘した結果。
余計な仕事が一つ増えただけの普通の高校生になりました。というお話。
「マトモ様だっけ? 美人でいいよなー。あんなご主人様ならいいかも」
望んだことではあるけれど。おれの希望を最大限飲ませてこの状況を作り上げたのだけれども。
「中身知ったら絶対今の言葉後悔するぞ」
こののん気すぎる日常に戻るためにどれだけ俺が苦労したか。今日はとっくりとハルに聞かせてやろうと思う。
激動の一日の話を。
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