恋も二度目は臆病で 4

 心配そうな瞳が何対も。自分を見ていた。
 我に返っても言葉が見つからず、誰とも目を合わさないように空洞の目は視線を上げて宙を見るともなく見ていた。
 本気で仲間から叱られ、船長を気安い言葉で傷つけた。それから目を逸らすために大切な約束まできれいに忘れていた。船長は確かにその約束を守った。別れのとき、自分はこの約束を思い出しただろうか。遠く霞む記憶には答えが載っていない。
 これを覚えてさえいたら、スリラーバークで若い剣士の行動にあんな感情を抱くことはなかっただろう。そして、二人目の船長に命を預けていいのかどうかと悩むこともなかったはずだ。
「やっぱり変だぞ。どうかしたのか?」
「サンジが牛乳ケチケチするからじゃねェか?」
「ケチってんのはお前らにだけだ」
「いきなり笑い出したり、ぼーっとしたり・・・魂が抜ける前兆かしら」
「怖いこと言うなよ。チョッパー、分からねェのか?」
「骨の異常がないことしか分からねェ。骨折はびっくりするほどちゃんと直ってるぞ」
 新しい仲間たちは、心配して口々に骨の具合が良いか悪いか判断する材料を提案し始めた。引く血の気もなく、表情さえも黙ってしまえば伝わらないこの体。
 これ以上心配させるのは不本意。そう思って口を開く。
「その、すいません。色々と昔のことを思い出しまして。・・・私、自分がどんなに幸せ者か忘れてしまっていたようです。ここで皆さんと楽しく過ごしていたら、その、生身で生きていた頃の大切な思い出を・・・たくさん、たくさん・・・」
 スリラーバークで仲間になってもよいかと気軽に尋ね、そのまま仲間に入れてもらった。だが新たな船長に忠義を尽くすことはヨーキに対しての裏切りになるだろうかと悩んでいた。新しい仲間と昔の仲間、天秤にかけたらどちらが重いか。答えの出ない問題を抱え、骨身を惜しまずこの船で頑張ることしか、自分に出来ることはないのだと割り切ったつもりだった。
 だが、違うのだ。
「あの、ルフィさん」
「ん?」
「私、ラブーンとの約束があるんです。だからルフィさんのために死ねません。それでも私は仲間ですか」
 仲間になったばかりのミズータ兄弟よりはいくらか年上だろうがまだ若い船長。一瞬、考えるように眉間に皺を寄せて。すぐに少し怒った口調で答えた。
「おれはお前に死んで欲しくて仲間にしたわけじゃねェ」
 もし顔に筋肉と皮があったら。自分は微笑んでいただろう。
 自分が船長と呼ぶ二人の男は同じことを言う。
「それに、おれは仲間を死なせねェ。お前は仲間だ、ブルック。だからお前は死にたくたって死ねねェぞ」
 ルフィは真顔だったが、なぜかロビンが小さな声で笑った。
「本当よ、ブルック。ここにいたら死にたくても死ねないの」
 彼女が笑顔でそう言うと、自分の知らない過去の何かを思い出すように全員の表情が緩んだ。
 ルンバー海賊団の墓前で若い剣士に尋ねたとき、彼は笑っていた。まるで単純明快な答えを見落としていると忠告するような笑顔で。
 そしてその分かりやすい答えはこれだ。
「私も、皆さんを死なせません。この身に代えても・・・なんて言いません。私も絶対死ねない約束があるからです」
 結局、命をかけることと命を捨てることは全く別の話だということだ。
 どちらの船長も命を捨ててついて来いとは言わない。
 生きて一緒に航海しようと言っているだけなのだ。
「なんだかよく分からねェけど。お前はお前の野望を果たすためにこの船に乗ったんだろ? おれ達はみんなそうだ。何も捨てたり諦めたり・・・そういうのしなくていいんだ。それでいいじゃねェか」
 呆れるほどあっけらかんとそう言い放つ。今の「やくそく」は「野望」と書いてそう読むような響きがあった。
 己の悩みのなんと矮小なことか。それに比べて船長という器のなんと大きなことか。ブルックは恥じ入る気持ちを抑え大声を出した。
「ヨホホホ! さすがルフィさん! 変なことを訊いてすいません。食後の一曲はいかがですか」
「よし! 歌おう!」
 聞こえますか、船長。この若い船長も貴方と同じことを言うんですよ。
 貴方も仲間たちも捨てなくていいそうです。そうですよね、どちらかしか選べないなんて、誰も言っていないのに。一人でくよくよするなんて私らしくないですよね。笑っちゃいますよね。
「あの、ルフィさん、パンツ見せてもらってよろしいですか?」
「いいぞ?」
「見せるな!」
「なんでルフィにまで言うんだ!?」
「や、つい勢いで。ヨホホホ! 失礼しました!」
 笑ってごまかす。勢いで同性にこの台詞が出たのは長い人生の中で二回目だ。
 バイオリンの音色の向こうに懐かしい仲間の顔が今でも浮かぶ。
 色々な思いを込めて新たな仲間とあの唄を歌う。


 明け方。
 昔からの日課で早々起き出して素振りをした。
「おう、早いんだな」
 もう一人の剣士も生活習慣が人とずれているらしく昼間よく眠っている割にこんな時間に起きている。
 何か言おうとして、やめた。
 彼に謝らなくてはと思うのはこちらの勝手な都合なのだ。
 自分の命一つで全てを解決しようとしたあの場面。身動きも取れないままその一部始終を見て、ひどく羨んでいたのだ。
 ヨーキが病に倒れたとき。どんなにか代わってあげられたらと願い、祈ったか知れない。どうか自分の人より多いチャンスを彼に与えて欲しいと。そのために一度死んで、仲間から外されたとしても構わないとさえ思った。ヨーキ本人はそんなことを頼んでいないと怒るかもしれない。それでも、奇跡よ、起これ、起こってくれと願わずにはいられなかったのだ。
 だがそれは叶わなかった。
 思えばあのときから自分は命の捨て所を探していたのかもしれない。そして大切な約束さえ記憶から消して、二度目の人生を呪いながら生きていた。
 死なないと約束したあの日。確かにそれは本気の約束ではあったのだけれど。彼のために命を使いたい。その願望は根強く残っていたらしい。
 目の前で自分が心から願った形で生を終えようとしている若者に。炎のような激しい嫉妬を覚えた。船長と一味のためにたった一つの命を捨てる。ブルックがどんなに願っても出来なかったことを彼は実現させようとしていた。
 その嫉妬さえ、今はなんと愚かしい感情だと思う。美しい行為の裏に彼は大変な覚悟と無念を抱えていたのだ。自分の野望も、約束も全てに背く決意をしてのことだったのだから。
「あの、ゾロさん」
 呼びかけると、もうバーベルは貸さないと妙に力を込めて言われた。そういえばあれを持とうとして骨折したことを思い出す。
「いえ、そうじゃなくて、あの」
 スリラーバークでの美談は知らないことになっている。必要が生じない限りブルックからその話をするつもりはなかった。
「以前、聞きましたよね、お墓の前で」
「・・・あァ」
「ルフィさん、いい船長ですね」
 船長を褒められるのは嬉しいのか、なんだか照れくさそうな顔をして「そうか」と小さな返事をした。
「私、みんなの骨をあそこに置いて、もう彼らに何もできないのかと思ったら無性に寂しかったんです。私一人がみんなと一緒に行けないような気がして」
 ゾロは神妙な顔をして聞いていた。彼の答えは聞いた。強く気高い彼の回答は、だがブルックの答えと同じではなかったのだ。
「私、この五十年・・・いえ、もっと前からですね。みんなに支えられていました。みんな死んでしまって、私だけ生き返って・・・それでもずっと彼らが私を支えてくれたんです。一人でも生き続けようって、勇気をくれたり、励ましてくれたり・・・みんながいたから耐え忍べたのです。それを・・・新しい仲間ができたから、じゃあね、なんて今更言えません」
 筋肉も皮もない骨だけの顔でブルックは満面の笑みを浮かべた。今なら分かる。あの素敵な墓の前で鎮魂の曲など弾けるはずはないのだ。たくさんの骨は故郷の土で安んじて欲しい。けれど、心はいつまでも共に旅を続けて欲しいのだ。今までと同じように。
「私にはこれからも彼らが必要です。いつも助けられるばかりで、何も・・・ひたすら生きることしか私にはできないけれど。これからも、よろしくお願いしますって。だから、さよならはいらないと、そう思うんです」
 言い終えるとブルックは金色に染まっていく空を見上げた。
 ゾロも同じ方向を見る。
「いいんじゃねェか。それで」
 心も体も強靭な彼は軟弱な答えだと笑うのかと思った。笑わないとしても肯定はされないだろうと覚悟しながら話したのだ。
「おれも、時々こっちが救われてる気分になることは、ある」
「そうでしたか・・・」
 意外な答えだったがゾロの表情は穏やかで、朝日に向かって失くした人にさよならではなくよろしくを言っているように見えた。
 眩しい光に目を細めたくてもまぶたはなく、手をかざして朝日を見る。
 船長も、みんなも。
 今まで独りぼっちの私をずっと支えてくれて本当にありがとう。
 新しい仲間と一緒にラブーンに会いにいくことになりました。
 みんなの骨とはお別れしましたが、どうかこれからも私と一緒にいてください。見守るだけなんてつれないことを言わずに、みんなで一緒に果たしましょう。あの愛くるしいクジラとの大切な約束を。
 死んでごめんなんて決して言わずに済むように。
 空の色は金から白、そして青へと変わっていく。キッチンからはリズミカルな包丁の音が聞こえた。
「さァ、皆さんを起こしましょうか」
 ゾロの制止も間に合わず、ブルックはこの船の船長が作詞作曲した珍妙な歌を大声で歌い、朝の訪れを知らせた。
「やっぱり音楽家はいいよなァ! も、いっちょ歌おう! 海賊は歌うんだ!」
 朝から血圧の高い船長はごきげんで部屋から飛び出してきてブルックと共に歌い始める。
 一人目の船長と同じことを言う二人目の船長は、音楽のセンスに関していえば少々難があるものの。命を預けるのに不安はなかった。
 眠そうに目を擦り、歌に文句を言いながら出てくる仲間たちも。数こそ前の仲間と比べれば少ないが、気持ちのよい者ばかり。一緒にいたいと思える信頼できる仲間だ。
 過去と現在を秤にかける愚かな行為をもう一度だけためしてみる。心の中にある天秤は揺れることのない、固定されたものだと気づく。
 答えは最初から出ていたのだ。その天秤に見えるものは実は二つのものを同じ高さに置いておく棚でしかない。比べる必要などないのだ。ただ、大切にそこに置いておけばいい。
 やっと分かったのか、と耳元で誰かが言ったような気がした。
「?」
「ブルック、もっと歌おう!」
「あ、はい」
 やっと分かりました。
 ここにはいないもう一人の船長の声だったと勝手に思うことにして、バイオリンに歌わせながら空に話しかける。
 みんなのこともアンタのことも、今までと変わりなく想いつづけること。特別なことは何も出来ないけれど、変わりなく想い続けることはできます。どうかこれからも私の船長でいてくださいね。
 バイオリンの音は澄んで、実に五十年ぶりに自分らしい演奏が出来そうな気がした。
 奏者の感情の変化まで聞き分ける耳のよい船長には、きっと伝わるに違いない。
 もう彼に嘆きの音は聞かせない。嬉しい、楽しい、とルンバー海賊団の一員として演奏した頃と同じ音でバイオリンはブルック自身よりも雄弁に幸せを歌にした。








履歴

20090405 公開。ルンバー祭に捧げました。