不平等な確率

倒れてきた巨体の下敷きになる。
喚いたが誰も自分のことなど見ていない。
事切れた体は恐ろしく重くて自力での脱出は不可能。
じわりじわりと服が濡れていくのが分かる。
諦めて上を見ていた。
巨体の向こうに真っ直ぐ空へ伸びた刃先。
今しがた、自分がこの男に突き刺した剣が黒く光って見えていた。


「おい、生きてるか?」
船長が見下ろしていた。戦いの最中だというのにのんきに眠ってしまったらしい。
「・・・」
「生きてはいるな。・・・返り血か」
上に被さっていた男の死体が退けられても声が出なかった。返り血というのは下敷きになって仕方なし服に染み込むままにさせたものもそう呼ぶのだろうか。なんてどうでもいいことを考えていた。
少なくとも自分の血ではないという意味では合っているかな、という結論に至って頷く。
「よし」
船長も頷くと、両手でこれでもかというくらい力強く抱きしめられた。
「無事でよかった」
船長の安堵の声を聞いてようやく、相手が死んで自分が生き残ったことを少しだけ喜ぶことができた。
「そのナリじゃみんな心配する。洗って着替えろ」
「・・・」
まだ声が出ない。頷くことしか今の自分にはできない。
「・・・まだ無理そうだな。おーい、手の空いてるやつ、誰かマディを洗ってやってくれ」
戦闘後の船長は忙しい。仲間全員の安否も確信しなくてはならない。生きていた自分は確認済みだ。だからもういい、そういうことか。
ぼんやりしていると仲間の一人が手を引いて、甲板から海につき落とされた。
「どうした、泳ぎは得意だろう」
体が動かない。ひとを殺したのだから自分が死ぬのも仕方ないかと思う。沈んでいくとき、同じように沈んでいく誰かが見えた。自分が殺した男かもしれない。
突き落とした本人に助けられてしこたま飲んだ水を吐く。
「悪ィ、そこまで重症とは思わなかったもんだから・・・。・・・そうか、初めてだったのか」
気安い仲間は背中を叩く。
「無事で何より。死んだのがお前じゃなくてよかったよ」
船長と似たようなことを言う。
この言葉を聞くたびに少しだけ気持ちが軽くなる。きっとひとを殺した罪を軽く感じさせる呪文か何かなのだろう。
「え、なに、その血」
血相を変えた双子の弟が視界に飛び込んできた。体についた血はほとんど落ちたが服は黒ずんでもう着られない色のまま。
「返り血だよ、返り血」
声の出ない自分に代わって仲間が答えた。
「なんだ、よかった」
よくはない。自分とよく似た顔が微笑むのを見ていられなくて目を逸らした。
「マディ? どうした?」
「兄貴は血に酔って気分が悪いんだよ。マリィは片付け手伝ってろ」
「? はぁい」
能天気な返事ができる双子の弟。普段の自分はあんな風なのかと呆れたように見送る。
「服はダメだな。部屋で着替えよう」
仲間の手は力強く、そしていくらか優しくなっていた。自分の倍くらい歳を重ねた男はいつものがさつで陽気な男とは別人のように見えた。
海賊なんだ。きっとこんなのとっくの昔に通過した最初の一歩に過ぎないのだろう。
寝室に入ってまだ力の入らない自分に代わって水玉のシャツを探し出して甲斐甲斐しく着させてくれた。
まるで母親。
こんなヒゲの生えた母親は嫌だな、と考えると少し可笑しかった。
「ちょっとここで待ってろ」
寝室に一人残される。甲板の賑やかな足音が聞こえた。
そういえば手足が冷たい。海に落とされたからだろうか。
五感がゆっくりと戻ってきたようだ。
重たい体。濡れていくシャツ。空へ伸びる刃先。見開いた瞳。
夢じゃない。全部現実だった。
「あ」
声を出した。いつもの声だ。自分の声だ。
「あーあーあー」
もっと出した。生きている。ちゃんと自分はここに生きている。確認したくて無暗に声を出した。
気づいたら相手の剣がこちらを向いていて。殺されると思った。必死でかわして。
何をしたのか、そこだけ思い出せない。
力いっぱい突き刺して。下敷きになって。ああ、生きていると思った。それから殺したのだと知った。
「あー」
声が出る。手足も動く。
生きている。
涙が出た。
殺したのだと知った。
「あー・・・」
喜びも恐怖もごちゃごちゃになって声が出せなくなる。
血を洗い流して、服を着替えて。
それで元通り?
他人の命を奪ったこの手も今までと何ら変わりなく?
陽気に歌って、これが海賊だと笑うのか。
「生きてるか?」
部屋に入ってきた船長はさっきと同じことを尋ねた。
あのときよりは幾らか正気になっていた自分は少し考えてから横に首を振る。
「・・・よく、わからねェ」



今日の相手は手強くて味方にも負傷者が出た。ドクターは大忙し。
荒れた甲板は一通り片付けて掃除もして。
「船長、一番重症なのは寝室だ。おれでいいか?」
掃除の途中で双子の兄と一緒だったはずの仲間が船長を呼びにきた。
「おれが行こう。世話任せて悪かったな」
「なに、おれたちみんなの弟みたいなもんだ」
「サンキュな」
船長はブルックに何かいって寝室に向かった。
甲板は元通り。今日の勝利を祝ってブルックが楽しい曲を弾く。
でも何故か少しも楽しめなかった。
みんなから少し離れて船尾へ向かう。ぼんやりと海を眺めた。
「唄わないんですか?」
いつの間にかブルックが隣にいた。音楽は聞こえてくる。誰かが、いやみんなで唄っているのだろう。
「・・・うん」
「どうかしたんですか」
自分はなんともない。何かあったとしたらたぶん。
「マディ、どうかしたのかな」
血塗れの服を着て蒼白な顔をしていた。血に酔ったと言っていたがそれだけじゃないはずだ。
「双子ってそういうの分かるんですか」
首を横に振る。
「そんなの迷信だって。・・・でも今は、何かすごく辛いことになってる気がする」
なんとなく想像はついた。あれだけの血を浴びたということはあれだけの血を誰かが流したということ。それはつまり。
「ブルック、ひとを殺したこと・・・あるよね、もちろん」
「そりゃぁ・・・ね。仕事柄」
「初めて殺したとき、怖くなかった?」
「さぁ・・・」
あいまいな返事にブルックを見上げる。忘れてしまえるような出来事にすぎないのだろうか。
困ったような顔をして考え込んだ後。
「怖いというより、何故人を殺して褒められるのだろうと考えたような気がしますねェ」
言われて彼が所属していたところを思い出した。護衛戦団。しかもそのてっぺんだ。
「殺せば殺すだけ勲章が増えて、階級も上がって・・・気づいたら団長なんて呼ばれてね。一番たくさん殺した人が一番偉いなんて、そんなのって変ですよねェ」
大きなアフロを傾けて首をかしげている。
ブルックは強い。剣だけなら船長よりも強いのかもしれない。
「私ねェ、この船に乗って、団長って呼ばれた頃よりずっと強くならなきゃならなかったんですよ」
「ブルックでも!?」
「だって、あの人、殺すなって言うんですよ? 殺すより生かす方が何倍も難しいんです。でもね、そう言われるたびに嬉しくって。もう殺さなくていいんだと思うと、いくらでも鍛えたくなるんですよね」
船長は身を守るために仕方なくというときしか殺すなとよく口にする。
戦う前によくこう言うのだ。
「お前ら死ぬんじゃねェぞ。そんでできれば殺すな。分かったか!」
いつもノリで「おう!」と答えて、それなりに分かったつもりになっていた。何度も殺されかけたけれど死んだことも殺したこともない。
「おれ、もっと剣の修行真面目にやらなくちゃ」
死なないために。殺さないために。ブルックくらい強くならなくてはいけない。
「それはいいことだと思いますよ」
にこりと笑ってから。
「あなたが自分も殺してみたいなんて言う子じゃなくてよかった」
安心したような声を出した。どうやら兄がひとを殺してしまったというのは当たりらしい。
「そんな度胸ないよ。できればしたくない、そんなの」
きっと双子の兄も同じように思っていただろう。だからこそ。今、とても辛いのだ。
「・・・大丈夫かな、マディ」
「どうでしょう」
ここで安易に大丈夫と答えない正直さが好きだ。
「たぶん、おれの顔ちゃんと見れたら大丈夫」
「?」
「マディの方が繊細でさ。なんかあった後、おれと見かけも変わっちまったんじゃないかって、怖くてしばらく顔見れないんだ。おれもたまにあるけど、そういうとき」
どうせならさっき目を逸らされた辺りで気づけばいいのに。双子の繋がりなんてやっぱりこの程度かと少しがっかりする。
「大丈夫かどうかは貴方が一番よく分かるんじゃないですか?」
「あぁ・・・」
逆の立場だったら。そう考える。
そしてそれは無意味だと思い知った。
「ダメだよ。おれは殺したことないし。想像もできない。・・・それに大丈夫だって信じたいし」
「だったら大丈夫じゃないんですか」
顔に似合わず上品ぶった笑顔でブルックは笑っていた。
「貴方がそう思っていることは彼も分かるでしょうから」
「・・・そっか」
辛く苦しい気持ちが伝わるのなら、こちらからの応援も届けばいいのに。あまり信じたことのない双子の不思議な繋がりを今は信じてみたかった。





上からは賑やかな音楽が聞こえ始めた。
「船長は、ひとを殺したこと・・・ある・・よね」
「ああ」
やけに近いところに、背中と背中がくっつくように腰を下ろして自分が話すまで待っていた。
「怖かった?」
「今でも怖いさ」
だから今でも極力殺さないのだと付け加える。
「でも殺さないからっていいってもんでもねェ。音楽家が腕を落とされて生きてる意味ってなんだと思う?」
確かにみんな殺しはしないが肢体のひとつを切り落とすことくらいはある。それが味方の腕だったら。そう思うだけで恐ろしい。
「まぁ喉さえ無事なら唄は歌えるか。だからって残酷じゃねェって訳でもないだろう。相手のためなんかじゃねェ。おれは臆病だから殺さないんだ」
嘘だと思った。本当に臆病なら仕返しや反撃を恐れて確実に殺すはずだ。
「・・・船長はウソツキだ」
「ぬはは! いいねェ。実際生きる方が残酷ってのはあるからまるっきり嘘ってわけでもねェんだがな。でも、それが分かれば上等だ」
嘘に甘えなかったことを褒めるように優しい返事が聞こえた。
「童貞捨てるのとおんなじだ。騒いでられるのは今のうちだけ。何人殺したか分からないやつほどその話はしなくなる」
そういえば船の上で今日は何人斬ったと騒ぐのは自分たち兄弟くらいだった。おそらく他のクルーは既に乗り越えて久しい通過点なのだろう。みんな澄ました顔で楽器を奏でるその手で命を幾つも奪ってきた。当たり前だ。海賊なのだから。
「お前は? 怖かったか?」
「・・・うん」
「今も?」
「うん、今の方が怖い、かも」
船長の背中があたっている部分が暖かい。それがなければ今頃震えが止まらなくなって毛布にでも包まっていただろう。
「それもいいことだ。怖がるのも臆病も大事なんだぜ。死なないために」
「・・・うん」
それは分かる。
「お前が死んでたら今頃この船はこんな風に唄なんかうたっていられなかった」
「うん」
それも分かる。
「でも殺しは悪いことだ。どこまで行っても正当化できねェ。しちゃいけねェ。だから怖いのさ」
ちょっとだけ、納得できた気がした。変に正当化する必要はないのだ。自分は生き残るために仕方なく、とても重い罪を犯した。
「いつか・・・おれも殺されるのかな」
「誰も殺さないのに殺されるやつもいるし、山のような屍築いて生きてるやつもいる。そんなもんだ」
「そっか・・・」
罪に対する罰は死ではなく、いつか自分もそうなるかもしれないというこの恐怖なのかもしれない。
「この船を降りたくなったか?」
急に質問の方向が変わった。
「な、んで!?」
振り返ったが船長は向こうむきに胡坐をかいたまま。
「このまま乗ってればいつかマリィも同じ思いをするかも知れねェ。それでも降りないでいられるか?」
「ば・・・っ」
馬鹿にするなと言おうとして、言えなくなった。振り返った船長の目は鋭く、喉もとにナイフでも押し付けられたような冷たさがあった。
確かに双子の弟にまでこんな気持ちは味合わせたくない。自分だけでたくさんだ。
それでも。
「今更、おれ達を乗せたの後悔したって遅いよ、船長」
自分がひとを殺めたことで一番傷ついた人物が誰なのか、知った。
こんな思いをさせたくないと一番思っていたのは目の前の男だったのだ。
「・・・ぬははは! そうみてェだな。余計な世話焼いちまった」
過保護すぎる船長は立ち上がって。
「な? おれは臆病者だろ?」
肩を竦めるような仕草でそう言った。
「大事なこと、なんだろ?」
さっき言われたとおりに返す。
「まぁな。でも今回は余計だった」
「・・・そうでもない」
「そうか」
「でも弟まで腰抜け扱いは止めてくれ」
「・・・分かった。悪かったよ。それだけ睨めればもういいか」
部屋を去りつつこちらを一度振り返る。
「生きてるか?」
三度目の同じ質問。
「見たらわかるだろ」
いい返事だと笑い声が遠のいていった。





「いい加減、過保護すぎるよな。みんなだけど、特にヨーキ船長」
「ほんと、おれのところにまでブルック寄越したんだぜ、船長」
「マジかよ。どんだけセット扱いだよ」
「ま、余計ではあるけど、迷惑じゃない辺り、ダメだよな。おれ達」
「たしかに。あー・・・強くなりてェ」
「うん」
「おれ達が船長守ってやるってくらい」
「ミズータ兄弟なら任せて安心てくらい」
「なってやろうじゃねェの」
「片腕なんて言わせねェ。両腕だってなァ」
「ブルック押し退けて?」
「そのくらいでなけりゃ」
「いいねェ」
「・・・そんでさ」
「ん?」
「どうなの、なんか変わった感じ?」
「そっちから見てどうよ」
「別に、いつもどおり締まらねェ顔」
「そんなもんだよ。・・・でも」
「なに」
「やらねェ方がいい」
「分かった」



二つ並んだそっくりな顔は、その日以来、見分けが楽になったとは他の船員の談。
誰もそのことを二人に伝えようとは思わなかった。


履歴

20090424 某ブログにて公開
20100228 本サイトにて公開
タイトルはこちらからお借りしました。