BACK TO ASIA
〈東南アジア編T〉
タイ 2003/8/16-9/9
マレーシア 9/9-26
シンガポール(3ヶ国目) 9/21-22
インドネシア(4ヶ国目) 9/26-10/3
マレーシア 10/3-9
タイ 10/9-15
ミャンマー(5ヶ国目) 10/15-11/9
タイ 11/9-12
12.あの言葉 2003 8/16(タイ)
「これは、お前の旅だ。俺の旅じゃあない。お前自身で行く所を決めろ」
「人生もそうだ。誰に決められるんじゃあない、自分自身で決めるんだ」
オレはこの言葉が妙に心につきささった。
今日オレは旅に出た。長い間待った旅の一歩をようやく踏み出したのだ。日本を発って6時間後、バンコクのドンムアン空港に到着。バンコクはいつものニオイがした。そしていつもの空気だ。ねっとりしていて気だるい空気・・・。
この南国の空気を吸うまでの間、オレは空港で一人緊張していた。というのもオレがこの旅のスタートに使用した航空券には問題があったのだ。
「ビザなしでの入国の場合、往復航空券あるいは第三国へ出国する航空券を所持していること」
これが日本人の場合のタイへ入国する条件だ。オレはビザなど取ってきていないし、チケットは「成田発バンコク行きの片道航空券」つまり厳密にいうと、オレはこのままタイに入国できずに最悪日本へ強制送還される運命にあった。ただこれは「たてまえ上のルール」であって、実際には多くの旅行者がオレのようにしてタイへ来ている。しかし、運が悪ければ本当に入国できなかったり、高額な正規料金での帰国便を買わされる、あるいは空港職員に賄賂を渡すハメになるという噂もある。
「まー何か言われたらテキトーに金つかませりゃOKでしょ。それにタイ人のことだからマイペンライ(まっいーか)で許してくれるよ」
そう思ってはいたが、初めての一人旅ということもあって不安は消えないまま入国カウンターの列にドキドキしながら並んでいた。
ついにオレの順番がまわってくる。
「サワッディーカップ」
「・・・・・・」
空港職員は愛想が悪い・・・。
「First time, Thailand? 」
「No.Third time 」
バーンと気持ちの良い音をたててスタンプが押された。オレがあれほど心配していたというのに、なんともあっけなく入国となった。これで本当の旅のスタートだ!
夕方に到着したので、オレは渋滞を避けるために列車で市内に向かうことにした。バンコクの夕方の交通渋滞は世界で最悪とも言われるほどなのだ。空港とは歩道橋で直結しているドンムアン駅のホームで列車を待っていると、ある中年男性が声を掛けてきた。キッチャと名乗ったこの人は、空港近くの高校で歴史を教えている教師だと言う。
列車がくると
「この列車だ。乗れ」
とオレを呼び、自分も同じ列車に乗り込んだかと思うと、オレに席をとってくれた。電車に乗ってからもいろいろなことを教えてくれ、ビールもくれた。そしてバンコクの中心、ファランポーン駅へ到着すると、ホテル探しを手伝ってくれることに。
彼のおかげで高い宿になってしまったが、初日だし良しとしよう。
その後一緒に食事へ出かけた。夕食までごちそうしてくれたのだ。
まずは高速道路の高架下のスペースに店を出している屋台。いかにもローカルな感じで嬉しくなったが、こんな場所にある店にもかかわらず日本語のメニューがあってビックリ! 旅の最初の食事は豪華だった。「空芯菜」という文字通り中が空洞になった野菜のピリ辛ガーリック炒め、タイによくある甘辛いタレをつけて食べるフライドポーク、タイ風チャーハンの「カオパット」、さらに「トムヤムクン」そしてビールはお決まりの「シンハ」ではなく、値段の安いゾウマークのラベルの「チャーン」に氷を入れて飲む。味も値段もGOODだった。
次に駅前へ戻り、歩道にゴザを敷いただけの屋台とも呼べないようなところに座ってビールを飲む。くたびれてそこらじゅうに穴が空いたゴザ、カゴに入ったコンビニで売っていそうなつまみ、年季の入ったクーラーボックスには缶ビールと氷、そしてそれを売る老婆。
「これがタイの庶民だ」
とキッチャさん。こんな高層ビルが立ち並びネオンが輝く都会のど真ん中、東京と変わらないような場所でこんな商売をしているなんて。早くも1年前のあの旅と同じく貧と富、新と旧のギャップを見せつけられた・・・。
その後さらにもう1軒行くことになった。ファランポーン駅の東側の一帯には古い町並みが残っていて、トタン張りの粗末な家が多い。細い路地へ入って行き、迷路のように入り組んだその奥に進んでいく。人々はその細い路地にイスを出し、近所の人とおしゃべりをしながら夕涼みをしている。その脇を子供たちが無邪気に走り抜け、会話に熱中していた母親は思い出したかのように子供を叱りつける。
「早く家へ入って宿題でもしなさい」
なんて言っているのだろう。どこか懐かしい風景だ。オレが子供のころには、まだかろうじてこのような光景が日常に残っていた。
そんな街を10分も歩き、キッチャさんは1軒の店へオレを案内した。やはり今にも崩れ落ちそうなトタン張りの店で、中にはボロボロのビリヤード台が2台と、冷蔵庫、そして何個かのプラスチック製のイス。やたら雰囲気のあるレトロなプールバーだ。店の主人は肥っていて人相が悪いうえに無口だ。このオヤジといいバーといい、まさにタイマフィアのボスとアジトといった感じだった。オレたちはイスに腰掛け、この夜最後のビールを飲んだ。
ビールを飲みながらキッチャさんは、
「明日は週末で休みだからバンコクを案内してあげる。そのあと家に来ないか? 奥さんの手料理はサイコーだぞ」
ときたもんだ。ここまでくると、少々疑いの目を持った方が良いかもしれない。そう思い始めたオレは、即答せずにもう少しこの人物を見極めることにした。
その彼がタイの良い町、悪い町、良いところ、悪いところをアドバイスしてくれたのだが、その最後に言ったのがこの言葉だった。
「これは、お前の旅だ。俺の旅じゃあない。お前自身で行く所を決めろ」
「人生もそうだ。誰に決められるんじゃあない、自分自身で決めるんだ」
オレはつい数時間前に出会ったばかりの、しかも世代も違えば国籍も違う人にこのように言われ、すべてを見抜かれたような気がしてしまった。彼は何気なく言っただけなのかもしれないが、オレはなさけない気にさえなったのだった。
初日から
「旅に出ると、こういう事がおもしろいのだ」
と思わされた。
しかしオレは彼の誘いは断った。まだ旅に慣れていないし、この時期は日本の夏休みなので日本人をカモにする詐欺や強盗などが多いのだ。彼は良い人そうだったが、旅を続けて経験を積めば人を見る目も養われるだろう。それまでは慎重に行動しなければ。
キッチャさん
13.公園のベンチで 2003 8/18(タイ)
バンコクのオフィス街のただ中に、ルンピニ公園という広い公園がある。デートをするカップル。散歩をする老人。ジョギングをする若者。子供を連れたセレブっぽい奥様方。ここは都会のオアシスだ。広い公園の中ほどでは、空気の悪いバンコクを感じない。
そんなルンピニ公園の木陰の芝生で、オレは昼寝をしていた。そして目を覚ました時、不思議な感覚におそわれたのだ。一瞬、タイにいることを完全に忘れていた。日本にいるのだと思い込んだのだ。
良く考えてみると、こちらに来て3日が過ぎたが、異国に来たと強く実感する瞬間が少ないように思う。バンコクが日本のような都会だからか? それとも3回目のバンコクだからだろうか? あるいは初めての一人旅で、そこまで気がまわっていないのだろうか?
いろいろと考えたが、自分なりに1番の理由は旅に出たタイミングだったのだと思う。
オレが会社を辞めてから旅に出るまでに、4か月という長い時間が経ってしまった。その間アルバイトこそしてはいたが、充分に自由な時間があった。好きなときに好きなことができたのだ。そのため、旅に出たときの開放感が得られないでいるのではないか・・・。
オレはこのことをあまり良い事だとは思えない。こんな気分を払拭するためにも、どこか知らない町へ移動しよう。そう思ったのだ。
キッチャさんが良い町だと言っていたカンチャナブリー。オレは明日向かおうと決めた。
などと考えているうちに、空が暗くなってきた。スコールが来そうだ! この時期タイは雨季。常に天気が悪いわけではなく、朝昼は晴れていて、夕方ころから曇ってきたかと思うとそのうち雨がドガーッと降る。しかしそれも1時間もすればまた止むといった具合だ。誰もがそれを分かっているので、カサなどは持ち歩いてはいない。のんびり屋のタイ人たちは、雨が降ったら止むまで雨宿りなのだ。
ナグと2人で来た1年前のタイは、1週間の間じゅう朝も昼もずっと曇っていたが、やはり運が悪かっただけだろう。オレもナグも雨男ではないのだが、なぜか2人がそろうと雨男ズになってしまうことが日本でも多い・・・。
そのナグが23日から30日まで会社の夏休みでタイに来ることになっている。オレもそれまでにはバンコクへ戻ってくる予定だ。
バンコクの運河
14.カンチャナブリー 2003 8/22(タイ)
オレは今カオサンへ戻って来た。地方都市のカンチャナブリーから来てみると、大都会バンコクの騒音、大気汚染がどんなにひどいのかが良く分かる。
カンチャナブリーはなかなか良い町だった。
この町には「戦場に架ける橋」で有名な「クワイ川鉄橋」があり、そこを静かに流れるクワイ川の両岸には観光客用にバンガローが並んでいる。川の西岸はジャングル、東岸にも1本の道が南北に貫いているのみで、宿、レストラン、バーなどもその通り沿いに集まっている。地方の静かな田舎町だ。
橋はたいしたことがなく、他に見所も少ないのだが、田舎っぽさと、自然が多いこと、宿が安くて快適なこと、そして何より知り合いが出来たことが、この町を気に入った一番の理由だろう。
オレの泊まっていた宿の向かえに小さなバーがあった。そこの自称「オカミサン」のスパーナさんは、旦那さんが日本人ということで日本語がペラペラだった。日本を出て5日で早くも日本語の会話に飢えていたオレは、毎晩通ってしまったのだった。
そして、そこに客として来ていたノッパラットという名前のオジサンも日本語が少し出来たため、この人とも親しくなった。次の日は彼の奥さんも一緒にご飯を食べに行ったりもした。
彼もバンコクで知り合ったキッチャさんと同じく教師だと言う。彼にも家へ誘われたし、学校も見に来ないかと誘われた。全く同じパターン・・・。もしかしたら教師と言って日本人を安心させて騙すというパターンなのでは? そう考えたオレは彼の誘いも断った。奥さんも一緒だし大丈夫だろうという気持ちもあったが、少なくてもナグに会うまでの間は何事もおこらないようにしておくことにしたのだ。
そしてもう一人、ゲストハウスの客引きのソムチャイ。彼とも何回かご飯を食べに行ったのだが、オレは彼の笑顔がとても好きだった。彼と、バーで働いているブンという女の娘と3人でスパーナさんの家へも遊びに行った・・・。
彼らは働いている場所も分かっているし、その点信用できると思ったのだ。
スパーナさんの旦那さんは現在日本へ帰っているそうなのだが、なにやら日本語の書類を書いて郵送しなければならず、日本語ペラペラの彼女だが一応オレに確認してほしかったらしく、そこでオレが家へ呼ばれたわけだ。
家は日本人の旦那がいるだけあってかなり立派な家だった。それとも店が繁盛しているのだろうか? とにかく良い家だ。ガレージには四駆の日本車も置いてある。
初めて地元の人の家へおじゃまさせてもらったが、これだけの家だと日本と何の変わりもなく、カルチャーショックもなにもなかった。それでも良い経験にはなったと思う。
この町では何人かの日本人旅行者とも知り合い、やっと旅らしくなってきたと感じている。前にナグが「旅は出会いだ」と言っていたが、まさにその通りだったのだ。
だが実は、金持ちでアホな日本人のオレは彼らにたかられていただけなのかも・・・? マイペンライ! (まっいーか!)
クワイ川鉄橋 / ノッパラットさんと奥さん
15.I met ナグ1 2003 8/31(タイ)
体調は最悪だった。扇風機をかけながらまっ裸で寝たのがバカだった。オレはカゼをひいてしまい、タイミング悪く下痢にもなってしまったのだ。熱も出てきた。
そのオレは空港のクーラーに凍え死にそうだった。タイのクーラーはどこでも寒すぎるくらいに効いている。暑い国では、寒いくらいに冷やすというのが最高のもてなしなのだそうだ。
オレはナグを迎えに空港に来ている。待つこと1時間、ようやくナグが現れた。1週間前に成田で別れたばかりということもあり、特にいつもと変わらない挨拶を交わしたオレタチは列車で市内へ向かう。しかし、オレは食事をすまし宿に帰るとすぐに眠ってしまった。せっかくナグがはるばる日本から来たというのに、本当に申し訳ないことをした。
翌日、オレタチはパタヤへ行くことにした。ナグがオレの体調を気遣って、ビーチでのんびりしようと考えたからだ。
バスターミナルでパタヤ行きのチケットを買うために並んでいると・・・、ナグがとなりのカウンターにある文字を発見した「サメットアイランド」オレタチは即決で目的地を変更し、パタヤ行きではなくそのバスに飛び乗った。サメット島とは、去年オレタチが行こうとして、行けなかった所だ。バンコクから直通バスが出ていたとは・・・。
それにしてもオレタチの旅らしく、予定というものはまるで意味がない。
ところが、1年かかってやっとたどり着いたサメット島はたいした所ではなかった。曇っていたせいもあるが、海もそれほどキレイではなく、物価が高いうえに入島料をとられたのも痛い。島へ行くボートに乗る前に、泊まる宿を予約しなければならないのにも腹が立った。案の定、写真だけを見て選ばされた宿は、天井や壁に穴が空いているようなボロい部屋だった。唯一の救いは宿からビーチが近く、波の音を聞きながら寝ることができることくらいだ。
こんな気分の悪い天気の下でビーチにてテンションダウン・・・。去年のまま成長していないオレタチ・・・。
オレタチはサメット島に1泊だけして、パタヤへ移動した。それと同じくして天気も回復。こちらも1年越しで、やっとナグに天気の良いタイを見せてあげることができた。それにオレの体調も良くなってきた。
よっしゃ! 海だーーーー!!
オレタチはパタヤ、そしてパタヤからボートで行ったラン島で、あっという間に褐色のボディへと生まれ変わったのだった。
サメット島にて / パタヤのビーチ
16.I met ナグ2 2003 8/31(タイ)
今回、サメット島、パタヤとまわってきたわけだが、実はこのルート、去年のパタヤ、ラヨーンとほぼ同じコースを逆にまわっただけなのだ。前回はその前にアユタヤへ行ったのだが・・・。今回もそのアユタヤへまた行くことになった。
なぜそんなアホなことをするのか? オレタチにも分からない。オレはともかくナグはせっかくタイまで来たというのに、また去年と同じ所へ行くのだ。だが、結果的にそれはそれで良いものだった。気に入った場所というものは何回行っても良い場所ということだろうか。
アユタヤはやっぱりスゴかった! さすが世界遺産に登録されているだけのことはある。前回はバンコクから日帰りで行ったため時間がなく、3ヶ所の遺跡しか行くことができなかったが、今回は8ヶ所の遺跡をまわった。どこも気に入ったが、夜ライトアップされた仏塔は特に良かった。暗い闇に鮮やかなオレンジを放つレンガ造りの仏塔が、燃えるように天にのぼっている。かつてビルマ軍に破壊された仏塔は、昼の間は「儚さ」を感じさせるものなのだが、夜の姿が持っているのは「力強さ」と「存在感」だ。アユタヤは決して遺跡でも廃墟でもない、まぎれもなく生きていた。
遺跡をまわるのには、トゥクトゥクと呼ばれる3輪タクシーをチャーターしたのだが、良いドライバーに出会えた。彼は夜の遺跡観光の後、オレタチを屋台の集まっている所におろしてくれた。
「ご飯はここが良いよ、宿へも歩いて帰れるから。じゃ明日の朝は9時に迎えに行くよ」
そう言って彼は走り去った。あれもこれもとしつこくなく、かといっていい加減でもない。程よい距離感を常に保った、サッパリとした好青年だった。
その彼が勧めてくれたこの場所には、衣料品から食料品まで、いろいろな屋台が店を出していた。中心の広場にはテーブルとイスが並び、タイの演歌が流れている。これこそが東南アジアだ! オレタチはこれが何より好きなのだ!! こんな雰囲気の中でお決まりのシンハビールを飲みながら、辛い料理に汗を流す。というのもいかにもアジアの夕べといった感じなのだが、オレタチは迷っていた。「ビールを飲んでドリアンを食べると、胃の中で大量のガスが発生してしまい、胃が破裂して最悪の場合死にいたる」という日本ではあまり知られていないが、南国では誰もが知っている話を聞かされていたからだ。日本の某大手旅行会社のツアーでは、それに関する注意書きも配られるらしい。オレタチは屋台で「果物の王様ドリアン」を見つけ、今夜こそは食べてみようということにしていた。そんなわけでビールとドリアンの間で心は揺れていたのだ。しかし「その話は実はウソ」という話も聞いたことがあるし、「それはウソという噂は実はウソ」という話も聞いた。つまり真実は分からない・・・。
結局オレタチはビールをあきらめ、ドリアンを選んだ。食事をして宿へ帰り、屋台で買ったドリアンを食べる。厳重なラップを剥がし、その激しく臭い果実を口に入れる。まさに王様の味! オレのような庶民にはまったく理解のし難い味だった・・・。
バンコクへ戻ったオレタチはチャイナタウン、インド人街へと足を運んだ。漢字の書かれたネオンが輝き、中華レストランと「金」を扱う店が延々と続くチャイナタウン。スパイスの香りが漂う薄汚い細い路地には得体の知れない怪しげなモノが並び、摩訶不思議なインド人が歩くインド人街。オレタチはその、まるでタイではない雰囲気に心が熱くなった。
「ここでさえこうなのだ。本場の中国、インドはもっとすごいのだろう。アンコールワットはアユタヤの何倍も感動するだろう。ラン島よりきれいなビーチも山ほどあるだろう」
オレはそう考えると、これから先の旅が本当に楽しみになってきた。
そしてもうひとつ、この1週間でオレは感じたことがある。
1年前タイを旅したオレタチは、同じものを見て同じことを感じ、そして旅に出ようと決断したのだ。
しかし今回は同じものを見ても、それぞれ違ったことを感じていたようだった。旅に出たオレと日本に残ったナグ。今は違う世界の住人なのだと思うと、少しだけ悲しくなった。
そしてナグは8月29日の夜、日本へ帰っていった。
アユタヤ / アユタヤの夜景
17.danger zone 2003 9/3(タイ)
この旅始まって以来最大のピンチだった・・・。
昨日、オレはバンコクを発ち南へ向かった。マレー半島を南下して、マレーシアへ、そして最南端のシンガポールを目指す。
マレーシアに入る前に何ヶ所かに寄って行きたかったオレは、ペッチャブリー(ペッブリー)という町へ立ち寄ったのだ。ここは小さな町で、街中にあるいくつかの寺や丘の上の王宮、そして夜になると活気をおびるナイトマーケットなどが観光スポットになっている。
やはり小さな町なので、昨日の夕方到着してから今日の午前中までに、この町の見どころはだいたい見に行ってしまった。そこでオレは少し町から離れたところにあるカオルアン洞窟へ行くことにした。その洞窟の中は広いため、かつては仏教僧が修行に使っていたそうで、今では仏像もあって寺院になっている。
この町にタクシーはなく、トラックの荷台を改造した「ソンテウ」という乗り物がその代役となっているのだが、オレはそのソンテウで洞窟へ向かったのだ。
洞窟へ着くと、それと同時にいつもより早めのスコールが降り出した。逃げるように洞窟へ入ったオレだったが、いつのまにかガイドがオレの横をいっしょに歩いていた。20バーツ(約60円)と高いわけでもなかったので、この男を連れていくことにした。
ところがこの男・・・、(たぶん)ホモだった。オレの手をにぎったり腕を組んだりベタベタとくっついてくる。
「雨で階段が滑るから」
と男は言うが、明らかにあやしい・・・。オレは「別に何かされるわけでもないしまっいーか、他の観光客もいることだし、少しの間がまんしよう」と思って奥へ進んで行ったのだ。
そして洞窟の一番奥まで行った時だった。急に洞窟の中の照明がすべて消えてしまい、真っ暗になってしまった! オレは一瞬
「ヤバイ! こいつの仕業だ! 襲われる!」
そう思った。懐中電灯を持っていなかったオレは、デジカメのかすかな光でガイドに注意しながら恐る恐る洞窟の出口へ向う。
結局、電気はサルがスイッチを切ってしまったことが分かった・・・。もちろんオレも何事もなく洞窟を出た。本当にほっとした。
外へ出るとスコールは止み、青空が広がっていた。
カオルアン洞窟 / ペッブリーの王宮には猿がいっぱい
18.マレー半島南下中 2003 9/8(タイ)
今ごろマレーシアにいる予定だった。実は今朝、オレは寝坊をしてしまい、列車に乗れなかったのだ。バスで行くという手もあったが、何となくここハジャイでぶらぶらと過ごしてしまった。
オレはペッチャブリーを出てからここへ来るまでに、チュンポーンとスラタニーに寄ってきた。
ペッチャブリーからチュンポーンまでは列車で約5時間半。3等列車は快適とは言えなかったが、車窓の風景は平原あり、ジャングルあり、岩山ありと、なかなかのものだった。
そして到着したチュンポーンには何もなかった。かといって田舎でもない。何よりオレの泊まった宿に蚊が大量発生していたため、この町はあまり好きになれなかった。
さらに南へ列車で2時間のスラタニーは大きな街だった。ここはサムイ島やパンガン島に向かう旅行者の中継地なのだ。どこかにツーリストエリアがあるはずなのだがそれが分からず、高い宿しかみつからなかった。観光スポットもなく、どういうわけか東南アジアの旅には欠かせない食べ物屋台も極端に少ない。
島に行く気のなかったオレが行っても意味がない所だったようだ。
翌日ミニバスでハジャイへ向かった。ミニバスとは旅行代理店がバンタイプの車を出し、12、3人の旅行者を乗せていくというものだ。今オレがいるハジャイまでは4時間半かかった。
こうして辿りついたハジャイは、なかなか良い町だ。オレは気に入った。
これまでの町同様、特に何があるというわけではないのだが、この町の多文化性がおもしろいと思ったのだ。マレーシアに近いということでムスリム(イスラム教徒)がいる。そして中国系の人がやたらと多い、インド人がいて、アラブ系の人がいる。そしてそれぞれの食べ物屋があって、それぞれの着物屋があり、それぞれの宿がある。
単民族国家でくらす日本人のオレの目には、この町のごちゃ混ぜ感がとてもおもしろく感じられた。
ハジャイの街
19.マレーシア入国 2003/9/14(マレーシア)
初めての陸路での国境越えだった。ハジャイからオレを乗せた列車は、国境のタイ側で停車。ここで入国審査のため一度列車を降りる。初めてで緊張したが、あっけなくそれは終わってしまった。
全員の手続きが終わり、再び走り出した列車はマレーシアのアロースターという町に到着。特に何があるわけでもない町だが、とりあえずマレーシア最初の町ということで列車を降りることにした。
オレはハジャイに中国人やインド人、いわゆる華僑や印僑が多かった理由がやっと分かった。それはマレーシアという国がそのような多民族国家だからだったのだ。彼らはタイの南部にまで進出していたのだ。アロースターの町を歩いてようやくそのことに気付いた。
オレは以前にもマレーシアへ行ったことがあるが、その時はランカウイ島というリゾート地だったためにあまり現地の人と多く接しなかったし、ランカウイにはマレー人が多かった。なのでその時にはマレーシアがこのような多民族国家だとは分からなかったのだ。
そして次にオレが行ったペナン島のジョージタウンは、それ以上だった。
マレー人、中国人、インド人、タイ人、ビルマ人がそこに住み、モスク、中国寺院、ヒンドゥー寺院、そしてタイ、ビルマの仏教寺院、さらに教会がある。
そして何よりオレを熱くさせたのはチャイナタウンとリトルインディアだ。バンコクにもチャイナタウンやインド人街はあったが、オレはここジョージタウンの方が気に入った。せまい地域にいろいろなものが混ざり合っているのがおもしろいのだ。
「混ざる」といえば、この国の料理に「ナシチャンプル」というものがある。ナシは「ご飯」チャンプルは「混ぜる」。その名のとおりご飯の上に好きな料理を乗せ、ごちゃ混ぜにして食べるのだ。この国の人は混ぜるのが好きなようだ。
マレーシアはバックパッカーに人気がないと聞いたが、オレは好きになった。たしかにタイよりも物価は高く安宿も少ない。貧乏旅行者にとっては生活しづらいが・・・。
ところで、ジョージタウンの安宿で新聞を目にしたオレは、ある文字に釘づけになった。この宿は中国人の経営で新聞も漢字だったが、何となくしか読み取れない。だが何となくは読み取れたのだ。宿の主人に聞くと、やはりオレの解釈のとおりだった。
「またしてもシンガポールでSARS」
おいおい! これから行くんですけどー・・・。大丈夫かよー・・・。
バタワースから見たペナン島 / 極楽寺
20.アーベンゲストハウス 2003 9/18(マレーシア)
ペナンのジョージタウンである人物と知り合った。名前はスティーブン。こんな名前だが中国人である。マレーシアでは中国人もセカンドネームを持っているらしい。
オレは彼にいろいろな所へ連れていってもらい、いろいろな事を教えてもらい、ご飯も何回もおごってもらったし、家にも何回か遊びに行った。
オレがジョージタウンに長居してしまったのは、彼や彼の友人、オレと同じように彼に世話になった旅行者などと知り合ったからだった。
ところがこのスティーブン・・・。なんとホモだった! 最近ホモ運がない・・・。
彼の家へ行った何回目かの時のことだ。オレはTVを観ながらいつの間にか眠ってしまっていた。うとうとしながらも妙な感触を感じて目を開ける。するとあろうことか彼の手がオレの股間に伸びていた・・・。驚いて飛び起きたオレは冷静さを失い、つい怒鳴ってしまった。
「何やってんだ! ふざけるな!! もう帰るから送ってけ!!!」
彼は謝ったが、逆ギレされたら危なかった・・・。今考えるとゾッとする・・・。
彼の家は街から離れていて、土地勘の無いオレは彼のバイクでなければ帰ることはできなかった。こんなことがあった後だというのに、また2ケツするのもイヤだったがしかたがない・・・。
宿まで送らせて、別れ際に
「オレは明日からバツーフェリンギへ行く」
と伝えた。ここにいたら、またこの男は懲りずに現れそうな気がしたからだ。バツーフェリンギはペナン島の北西部にあるビーチだ。まさかそこまでは追ってこないだろう。
すると彼は
「深夜特急を知っているか?」
とオレに聞いた。オレが
「もちろん」
と答えると、彼はある宿を教えてくれたのだ。
「アーベンゲストハウス」
『深夜特急』とはルポライターの沢木耕太郎が香港からロンドンまでを旅した時の旅行記で、バックパッカーのバイブルとさえいわれている作品だ。この『深夜特急』はテレビでドラマ化されたのだが、その時撮影に使われたのがこのアーベンゲストハウスという宿だった。オレもDVDを持っていて、旅に出る前に何度も何度も観た作品だ。もちろん原作も読んでいる。
オレはさっそくアーベンへ行ってみた。するとそこにはドラマに出演した「ケンちゃん」がいるではないか! まさか本当に宿の人だとは思っていなかった。オレは本当にビックリした! 現地の俳優じゃなかったの?
しかもこのケンちゃん、ドラマの中で「日本人のマサコさんと結婚する予定だ」と言っているのだが、なんとなんと! 本当にマサコさんまでいたのだ!! カワイイ息子さんまで。
オレはまさに、TVで観ていたドラマの中に入り込んだのだ。今までに経験したことのない不思議な感覚をおぼえた。
このケンちゃん。ドラマの中では3枚目役で登場するのだが、本物はそんなキャラではなくカッコイイ。何かと気を遣ってくれるし、頼れるアニキ的な存在だ。
しかし、オレがこのゲストハウスを大好きになったのはそれだけの理由ではない。おじいちゃん、おばあちゃんをはじめ、みんな本当に良い人たちだった。アットホームな雰囲気も他にないものだと思う。海も好きだ。ここなら何日いても良い。本気でそう思った。
朝起きてシャワーを浴びる。ビーチの見えるベランダに出てしばらく海を見て過ごし、近くの屋台へ朝食を食べに行こうと階段を降りると、決まっておばあちゃんがオレを呼んだ。そしておばあちゃんが毎朝買ってくるビーフンだのチマキだのをオレに食えと言って出してくれる。別に宿代に朝食が含まれているわけではない。それをいただいた後ビーチへ行って本を読んだり、海を眺めたり、昼寝をしたりするうちに、誰かしらに話しかけられる。宿の人だったり、ビーチボーイだったり、日本語のできる近所のおじいちゃんだったり。昼は散歩がてら少し離れた屋台まで行き、食後ビーチへ戻るとまた朝と同じ時間が流れる。海に沈む夕日を見た後もう一度シャワーを浴び、髪の毛が乾くまでベランダで読書。しばらくすると暗くなり、夜は奮発してレストランで食事。
贅沢しすぎだ・・・。
しかし、ここはあまりにも居心地が良すぎるため、このまま長居してしまうとこの先の旅を続ける気力が失せてしまうのではないか。そんな気さえしてきてしまった。旅を始めてこんなに早く沈没はダメでしょ。
そう思ったオレは3泊だけしてクアラルンプルへ向かったのだった。それにここにはマレー半島をシンガポールまで南下した後、バンコクへの帰り道でまた寄ることもできる。
オレは宿を出る時に、おばあちゃんに10日くらいで戻ってくると約束してしまった。
ちなみに、ホモのスティーブンはこの宿にも一度顔を出した。オレは心地よい生活を邪魔さて腹が立ったが、彼はバイクに乗せて日本人の男の子を連れて来た。学生だと言っていたが、今どきのイケメンくんだった。つまり・・・
「新しい彼ができたぜー、お前なんかよりもぜんぜんカワイイぞ」
と、学生くんを見せびらかせに来たのだろう・・・。まったくしょーもないヤツだ。オレが学生くんを救うべく今までのことを話すと、顔色が一気に変わってしまった。逆に悪いことしたかな・・・。
フェリンギビーチ / アーベンのみんなと
21.都会 2003 9/24(マレーシア、シンガポール)
「これで本当に世界一なのか? 意外とこんなもんなんだ」
オレはそう思った。クアラルンプルにある世界一高い建物、ペトロナスツインタワーを見ての感想だ。世界一と聞いて、オレはとんでもない想像をしてしまっていたようだ。
クアラルンプルは都会だった。このツインタワーをはじめ、KLタワーやモノレール、ショッピングセンターなどは、まさに21世紀を感じさせるものだった。まるで東京のようだ。つまり日本から来たオレにとっては特に珍しいものでもない。
点在する寺院やモスクも小じんまりとし、どこの町であっても最もアジアを体感できる場所であるチャイナタウンでさえも、物足りなさを感じた。はじめからこの街にはそれほどの期待は持っていなかったが、やはりこの程度かと思った。
しかも、この街では欧米人旅行者のカップルが、ひったくりに襲われた瞬間を目の前で目撃してしまい、なんとなくイヤな感じになってしまった。
ところが夜になってそんな気持ちも吹っ飛んだ。街のいたる所がライトアップされ、まるでメルヘンの世界のようだ! 特にツインタワー周辺と連邦事務局周辺はキレイだった。さすがに「光のガーデンシティ」と呼ばれているだけのことはある! ただ悲しいことに、ふと気づくとオレの周りはカップルだらけになっていた・・・。
クアラルンプルに3泊し、オレはジョホールバルに向かった。ここはサッカーの日本代表が初のワールドカップ出場を決めた町で、名前だけは有名だ。
この町はジョホール水道によって隔てられたシンガポールと、コーズウェイという橋でつながっている。つまり橋を渡ればシンガポールという国境の町だ。
特に何もなかったこの町から、オレはシンガポールに移動した。しかしシンガポールはクアラルンプル以上に都会で、物価も日本並みに高かった。1日で主な見どころをすべてまわり、オレは足早にマレーシアに戻ったのだった。
そしてオレは今、マラッカにいる。ここはかつてのポルトガル、オランダ統治時代の面影を残す街で、フランシスコザビエルの教会や中世の砦、博物館、もちろん寺院やモスクなど観光名所が多い。そのほとんどが1つの地域に集中しているため、観光しやすい。だが逆にいえば、ただそれだけの町だ。やはりどこか物足りなさを感じてしまう。もしかしたらマレーシア・・・。やはりバックパッカーには人気がないということが分かってきてしまった。
ペトロナスツインタワー
22.運命のいたずら 2003 9/27(マレーシア)
オレの予定はこうだった。ペナンを発った後、クアラルンプル、マラッカ、ジョホールバル、シンガポールの順にまわり、もう一度ペナン、いやペナンというよりはアーベンゲストハウスへ帰る。そしてその日数を計算して10日ぐらいで戻るとおばあちゃんに言ってきたのだ。
だがオレはクアラルンプルからジョホールバル、シンガポールへ行った後、最後にマラッカへ来た。予定を変えたきっかけはクアラルンプルの宿で知り合った女性だった。
東南アジアの宿ではどこにでもあるというわけでもないのだが、「ドミトリー」と呼ばれる大部屋がある。シングルやツインのように部屋を借りるのではなく、ベッドを借りるのだ。つまり初めて会った旅行者何人かと相部屋になる。部屋の大きさやベッドの数はさまざまなのだが、このクアラルンプルのドミトリーは6人部屋だった。
その中の一人がインドネシア人の女性だった。彼女はクアラルンプルへ仕事を探しに来たのだという。彼女の出身地のスマトラ島の話を聞いているうちに、オレはどうしてもそこへ行きたくなってしまったのだ。そしてオレが行きたいと思った3つの町、ブキティンギ、トバ湖、ブラスタギをまわるには、ルート的にマレーシアのマラッカから出ているボートに乗ることになる。そんな理由で先にシンガポールを見て、マラッカを最後にしたというわけだ。
しかし、インドネシアに行くと10日でペナンへ帰ることはできなくなる。オレは最初のうちは迷っていた。おばあちゃんも心配するかもしれない・・・。
考えた結果やはり行くことにしたのだ。
「せっかくここまで来たのだから、行ける時に行ける所へ行こう。多少遅れても戻りさえすれば分かってもらえるだろう」
そう思った。いやそれ以前に、宿の人は多くの客の中の一人であるオレのことなんか気にかけていないんじゃないか・・・。
マラッカに着いた翌日、オレはボートのチケットを予約しに行った。ところがチケットは80リンギット(約2600円)と思った以上に高く、持ち合わせのなかったオレは両替をするために一度宿に戻ったのだ。しかし暑い中を20分歩くうちに、もう一度チケット売り場へ行くのがめんどうになってしまった。この時期、この場所では太陽は真上まで昇り、かなり暑くなる。それに湿度もものすごいのだ。
結局ボートに乗るのは1日遅れになった。
だが旅というものは本当におもしろいもので、こんなささいなことでオレはある人物と出会うことができた。その人とはボートの中で知り合ったのだが、もし予定通り前日に乗っていればこの出会いもなかったのだ。
オランダ植民地時代の砦
23.アリ・ムルティム 2003 9/28(インドネシア)
オレはマレーシアのマラッカからインドネシアのドゥマイへ向かうボートに乗っていた。出発してからしばらくすると、1人の男性に声をかけられた。
「こんにちは。日本人ですか?」
「はい。そうですけど・・・、日本語喋れるんですか?」
「私は前に日本に住んでいましたから。一人? どこ行くの?」
流暢とまではいかなかったが、かなり上手い日本語だった。
アリ・ムルティム、44才。彼は日本に2年間住んでいたという。小さな漁村に住む彼は、村に港を造る仕事をしているそうだ。その研修のために海外の港町をまわり、特に日本には長く滞在した。神戸を拠点に日本中の港町へ行き、オレの出身地である静岡県にも2ヶ月間住んでいたということだった。
静岡の話や、サッカーの話、旅の話などで自然と会話は盛り上がった。オレがスマトラ島のブキティンギへ行くのだと言うと、彼の村はちょうどブキティンギの近くなので、もし良かったら家に来ないかと誘われた。近くといってもバスで2時間はかかるそうだが・・・。
オレは旅を始めてからこれまで1ヶ月半のうちに20人以上の人に家に来ないかと誘われたが、半分以上は明らかに怪しい人間だった。特に多かったのが「妹が日本語を勉強している」あるいは「妹が今度日本の大学へ留学する」という文句で、100%ウソだと一発で見抜ける。
こんなことまであった。クアラルンプルにいる時のことだった。ひとりの女性に声をかけられ、やはり「妹が・・・・・・」と話しだす。女性は携帯で妹へ電話し、オレは妹と日本語で話す。「日本人の人と友達になりたい」などと言い出すが、オレは鼻で笑って「バカかお前ら」とそれをあしらう。ところが、30分も街を歩いているうちに、別の女性からまた声がかかる。またしても妹が・・・。そして電話・・・。オレが出てみると・・・。明らかにさっき電話で話した妹と同じ声だ。これには笑いが止まらなかった。
それだけ日本人が騙されているということなのだ。そう考えてしまうと、たとえ親しくなってからであっても100%信用できると判断するのは不可能に近く、オレが家へ行ったのは今のところ2人だけだった。しかしそのうちの1人はホモだったし・・・。貴重な経験をするチャンスをつぶしてしまっているようにも感じるが、その裏にある危険を考えるとしかたがない・・・。
今回もオレはボートに乗っている間考えていたが、彼の家にお世話になることにした。このアリさんは話をしていて完全に信用できると思った。それにこのままブキティンギへ向かうと到着は深夜。そんな時間に宿を探すのは危ないとも思ったからだ。
ボートがドゥマイへ近づいてもビルなどは目に入ってこなかった。アリさんの話ではスマトラはインドネシアの中でも貧しい地方らしい。町も小さいのだろう。
しばらくしてボートは港へ入った。
インドネシアというと楽園のようなバリ(行ったことはないが)のイメージしかなかったオレは、ボートを降りて少しビビった! あっという間に客引きに囲まれた。こんなことは今までどこの町へ行っても毎回体験することなのだが、しかしここの人たちは迫力が違った! 腕を捕まれ、バックを引っ張られ、大声でどなられる。
アリさんが、
「私の家へ行くんだ」
と言っても全く聞かないのだ。なんとか客引きたちをふりきり、オレとアリさんはミニバスに乗り込んだ。これではまるでインドではないか! (インドにもまだ行ってはいないが)
スマトラには馬車が走っている
24.This is スマトラ 2003 09/28(インドネシア)
オレとアリさんを乗せたミニバスは快調に飛ばしていた。いや爆走していた! 前を走る車はすべて抜かないと気がすまないようだ。しかも舗装の至る所に穴が空き、車2台がようやくすれ違うことができるような細い道だ。さらに雨の降る夜の山道・・・。本気で死が頭をよぎった。
道中何ヶ所かガケ崩れがあり、10台を超える故障車を目にした。そんな状況の中で、ほとんどすべての車がこのように飛ばしまくる。もちろん対向車線でも。ごくたまに、両方の車線で追い抜きをかけることがあった。つまりこちらから2台、向こうからも2台が正面衝突ギリギリまでブレーキを踏まずにつっこんでいくのだ! コイツらの頭の中はどうなっているんだ! 10年は寿命が縮まった!!
オレは次の移動からは大型バスでゆっくり行こうと決めた。
途中、食事のため休憩をとった。この地方の料理はパダン料理と呼ばれ、特に辛いことで有名だ。レストランではメニューは無く、何も注文しなくてもテーブルいっぱいに料理が運ばれてくる。この中から好きな料理を好きな量だけ食べ、食べた分だけの料金を払うのだ。残った物は次の客のテーブルへいく、という日本人の感覚からすればアンビリーバブルなシステムだ。
そしてウワサどおり辛い! 辛いものが得意で大好きなオレでさえ辛くて汗だくになった。アリさんは
「辛いですよ」
と言いながらも平気な顔をしている。
また、スプーンやフォークが無いのにもおどろいた。マレーシアでも手でご飯を食べる習慣があるが、ツーリストであるオレにはスプーンとフォークがついてきた。しかしここではそれが無いのだ。オレはアリさんの真似をしながら、慣れない右手でご飯を食べた。
ついでにいっておくが左手はトイレで使用するのだ。アジアの多くの国では紙ではなく、水と左手でお尻を拭く。もちろんオレもこちらに来てからずっとそうしている。これが慣れてくると紙で拭くよりもずっとキレイになるし、気持ちが良いのだ。
食事もトイレも「郷に入りては郷にしたがえ」である。
再びミニバスは走る。道中、何回か検問があった。独立運動でテロが頻発しているアチェが近いこともあり、警備も厳重なのだ。軍人なのか警官なのかは分からなかったが、彼らが持っていたのは拳銃でもライフルでもなく、マシンガン! オレは初めてこのような紛争の一場面に遭遇し、改めて平和な日本を感じた。
14時間後、オレはなんとか生きてアリさんの家へ到着した。事故らなかったのが不思議なくらいだ。
家へ着いたのは午前4時半。もちろんまだ真っ暗だ。家へ入りしばらくすると、家族全員が起きてきてしまった。
「ヤバイ! こんな夜中に起こしちゃった! 最初から印象悪いかな」
と思ったが、そうではなかった。ムスリムの彼らは朝5時にお祈りがあるので、毎日この時間に起きるのだそうだ。オレは一人、疲れた体をベッドに横たえた。5年前初めてタイへ海外旅行へ行った時以上に、カルチャーショックを受けた1日だった。
アリさんの村
25.スターになった日 2003 9/30(インドネシア)
スマトラ島の中央、南海岸にパダンという都市がある。そこからバスで2時間の所にパリアマンという小さな町があり、さらにバスで20分の所にある田舎の小さな漁村。ここにアリさんの家がある。村の名前は「パシルバル」。
つまりオレは一晩でスマトラ島を北から南まで横断してきたことになる。
村は本当に小さく、10分ですべて歩けるほどの大きさだ。家はどれも粗末なつくりで、村では立派なアリさんの家が際立っている。店と呼べるような店は駄菓子や雑貨を売っている家が1件、浜辺にある屋根がついただけのカフェが1件、そして倉庫のようなところにドラム缶が並んでいるだけのガソリンスタンド。それだけだ。停電も日常茶飯事で、下水道も整備されてはいない。ここでの暮らしは、電化製品や高度な文明に頼りきった日本のような軟弱な生活ではないのだ。
浜には20槽ほどの漁船があり、ほぼ毎日漁へ出ているそうだ。完全な漁村かと思いきや、村で唯一の舗装道路を隔てると、田園が果てしなく広がっている。本当に良いところだ!
アリさんはオレを連れて、村中を挨拶してまわった。どこへ行っても村の人たちはオレを好奇の目で見、そして質問攻めだ。外国人はアリさんの日本時代の友人以外に来たことがないというこの村で、オレはスターになった。オレの行く所には人だかりができ、オレが歩けば後ろから子供たちが続いて歩いた。ここにいる間は本当に楽しかった。
村で唯一のカフェへ行けばそこでも質問攻めにあい、アリさんも通訳に大忙しだ。村の人たちと話していると文化の違いに驚くことが多かったが、むしろオレよりもみんなの方が驚いていた。先進国のことなど、この村では全く異次元の世界なのだろう。デジカメやインターネットは当然として、自動販売機や自動改札の話にも、まるで子供のように心をときめかせながら聞き入っている。中でもオレが一番気になったのは、ごみ箱の話だった。アリさんが、日本ではゴミはゴミ箱に入れなければいけないと話したところ、村の人たちはこのように言った。
「なんでそんなめんどうなことをするんだ? ゴミは地面へ捨てるものだろ?」
確かにこの村は良いところなのだが、ゴミがやたら多いのが気になっていた。ガラスの瓶やスチール、アルミの缶、プラスチック、ビニールがないような昔はそれで良かったのだろう。ゴミは自然と土に還る。しかし現代ではそうはいかない、というところの概念が彼らにはまだなかったのだ。文化のギャップというよりも、文明のギャップと表現した方が正しいのだろうか?
オレはこの村に来て、大学時代のある授業のことを思い出した。かなりあやふやな記憶ではあるが、文化人類学という授業でこんなことを聞いた気がする。
「ポリネシアや、インドネシアの一部では女系社会を築いている村がある」
この村はまさにそうだった。男が婿養子に入り、嫁の母親の家で暮らすのだ。アリさんも奥さんの母親と同居していた。そして村には奥さん方の親戚が多く、時々家に遊びにきては、勝手にご飯を食べて行ったりもしていた。あまりにもそんな人が多いので、アリさんにあれは誰かと聞くと
「あれはとなりの人です」
と、ただのご近所さんがメシを食っていたりもした。まさに昔の日本でいう「となりに醤油をもらいに行く」といった感じだ。日本が失くしてしまったものが、ここにはまだいっぱいある。オレはそんなこの村が大好きだ。
オレはインドネシアへ入ってからずっとアリさんといたため、実はインドネシアの金をほとんど持っていなかった。アリさんの家にいる間は金を使うことはほとんどなかったが、それでも無一文に近いのはちと不安だ。このちいさな村ではもちろん両替などできない。オレの両替と、アリさんの買い物を兼ねて、最も近い町パリアマンへ行くことになった。
アリさんの家から田んぼのあぜ道のような小道を抜けると、舗装道路にでる。そこには例のドラム缶が置いてあるだけのガソリンスタンド、いやガソリン屋があり、そこがバス停も兼ねている。
しばらく待つとバスが来た。オレとアリさんがそれに乗りこむと、村から2人の女の子も同じ車に乗って来た。彼女らは、パリアマンの大学へ通っているという。村では珍しく、オシャレな感じのカワイイ娘だった。この車は、バスといってもハイエースの後部を改造したもので、8人も乗れば満員になってしまう。などと思っていたが考えが甘かった。村とパリアマンの間には村らしい村はほとんど見当たらないのだが、いったいどこからくるのか? 次々と人が乗ってきて車は20人くらいの人でギュウギュウ詰めになった。さすがは世界第四位の人口を誇るインドネシアだ。
夕方、用事を済ませたオレとアリさんが村へ帰ろうとハイエースバスに乗ると、偶然にも行きで同じ車だった女子大生2人もそれに乗っていた。彼女らのうちの一人が英語を話せたためオレとしばらく話していたが、どちらの英語も褒められたものではなく、やはりアリさんの通訳で会話することになった。
そんなことがあり楽しい車内だったが、村に着く前にスコールが降りだした。アリさんの村で降りる4人のうち、カサを持っていたのは女の娘1人だけ。結局オレとカサを持っていた英語を話せる方の女の娘が2人でカサを使い、アリさんともう一人の娘は走って帰って行ってしまった。彼女の家まで一緒のカサで帰る。なんとも心地の良い時間だった。結局は彼女の家からアリさんの家までの間でびしょ濡れになってしまったが・・・。
スコールも止んだその日の夜、家族が寝静まったのを見計らってアリさんがこう言い出した。
「ヒロさん。ビール飲むは大丈夫ですか?」
「え? ビールなんか買えるの? アリさんはビール飲んで大丈夫?」
「大丈夫。もうみんな寝てますから」
イスラム教徒の多いインドネシア、当然この村の人たちもムスリムだ。しかもアリさんは「神様の塾」と日本語で表現したが、学校が終わった後の子供たちをイスラム神学校へ通わせているほどなのだ。酒を飲んではいけないイスラムの訓えなので、オレは良いのかな? と思ったが、村でも買えるくらいなのだから良いのだろう。
村唯一のカフェの奥で、ビールが買えた。それを見えないように紙袋へ入れて家へ持ち帰る。
「これを混ぜるとおいしいです」
とアリさんはなんと黒ビールまで買っていて、普通のビールとハーフアンドハーフにして飲んでいた。そんなことまで知っているなんて・・・さては
「アリさんビール好きでしょ? いつも飲んでるの?」
「日本に行ってから大好きです」
「ダメじゃんアリさ〜ん!」
ビールを飲みながら2人の会話は盛り上がり、この村では早寝早起きだったオレも久々に夜更かしをした。ジーコが日本で代表の監督をしていることを驚いたり、神戸の震災のことを心配していたり、また静岡へ行って富士山を見たいだとか、雪を見たいだとか、そんな話をしていたが、印象に残っているのはこんな会話だった。
「この村はどうですか?」
「良い村だね。大好き! 今まで行った中で1番だよ! 住みたいくらい」
「1週間いるも2週間いるも大丈夫ですよ。みんなもヒロさん好きです。日本人好きです」
「ヒロさん。今日の女の娘はカワイかったですか?」
「うん。あの英語ができる方の娘はカワイイね。」
「じゃあ、あの娘と結婚するは大丈夫ですか? ヒロさんが村に住むはうれしいです」
そうか、例の女系社会でオレがこっちに来ることになるのか・・・、イヤイヤなんでいきなしそーなるの! でもこんな小さな田舎の村のことだ。もしかしたらアリさん半分くらい本気なんじゃ・・・? そんな気さえしてしまった。
アリさんの子供たちはオレの良い遊び相手だった。中学生のミミちゃんは恥ずかしがってあまり話してくれなかったが、小学2年のイパちゃん、1年のグルフィーくんとは仲良くなることができた。2人とも本当にカワイかった! もともとオレが行きたかったブキティンギにも日曜の学校が休みの日に、アリさん、オレ、イパ、グルフィーの4人で出かけた。
ブキティンギは赤道直下の町だが、標高が高いためにそれほど暑くない。町はずれにある渓谷に行った後、町の中心にある時計塔の丘へ上った。ところがそこに着いたと同時に大雨が降り出し、結局ご飯だけ食べて帰ってきてしまった。
目的地のブキティンギは残念だったが、道中のバスの中や食事中4人で楽しくすごせ、それはそれで良かった。
村にあと1週間は居たかったのだが、そうもいかなかった。アリさんはオレといる間仕事を休んでいたし、奥さんは4人目の子供がお腹にいて大変そうだった。ミミちゃんはよく勉強をしていたので、オレとイパ、グルフィーが3人でさわいでいるのも良くなかった。それにただ泊まらせてもらい、ご飯までご馳走になるのも悪い気がしてきたのだ。アリさんはもう少し居れば良いと言ってくれたが、オレは行くことにした。
最後の夜、浜のカフェへ行くと村のみんなは最後まで心配してくれた。日本に帰ったらすぐに無事を伝えろだとか、次の目的地トバ湖に着いたら電話しろだとか、メダンは危ないから気を付けろだとか・・・。アリさんに出会えて本当に良かった。I Love PasirBaru!
アリさんと子どもたち / ブキティンギの時計台
26.またしても・・・ 2003 10/3(インドネシア)
オレはトバ湖に浮かぶサモシル島へ向かっていた。バスでの車中1泊、20時間の移動だ。ミニバスならもう少し早く着くが、もうあんなクレイジーなミニバスには乗りたくなかった。
しかしバスもバスで大変だった。雨が降れば雨漏りはするし、故障で何度も止まるし、結局トバ湖に着くのに28時間もかかってしまった。
だがその間ヒマはしなかった。バスの中でもオレはスターだったのだ! アリさんの村ほどではないが、やはりこのバスに乗る外国人も少ないのだろう。バスの乗客の中に1人だけ英語が話せる人がいたので、やはりその人を通して質問の嵐。
みんなと親しくなれて、休憩の度に食事をおごってもらった。イスラム教には「旅人に施しをせよ」という訓えがあるが、その旅人であるオレに対してはみんな良くしてくれた。イスラム教徒がほとんどのインドネシアの中でも特にスマトラはイスラム色が強い地域なのでなおさらだ。
ようやくトバ湖へ到着。ボートでサモシル島へ。
ここは高山地帯にある火山に囲まれた湖で、日本の秋のような気候だ。しかし高山ということで雨が多く、やはりここでもキレイな景色を見ることはできなかった。
雨が止んだ数時間、オレは島の奥の方へ自転車で行ってみた。田園が広がり水牛が道を歩き、頭に荷物を乗せた女が歩く。その向こうにそびえ立つ山には滝が見え、小鳥と牛の声以外何も聞こえない。子供たちはオレを見つけると遠くからHelloと手を振る。
まさに桃源郷だ! 雨さえなければ最高だったに違いない。しかし毎日雨、雨、雨・・・。
オレはもうスマトラを出ようと思った。もう1ヶ所ブラスタギという町へも行きたかったのだが、ここも高山にあるためブキティンギやトバ湖同様に、雨だろうと考えたのだ。それにペナンへ早く帰りたかった。10日で戻ると言ってきてしまったことが気になり始めたのだ。もうすでに14日前のことだ。
早速オレはあらかじめ予約しておいたバス会社に電話をし、明日乗ると伝えた。ところがだ、当日になってみるとバスではなくミニバスだと言い出した。オレはミニバスには乗りたくなかったので最初にビックバスか? と確認しておいたのだが・・・。
案の定今度のミニバスもクレイジーだった。12人乗りのバンに16人を乗せたのだ。つまり3人掛けのシートに4人。2人乗りの助手席に3人が乗った。そしてオレは不運にも助手席だった。3が4になるよりも2が3になる方が当然キツイ。横の男とドアの間にギュウギュウに押し込まれ、骨がきしんだ。天井の上に乗せた荷物は、頼りないロープで1ヶ所だけ縛られ、雨でビショビショになってもおかまいなしである。ここまでされると、もうどうでも良くなってきた。これがスマトラなのだと・・・。
4時間で中継地のメダンに到着した。体じゅうが痛くなっていた。パシルバルの人たちが危ないと言っていたメダン。ここに1泊だけし、オレはペナン行きのボートに乗る。
サモシル島のバッタック様式の家 / トバ湖
27.この島も雨だった 2003 10/9(マレーシア)
バスを降りたオレはどしゃ降りの雨の中を歩いていた。アーベンゲストハウスへ向かっている。スマトラでさんざん雨に降られたが、この時のペナンもかなりの大雨だった。
アーベンに着いたが、庭は池になり、玄関も水びたしではないか! そしてドアは閉じられていた。オレは悪い時に来てしまったと思いながらドアをノックした。夜遅かったのだが、おばあちゃんがすぐに出てきてくれた。
オレのことなんか忘れているかもしれないと不安だったが、おばあちゃんはオレが帰ったことを喜んでくれ、前と同じ部屋のカギをくれた。ところが今にも家の中に水が入ってきそうな状況だ、話は明日にしてとにかく寝ることにした。
しかし次の日も、また次の日も大雨は降り続いた。玄関の水はこと無きをえたが、オレはあまり外へ出れなかった。しかもマサコさんに聞いて知ったのだが、ひいおばあちゃんの命日が近いということで、親戚が集まって何やら忙しそうに準備をしていた。この家族は中華系で、中国人というのは先祖を大切にするのだ。
2週間前この宿に泊っていた時のようにみんなと話しもできず、雨の降り続く外を出歩く気にもなれず、オレは部屋にいるしかなかった。そしてそれが5日間続いたのだ。もう何日か待てば雨も止み、命日も終わり、前のような楽しい日々を過ごせたかもしれない。そんな思いもあったが、しかしそろそろ旅を進めたくなった。残念だがペナンを発つことにした。
ところで2週間前アーベンにいた時に、他の部屋に泊まっていたイタリア人の女性と少し話をしたが、彼女はオレが戻ってきた時にもまだここに泊まっていた。どれくらいここにいるのかと聞くと、1ヶ月と答えが返ってきた。今まで何人もの欧米人バックパッカーと話をしたが、彼らは一ヶ所に長居をすることが多い。彼女はここへ来る前にもミャンマーに1年間いたらしい。オレも次はミャンマーへ行く予定だと言うと、ミャンマーは最高だと言っていた。特にシャン族の住むカローという町が良いと。そしてミャンマーの良さをいろいろと話してくれた。
実を言うとここを出ようと決めたのは、その話を聞いて早くミャンマーへ行きたくなったということもあったのだ。とにかくオレはペナンからバンコクへ向かった。
28.ミャンマーへ行こう 2003 10/13(タイ)
バンコクへ帰ったその日に、オレは旅行代理店へ出かけた。2つの航空券を取るためだ。1つはミャンマー行き。ミャンマーという国は陸路でも入国できないこともないのだが、制限が多く手続きも難しいし、金もかかる。実質空路入国するしかない。軍事政権による悪政で、ほぼ鎖国状態という国なのだ。
そしてもう1つは日本、バンコクの往復チケット。友人の結婚式に出席するために一時帰国することになっている。
オレはチケットを取ったその足でミャンマー大使館へ向かった。ビザを取りに行ったのだ。ところがあまりに人が多すぎ、2時間半待ったあげく結局申請はできなかった。しかも翌日はタイの祝日で、その次の日は土曜日。つまり金、土、日と3連休なのだ。月曜申請で火曜受け取りになる。
チケットは水曜発で買ってしまったため、全く余裕がない。人の多さと大使館の要領の悪さ、それにミャンマーという国を考えると不安にならざるをえなかった。月曜にまた申請できなければ、航空券もパァだ。
が、考えていてもしかたがないということで、オレは空いた3日間を利用してパタヤへ行った。ビーチを期待していたペナンで雨に降られたため、何となくビーチのある町へ行きたかったのだ。
パタヤではある出会いがあった。オレは泊っていたホテルの従業員と話しをする機会があったのだが、その時に
「いつチェックアウトして、次はどこへ行くのか?」
と聞かれた。
「日曜日にバンコクへ帰る」
そうオレが答えると、フロントの女性はその日に家族でバンコクの親戚の家へ行くので一緒に車に乗って行かないか? と言う。もちろんオレはその車に乗せてもらうことにした。
日曜日、オレは彼女に連れられ歩いて彼女の家へ向かった。ホテルにほど近いアパートが彼女の住まいだ。アパートの駐車場では旦那を紹介され、彼と車のところで待つ。彼も違うホテルで働いているそうだ。さすがはビーチリゾート。しばらく待って家族が出てきた。
ハイテンションな彼女の妹が言う。
「Let's go!!! 」
彼女と彼女の旦那、母親、弟、妹、娘、そしてオレ。なんと全員で7人だ。車は4人乗りで、後部に荷台がついたタイプだった。つまり3人は荷台。オレは迷わず荷台に飛び乗った。
彼らに気を使ったわけではなく、一度やってみたかったのだ。こちらに来てから良く見かけたこのスタイルを。晴れた空の下、360°の視界、風を切って走ると本当に爽快だった。
彼女らの親戚の家はバンコクの郊外にあった。都心のような騒がしさはなく、田んぼの広がる静かなところだった。オレはただ乗せてきてもらうだけでもありがたかったのに、親戚の家へ連れて行ってもらって昼食までご馳走になった。
その後バンコク観光にまで付き合ってしまい、1日楽しませてもらった。
このような出会いがあるたびに、オレは良い旅をしているなと思ったりしている。
家族と一緒にバンコク観光
29.首都ヤンゴン 2003 10/16(ミャンマー)
飛行機の小さな窓から町の明かりが見え出した。もうヤンゴンかと思い時計に目をやると、離陸から1時間と経っていなかった。この短いフライトのために、オレは空港で5時間も待たされたのだ。
出発時刻が変更になり、さらにその変更された時間を大幅に遅れて飛び発った。そしてこの短時間のフライト中も快適というわけにはいかなかった。隣の席のフィンランド人がアル中だったのだ。ずっと大声でオレに話し掛けてくる。他の客も、かなりイライラしていたようだった。ビザといい、フライトスケジュール変更といい、このフィンランド人といい、今回のミャンマーの旅はついていないのかもしれない・・・。
空港に到着し、町の中心までバンタイプのタクシーで向かう。客はオレの他には日本人カップルと・・・、なぜかあのフィンランド人。
途中、ライトアップされた見事なパゴダが2つ。シュエダゴンパゴダとスーレーパゴダだ。「パゴダ」とは本来仏塔を意味するのだが、ミャンマーでは寺そのものをパゴダと呼ぶ。そのライトアップされ黄金に輝くパゴダもさることながら、オレが驚いたのはその光に集まった信じられない数の虫・・・。
そして次に驚いたのはパゴダ以外の場所が真っ暗なこと。ここまで夜が暗いのは、今までではアリさんの村くらいのものだった。ミャンマーは近代化に遅れているとは認識していたが、ここまでとは・・・。しかし良く見ると、その暗闇の中で人々が小さなテーブルを囲み茶を飲んでいる。初めてそれに気づいた時はビックリしてしまった。真っ暗な所で人々が蠢いているようで、不気味だったのだ。
そして街はまだ9時だというのに人影はまばらだ。ホテルに着くとまず目に入ったのは、入り口にあった2機の発電機。後で分かったのだが、電気は送電されないのか、停電なのか、とにかく常には来ない。それで発電機を使うのだ。これがある所はまだ良い方だそうだ。
これでも「首都」つまりこの国で最も近代的な町・・・。えらい所に来たなと思うと同時に、逆におもしろくもなってきた。
翌朝さっそく街へ出ると、夜とは全く違う姿がそこにあった。歩道には露店がひしめき合い、車道は人と車と自転車でごったがえしている。排気ガスと騒音はすさまじく、バンコクの比ではない。そしてとにかく蒸し暑い。
ミャンマー。思っていた以上に強烈な国かもしれない。
シュエダゴンパゴダ / 夜のスーレーパゴダ
30.ビルマ人の仏教感 2003 10/20(ミャンマー)
結局オレはヤンゴンを好きになれなかった。暑い、うるさい、汚い、排気ガス、蚊・・・理由はたくさんあるが、何といっても料理がオレの口に、いや胃に合わなかったのはきつかった。これまで出会った全てのビルマ料理が、油まみれなのだ。
油の中に肉が浮いているカレー。油のようなタレがかけられた麺料理。まずくはないのだが、毎食この油っこいものを食べる気にはなれなかった。しかし考えてみればそれはヤンゴンに限ったことではないはずだ。先が思いやられる・・・。
もう一つオレはがっかりしてしまった事がある。ヤンゴンで有名なパゴダを何ヶ所か観光したが、パゴダ(仏塔)自体はどれを見てもすばらしい物ばかりだった。どこも金と宝石で飾られたキレイなもので、デザインもカッコイイ。
しかし、その内部にある仏像にはがっかりした。どの仏像にも後ろに電飾があり、後光を表すその電飾がチカチカと点滅しているのだ。日本人の感覚からすれば、ありがたみが薄れるように感じてしまう。仏様をパチンコ屋のようにしてしまって・・・。
ヤンゴンに3泊し、オレはバゴーという町へ移動した。列車で移動したが、やはり列車は遅れた。そして列車は縦にも横にも激しく揺れる。尻が痛い・・・。なんでもミャンマーの鉄道は、太平洋戦争の時に日本軍が作ったものを、今だにそのまま利用しているそうなのだ。しかもその間、まともなメンテナンスがされていないため、このようなありえない揺れ方をしているらしい。やはりかなり貧しい国だ。
このバゴーにもいくつものパゴダがあり、当然オレもそれを見に来た。しかし外国人からの観光収入であるドルで経済が成り立っているこの国は、入場料が異常に高いのだ。どうせ中を見てもヤンゴンのように興ざめするだけだろうと思い、今回は外から見るだけにした。それでも巨大な仏塔は充分に堪能できるのだ。いや、外の方が凄いのでこれでいいのだ。
次にオレは有名なゴールデンロックへ行った。大きな金色の岩が、ギリギリのバランスで崖から落ちそうで落ちないという不思議なヤツだ。
日本ではありえないような急な山道を、ジェットコースターのようにトラックの荷台に乗っていく。荷台は50人ほどの人間がギュウギュウ詰めで息苦しく、暑苦しい。
45分程それで走った所から、30分歩いて山を登る。その長い階段の両側には、土産物や食べ物、何やら怪しげな物を売る店が並んでいる。中でも目を引いたのは、たぶんなにかの薬なのだろうが、サルの頭や牛の頭、サソリやムカデ、ヘビが入っている黒い液体だ。薬でなければ魔術に使うのだろうかとも思えるようなグロテスクな液体。これを売る店がいくつもあり、それをビルマ人たちが金を払って小さなカップで飲んでいる・・・。オレの好奇心をくすぐる液体だったが、これを飲む勇気は持ち合わせていなかった。
そんな長い階段と坂道を登ってようやくたどりついたその岩は、またしてもがっかりするようなものだった。オレは写真やテレビなどでそれを見て、下から見上げるものだとばかり思っていた。しかし実際には上から見下ろすのだ。オレはわざわざその下まで行って見上げてみた。やはりこの方が良い。
オレは崇高なものとは見上げるべきだと思うし、実際どこでもそのようになっているのではないだろうか? これもまた、ありがたみが薄れてしまっている。そう思うのはオレだけだろうか? ただ岩そのものはたしかにスゴかった。巨大な岩は奇跡のバランスで崖に立っている。それはグラグラと動き、押せばオレの力でも揺れるのだが、どんな怪力男が押しても落ちることはないのだそうだ。
このゴールデンロックへは、山の麓のキンプンという村からアクセスすることになり、通常はここに宿をとることになる。ここがまたイイ感じの小さな村だった。舗装道路すらないようなド田舎で、家は藁ぶきの粗末なもの。子供たちはコマやゴム飛びなどをして遊んでいる。ニワトリやブタが道を歩き、車はおろか自転車さえも走っていない。まるで何百年か前の日本にタイムスリップしたかのようだった。
まるでパチンコ屋のような仏像・・・ / 落ちそうで落ちないゴールデンロック
31.インレー湖にて 2003 10/26(ミャンマー)
オレは生涯で最高の星空を目にした。それはインレー湖畔の町ニャンシュエに泊まっている時のことだった。ここは標高が高く、町も小さいので空気は澄んでいる。そしてこの日は快晴だった。それだけでもかなりの好条件なのだが、ほんの2、3分の間だけオレはその最高の星空を見ることができたのだ。
夕食を食べ終わり宿のオーナーと話をしていた時だった。ミャンマーでは良くある停電だ。オーナーの
「町中真っ暗だ」
という言葉と同時にオレは外へ飛び出し、空を見上げた。そして何の光も存在しないそこだからこそ、この星空を目にすることができたのだ。天の川がくっきりと見え、星の数がこんなに多かったのかと驚くほどの星の群れ。まさに満天の星空! あまりに凄すぎて気持ち悪さすら感じるほどだった。
しばらくするとホテルやレストランなど発電機のある所では明かりがつき始めた。同時に空の星は3分の1程の数に減ってしまったのだ。これまで長い旅をしてきて1番感動したものが「星空」というのもおかしな話かもしれないが、本当にそれほどのものだった。
インレー湖ではおもしろいことがいくつかあった。まずは少数民族に会ったこと。インレー湖や周辺の湿地帯で、水上生活をしているインダー族という民族がいる。オレが湿地帯の中の道を自転車で走っていると、インダー族の親子が声を掛けてきた。母親と娘だ。母親は50歳くらいに見えるが、10歳くらいの娘の年齢を考えると、実際はもっとずっと若いのだろう。ミャンマーの人たちは大人になると急に老けこんでしまう感じなのだ。英語も話せない彼女たちだったが、
「舟で村を案内してやる」
と言っているのは理解できた。オレは言葉がまったく通じない中で料金を交渉し、自転車ごとその小舟に乗り込んだ。そしてその手漕ぎの小舟で村を1周し、何件かの家におじゃまする。そしてご飯をごちそうになったり、子供たちと遊んだりしてすごした。家は湖の上や、周辺の湿地帯の水の上に高床式で建てられ、舟が唯一の交通手段という村だ。もちろんトイレも水浴びも湖。学校も湖に浮いている。これにはさすがにカルチャーショックを感じずにはいられなかった。
その一方、山で会った山岳民族のパオ族は、ただ山に住んでいるだけといった印象だった。もちろん電気も使えば、車にも乗る。山道を自転車で1時間以上かけて登って会いに行っただけに、残念だった。だが、「少数民族」と聞いただけで勝手なイメージを持ってしまった、日本人のオレが悪い。日本人と聞いて侍を想像するようなものだ。
この町では再会もあった。ヤンゴンに到着した日、空港から同じタクシーに乗って同じホテルにチェックインした日本人のタカくんとアキさんの2人に、偶然ニャンシュエのレストランで会ったのだ。食事を一緒に食べ、レストランのオーナーにミャンマーの遊びを教えてもらい、そして3人で旅行会社へ行った。そこで明日のボートツアーを申し込む。インレー湖の水上集落を訪れるボートトリップだ。
翌日、オレが待ち合わせの時間に旅行会社へ行くと、まだ2人の姿はなかった。旅行会社の若者は
「友達はまだ来ない。こっちでゲームをして待とう」
と言い、オレは奥の部屋へ案内される。なんとそこにあったのは、ミャンマーという国には似つかわしくなくプレステだった。ウイニングイレブンで勝負しようと彼は言う。
「日本のゲームだから、日本人ならできるでしょ?」
おいおい、そんなことはないと思うが・・・。ただ、オレはそれできるよ。いやむしろ得意だったりする。まさか海外でウイイレをやることになるとは・・・。
オレは最初から相手をナメてかかっていた。
「ウイイレで日本人にかなうと思うなよ」
とうぜん日本でプレーだ。相手は強豪ブラジル。結果はオレの大勝。当然の結果だ。彼は熱くなり、それから何度も挑んできた。が、オレの連勝は続く・・・。そのうちアキさんとタカくんが来て試合終了。いつの間にかオレもかなり熱くなっていた。
そしてボートトリップへ出発。しばらくすると・・・、なんと雨だ! 本来なら観光に訪れるはずのインダー族の村へ、雨宿りをするために向かう。そしてみんなで考えた結果、中止ーーー!! このまま引き返すことにしてしまった。カゼもひきそうだし、こんなビショビショのままじゃ観光どころではない・・・。
さらにもう一人とも再会を果たした。バンコクで知り合ったアメリカ人のメアリーと偶然宿が同じになったのだ。彼女は3年間長野に住んでいたことがあり、日本語がとても上手かった。オレとメアリーが日本語で話していたら、まわりの欧米人たちが
「みんなに解るように英語で話せ」
と言い出し、それに腹を立てたことと英語が苦手なこともあって、メアリーとはあまり話をできずに別れてしまった。と、まあそんなことはさておき、このような偶然の再会は旅をおもしろくする大きな要素だとオレは思う。メアリーいわく
「Such a small world!! 」
インレー湖の風景
32.kindness 2003 10/26(ミャンマー)
前にも書いたとおりミャンマーの第一印象はあまり良いものではなかった。しかしヤンゴンは好きになれなかったが、他の町は別だった。まるで50年前の日本のような町や村の風景は、その時代を生きていないオレですら懐かしさを感じて、好きだ。
シャン族のシャン料理は本当においしいし、どういうわけかビルマ料理もヤンゴンのもの以外はおいしく感じる。値段は少し高めだが快適な宿が多い。
そして何と言っても人だ。ミャンマーにはビルマ人をはじめ多くの民族が住んでいるのだが、とにかく親切な人が多い。そしてフレンドリーだ。英語もできないのに笑顔で話しかけてくる人も少なくない。本当に素朴、純粋、という言葉がピッタリの人々なのだ。
親切といえばオレが今泊まっているニャンシュエ(インレー湖)の宿の人たちは、本当に良くしてくれた。ここへ来た最初の日、夕食を一緒に食べないかとオーナーが言ってくれ、客の中でオレ一人だけ、オーナーの家族と食事をさせてもらった。が、その席でオレは、宿の名前のロゴをデザインしてくれないかと頼まれた。昼に話をしていた時に、オレはデザインの仕事をしていたことを言っていたのだ。
一瞬オレは
「やはりそういうことか、ただより高いものはないな」
と思ってしまった。夕食をギャラにデザインをしてくれという意味だと思ったのだ。
ところが違った。翌日、何点かデザインしたものを渡すと予想以上に気に入ってくれ、お礼にとインダー族の伝統工芸品である竹の傘をくれたのだ。しかもここにいる間、毎日夕食をご馳走してくれることになった。変に勘違いしてしまった自分が恥ずかしかった・・・。
今度は逆にオレがお礼にインレー湖の絵を描いてプレゼントすると、そのまたお礼に宿代を値引いてくれた。このような物のやりとりに限らず多くの気遣いをしてくれ、本当に居心地が良かった。
このアクエリアスインのオーナー家族をはじめ、オレはこの旅の中で多くの人から親切を受けてきた。それはもちろんうれしい事だし、本当に助かるものだ。
ただ・・・オレはいったいどうしたら良いのだろう・・・。旅行者だからといって、それに甘えきっていて良いのか? どうお礼をすれば良いのか? お金? 物? 言葉? 「心」を伝えるにはどうすれば一番良いのだろうか? 今までのオレはそれをうまく伝えられていたのだろうか?
33.パゴダ、パゴダ、パゴダ・・・ 2003 10/31(ミャンマー)
バガンはニャンシュエの星空よりスゴかった・・・。
オレは今バガンにいる。ここはミャンマーの仏教の聖地で、11世紀から13世紀にかけてパゴダが無数に建てられた。世界の三大仏教遺跡の一つでもあるのだが、オレも以前からここへ来たいと思っていた。
そしてそのバガンは本当にスゴかった! ひとつひとつのパゴダはそれほどたいした物ではないところが多いのだが、高い所から町全体を見渡すと信じられない数のパゴダが目に飛び込んでくるのだ。その数2000以上! そしてそのパゴダ以外には赤土の大地に点々と存在する草むらと、林、そしてエヤワディ川・・・。他には何もないのだ。360°パゴダの群れ・・・。
とにかくオレの予想をはるかに上回っていた。オレは上まで登れるパゴダの上で、その風景を2時間も3時間も眺めていた。そして馬車や自転車で次のパゴダ、また次のパゴダへ。それを3日間続けたが、それでも飽きることはなかった。
特に日の出と夕日の風景には感動した。
朝のバガンは朝もやに包まれる。その朝もやの中、パゴダの上部だけが黒い影になる。まるで白い雲に浮かぶ無数の仏像のようだ。そして夕暮れ時、赤いレンガで作られたパゴダは太陽の光を受けて赤く輝く。こちらはまるで森の惑星に降り立った無数の宇宙人とでも表現しようか・・・。とにかくどちらも幻想的だった・・・。
バガンのパゴダ内にはフレスコ画が描かれていることが多いのだが、そのフレスコ画を布や紙に書き写して土産物として売っている人がやたらと大勢いる。外国人を見ると、その絵を売りに飛んでくるのだ。どこへ行ってもそんな人たちに囲まれてしまう。
オレはその中の1人に
「絵は買わないよ。オレはデザイナーだからそんな絵くらい自分で描けるさ」
と絵を買わない断り文句のつもりで何気なく言ったのだが、
「そうか、じゃあいつでもいいからここへ来てくれ。絵を描かせてやる」
と、以外な返事。翌日オレはその地図にあった彼の仕事場におじゃまし、絵を描かせてもらうことになった。仕事場といっても屋外に小さな机を出しただけの場所だ。
ところがオレが絵を描いている間、彼は仕事ができなかった。迷惑をかけてしまったのだが、その上ご飯までご馳走になってしまった。もちろん材料代くらいは渡して帰ろうと思っていたのだが、それもいらないと言う。
申し訳なく思い、彼の絵を一つ買うことにした。するとフレンドプライスと言って半額以下にまけてくれ、さらにもう1枚プレゼントしてくれると言い出した。さすがにそれは貰わなかったが、本当にミャンマーの人はこのような人たちばかりなのだ。好きにならないわけがない。
絵を売る人と同じくらい多いのが、懐中電灯を持った人だ。パゴタはどこも中へ入れるようになっているのだが、レンガで造られたその内部は昼間でも真っ暗。ほとんどの観光客はライトを持っているのだが、持っていない人たちのために明かりを提供し、そのかわりにチップをもらって生活している。
オレはあるパゴタへ行った時、その階段に座り一人でトランプをしている小学生くらいの男の子を見つけた。旅を始めてから子供が好きになっていたオレは、彼にトランプマジックを見せ遊んでいたのだが、そのうちその子のお姉さんがパゴタの中から出てきた。カワイイ20歳前後の娘だった。彼女は英語を話せたので、しばらく3人でトランプをして遊んだ。
30分も遊んだだろうか、姉がこう言った。
「パゴタに登らない? 私懐中電灯持ってるよ」
普段ならこの手の人は断ってきたオレだったが・・・、仲良くなってしまったからというのもあったが、何よりこの娘がカワイかった・・・。オレは自分の懐中電灯を持っていたのだが、それは出さずに彼女に着いて行きパゴタの中の暗い階段をのぼった。弟が帰って行ったのを内心ラッキーと思いながら・・・。
このパゴダからの眺めもやはり良かった。オレは彼女と話しながら、バッグからスケッチブックを取り出し、その風景を描いた。
「へー絵上手いね」
「オレは日本ではデザインの仕事をしてるから、絵も描けるよ」
「そーなんだ、じゃあ私も描いて!」
オレは彼女の絵を描いた。描きながらやはりこう思う。カワイイ・・・。
そんなことをしながら過ごしているうちに、夕方になってしまった。いったい何時間ここにいたのだろうか? そろそろ帰ろうかと思ったオレに彼女は言った。
「明日はどこに行くの?」
「まだバガンにはいるから、たぶんまたここにも来るよ」
「ポッパ山にはもう行った?」
「いやまだ行ってない。明後日あたり行こうかな」
「良かったら明日一緒に行かない? 私のお姉さんの旦那が車を持ってるから、弟も一緒に4人で行こうよ。でもお金払ってね。15$」
ポッパ山とは、急勾配の切り立った岩山の頂上に寺があるという所で、バガンから日帰りで行ける距離にある。ミャンマーの物価からすると15$(1700円)はとんでもなく高かったが、しかしこの娘も来るならそれも良いかなと思った。
「本当に? いいの? 行く、行く!」
「じゃあ明日の朝ホテルまで迎えに行くから」
翌朝、楽しみに待っていたオレの所へやって来たのは、お姉さんの旦那と、弟だけだった。彼女は来なかったのだ・・・。テンション急降下だったが、彼らと行ったポッパ山はそれでも楽しかった。
バガンのパゴダ群
34.ペースアップ 2003 11/5(ミャンマー)
バガンを発ったオレは、ミャンマー第2の都市マンダレーへ向かった。オレはヤンゴンに似た街を想像していたのだが、それとは別物だった。首都のヤンゴン以上に近代的で、広く、比較的きれいな街だ。
しかし暑い。ここは夏になると死者が出るほど暑い地域なのだ。街のいたるところに水を貯める水槽があり、夏はみんなその水をかぶりながら街を歩くらしい。
マンダレーは街の中心にある3km四方の巨大な王宮をはじめ、見所もそれなりにある。オレはこの街をなかなか気に入ったのだが、1日ですべてを見てまわり次へ移動することにした。
実は残り日数が少なくなっていたのだ。オレは何人かの人からティーボーは良い所だと聞かされ、そこへ行きたかった。そのため急ぐ必要があったのでペースが早くなってしまったのである。
ところがその日、ティーボーへは行けなかった。オレにとってミャンマーは未知な部分が多かったため、ガイドブックをバンコクで購入していたのだが、しかしオレはそれに頼りすぎていた。ガイドブックにあったティーボー行きの乗合タクシーが、実際にはなかったのだ。
バスや電車はすでに早朝出発してしまっていた。しかたがなくマンダレーとティーボーの中間にあるピンウールィンまで行くことにした。といっても、そのピンウールィンへ行くにしても乗合タクシーしかないという状況だった。この国の公共交通機関はまったく頼りない・・・。そしてピンウールィンで1泊した翌日、ティーボー行きのバスに乗った。
しかし皮肉なことにと言えば良いのか、残念なことにといえば良いのか・・・。いや、ここはあえておもしろいことにと言っておこう。目的地のティーボーよりも中継地のピンウールィンの方が良い所だった。帰りにもう一度寄りたいくらいだ。だがバンコクへ帰る飛行機に乗るためには、1泊の余裕もないのでしかたがない。マンダレーへ直行し、そしてヤンゴンへ帰らなければならない。残念ではあるが、これも旅のおもしろさだとオレは思う。
ピンウールィンは高地にあり、かつてのイギリス植民地時代には避暑地として栄えた町だ。暑いマンダレーから来てみると快適そのものだ。しかし夜は寒い・・・。
小さな町だが市場などは活気があっておもしろい。どういうわけかインド系とムスリムが多いのも、オレがここを気に入った理由だろう。いろんな人種がいた方がなぜかおもしろく感じられる。
ヤンゴンから来たという中華系の人と宿で知り合い、夜は一緒に飲みに出かけた。ミャンマーには海外ではめずらしく、居酒屋があるのだ。日本以外の国には居酒屋はほとんどなく、他の国では酒はバーかレストランで飲むことになる。
そしてさらに以外だが、ミャンマーはビールがうまい! しかもかなり安く、生ビールがグラスで20円ほどだ。
久々の酒で飲みすぎてしまったオレは二日酔いでバスに乗り、激しい山道を行くことになってしまった。かなり辛かった・・・。
なんとか無事にたどり着いたティーボーはかなりの田舎町だ。少数民族が多く暮らし、山と田畑以外は何もない。
オレはレンタサイクルを借りて郊外まで出かけた。そこはまるっきり昭和初期の日本で、なにか不思議な感覚だった。海外にいるというよりも過去にいる。まさにそんな風景だった。
マンダレーの王宮 / 日本のような農村の風景
35.ミャンマー、バンコク、そして日本 2003 11/9(タイ)
今日オレはバンコクへ帰ってきた。旅の最初はこの街がつまらないように感じたこともあったが、ミャンマーから来た今回も、前回マレーシアから来た時も、バンコクへ帰ってきて正直ほっとした。もうすでにここはオレにとって第2の故郷なのかもしれない。
ミャンマーは思っていた以上におもしろかった。とにかく人が良い。ミャンマーの人は本当に良い人が多かった。子供たちは本物のピュアな笑顔を見せてくれたし、大人たちからは多くの親切をもらった。
そして親しくなった何人かからは、ミャンマーの見えない部分を教えてもらったりもした。やはり彼らは今の軍事政権には不満があるらしい。残念ながら外の世界のことをあまり知ることができない彼らは、海外旅行をしている欧米人や日本人を、本当にうらやましそうに見ている。そして外の世界に夢を持ってがんばっている人も多い。
そんな彼らと会話をしていると、オレはときどき何と言ってやれば良いのか分からなくなることがあった。何か自分自身が悪者のように感じてしまうことさえあった。
何もしていないオレは「日本に生まれたから」というだけでこうしてミャンマーを旅できている。一方彼らはどれだけ努力してもこの貧困と、軍事政権の悪政から逃れられない・・・。
1年前のあの旅で、タイで感じた疑問・・・。ミャンマーはタイ以上にそれをオレになげかけてきたのだ。しかし、今のオレには何も分からなかった・・・。何も・・・。
話は変わるが、ここバンコクで2泊してオレは一度日本へ帰る。前にも書いたとおり、友人の結婚式なのだが、今オレは早くみんなに会いたくてしょうがない。日本が恋しいということはないが、旅の話をみんなにしたいのだ。
しかし、このように思うのも2週間だけの一時帰国だからだろう。もしここで旅が終わるとしたら、いったいオレはどんな気持になるのだろう? そしていつになるか分からない本当の旅の終わりには何を思っているのか? いつか来るその時にも、今のように早く帰りたいと思っていたい。今はそう思う。
帰りたくないのに帰らなければならないのはイヤだから・・・。