ぐるっと一周インドシナ
〈東南アジア編U〉


タイ 2003/11/26-12/25
ミャンマー 12/21(1日入国)
ラオス(6ヶ国目) 12/25-2004/1/7
ベトナム(7ヶ国目) 1/7-22
カンボジア(8ヶ国目) 1/22-30
タイ 1/30-2/8





36.タイでタイホ?     2003 11/30(タイ)

 友人の結婚式も無事終わり、オレは2週間ぶりにバンコクへ戻って来た。日本にいた時間が短かったせいかもしれないが、心も体も意外とすんなりタイに切り替わった。
 が、1つだけしっくりこないのはバンコクの街がクリスマスのイルミネーションであふれていること。クリスマスはタイ語で「キスマース」なんとなくカワイイ感じだ。まだキスマースまで1ヶ月以上もあるというのに、街は完全にキスマースムードだ。日本以上に敬虔な仏教徒が多いこの国で、キスマースがこれまで大きなイベントとされていることには驚いたが、それにしても日本人のオレには本当に妙な感じだ。暑いクリスマス・・・。

 こちらに来て数日が経ったが、早くもいろいろと事件が起きた。まずバンコクに着いたその日のことだ。

 飛行機が大幅に遅れたせいで、バンコクへの到着が深夜になってしまった。にもかかわらず慣れた街だから大丈夫だろうと、オレは市バスでカオサンを目指した。
 深夜なのでバスの本数は少なく、その上ルートも普段の時間とは変わってしまっていた。オレの乗ったバスは一旦車庫へ行き、そこでバスを乗り換える。空港と車庫で長い時間バスを待ち、時間だけが過ぎていった。にもかかわらず、バンコクの街は眠ってはいなかった。人こそ多くはないが、まだ営業を続けている屋台は多く、市場にも照明がついている。さすがだ。
 そんなこんなでカオサンに着いたのは午前3時をまわっていた。

 深夜で人通りもまばらなカオサンを歩いていると、向こうから背の高い女性が近寄ってきて、オレに抱きついた。遠目で見た時から娼婦だと思っていたが、やはりそうだったようだ。しかしよく見るとニューハーフ。作り物の胸をおしあて、耳元で何かささやいている。
「HOTEL、HOTEL・・・」
 突然のことで戸惑うオレ。だが、オレに抱きついてオレの背後にまわった彼女、いや彼の手は、いつの間にかオレの財布をつかんでいた! オレはそれに気付き彼の手首をつかむ。「しくじったか!」そんな表情で彼はそそくさと逃げて行った。オレは「してやったり!」とばかりに彼の後を追い、通りがかりに「あまいぜ!」と言ってやりたかったが、それに似合うタイ語も英語も思いうかばない。結局日本語とタイ語まじりで、
「あまいぜ! ガトゥーイちゃん!」
 と一言。「ガトゥーイ」とはタイ語でオカマという意味だ。
 今回は事なきをえたが、もし深夜でなかったらオレもそれほど警戒していなかっただろう・・・。危ないところだった。

 その翌日、オレはルンピニ公園でベンチに横になって本を読んでいた。はじめは芝生に寝転がっていたが、スプリンクラーが動き出したため移動したのだ。
 しばらくするとタイ語でなにやら声をかけられ、オレが声のする方向に目を向けると・・・。うわっ警官だ!
「起きろ! ここに寝てはいけない!」
 と言っているらしいことは分かった。はじめは注意されただけだと思っていたのだが、罰金を払えと言い出した。ベンチに寝てはいけないらしく、よく見るとベンチにもしっかりとそう書いてあった。タイ語で・・・。
 オレは他のベンチで寝ているタイ人のマネをしていたのだが、寝て良いベンチと、寝てはいけないベンチがあるらしく、確かに「寝てはいけません」と思われるタイ語が書いてあるベンチと書いていないベンチとがあった。
「そんな〜」
「こんなの完全にタイ語の読めない外国人目当てのサギじゃん!!」

 オレは公園内のオフィスまで連れていかれ、
「金を払ってここにサインをしろ、ホテルはどこだ?」
 などと言われた。
 が、もちろんオレは金を払う気などさらさらない! タイ人のことだから許してくれるのではないかと思っていたのだ。それに、その場にいた警官7、8人も終始笑顔で、オレがタイ語を話したりすると、彼らもそれをおもしろがっていた。いわばフレンドリーな良い雰囲気だったのだ。オレは話をごまかすために、世間話を盛り上げた。タイ語の本まで取り出し、1時間近くも粘った。
 しかしあろうことか「マイペンライ(いいじゃん、気にすんな)」は通用しなかった! これは予想外の展開だ。
「これ以上言うと警察署へ連れて行かなければならない」
 と言われてしまったのだ。オレは一瞬、
「警察署も見てみたいし、連れて行かれるだけで結局は許してくれるんだろう。どうせヒマだし行ってみるのも悪くないかもな」
 などという楽観的な考えが頭をよぎったが、最悪の事態を考えそれはやめることにした。そこで作戦変更。罰金は払うことにして、それを値切る! しかしそれもなかなか大変だった。500バーツをなんとか300バーツにまで下げるのが精一杯だ。しかたがなく300バーツ(約1000円)もの大金を支払った。
 それにしても納得できない。タイ語で書いてあっても分かるわけがないのだ。しかも寝て良いベンチでタイ人たちが寝ているという、みごとなトラップまで仕掛けてあるとは・・・。
 しかしオレにはそれ以上に納得できないことがあった。それはあのタイ人が「マイペンライ」で許してくれなかったことだ。まったく最近のタイ人は「マイペンライ精神」を失いつつあるのだろうか?
 案の定、違反者名簿には外国人の名前しかなかった・・・。

 旅の再開はトラブル続きだが、オレは旅を始めてからこのようなトラブルを逆に楽しいと思うようになってしまった。そのうち楽しいではすまないような大きなトラブルが起きなければ良いのだが・・・。



37.イサーンを走る     2003 12/8(タイ)

 今オレはタイの東北地方を旅している。この地方はイサーンと呼ばれ、大平原が広がっている。
 イサーンといえば田舎、貧困、飢餓、干ばつ、洪水というイメージがタイ人の中にはあるそうだ。オレはそれを聞いて、
「もっとタイを知るためにそのような土地にも行ってみたい」
 と思ったことが、ここへ来た理由の1つだった。
 理由はもう1つある。オレはこのあとタイ北部の町チェンコンからラオスへ入る予定なのだが、バンコクからそのまま北上したのでは何かもったいない気がした。今まで旅をしてきて、やはりタイが1番好きな国なのだ。それにタイ語もほんの少し覚え、さらにタイの旅が楽しくなってきたところだ。そこでオレは少しでも長くタイにいたいと思い、東北から回り道をして行くことにした。

 最初にコラート(ナコン・ラチャシーマー)、次にピマーイ、そしてウボン(ウボン・ラチャタニー)とまわり、今コーンケンにいる。
 結論から先にいうと、イサーンを知るためには農村部へ行かなければダメだった。だがそのような所に宿をとることは難しく、町から町への移動になってしまった。都市部ではやはり貧困などの問題は見えてこなかった。
 ただ、どの町にも溜め池があったり、公園の草が枯れていたりするのを見ると、干ばつには苦しんでいるようではあったが・・・。

 コラート、ウボン、コーンケンは思った以上に大きな町で、人口も思った以上に多かった。しかしどこも観光地といった感じではないため、どの町も似たような印象になってしまった。
 だがピマーイだけは違った。クメール様式の仏教寺院遺跡を中心とした小さな町で、町の雰囲気も、町の外の風景も、そこに住む人も、すべて良かった。それに中級ホテル並みの宿に格安で泊まれたことも良かった。暑くもなく雨も降らず、旅行にはもってこいの季節だとは思うのだが、この時期はオフシーズンらしい。客も少ないので、値引きをしていたのだ。とにかく部屋にはテレビまでついていたのがうれしかった。夕方テレビをつけると、『キャプテン翼』をやっていた。翼くんも鼻声でタイ語をしゃべっている。そしてそれが終わって6時になると、国歌が流れる。タイでは夕方6時になると駅や学校、公園などでも国歌が流れ、タイ人はそれが終わるまでの間は姿勢を正して微動だにしない。スゴい愛国心だ。駅でそれを聞くとおもしろい光景が見られる。家路を急ぐ会社帰りの人々が、一斉に足を止めて直立不動になるのだ。
 この日のテレビは国歌のあとに国王が登場した。タイミングが良いのか悪いのか、今日は国王の誕生日だ。せっかくのテレビ付きの部屋だったのに、なんと全てのチャンネルが式典の中継を・・・。いくらなんでもやり過ぎでしょ! タイにおけるプミポン国王の人気は凄まじい!

 この地方で印象に残ったことといえば、町から町へ移動するバスから見た風景だ。田園と林が360°延々と続いている。オンボロバスに揺られて、夕焼けに染まる黄金色の景色を見ながら、オレはいろいろなことを考えていた。旅に出るまでのオレ、旅に出てからのオレ・・・。
 美しい風景とは不思議なもので、見る者の心をクリアーでピュアな状態にさせる。そしてそんな時には決まって、旅に出て良かったと感じるのだ。

   
ウボンのモニュメント / イサーンではムシも食べる



38.スコータイの日々     2003 12/13(タイ)

 オレは今、スコータイの「TRゲストハウス」という安宿にいる。ここに来て5日目だ。

 この町には世界遺産にもなっている仏教遺跡がある。かなりの広さだがレンタサイクルを借りれば1日で見てまわれる。スコータイの町自体もそれほど大きくなく、遺跡以外には見どころもほとんどない。
 にもかかわらず5日もここにいたのは、やはり町が気に入ったこと、そして宿が良かったこと、そして知り合いが何人もできたことが理由だった。

 町は都会でもなく田舎でもない。大きくもなければ小さくもない。人も多くもなければ少なくもない。観光客が多いため店や屋台はたくさんあり、生活のしやすい町だと感じた。
 そしてこのゲストハウスは安く、きれいで、オーナー夫妻も、弟のダンも良い人だった。それに夫妻の子どもで4才のクワンちゃんがとてもかわいい! 彼女と遊んでいると、自然と他の旅行者とも親しくなったりもした。
 毎日夕方、近くの公園でやっているエアロビに一緒に行った大学生の女の子2人組。バンコクで働いていて、週末の小旅行でここへ来ていた日本人看護婦。「わけありでね」と話していた、自称日本ではパチプロのおっちゃん。2人ともモヒカンの若い日本人カップル。この宿に住んで、スコータイで英語教師をしているドイツ人女性。もう何十年とタイにかよっているという、いつもTVのチャンネルをBBCに変えてしまう初老のイギリス人。毎回オレにパズルゲームで負けては日本人は天才だと言っていたスイス人。車いすに乗りながら旅をしているベルギー人の老夫婦。よく分からないがタイ語ペラペラのアメリカ人。
 ここでは多くの人と知り合ったが、なぜか個性の強い人や、変わった人ばかりで、話していておもしろかった。それに、彼らから学ぶことも多かったし、考えさせられることも多かった。本当にここでの5日間はおもしろかったし、内容の濃いものだったように思う。

 ある日、宿でレンタバイクを借りて、街から北に50qのところにあるシーサッチャナーライという遺跡へでかけた。これだけ知り合いができたのに、ここへ行った時は1人でさみしかったが、それでも楽しかった。日本でもバイクに乗ったことがなかったオレは、ただ走っているだけでもおもしろいのだ。暑いタイでノーヘルで風を切ると爽快そのもの! それにいつものようなバスの移動とは違い、良い風景に出合えばそこで止まることもできる。遠い所まで行くつもりだが道は分かりやすいので、事故だけが怖かったが・・・・・・。
 やっぱりコケてしまった! 広い遺跡の中の未舗装道路でタイヤをとられたのだ。けがはたいしたことがなくてよかったが、よく見ると・・・・・・、宿のバイクが壊れたーーー!!
「やべーっっっ!!」
 これはピンチだ! とにかくバイクをひきずってバイク屋を探すしかない!! たいへんなことになった!
 遺跡の入り口まで戻り、食堂でバイク屋が近くにないか聞いてみる。すると、そこで食事をしていた観光バスの運転手が
「おい日本の若いの! オレにまかせろや!」
 とばかりに何やら得意げに近づいてきた。彼はバスから工具を取り出し・・・・・・、なんと直してくれたではないか!! 運良くカウルには傷はなかったので、これでもとどおりだ! なんとお礼をすればいいのやらと考える間もなくバスの運ちゃんは
「こっち来てお前も飲め!」
 っておい。オレはこれからバイクで50qの道を帰んなきゃならんのよ。それにあんたもこれから客乗っけてどっかに帰るんでしょーが! しょーもないオヤジだな! しかし、バイクを直してくれた恩がある! すすめられた酒を断わっては「日本人は男じゃねー」ってなことになってしまうわけで・・・。のどが熱くなるタイ焼酎を一気に飲みほし、オレは去って行ったのだった。

 スコータイにはもう1日2日いたかったが、タイの滞在期限が少なくなってきてしまった。タイのビザを持っていないオレは、30日しかタイにいることができない。早く次の国、ラオスへ向かわなければならないのだ。オレは明日、タイ第2の都市チェンマイへ移動することに決めた。

 スコータイでは2つのことを再確認した。やはり宿は重要だということ。仮ではあるが住むわけだから、当然家は大切なのだ。
 そしてもう一つは何度もいうが「旅は出会い」だということ。これから先も、そんなものを大切にしていきたいと思う。

 最後になったが、ここの遺跡は一言でいえば「きれい」だった。良くも悪くもだ。つまり周辺の公園も遺跡もきれいに整備され、観光はしやすい。しかしきれいすぎて遺跡の雰囲気を壊してしまっているようにも感じた。でもオレは好きだ。

   
スコータイの遺跡



39.沈没     2003 12/19(タイ)

 「沈没」というと「船などの乗り物が水中に沈む」ということをイメージするだろうが、旅行者はこの言葉を別の意味に使う。
 簡単にいうと、「同じ所に長い間留まり、観光などはせずにダラダラとそこで過ごす」といった意味だ。当然沈没する人が多いのは物価の安い町の安宿、ということになる。そしてそこには同じような人が集まるため、さらに相乗効果でそこから動けなくなる。そんな人たちのことを「沈没組」と呼んでいるのだが、正直いってオレはあまり好きではない。

 オレが今までに行った町で、沈没組が多かったのはバンコクくらいだが、バンコクでは彼らと接することはあまりしなかった。好きではないからということもあるが、意志の弱いオレは彼らの世界にはまってしまうのではないかと思ったからだ。
 しかし、今泊っているチェンマイの宿は沈没組の溜まり場で、彼らと話すことも多い。そして話していてオレは思った。やっぱり好きにはなれない・・・。

 「この町が好きだから」「ダラダラするのが好きだから」という理由で沈没している人はまだ良い。しかし多くの人は「動くのがだるいから」「金がかからないから」「日本に帰ってもしょうがないから」といった感じなのだ。ネガティブオーラ全開。
 そしてタバコ、酒、女、ドラッグ・・・。オレの感覚からすれば完全な「ダメ人間」だ! 話していても楽しくないし、同感もできない。
 ここに来てさらに彼らが嫌いになってしまった。だがそれを知ることができて良かったとは思う。こう思えているうちは、オレは大丈夫だろう。

 そんなことを感じたチェンマイだが、タイ第2の都市にしてはそれほど都会ではなく、のんびりした感じで、生活するには良い所だと思った。もっともそれだから沈没するのだろうけど、沈没している旅行者だけでなく、ここに住んでいる日本人も多いのだ。「老後は物価の安い海外で年金暮らし」というヤツだ。オレもそれに憧れる。そうなるとオレの場合は山のあるチェンマイではなく、海のあるどこかの島あたりだな。

 チェンマイといえばナイトマーケットが有名だ。周辺の山岳部に住む少数民族の伝統工芸品がメインだが、ありとあらゆる土産物が売られ、食べ物の屋台も出ている。まさに毎日が祭りなのだ。オレはここで服やアクセサリーをあさり、売り子との交渉を楽しんだ。

 オレはチェンマイからさらに北上し、タイの最北部あたりからラオスへ入る予定だ。ラオスへ行くにはビザが必要なため、ここチェンマイでビザを申請したのだが、ラオスビザは発給までに5日という時間がかかる。そこでオレは山奥の少数民族がいる町、パイへ出かけた。山の中の静かな町でのんびりしようと思ったのだが・・・・・・、あまりにも旅行者が多すぎて期待通りにはいかなかった。しかもチェンマイ以上の沈没地・・・。「ダメ人間の楽園」だった! 町自体は良い所だったのに残念。
 オレも旅を続けるうちに、彼らのようになってしまうのだろうか? 不安だ・・・。
 
 そしてオレはチェンマイへ戻って来てラオスビザをもらった。よーし次はラオスだ!

   
チェンマイのキスマース(クリスマス)



40.ロングネック     2003 12/22(タイ、ミャンマー)

 最近なぜか日本人と知り合うことが多い。スコータイでも、チェンマイでも、そして次の町チェンライでもそうだった。
 チェンライに着いた日、それぞれ一人旅をしていた旅行者が偶然知り合い、5人の日本人が集まった。ナイトマーケットでニューハーフショーを見ながら食事をした後、コンビニでビールを買い込んで宿で飲んでいた。
 5人のうちの3人が、明日メーサイへ行くという話しになった。メーサイという町はミャンマー国境の町で、日帰りの場合に限ってミャンマーへ入国することができる。みんなと話をしているうちに、オレも行きたくなってしまった。チェンライへ来た時点では全く行く予定はなかったのだが、首長族に会えると聞いて気持ちが傾いたのだ。

 ミャンマーへ行った時も、チェンマイにいた時も、首長族に会えるチャンスはあった。しかし、ある話を聞いて、オレは会いに行かない方が良いと思っていた。その話はミャンマーでもタイでも聞かされていた。
「首長族の人たちが動物園の動物みたいになってしまっていて、かわいそうだ」
 この話に同感していたし、そのほとんどが住む場所を奪われた難民である首長族の過去を考えると、オレは彼らの村へ行けなかった。そんな人たちを見世物にして金を稼ぐ人間、それを見て喜ぶ人間、どちらも人道的におかしい! そう考えていた。
 しかし、オレは行くことになった。正直いってみんなと話しているうちに、オレのそんな正義感じみた理念はもろくも崩れ去ったのだ。好奇心の方が勝ってしまった。最初から偽善だったのかもしれない・・・。

 翌日4人でメーサイへ向かい、そこからミャンマーのタチレクへ入った。こんな国境の町でもミャンマーはミャンマーだった。2ヶ月前にいた、あのミャンマーだった。1本の細い川を渡っただけなのに、人々の生活レベルは雲泥の差だ。ここを見ていると、人間が勝手に引いた国境という線によって支配されていることが、間違っていることのように感じてくる。政治的にはどうしても必要だということは理解できるが・・・。
 そんなことも話しながらオレたちはこの国境の小さな街を歩き、食事をした後に丘の上の寺へ行った。オレたちを待ちかまえていたのは、無邪気な子供たちだった。前にミャンマーにいた時にも思ったが、この国の子供は特別にカワイイ。日焼け止めの「タナカ」と呼ばれる植物の粉をほっぺたに塗っているのも、子供たちの可愛さを引き立てている。しばらく彼らと戯れ、寺をあとにした。
 そして次はいよいよ首長族の村へ行く。ここにはアカ族と、首長族のパダウン族が住んでいる。いや住んでいるといっても彼女らはここへ連れてこられたのだ・・・。村には女性だけで、そして生活感のない村だった。
 オレは思った。いやそこへ行ったみんながこう思っただろう。
「噂通りだ」
 まさに動物園だった。一緒に行った女の子が言った。
「カメラを向けると条件反射でピースして・・・なんか北朝鮮のこどもみたい」
 まさにその通りだった。カメラを向けるとポーズをとってくれるのだが、笑顔はない・・・。きっと誰かに仕込まれたのだろう。悲しい気分になったが、それでもオレたちは写真を撮り続けてしまった・・・。この状況をどうとらえれば良いのか解らなかった。

 ただ1つ救われた気分になったのは、オレがタイ語とビルマ語で話しかけた時に初めて見せてくれた、彼女たちの笑顔を見たことだった。

   
パダウン族のみんなと / アカ族のみんなと



41.メコンを下る     2003 12/27(ラオス)

 12月24日はクリスマスイヴだ。オレはこのクリスマスイヴにラオスへ行く予定だったが、ラオス行きは1日遅らせることにした。
 この時オレはタイ側の国境の町チェンコンにいたのだが、その近くのモン族の村で、新年の祭りがあるということを知ったからだ。モン族という山岳民族の暦ではこの12月24日は1月1日、つまり正月らしい。宿の人にそのことを教えてもらい、その祭りに一緒に連れて行ってもらえることになった。

 宿の若奥さんのバイクに乗せてもらい、山へ入っていく。途中からは未舗装の細い道となり、さらに進むといかにも山奥の小さな集落といった感じの村をいくつか目にする。30分も山道を行くと学校と思われる建物があり、そのグラウンドらしき赤土の広場で新年の祭りが行われていた。

 祭りはなかなかおもしろかった。モン族の人たちは1年に1度しか着ないというカラフルな民族衣装を身にまとい、ステージでは子供たちが踊っていた。いかにも田舎の村祭りといった感じが、なんともいえない良い味を出していて、昭和初期の日本のような懐かしさを感じる。食べ物と酒がふるまわれ、モン族、タイ人、観光で来た外国人、みな盛り上がっていた。オレも良いタイミングにこの町に来たなと思った。
 祭りのメインは歌や踊りで盛り上がるステージなのだが、人の多く集まっているところがもう1ヶ所あった。人だかりの中では若い20人前後の男女が、2列に並んでボールを投げ合っている。
「そういえば祭りの会場へ来る途中の村でも、このようなボール遊びをしていたな」
 そんなことを思いながら、オレも仲間に入れてもらうことにした。正月にやる遊びで、日本でいえばお手玉のようなものだろうと勝手に解釈していたのだが・・・。
 なんとこれは「お見合い」だったのだ!! 宿の若奥さんの説明では、ボールを投げ合いながら、気の合うパートナーを探すという風習らしい。なんとも少数民族らしい伝統だ。それにしても、なんてこった! そんなこととは知らずに勝手に列に入ってしまったではないか! しかも、宿の若奥さんはこう付け加えた。
「あの子があなたのこと気に入ったみたいよ」
 確かに、オレもボール投げをしながら、そんな雰囲気を感じなくもなかった。ただ・・・・・・、相手の女の子はどう見ても小学生だった・・・。

 翌日、1日遅れでメコン川を渡った。対岸はもうラオスだ。
 ここからはボートで1泊2日かけて、町全体が世界遺産のルアンパバンという古都へ向かう。メコン川下りだ!
 メコン川は想像していたものとは違い、岩がゴロゴロところがっていて、川幅もそれほど広くなく、流れはかなり急だった。川の両側には、中国の山水画によく描かれるような縦に細長い岩山が連なっていて、景色はなかなかだ。
 そんなメコンをボートに揺られること6時間、ようやく中継地のパクベンへ到着した。ここは文字通り1泊するだけの場所で、村には何もなかった。以前から「ラオスには何もない」と聞いていたが、それにしても気持ちが良いくらいに何もない村だった。

 翌朝、8時にボートが出ると言われていたのだが、その時間には数人しか集まっていなかった。客のほとんどが欧米人旅行者だったが、彼らは日本人と違い時間にルーズだ。いや、これは日本人の正確さの方が異常という方が正しい。
 とにかく全員集まるまではかなり時間がかかりそうだった。旅慣れてずうずうしくなっているオレは、地元の人が乗る船に乗せてくれと頼んでみた。その方が早く出発しそうだったし、確実に安いだろうと思ったからだ。結果は「ボーダーイ」ラオ語でダメという意味だ。やはり無理だった・・・。
 結局10時にパクベンを出たボートは、途中で川沿いの寺院に寄り道しながら夕方5時にルアンパバンへ着いた。ここがラオスで初めての町らしい町だ。
 ラオスとはどんなところなのだろう・・・、そんなことを考えながら船着場の坂を上っていくと、タイのチェンライで会った日本人のコウヘイくんとマコトさんが迎えに来てくれていた。彼らは一足先にラオスへ入っていたのだ。ルアンパバンへ行けばどこかで会えるだろうとは思っていたが、まさか迎えに来てくれるとは・・・。
 再会を喜んだ後、彼らの宿へオレも向かう。が、コウヘイくんはなにやら神妙な顔をしていた。
「今日、サルに噛まれたんですよ。狂犬病がこわくて・・・」
 泊っている宿で飼っている小型の種類のサルに、指を噛まれてしまったらしいのだ。狂犬病は病名に「犬」と入っているが、犬だけではなくあらゆる動物に感染し、コウモリなどにも多いらしい。狂犬病が絶滅している日本では馴染みがない病気なので、知識もない人が多いだろうが、狂犬病が発症すると・・・、なんと致死率100%という恐ろしい病気なのだ! 旅をしていると、こんな言葉をよく聞く。
「旅で一番恐ろしいのは、強盗でもテロでも事故でもなく狂犬病だ」
 海外ではそれだけ野良犬が多く、狂犬病も多いのだ。コウヘイくんは大丈夫なのだろうか・・・?

   
モン族の正月祭り / メコン川下り



42.サワッディーピーマイ!     2004 1/2(ラオス)

 「2004年1月1日から日本人旅行者は、15日以内の滞在であればビザなしでベトナムへ入国できる」
 このビザルールの変更を知ったのはタイのチェンマイにいた時だった。
 これはラッキーだ。ビザを取る金も、申請にかかる時間も節約できる。当然オレはベトナムビザを取らない予定でラオスの旅の予定を立てていた。
 ところが、ルアンパバンのインターネット屋でベトナムの正式な文書を読んで、その予定は狂ってしまった。
 「15日以内に出国する航空券を所持していることが条件」とあったからだ。つまりオレのように陸路で入国する場合は、やはりビザが必要らしい。とはいっても、結局はタイのように入国は可能だろう。それに金が大好きと聞いているベトナム人のことだから、いくらか握らせればなんとかなる。と思ったが、やはり社会主義国は危険だ。最悪強制送還なんてこともあり得る・・・。チキンなオレは、やはり安全策をとることにした。一応ベトナムビザも取っておこう。
 ラオスにいる間にカンボジアのビザも取る予定だったため、ベトナムのビザも取るとなるとやはり時間がかかる。それではラオスの滞在期限の15日ギリギリになってしまうのだ。ヘタをすればラオスビザまで延長しなければならない。オレは急いでカンボジアとベトナムの両国の大使館がある、首都のビエンチャンへ移動しなければならない。ルアンパバンはかなり気に入っていたのでもう少しいるつもりだったし、ビエンチャンへ行く途中にあるバンビエンという町にも行く予定だった。しかし、しかたがなくビエンチャンへ直行せざるをえない・・・。

 ルアンパバンは宗教都市といっても良いような町で、いたる所に仏教寺院が建ち、オレンジ色の袈裟を着た僧侶を目にする。朝もやがかかる白い町を、托鉢しながら歩くオレンジの僧侶たち。絵になる風景だ。
 そしてもうひとつ観光客の目当ては、少数民族、モン族のナイトマーケットだ。町のメインストリートには、日が沈むと露店がずらりと並び、モン族が民芸品を売りに出てくる。屋台での夕食後に、その通りを1往復するのがここにいる間の最大の楽しみだった。
 とにかく気に入っていた町なのに時間がないのは残念だ。

 ところで、ルアンパバンからビエンチャンまでの1本道である国道13号線では、去年あたりから山賊が出没してバスを襲うという・・・。旅行者も被害に遭ったというニュースもネットで読んだ。襲われるのは大きなバスばかりだそうだ。安全に行くためにも、オレは旅行会社のミニバスを選んだ。値段は高いが安全には代えられない。
 道中最も危険とされている地域では、銃を持った兵士が警備にあたっていた。が、彼らにはまったくといっていいほど緊張感はなく、居眠りをしていたり、外国人旅行者に手を振ったりしている・・・。こんなんでもいないよりはマシなのかな・・・。

 無事ビエンチャンに着いたその夜、オレの泊っていた宿で働く女の娘に、ラオスでは「ディスコテック」と呼ばれているクラブへ行こうと誘われ、一緒に行くことになった。てっきり2人で行くのかと思い込み喜んでいたのだが・・・、宿の従業員の女の子4人が一緒だった。これは・・・!! 「お金はよろしくね〜」って意味だろ!! やられた! が、まーいっか。
 ラオス風ディスコテックは、かなりおもしろかった! おもしろいといっても楽しいおもしろさではなく、笑えるおもしろさだ。音楽も踊りも「なんじゃこりゃ!?」という感じだった。音楽は日本だったら30年前でさえも古臭いと思われるような、しかもなぜかコミカルな感じだ。そして踊りはまるで小学生のお遊戯状態。輪になったり、肩を組んだり、列になったり・・・。それを若者たちが楽しそうに踊っている。オレは彼らには本当に失礼だったが、本気で爆笑してしまった。
 が、これこそまさに「踊るアホウと見るアホウ」というやつだ。誘われるがままに一緒に踊ってみると、いつの間にか楽しくなってきた。「同じアホなら踊らにゃ損損」

 2日後、ルアンパバンで一度再会したコウヘイくんとマコトさんに再び合流した。この日は12月31日、大晦日。3人で紅白を見ようということになった。マコトさんがNHKの衛星放送が観られる高いホテルに部屋をとってくれ、酒を飲みながらテレビを見ていた。
 ところが海外放送用のNHKは内容が違っていて、なんと紅白はやらなかった! しかたがなく何ヶ所かで行われていたニューイヤーパーティーへ行こうとしたのだが、どこも入場料が高くて入る気になれない。オレたち3人はパーティーを外から眺めながら新年を迎えたのだった・・・。サワッディーピーマイ!!

 翌日、マコトさんは日本へ帰るためタイへ向かい、コウヘイくんはベトナムへ行った。
 1人になってしまったオレはヒマだった。この町はすべて見てまわってしまっていたのだが、カンボジアのビザの受取りまで待たなければならない。噂どおり何もないこの国は本気でヒマなのだ。しかし、それがたまらなく心地よくも感じている最近のオレである。

   
ビエンチャンのニューイヤーパーティー / ひーまーだー



43.サワンナケートで結婚式     2004 1/6(ラオス)

 ビエンチャンでカンボジアビザを受け取ったオレはサワンナケートという町へ移動した。次はベトナムビザを取るのだが、当初の予定通りにビエンチャンで取るよりもサワンナケートで取る方が安くて早いという情報だったからだ。
 ところが、サワンナケートのベトナム領事館でこう言われた。
「Japanese? 2weeks? No visa OK! No problem! You can go!」
 オレは陸路で行くし、出国のチケットも持っていないと言ったが、それでもノープロブレムだと言う。
 実は何日か前に、ビエンチャンのベトナム大使館にも一応確認に行っていた。その時は
「出国チケットが必要だ、それを持っていないお前は50USドルを払ってビザを取らなければならない」
 と言われていたのだ。それなのに今度はOKとの答え・・・。大使館や領事館もルール変更に混乱しているのかもしれない。それともベトナム人もタイ人やラオ人のようにいい加減なのだろうか?
 オレはとにかくビザなしで国境まで行き、入国できなければもう一度ビザを取って出直す方が良いのでは? と思い始めた。出直すといっても往復するのに2日はかかってしまうが、それでも50USドル(約5500円)という金額は今のオレには高すぎる。
「何とかなるだろう、いや何とかしてみせる!」
 と思いながら、オレはビザを持たずに国境へ向かったのだった。

 話しは前後するが、サワンナケートに到着したのは深夜だった。ビエンチャンでチケットを買った時には早朝着くと言われていたのだが、なぜか夜中の3時に着いてしまった。
 こんな時間に宿を探すのは危ないし、それ以前にどこも閉まっているだろう。バスターミナルのベンチで寝ようと思ったが、ゲートを閉めるので外へ出ろと言われてしまった。ゲートの外で寝袋で寝るしかないかと覚悟を決めたが、この辺りには野良犬がうろうろしている・・・。
 オレが困っていると、同じバスでビエンチャンから来た4人の若いラオ人が、
「泊まれる所があるから一緒に行こう」
 と声をかけてくれた。
 聞けば、彼らは明日結婚式があるためにここへ来たのだそうだ。こちらでは結婚式は新郎の家で行われるらしく、出席者が大勢その家に泊まっているのだそうだ。1人くらい増えても大丈夫だからと言われ、オレは彼らに甘えることにした。
 行ってみると確かに大勢の人が寝ていて、足の踏み場もないほどだった。4人もオレもその日はそのまま布団に入った。いや、正確にいうと布団に入ったのはオレだけで、ここへ連れてきてくれた4人も、その他の大勢も布団もない床で雑魚寝状態だ。家の人が外国人のオレには気を使ってくれたのだ。いやー本当に突然すいません・・・。

 翌朝起きると、早朝から式の準備が始まっていた。準備は出席者がするのだ。泊めてもらったお礼にと思い、オレも式の準備を手伝う。テーブルを運び、イスを運び、皿を並べる。それがひと段落したところでみんなと一緒に朝食をいただき、4人とオレはゲストハウスへ移った。今日はこの家には泊まれないということだ。
 4人とは、半年前まで坊さんをしていたというポンサイくん、その彼女のキャッちゃん、その友人のラーちゃんとモンちゃんで、モンちゃんの親戚の結婚式らしい。
 最初はオレも結婚式に連れて行ってもらえることになっていたのだが、結局は行くことができなかった。それは残念だったが、彼らといた2日半は親戚や友人が集まって、何回も家や店を移動しながら9食も食べて飲んでの繰り返しだった。観光にも連れていってもらったし、本当に楽しかった。どこへ行っても、初めて会う外国人のオレを快く受け入れてくれた。みんなありがとう! でも・・・、これだけ飲むのに車で移動するのはちょっとね。

   
サワンナケートでお世話になったポンサイたち



44.日本人第1号!     2004 1/7(ラオス、ベトナム)

 ベトナムへ入れるのか入れないのか? 不安なまま国境の町クロンに到着した。何もないような小さな村なので、宿もそうとうボロかった。しかし宿の主人はかなりふっかけた金額を言ってくる。もちろんまけさせたが、後で聞くとやはり彼はベトナム人だった。
「ベトナム人はとにかくボリまくるからムカツク!」
 ベトナムへ行った人はみな口をそろえてこう言っていたが・・・、ベトナムに入る前からこれかよ!

 翌朝国境へ行くと、ラオス出国の窓口には大勢の人がいた。しかし並んで順番待ちしているのではない。まるでエサをもらう時のコイやハトのように窓口に殺到し、小窓からパスポートを持った手をつっこんでいる。そのほとんどがベトナム人だ。
 「ベトナム人は並ばない」とも聞いたことがあったが、その通りだった。オレがそのベトナム人たちの人垣の外で、なんとか割り込もうとしてがんばっていると、1人の係員がオレのパスポートを取りに来てくれた。さすがラオ人はベトナム人とは違うな〜。
 ところが、
「出国スタンプは押せない」
 と言われた。
「お前はビザを持っていないからベトナムへは入れない」
 というわけだ。
「日本人はノービザでOKなんだ!」
 と言っても首を横に振るばかり。しばらくそこであーだこーだと言い合っていたが、オレは
「ベトナム側へ確認してくれ」
 と係員の1人をベトナム側へ行かせた。この時点でベトナムへ入れるのか分からなかったが、強気でいくしかない。
 結局ベトナムへは問題なく入国できることになりひと安心。ラオス側では今回のビザルールの改正のことを知らなかった、ということになる。どちらの国が悪いのかは分からないが、かなりいい加減だ。

 ラオスのイミグレからベトナムのイミグレまではだいぶ距離があった。舗装もされていない山岳地帯の赤土の道を歩き、次はベトナムの入国手続き。またしても窓口には人が群がっている。が、今度は遠慮はしなかった。人だかりに強引に割り込むと、小窓からおもいっきり手を中へ入れ、ベトナム人たちの山と積まれたパスポートをどかしてオレのパスポートをそこへ置いてやった! 郷に入っては郷にしたがえだ! いや、それ以上にならなくてはならない。さすがのベトナム人たちでもここまですることはないらしく、オレの行動を見た周りの人たちもイミグレの職員も驚いていた。オレは笑顔で・・・
「これでいいんでしょ? この国では」

 ベトナム側では賄賂を請求されるという話もあったがそれもなく、ついにベトナムへ入った。

 ところでラオス側で教えてもらったのだが、オレはこの国境をノービザで越えた日本人第1号になった! 凄いのか凄くないのかは良く分からないが・・・。とにかくラッキーだ!



45.ベトナムの人間     2004 1/13(ベトナム)

 ベトナムへ入って今日で1週間。気分はあまりすぐれない。
 理由は2つある。1つは雨。ベトナム中部のこの時期は雨期で、毎日しとしとと雨が降り続いている。他の東南アジアの国の雨期のように、スコールがザーッと降って止むのなら良いが、ここの雨は日本の梅雨のような、1番イヤな降り方だ。
 そしてもう1つの理由は人間だ。オレはどうもベトナム人とは気が合わない。正直いって今までのところは嫌いだ。態度がでかい、平気でウソをつく、あいそが悪い、笑顔がない、すぐに怒る・・・。
 あげればきりがないが、とにかくオレの目には彼らの生き方が「だましてなんぼ」といったように見えてしまう。みんながこのような人間なわけではないのだが、こちらとしては全員を疑うしかなくなってしまう。悲しいことだ・・・。
 実際こちらに来てから親しくなったベトナム人も4人ほどいたのだが、そのうちの2人には最終的にはイヤな気分にさせられてしまった。
 話には聞いていたが、やはり・・・。これからどうなることやら。

 しかし、それ以外に関していうと良いことも多い。まず何といっても宿。周辺の国と比べ多少高いのだが、その分設備は最高だ。ホットシャワー、エアコンはもちろん、サテライトTVまでついて5USドル(約550円)!
 次に移動のバス。バスターミナルからバスターミナルへ行くのではなく、ホテルからホテルまで行ってくれるツーリストバスが移動の主流になっていて、楽だし、快適だ。
 街はきれいで見所も多く、食べ物もおいしいし、ビールも安い。ビールだけでなく、ボラれさえしなければ全体的に物価は安いし・・・。人さえ良ければ・・・。そう思うと本当に残念だ。

 ベトナム最初の町はフエという町だった。ここはかつてグエン朝の都がおかれた町で、その時代の王宮が残っている。王宮周辺や、街の郊外にも寺や教会などが点在し、見どころは多い。
 次に行ったのはホイアン。この港町はかつて海洋交易で栄え、日本の朱印船も多く来航したそうだ。今もそのころの古い町並みが残っている。
 次はホイアンから日帰りでミーソンへ。ここにはチャンパ王国のヒンドゥー遺跡がある。
 このフエ、ホイアン、ミーソンは世界遺産にも登録されている。どこも見ごたえがあって、なかなかだった。次はビーチリゾートのニャチャンだ。

 そのニャチャンへは夜行バスでの移動となる。バスの出発は夜なので、オレはそれまでの間ホイアンの街をぶらついていた。運河沿いのカフェで、ベトナムコーヒーを飲みながら運河で漁をする人を眺めるのが、ここホイアンでの時間のつぶし方だった。
 そんなことをしていると、1人の女の娘が声を掛けてきた。日本語だったが、アオザイを着ている。日本語の発音もキレイだし、顔もどちらともいえるような顔立ちで、長い黒髪の美人だ。
 彼女はレーちゃんといい、やはりベトナム人だった。大学で日本語を勉強しているそうだ。日本が好きというだけあって、どこか日本人的で、他のベトナム人のようなガツガツしたところのない感じの娘だった。一緒に雑貨を見たり、写真を撮ったりしながら街を歩き、カフェに入る。しばらく話しているうちに、家へ誘われた。
「なんでこんな日に限ってこうなるんだー!!」
 バスに乗らなければならないオレは、少し迷いながらも彼女の誘いを断った・・・。
 やっぱりベトナム人とは相性が悪いのかも・・・。

   
フエの寺 / ホイアンの伝統工芸



46.テト     2004 1/18(ベトナム)

 ホイアンから南下したオレは、ビーチリゾートのニャチャン、そして高原の町ダラットへ行った。

 どちらも町がきれいで、自然もあり、風景の良い所だった。特に高原の避暑地ダラットは、ヨーロッパ風の家が建ち並び、湖があり、花と緑に囲まれ、ベトナムで1番の町だった。
 そして何よりも、ニャチャン、ダラットの人たちはフエ、ホイアンの人間とは全く違うように感じた。オレはフエ、ホイアンでベトナム人を嫌いになってしまったが、ここの人たちは明るく、笑顔で、フレンドリーな、あのアジアの人々だった。
 地方によって性格も違うのだろう。そういえば「暑い国の人の方がおおらかだ」という話も聞いたことがある。南北に長いベトナムも、南の人間はおおらかなのかもしれない。
 とにかくオレは本当にホッとした。やはり人間が1番重要なのだと、今回またしても実感させられた。

 その後オレはベトナム最大の都市、ホーチミン市へ向かった。
 ホーチミン市はベトナム最大の町で、アジアの大都市の典型のような所だ。車とバイク、人でごった返した中心部、新しく開発された地域はキレイでお洒落。とにかくごちゃごちゃして狭苦しい居住地区。どこも活気がある。その活気と、喧騒の中にいると、久しぶりにアジアを感じた。これを嫌う人も多いが、なぜかオレはこれが好きなのだ。
 特に今はベトナムの街が最も活気付く時期だそうだ。1月22日がベトナム人の正月である「テト」で、今は年末の忙しい時期というわけだ。その辺は日本と似ている。

 街は正月用のイルミネーションや垂れ幕、赤と金の正月飾り、そして植木や花にあふれている。ちょうど良い時期に来たと思う。それにオレにとってはモン族の正月、西暦の正月、ベトナムの正月と旅に出てから3回目のハッピーニューイヤーだ。とにかくタイミングが良かった。とにかくめでたい。

 ベトナムといって真っ先にバイクを思い浮かべる人もいることだろう。とにかくこの国にはバイクが多い。そのほとんどが「スーパーカブ」で、いわずと知れた日本が世界に誇る「ホンダ」のバイクだ。そんな事情もあってベトナムではバイクのことを「ホンダ」と呼ぶ。つまり「スズキ」のバイクや「ヤマハ」のバイクは、「スズキのホンダ」「ヤマハのホンダ」となるのだ。これはおもしろい。
 東南アジアの国々では夕方に外へ出て夕涼みをする人が多かったが、ベトナムではバイクで走って風にあたり、涼をとるそうだ。
 と、まあそれだけこの国ではバイクが庶民に愛されている。特にホーチミンの交通量は凄くて、道を渡るのも一苦労なのだ。

 ここホーチミン市では、ホテルではなく普通の民家を改装した宿に泊まっている。本当の意味での民宿だ。
 営業許可を持たないでこのように宿をやっている民家が、この街には何軒もあるらしい。何軒か見てまわったが、オレはやさしい笑顔のおばあちゃんの家に泊まることにした。
 この家は72才のおばあちゃんと、その母親の90才のおばあちゃんがたった2人で暮らしている。この時初めて気付いたが、よくよく思い返してみるとベトナムには老人が多い。後でインターネットで調べると、やはり平均寿命は70才らしい。東南アジアの国の中ではダントツの長寿国だろう。ミャンマーやラオスで聞いた時には平均寿命は60才位と言っていたほどだ。
 ベトナムの食事も健康に良いのかもしれないが、やはり医療のレベルが違うのだろう。この事や町中を見てみても、オレの思っていた以上に進んでいる国だ。ベトナムは。

 しかしオレは、それだから余計にベトナム人がボリまくってくる事に対して怒りを覚えてしまう。ベトナムよりもはるかに貧しいミャンマーの人やラオスの人でさえ、これほどではなかった・・・。

   
ニャチャンの港 / ベトナムの正月飾り



47.こんなオレにしたのは・・・     2004 1/23(ベトナム、カンボジア)

 ホーチミン市ではタイのチェンライで知り合ったミクちゃんと、街中のカフェで偶然再開した。他にも何人かの日本人と知り合ったが、ベトナムには意外と日本人旅行者が少なかったので、久しぶりに日本語の会話をした。今まで性格のきついベトナム人の中に1人でいたこともあって、いつも以上に楽しく感じた。

 その中の1人とミトーという町へ一緒に行くことになった。メコン川河口に広がる「メコンデルタ」と呼ばれる広大な湿地帯の玄関口となる町だ。
 この町からメコン川に点在する島や、ジャングルの中の支流を巡るボートツアーが呼び物となっている。この観光はホーチミンからツアーに参加するのが一般的なのだが、オレはどうもツアーというものが好きではない。何回か参加したことはあるが、自分で行った方が楽しいと思っているし、何より英語が苦手だ。それに時間に縛られるのが何より好きではない。
 今回もオレたちはローカルバスを使って自力で行くことにした。
 町に着くと早速1人の男がボートに乗らないかと、声を掛けてきた。ただでさえバイタクやボートというものに乗るとトラブルが多い。しかもあのベトナム人だ。オレは彼を全く信用することができなかった。
 値段や行先などを細かく交渉してこの男のボートに乗ることにしたが、それでも不安は残る。そこでオレは最後に返すからと言って、人質のつもりで彼の腕時計を預かった。
「なんでこんなことをしなくてはならないのだ」
 この国へ来てベトナム人が嫌になったが、それ以上にそれを信用できなくなっている自分が嫌になっていた。
 しかしこうさせたのはベトナム人だし、彼らは疑われることを当たり前のように思っている。もしかしたらこれで良いのかもしれない・・・、これも郷に入っては郷にしたがえだ。
 実際ホーチミンに住んでいる日本人とも知り合ったが、彼も同じことを言っていた。これがこの国の文化なのだと・・・。オレは「騙しあい」が文化なんてイヤだけどな・・・。

 ボートトリップはなかなかだった。最初は疑ってしまったボートの男も、終始イヤな思いをさせられることもなかったし、ツアーでは行かないようなローカルな所にも行くことができた。やはりツアーよりも自分で行った方がおもしろい。自分の旅ができる。それに、ツアーではオレなどと同じ外国人旅行者との出会いがあるのに対して、自力で行った場合には現地の人との出会いがある。
 もちろんそれには良い出会い、悪い出会いがあるが、それを通して今回のように考えさせられることも多いのだ。やはりオレは、そんな出会いの方を大切にしたい。

 ベトナム正月のテトは期待していたようなものではなかった。特にカウントダウンのイベントがあるわけでもなく(どこかではやっていただろうけど)、花火が上がった程度だった。
 ベトナム人は家で年越しをすることが一般的らしく、あの喧噪のホーチミン市が閑散としていた。お祭り状態になって楽しめるものかと思っていたのに残念だ。

 そのベトナムの元旦に、オレはカンボジアのプノンペンへ向かった。
 道も良く、バスも良いベトナムでの移動は、比較的楽だ。今回も順調に国境へ到着した。ところがこの何もない国境では、4時間も待たされてしまった。100人以上のツーリストに対して係官がたったの1人なのだ。正月だからだろうか? しかも旅行者がイライラし出したために、係官も逆ギレぎみで、さらに時間がかかった。本当にベトナム人は最後までこれだ・・・。

 ろくな建物も、舗装道路もない国境を越えるとカンボジアだ。そして首都のプノンペンへ。
 プノンペンは、「長い内戦に苦しんだアジアの最貧国」と聞いて想い描いていたオレの想像とは、全くの別物だった。ベトナム同様フランスの植民地だったため、今でもその当時の洋風建築の建物が並ぶ、きれいな町だ。そして人も多く、活気に溢れる都会だ。
 しかし夜は真っ暗になってしまい、治安も悪い。いまだに内戦時代の影響で、ピストルなどがでまわっているそうだ。
 オレは1日でプノンペンを見てまわり、早めにシェムリアップへ行くことにした。シェムリアップにはアンコールワットがある。いよいよアンコールワット!

   
ホーチミンの夜 / ミトーのメコン川支流



48.アンコールワット     2004 1/29(カンボジア)

 風景の良い町は好きだ。しかしそれ以上に町から町へ移動する間の風景がオレは好きだ。
 プノンペンからシェムリアップへ向かうバスの車窓も本当にすばらしかった。大平原にカンボジア独特の形をしたヤシの木が生えている。牛や豚がそこを歩き、高床式の民家が点在する。バスの窓ごしでさえ写真を撮りたいと思ったのは初めてだった。
 ただ、道はかなりの悪路で、舗装はされておらず、穴が所々に空いている。粒子の細かい赤土のため、窓を閉めきったバスの中でさえ砂まみれになってしまう。しかし、それを補って余りある風景だったと思う。

 シェムリアップに着いた日の夕方、チケットを買わなくても行けるという話を聞き、アンコールワットの夕日を見に行った。しかし初めて見るアンコールワットに感動するよりも、人の多さにビックリしてしまった。
 この日はベトナムでいうテトの期間中であったが、それは中国人にとっても同じなのだ。中国正月の期間中だったこの日、おびただしい数の中国人であふれ返っていた。本国の中国人はもちろん、東南アジア各国に住んでいるいわゆる華僑も大勢いるようだった。さすが13億人いるだけのことはある。
 これでは観光どころではない。オレは3日間有効のチケットを買うつもりだったので、中国正月が終わるまで遺跡観光は待つことにした。

 アンコールワット遺跡群にはアンコールワット以外にも多くの遺跡があり、今だに発掘されていない所さえある。オレが見てまわった物だけでも30近くあり、それが広範囲にちらばっている。
 1日はチケットのいらない遺跡へ車で行き、チケットが有効な3日間の半日は遠くの遺跡へバイクで、残りの2日半は近場を自転車でまわった。
 暑さでバテバテになったが、遺跡のすばらしさに疲れも忘れた。あまり有名でない遺跡でさえかなり見ごたえがあり、アンコールワットや「バイヨンの微笑み」で有名なアンコールトムなどは本当に圧倒された。これまで多くの世界遺産や遺跡などを見て来たが、ここは全くスケールが違う。まさに凄いの一言だ。
 特にアンコールワットに昇る朝日は感動的だった。真赤に染まった東の空の下、美しいシンメトリーを描いたアンコールワットのシルエットが浮かび上がる。しばらくしてアンコールワットの背後から姿を見せた朝日が、神々しく輝く光のすじを発すると、手前にある池にはアンコールワットが映しだされる。その池に映るもう1つの世界は、ときおり水面に現れる魚が作り出す波紋によって美しく波をうつ。・・・・・・まさに夢のような時間だった。
 朝日も良かったが、遺跡からの帰り道に見る夕日も印象的だった。ここの夕日は驚くほど赤いのだ。それが大平原に落ちる風景は忘れられない。

 遺跡から遺跡への道では学校帰りの子供たちとよく会った。東南アジアの子供はみなかわいいが、ここの子供たちは特にかわいいように思えた。
 オレを見つけると、ハローやバイバイと言って手を振ってくる。オレが学校へ遊びに行った時には大騒ぎになってしまった。
 オレは子供たちの純粋そのものの笑顔が好きだ。本当に癒される。普段日本の生活で忘れていたものも思い出させてくれる。オレタチはこの笑顔を守っていかなければならない。
 ところで、日本の子供もこんな笑顔できたっけ・・・?

   
「コーク、コーク」とかわいい物売りの子ども / 真っ赤な夕焼け



49.新しい世界へ     2004 2/3(タイ)

 多くの感動をオレに与えてくれたシェムリアップを発ち、1ヶ月半ぶりにタイへ戻って来た。
 1人で異国を旅していると、無意識のうちにどこか身構えてしまっているのだが、この国だけはなぜか安心できる。
 特に安全というわけではないのだが、滞在が長いからということもあるのかもしれない。これまで5ヵ月半の旅の中で、タイ滞在は合計すると2ヶ月以上にもなる。そのうちバンコクには1ヶ月。
 自分自身、数えてみて驚いてしまった。だが当然だといえなくもない。オレはこの国が好きだし、1番旅をしやすいのだ。それにタイは、旅に出る前からこの旅のメインとして考えていた2つの国のうちの1つなのだ。

 そしてオレは、もう1つのメインとなる国へこれから行く。
 それはインド。

 カンボジア国境の町アランヤプラテートに1泊して翌日バンコクへ戻ったオレは、早速インド行きのチケットを取りに旅行会社をまわった。
 しかし、この時期は日本人の学生が春休みに入るため、チケットはどこもFullの状態だった。3日間旅行会社をまわり、やっとキャンセル待ちをしていたチケットを手に入れることができた。2月8日バンコク発、カルカッタ行き。

 オレはこれで新しい世界へと旅立つ。東南アジアとは異なる文化の国へ。
 インドでは何でもアリだという。インドに行くと世界が変わるともいう。インドに行かなければ旅人とは呼べないとまでいう人もいる。そして、インドは地獄だとさえいわれている・・・。
 だが、オレタチ、バックパッカーはその地獄こそが好きなのだ。オレは今、旅に出る前の、あの5ヶ月半前に感じたのと同じような胸の高鳴りを感じている。



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