アジアの果てへ
〈西アジア編〉


パキスタン(11ヶ国目) 2004/4/9-16
イラン(12ヶ国目) 4/16-27
トルコ(13ヶ国目) 4/27-5/16





65.危険なり
     2004 4/12(パキスタン)

 旅行者に評判の良くない町というものはいくつもあるが、パキスタンのラホールもその1つだ。スリや強盗、そしてホモに襲われることが多い。よく聞く話は
「宿のクローゼットや屋根裏から人が現れて襲われる」
 という話だ。
 インドから来るとパキスタン最初の町はそのラホールということになる。もし可能であればそのまま次の町へ移動してしまいたいが、バスのスケジュール上ここで1泊するしかない・・・。

 危ないとは言われているが、町は歩いていておもしろかった。町の風景も、人間の顔も、食べ物も、インドのそれとほとんど変わらない。変わったのは宗教と文字、日本車が増えたこと。
 だが違う国へ来た最初の町というのは、たったそれだけの微妙な違いでもとても新鮮に感じられる。
 ただ、ひとつ決定的に違うのは人間の中身だ。
 パキスタンの人はとにかくやさしく、なにかと助けてくれる。イスラム教の訓えに「旅人には施しをせよ」というものがあり、ジュースやチャイなどもよく飲ませてもらったりもした。考えてみれば、同じムスリム国家のマレーシアやインドネシアでもそれは感じられたことだった。
 これから中東へと向かうオレのこの旅は、これから長い間イスラムの国が続く。人間関係でイヤな思いをすることは減りそうだ。

 ラホールで有名なのはラホールフォートという城と、それに隣接するバードシャヒーモスクだ。
ラホールフォートは世界遺産にもなっていて、巨大な門がカッコイイ。バードシャヒ―モスクは世界最大級の規模を誇る礼拝広場があり、10万人が収容できるそうだ。
 泊っていた宿の前から「スズキ」に乗ってそこへ向かう。スズキとは乗合タクシーのことで、パキスタンではタクシーのほとんどがスズキのミニバンを使っているために、こう呼ばれている。ベトナムでバイクのことを「ホンダ」と呼ぶのと同じ発想だ。
 フォートもモスクもすばらしかったが、オレが何より興奮したのはそこへ向かう道中だ。
 オレの宿のある一帯から観光スポットが集まっているエリアへ行くには、旧市街を横切ることになる。その旧市街の風景はまさに中東といった感じだった。迷路のように入り組んだ細い道路の両側には、黄土色をした日干しレンガで造られた家々が並んでいる。時折目にする羊肉を扱う店の、その羊肉のドス黒い赤以外には色がなかった。街路樹や水の自然の色も、信号や看板の人工の色もない。街は一面同じ色で、空さえも曇っていて黄土色に見えた。そこを歩く人々の服は決まって白かグレー。まさに中東。
 そんな寂しささえ漂う色のない世界に、なぜかオレは興奮した。おそらくそれが初めて目にする光景、初めて出会う文化だったからだろう。

 そんな色のない旧市街に相反して、新市街は色にあふれていた。露店には多くの果物が並び、ド派手な映画の看板に、レストランの看板、なぜか多かった携帯電話屋・・・。しかしその何よりもカラフルなのはバスだ。パキスタンのバスはとにかくギンギラ! ミラーや飾り、電飾、ペイントがこれでもかと散りばめられている。そしてその見た目同様にとにかくうるさい! メロディー調のクラクションは大音量で、バリエーションも豊富。
「パリラリ、パリラリー」
「ピロピロ、ピロピロリー」
「パーララ、ピラピロー」
 しかもやたら無意味に鳴らしまくる。それだけでも騒音なのだが、スピーカーからも大音量の音楽が流れているのだ。日本で例えるなら、デコトラの暴走族といったところか。そんなのが街じゅうを走り回っているのだ。旅行者のオレは楽しめるが、市民からしてみれば迷惑この上ないこと間違いなし!

 ラホールから先のルートにオレは迷っていた。西を目指してパキスタン、イラン、トルコと旅を進めるオレにとっての選択肢は2つ。ぺシャワールを経由して北から行くか? インダス文明の古代遺跡、モヘンジョダロを見て南から行くか?
 中央アジア色の濃いぺシャワールの町には魅力を感じるが、アフガニスタンに近いということもあって銃が出回り、政府の法律さえ及ばないという。
 一方のモヘンジョダロもパキスタンで最も治安の悪い地方にある。
 オレはどちらも危ないのなら最短ルートをとることにし、モヘンジョダロのあるラルカナという町へ向かった。

 ところが・・・、オレが思っていた以上にこの地方の治安は悪いらしく、ホテルから出る時には警察官の警備がつくことになった! もちろんオレ専用。オレ1人のための護衛だ。まるでオレはSP付きのハリウッドスター並みの扱いというわけだ。食事、買い物、観光すべて警官と2人での行動となった。
 この警官は昼と夜の交代制で、この町にいた1日半で4人の警官が入れ替わりでオレの護衛についた。パキスタンという国は思った以上に英語が通じ、その4人全員も英語を話せたので、ガイド代わりにもなってもってこいの存在だった。
 しかし、そのうちの1人はとんでもないヤツだった。モヘンジョダロ遺跡の観光へ行けば半分見たところで
「もう暑いから帰るぞ」
 と言い出すし、自分の友人の家へ勝手にオレを連れて行って長話を始めるし、食事をすればオレの了解なしに人の金で勝手に高いものを食べ、宿の部屋には勝手に入ってくるし、オレが出掛けたくても
「危ないからダメだ」
 などと言い出す始末・・・、どう考えても暑くて動きたくないだけなのだ。
 こんな所に来たオレが悪いのでしかたがないが、モヘンジョダロもラルカナもイヤなイメージだけが残ってしまった。
 しかもここへ来た1番の目的であるモヘンジョダロも、感動に値するものではなかった。何ヵ所かで見られた下水道やダスターシュートには関心を持てたが、それ以外はただのガレキの山だった・・・。
 それに加えこの時期のパキスタンの信じられないような暑さにもまいってしまい、早くイランへ行きたくなってしまった・・・。

 ちなみにラルカナの町も皆人が良く、危なさなど微塵も感じられなかった。警備のお陰だとは思えないのだが・・・。

   
ラホール博物館の断食する仏陀像 / ラルカナの街で見かけたビンラディンのポスター



66.初めて接するもの     2004 4/15(パキスタン)

 『風の谷のナウシカ』という宮崎駿のアニメ映画があるが、その「風の谷」のモデルとなったともいわれている所がある。パキスタン北部にあるフンザという村がそれで、バックパッカーにとっても人気の場所だ。特にこの時期は杏の花が咲き乱れ、まさに「桃源郷」という表現がピッタリな風景を見ることができるらしい。
 当然ここへは行くつもりだったのだが・・・。

 インドのデリーにいる時のことだった。ナグからこんなメールが届いた。
「ゴールデンウィークに長期休暇がとれるからどこかで会おう!」
 ゴールデンウィークのちょうど1ヶ月前のことだった。航空券の手配も考えると、どこで合流するかを早めに決めなくてはいけない。
 オレがこのままの予定で旅を続けると、1ヶ月後に会える可能性のある国は、パキスタン、イラン、トルコに絞られる。インドに疲れ始めていたオレは早くインドを出たかったので、パキスタンというのはペース的にゆっくりすぎる。逆にトルコで会うにはペースが早すぎて、何ヵ所か行きたい所を削る必要がある。そう考えると1番良いのはイランなのだが、どうもオレタチの再会にはパッとしない気がする。
 オレタチはいろいろと考え、結局トルコのイスタンブールでの再会を選んだ。
 つまりオレは旅を急ぐ必要があったのだ。そこでこう考えた。
「治安の悪いパキスタンは早めに抜けよう」

 そんな理由でフンザへは行かなかったのだが、いざパキスタンも半分以上過ぎたころになると、
「やはり行きたかった」
 などと後悔し始めてしまったのだ。旅のルートに関していうと、初めて失敗したと思った。
 が、しかしここまで来てしまったものはしょうがない。フンザにはまた次回行けば良いだけのことだ。

 ラルカナから次の町クエッタまでは夜行列車を利用した。列車は6人用コンパートメントだった。3人掛けの座席が向かい合っていて、それが1人分のベッド。中段と上段のベッドは通常折りたたまれて壁へ収納されている。そのコンパートメントに乗客はオレを含め3人。ゆったりとしていて、乗り心地は良い。インドとは雲泥の差だ。
 ここに乗り合わせた2人は軍人だった。これからアフガニスタンの任地へと向かうそうだ。オレの行くクエッタを過ぎれば、そこはもうアフガニスタン国境とは目と鼻の先。戦後の混乱の中へと向かう彼らとは、いったいどんな心境なのだろう・・・。のんきに旅をするオレとはあまりにも対照的すぎるが、これが世界で起こっている事実なのだ。平和ボケの国から来た旅行者と、混沌の戦場へ向かう軍人。そんなオレたち3人だったが、意外にもオレの旅の話や、彼らの訓練の話などで会話は盛り上がった。
「チャイを飲んだカップには必ず穴を開けてから捨てるんだ。敵に使えるものを与えてはいけない!」
「イエス、サー」
 オレはチャイの紙コップの底にライターで火をつけて穴を開け、列車の窓から漆黒の闇の中へと投げ捨てた。
 あたりには明かりひとつない存在しない。
「いったいどんな所を走っているのだろう」
 インダス川流域の低地にあるラルカナから、アフガニスタンへと続く高原の入口に位置するクエッタへ向かうこの列車は、しだいに標高を上げていった。

 朝になってオレは、車窓の風景に息を飲んだ。列車は火星を走っていたのだ!
 何も無い礫砂漠と何も無い岩山。それが360°延々と続いていた。生物など一切生きられないとも思えるような赤茶けた荒地。まさに火星そのものだった。オレは初めて砂漠というものを目にしたせいかもしれないが、その殺風景な大地がとても美しく感じられた。
 そして、旅が新しい世界へ入っていったことを強く実感したのだった。

 まさにその通りだった。クエッタの街はこれまでのパキスタンとは雰囲気が違ったのだ。
 まずなんといってもアフガニスタンに近いということで、パシトゥン人や、日本人そっくりのウズベク人が多く、食べ物や文化も中央アジアの影響を受けている。以前中央アジアの文化が見たくてペシャワールへ行こうかと迷ったこともあったが、クエッタもそのような文化圏に属する街だったのだ。
 これならばこの南ルートで正解だったなと思った。
 もう1つ今までと違うことは気候だ。ここは高原にあるため、昼もそれほど暑くはない。遠くには雪山までも望むことができる。ようやくあの暑さから解放されたのだ。
 とにかく居心地は良かったし、何より初めて接するものが多いこの町は本当に新鮮だった。今回の旅では今のところ行く予定のない中央アジアだが、いつか是非行ってみたくもなった。

 1週間で駆け抜けてしまったパキスタンだったが、思った以上に良い国だった。次はイラン。イランも国土の大半が砂漠と高原ということだ、クエッタと同じように快適な所なら良いのだが・・・。

   
ギンギラバス / 老人と子ども



67.良いのか悪いのか?     2004 4/18(パキスタン、イラン)

 クエッタを発ちイラン国境へ向かったバスは、岩山の間を縫うように走っていた。途中何回も検問があり、その度に長時間待たされることになった。バスの天井に山と積まれた荷物をすべてチェックするのだ・・・。
 夕方クエッタを出発したバスは早朝、国境の近くだという所でストップした。最後の検問があるらしい。あるらしいのだが、検問所ははるか大渋滞の彼方。トラックとバスが延々と列をなしているのだ。1台だけでも検問でかなりの時間を要する。これでは当分の間は動けない。誰もがそれを知っているので、バスから降りて時間を潰す。中には火をおこしてナンを焼く人まで現れた。準備が良すぎる。
 オレはここで便意を催した。大きな方だ。当然この砂漠の1本道に公衆トイレなどがあるわけもなく、岩影に隠れて野○ソだ。旅をしているとこんなことも当たり前になってくる。
 ところがオレは野グ○を始めると、遠くに何者かの気配を感じ取った。犬だ。
「こっちにくるなよ〜」
 と願いながら用をたしていたが、100mほどの距離で目が合った。そしてオレに向かって吠えながら走ってくる! こっちが無防備な状態なだけに、その犬は砂漠オオカミのように恐ろしい存在に思えた。ペットボトルの水を使って大急ぎで尻を拭き、パンツもまともに履けないまま逃走! 犬は一直線にオレへ! と思いきや、一直線にオレの○ソへと向かっていった。そしてあっという間にそれを口にすると、オレには目もくれずに立ち去ったのだ。
 砂漠とはこうまでしなければ生きられないような厳しい世界なのだろうか・・・。まさかク○を通じてそれを知らされることになろうとは・・・。

 国境に着いたのは正午をまわっていた。国境は人数が多かったわりには意外とすんなりと越えられ、イランへ入国。

 かつてイランは旅の快適さを考えると異常に物価が安く、「旅行者天国」と呼ばれていたそうだ。だが今では物価は上昇してしまった。それでも他国よりは安いという話だったのだが・・・。
 まず国境から近くの町ザーヘダーンまでのバスの料金に驚いてしまった。20000リヤール。イランの通貨は桁が多いため2000の間違えだろうと思ったが、20000(約250円)。オレの持っているガイドブックは2年前の情報なので、金額に関してはまったくアテにならないほど物価が上昇している。特に宿は他国に比べても高い。旅をしていて最もウェイトの大きい宿代なだけに、これは痛い。
 そしてイランではこれまでどの国にもあった屋台がついに姿を消してしまった。バックパッカーにとって安い食事のできる屋台がないというのはきついことだ。
 だがその物価の上昇もうなずけるように、街は発展していた。オイルマネーの賜物なのだろうか。お陰で快適な旅というものは保証されそうだ。

 最初の町となったのはザーヘダーン。オレはバスターミナルへ到着すると、すぐに街へ出ることはしなかった。街へ出る前に、バスターミナルの中を歩いてまわった。少しでもイランをつかもうと思ったことと、明日のバスの時間を確認したかったことが理由だ。
 しかしどうもおかしい。ムスリムなので人は良いと思っていたイランだが、誰しもオレに対して良い反応は示さなかった。邪剣にされたり、無視されたり、何やらからかわれたり。そしてしまいには・・・15,6歳くらいの少年に、いきなり階段から突き落とされた!! いったいなんだってんだ!!?
 インドにいた頃からインド人の影響で、オレは頭に血がのぼりやすくなってしまっていた。
 そしてこの時も、頭の中で「プチン」と音が聞こえるようにキレた!! これだけのことをされたのだから当然だ! 自分でも恐ろしくなるくらいに完全にキレてしまった!
 オレはバスターミナルの出口にある階段から突き落とされたのだが、バスターミナルは外装を工事中だった。その工事に使うのだろう、オレが倒れ込んだ階段の下にはレンガが積まれていた。オレはその1つを手につかむと、少年を追いかけた。背中には重いバックパック、足元はビーチサンダル。そんな恰好にもかかわらず、火事場のバカ力なのか? オレは少年に追いつきそうなところまで迫った!
 もしも・・・、この時少年に追いついていたならば、オレは彼の頭を割ってしまっていたかもしれない・・・。砂漠の町で牢獄へ入る運命だったかもしれない・・・。
 しかし、少年は逃げおおせた。少年にとっても、オレにとっても、運良く彼は逃げてくれたのだ。

 この一件で頭にきたということと、ちょうど出発するバスがあったこともあり、オレはザーヘダーンには泊まらずに、そのままの足で次のケルマーンへ移動した。この町にいてもろくなことがなさそうだ。気持ちを切り替えよう。

 ケルマーンは古いバザールと、そこにある500年前に建てられたというチャイハネ(喫茶店)が有名な町だ。
 「チャイ」つまり紅茶だが、東南アジアからインドで飲まれている甘いミルクティは、いつしか姿を消していた。イランのチャイはストレートだ。そこへ自分の好みで角砂糖を入れるのだが、イラン流の飲み方がある。角砂糖はカップへ入れるのではなく、口へ入れるのだ。その口の中へ紅茶を流し込むと、口の中で角砂糖が溶けながら程よい甘さになる。1杯飲む間に砂糖は小さくなり甘みも少なくなっていくのだが、最後がさっぱりするのでこれがちょうど良い。
 そんなこととは知らなかったオレは、当然のようにカップへ砂糖を入れてしまった。それを見た店員は、わざわざチャイを新しいものと交換してくれてまで飲み方を教えてくれたのだ。かなりのこだわりがあるのだろう。
 そんなことを教えられたチャイハネはなかなか雰囲気の良い所だったが、バザールはイマイチだった。とにかく活気がないのだ。人も少ないし、店の呼び込みの声もない。だが、それはそれでイランらしさなのかなと思うと、その静けさも心地よく感じられるようになってきた。そんな静かな街を全身黒のチャドルで身を包んだ女性たちが歩く風景は、いかにもイラン、いかにも中東、いかにもイスラム、といった雰囲気のあるものだ。
 ところがここケルマーンでもオレへの扱いは良くなかった。
 店へ入った瞬間に「帰れ!」と言われる。乗合タクシーは手を上げるオレに近づいてスピードを緩めるが、顔を見るなり通り過ぎてしまう。通りすがりにヒマワリの種の皮は吹きつけられる。水は掛けられる。ザーヘダーンでは初めてのことでキレたオレだったが、ここまで連続でこの仕打ちを受けると、怒りよりも戸惑いそして疑問の方が大きくなってきた。
「本当に一体どうなってんだ? この国は?」
 そしてその理由は分かった。彼らがオレをからかう言葉でそれを悟った。
「チネー!」
「チン、チョン、チャン」
 こう罵られることがよくあったのだ。
「なんだよそれ? チネー? チネー・・・チャン・・・!! チャイナ!」
 イラン人は中国人を嫌っているらしく、オレはその中国人に見られていたのだ。日本人だと言うと180°態度が変わり、とたんに友好的になる。どうもこのことでこれから苦労しそうだ。

 今のところはまだイランという国をつかみきれていない。良いのか悪いのか?

   
ケルマーンのバザール / チャイハネ



68.世界の半分     2004 4/24(イラン)

 イランに来て1週間が経ち、ようやくイランが分かってきた。新しい国に慣れるのにこれほど時間のかかった国も初めてだろう。それだけこの国ではこれまでと同じようにはいかないことが多い。それだけイランが特殊なのかもしれないし、アジアからヨーロッパへ近づいてきたということなのかもしれない。
 実際、町と町の間にある砂漠や小さな村にはアジア的なものを感じたが、大きな街はオレのイメージするヨーロッパに近い。街はキレイで、清潔。アジアのゴミゴミした感じはほとんどない。人で溢れかえっているということもない。そして空気は心地良くカラッとしていて気候も良く、これまでで最も快適な国といえるだろう。
 だが問題は人間だ。ザーヘダーン、ケルマーンでは中国人と呼ばれてひどい目にあった。そして次にオレが行ったシーラーズとイスファハーンでは、外国人観光客が多いということもあってさすがに日本人に見られることが増えたが、それでも笑われたりからかわれたりすることは多々ある。
 特に若い人たちにどうしようもない人間が多い。
「厳格なムスリムのイラン人は人が良い」
 と勝手に決め付けて期待していただけに、失望も大きかった。今回またしても強く思った。1番重要なのは人なのだと・・・。
 しかし、彼らには同情できる部分もあるのは事実だ。無理もないだろう。国に宗教、宗教と押しつけられ、イスラム革命後のイランは、自由を失ってしまったようにも見える。イスラムの決まりにがんじがらめにされているようだ。宗教的な制約が多いだけにストレスが溜まっているのではないかと思う。
 そんな彼らにとって、自由を謳歌するオレたち外国人旅行者はまさに嫉みの的なのかもしれない。

 シーラーズはきれいな街だった。ところが残念なことにオレがここにいた2日間は、イランの祝日で店は閉まってしまい、モスクなどの見どころでは宗教的な儀式が行われていた。オレたちのような異教徒が近寄りがたい雰囲気だったのだ。
 シーラーズからバスで1時間の所にある、ペルシャ帝国の古代遺跡ペルセポリス。オレはそこへ旅行会社のツアーで行ってきた。
 遺跡自体はすばらしいものだった。しかしオレにとっては想定外だったが、なんと砂漠地帯にあるペルセポリスで雨に降られたのだ。イラン高原では空気が乾燥しているので太陽が出ていないと少し寒いくらいなのだが、そこに雨と強風が加わり完全に寒さで凍えることになってしまった。観光どころではなくなってしまったのだ。
 そして雨に濡れた体が乾いた後は、全身が砂まみれ。砂漠の雨は砂を含んでいるらしい。どうもイランに来てからついていない・・・。

 次に向かったのはイスファハーン。ここはかつてペルシャ帝国の都として栄え、「イスファハーンは世界の半分」つまり世界の半分の栄華はここにあるとまで讃えられた街だ。
 ここもキレイな所だった。いやそんな表現ではとても足りない。オレが今まで見た街で1番キレイで美しい! 砂漠の真ん中によくもこれだけ緑と水に溢れた街があるものだと感心してしまう。まさにオアシスと呼ぶにふさわしい!
 イスファハーンで1番の、いやイランで最大の見どころであるエマーム広場はすばらしかった。
 その中心には噴水があり、それを芝生の広場が囲んでいる。その外周には雰囲気のある石畳の道が一周していて、馬車などがそこを走る。さらにその外側には土産物屋やモスクなどが並び、それらの外装は青や緑のタイルで飾られている。広場の南端にある、イランで最も美しいと称されるエマームモスクも本当に綺麗の一言だ。
 特にこの広場は夕方から夜にかけての風景がキレイだった。ライトアップされた青いタイルが紫色の空とみごとに調和し、刻々と色が変化するその景色を、オレはチャイハネでチャイをすすりながら眺めるのだ。かつてのペルシャ帝国の皇帝たちも、この風景を目にしたに違いない。
 これからヨーロッパへ近づくにつれ、こんな所が増えていくのだろうか? 期待は膨らむ。

 イスファハーンでは何人かのアフガニスタン出身者と話をした。イランには意外と多くのアフガン人が住んでいるのだが・・・。やはり彼らもイランでは良い扱いはされていないと嘆いていた。
 思い返してみるとパキスタンのクエッタにもアフガン人は多かったが、彼らにもそのようなものを感じたことがあった。国の戦乱を逃れ、異国へ来て見ればこの待遇・・・。
 彼らの言っていた、
「私たちに明るい未来はない」
 という言葉が、平和ボケしたオレの心に深く突き刺さった・・・。


シーラーズの聖者廟



69.冷たい雨     2004 4/27(イラン)

 旅をしていると情報というものがいかに重要かが分かる。ガイドブック、インターネット、旅行者との会話、いろいろな方法で情報を得ていくのだが、オレにとっても多くの旅行者にとっても「情報ノート」の存在は大きいだろう。
 このノートはバックパッカーの多い安宿、特に日本人の多い宿には置いてある所が多い。その情報ノートもイランあたりまで来ると内容の濃いものが多くなってくる。アフガニスタンやイラクなどの紛争地へ行って来た人、アルメニアやアゼルバイジャンなどのマイナーな国へ行って来た人、かなり上級な旅をしている人が書き込みをしている。
 その情報によるとインドからイランまで旅をして来た人たちの多くは、アフガニスタンを抜けて来ていた。インドやネパールで会った人たちもアフガニスタンを抜けると言っていたし、今の西アジア情勢からすると、そちらのルートの方が逆に安全だという話だった。どおりでパキスタン、イランとここまでほとんど日本人に会うことがなかったわけだ。オレは戦後間もないアフガニスタンは危険だとばかり思っていたし、オレが通って来たパキスタン、イラン国境付近が危険だということもそれほど深刻には考えていなかった。情報収集を怠った結果だ。オレは危険な道を通ってしまったし、風景と人がサイコーだという噂のアフガニスタンも、そのルートの場合に通ることになるイランのイスラム教シーア派の聖地マシュハドも見ずにここまで来てしまった。
 しかしどちらにせよ、オレはナグに会うために急がなくてはならない。結果は同じだっただろう。

 そしてこの情報ノートには意見や感想なども書いてあったりもするのだが、やはり読んでいるとイランの若者にはみな腹を立てているようだ。特に女性旅行者はシャワーを覗かれたり、痴漢やセクハラにあったりと散々だという人が多い。
 オレもこの国の若者たちには腹立たしさを感じていたために、この美しいイスファハーンの街も心から好きとは思えないでいた。そしてイランという国も・・・。

 そんなある日サンドイッチ屋で夕食を食べていると、イラン人の家族連れが入ってきた。父親と娘が英語を少し話せたのでしばらく話していたが、この後家へ行こうと誘われた。この人たちが怪しいとは全く思えなかったし、イラン人を少しでも好きになれる絶好のチャンスだった。
 しかしオレは行かなかった・・・。ただ何となく気が進まなかった。ただそれだけだ。
 しかし、なぜ気が進まなかったのだろう? 旅を始めたころはこのような誘いを断ることもあったが、最近では喜んで遊びに行かせてもらっていたのだ。それこそが旅の醍醐味だとも思うようになっていた。それなのにこの時のオレは、理由もなくそれを断ってしまった・・・。
 今になってみるとまるでオレにとってのイランを象徴していたような出来事だったように思う。
 どうも歯車がうまく合わない・・・。
 そして店を出ると、外には冷たい雨が降っていた・・・。

 次の日、オレはテヘランへ向かった。
 ここはイメージしていた通りの都会だ。ただ驚いたのは、雪山がすぐ間近にせまっているということだ。思ってもいなかったことだが、その山々はネパールで見たヒマラヤよりも凄いのではないかと思うほどだった。
 ここはビジネス、産業の街という感じが強く、特にオレが魅力を感じるものはなかった。1泊だけしてタブリーズという町へ行くことにしたのだが・・・。

 前にも書いたようにゴールデンウィークにナグと会うことになっている。オレタチはトルコのイスタンブールでの再会を選んだのだった。
 5月4日に来るということで予定を立てていたのだが、テヘランにいる時にナグからメールを受けた。
「仕事の都合で4月30日に変更になった」
 4日後にイスタンブールか・・・・・・。えっ!? えーーーーーーっ!!??
 4日後かよーーーーーーーー!! 最近ネットをしていなかったのでメールを見るのがおそくなってしまったが、あと9日あると予定していた旅の予定が4日に・・・。いくらなんでも急すぎる・・・。

 オレはタブリーズには泊まらず、そのままバスを乗り継ぎトルコまで一気に走った。


年配者は良い人ばかりなのに・・・



70.跳んでイスタンブール     2004 5/1(イラン、トルコ)

 イランの町から町への移動というものは、途中すばらしい景色のことが多いのだが、タブリーズからトルコへ向かうバスから見た風景もきれいだった。
 緑の草原の中に白い羊と黄色い花、その向こうには茶色い岩山、またその奥には白い雪山、そしてさらにその向こうには淡い水色の空。日本では見た記憶のない色の組み合わせだ。
 しばらく行くと富士山そっくりの山が見えてきた。ノアの箱舟が漂着したとされているアララット山だ。いよいよトルコへ入ってきた。

 最初の町はドウバヤズット。「メシがうまい」これがトルコの第一印象だった。あまり知られていないが、トルコ料理は世界3大料理の1つなのだ。メインの羊か鳥、それと野菜をオリーブオイルで煮込んだ料理はバリエーションも多く、ハズレはない。主食の「エキメキ」と呼ばれるパンも、最高にウマし、スイーツも充実していて、アラブコーヒーやチャイも美味しい。まさにうれしい誤算だった。
 そしてトルコ人は人が良い。これも期待していた通りだ。旅人には良くしてくれるイスラム教徒、中でもトルコは親日的なのだ。特にイランで裏切られたオレは、このことにほっとした。
 そしてトルコは今まで旅してきた中でも最も先進的な国のひとつで、旅は快適そのものだ。しかし当然その分物価は高い。これは手強い敵になりそうだ。
 金の話でついでだが、トルコの通貨は桁が多くて慣れるのに苦労した。100USドルを両替したら1億4千200万トルコリラになった! 1番小さなコインが5万トルコリラ・・・。トルコに入って1番最初にATMでおろした金が3億トルコリラ! 初めて食べた食事が300万トルコリラ。こんな具合なのだ。

 ドウバヤズットは小さな町だった。アララット山もきれいに見え、風景も良かった。
 イランからの道中ずっと一緒だったスペイン人のフェランと部屋をシェアし、宿で知り合った写真家のシンジさんと3人で郊外にある丘の上の宮殿へ向かった。
 といってもこの区間に公共の交通手段はなく、ヒッチハイクをすることに。それほど苦労はしなかった。何台目かの車が乗せてくれ、オレたちは崖の上まで上った。中東地域ではヒッチがけっこう使えるらしいという話は聞いていたが、これほど簡単だとは思わなかった。
 宮殿はなかなかだったが、それよりもここは景色だ。この崖のような丘からの眺めはちいさなドウバヤズットの町の外側までも見渡すことができ、隣国のアルメニア領まで続くその草原の向こうにはキレイに雪をたたえた山々。その中でもひと際高く、美しいのがアララット山だ。
 帰りは下りなので、この風景を楽しみながら町まで歩くことにした。
 オレたち3人が山に見とれ、写真などを撮りながら歩いていると、気づかぬうちにとんでもないことになっていた。前方、左右の三方を大型の野犬の群れに囲まれている!!
 オレはもと来た道を引き返したかったがフェランが大丈夫だからと言い、そこを突破することになった。犬たちを刺激しないようにしながらも、万が一に備えて石や木の枝を手に取った。オレたちはそろそろと歩き、犬たちは包囲を縮める。辺りを緊張が走る中、ついに犬が吠えだした。フェランがそれを落ち着かせようとして、クッキーをバッグから取り出した。
「大丈夫だぞー。友達だよ。ほら食べろ」
 などと言っていたが、オレの見る限り犬たちは興奮状態になってしまい、今にも飛びついてきそうな雰囲気だった。近くで見るとどの犬もキズだらけで、耳のない犬も多かった。
「これ、マジやばくねー」
「ですよね・・・こいつら戦い慣れてますよたぶん・・・」
 結局オレたちは石を投げながらその包囲を走って突破した。全身から冷や汗が出るような恐怖を味わったが、もし1人だったら噛まれていたか最悪命もあぶなかったかも・・・などと考えると本当にゾッとする。

 歩いて汗をかき、犬に襲われて冷や汗をかいたオレたちは、トルコ式サウナの「ハマム」へ行くことにした。日本でいうところの、銭湯全体がサウナになっているような感じで、湯船こそないがお湯で体も洗えるようになっている。オレとシンジさんはサイコーだねと言いながらハマムを満喫したが、もともと風呂やサウナに入る習慣のないスペイン人のフェランは、
「Too hot !! Unbelievable !」
 と5分も耐えられずに出て行ってしまった。気持ちイイのに・・・。

 知り合いもできたし、町も気に入った。本来のオレならば2、3泊しただろうが、今はイスタンブールへ急がなければならない。途中どうしても寄って行きたい町があったため、1泊だけしてドウバヤズットを発ち、オレはエルズルムへ向かった。

 エルズルムは標高の高い町で、日本ではもうすぐゴールデンウィークというこの時期でも雪が積もっているほどだった。とにかく寒い。特に何があるわけでもない町だったが、やはり人はみな良くしてくれ、それだけで良い印象だけが残った。
 そしてそのエルズルムでも1泊だけして、トラブゾンへ。
 オレがイスタンブールまでの途中で寄って行きたかった所とは、このトラブゾンという港町だ。

 黒海に面したこの町には、ロシアやアゼルバイジャン、グルジアなどから移ってきた人たちが多く住んでいて、ロシアンバザールが有名だ。
 オレはタイのハジャイやパキスタンのクエッタのように、異国の文化が入り込んだ町が好きだ。このトラブゾンへ行きたいと思ったのも、そんな異文化の共存を感じたかったからなのだ。
 だがロシアンバザールはたいしたことがなく、ロシア料理の店も数えるほどだ。正直期待はずれだった。それに加えこの時期のトルコ東部は寒いうえに連日天気が悪いこともあり、ガッカリしてしまった。こんな天気だと、黒海も冬の日本海のようだ・・・。
 が、ここでもやはり多くの人の良さにふれることができ、気分は悪くない。

 そんなトラブゾンから夜行バスに乗り、18時間かけて一気にイスタンブールへ。たったの3日で東西に長いトルコの西の果て、アジアの果てまでやって来た。
 ついにナグと会うのだ。このアジアの果てで、オレタチは何を思うのか・・・。


イスタンブールのボスポラス海峡



71.アジアの果てにて     2004 5/7(トルコ)

 イスタンブールという街は地図の上では半分がアジア、もう半分がヨーロッパということになっている。いよいよオレの旅もヨーロッパという未知の領域へと踏み込んで行くところまで来た。
 そしてそのヨーロッパの入り口でもありアジアの果てでもあるここで、オレはナグと会う。

 オレは深夜到着する彼を向かえに空港へ向かった。しばらくしてゲートからナグが出てきた。日記を書く時になって初めて気付いたが、オレはあの時ナグに抱きついていた。この再会に最大級感動したというわけではない。旅をしていてオーバーアクションが身に付いてしまったのだ。その時にはまったく無意識だった。

 空港からタクシーに乗り、宿のある旧市街のスルタンアフメット地区へと向かう。深夜なのであっという間に到着した。久々の再会で話しに夢中だったオレタチは、タクシーを降りたその時まで自分たちのいる場所を理解していなかった。オレタチの降りた所は・・・、貸切のディズニーランドだった!
 誰もいない街に巨大なモスクがライトアップされて幻想的に、神秘的に、そして静かに佇んでいた。街にある多くの美しい建物はすべてライトアップされ、オレタチはまるでおとぎの国に迷い込んだ2人の小人になった。いや2匹の野獣かな?
 最も美しいのは、まるで中世の城の塔のような尖塔をもつブルーモスクだ。これはまさにシンデレラ城!
 そうか、ナグはシンデレラの魔法が消えるかのようにまた1人で日本に帰ってしまうのか・・・。
 それにしても・・・、なんでこいつ男なんだよ・・・。

 翌日からオレは、ナグの好意に甘え贅沢三昧だった。おいしい食事に2ヶ月ぶりの酒、観光にハマム・・・。宿はさすがに安宿だったが、これまで貧乏旅行を続けてきたオレにとっては怖いくらいの贅沢だった。
 だがそんなものより、何よりも友人と2人でいることに贅沢を感じた。オレが飢えていたものは、おいしい食事でも酒でもなく「友」だったのだ。これまでも旅で知り合った友人と一緒のことも多かったが、日本の友人はやはり別格だ。
 それにしてもナグと会ったのが酒の飲めないパキスタンやイランじゃなくてよかった〜!(結局酒かよ)

 イスタンブールでオレタチが最初に行った場所は、ガラタ橋だった。イスタンブールはボスポラス海峡によってアジア側とヨーロッパ側に分けられている。そのヨーロッパ側は、さらに金角湾によって旧市街と新市街に二分されているのだが、その金角湾に架かるのがガラタ橋だ。ここからは3つに分けられたイスタンブールのすべてが見渡せる。そのどれもが丘になっているため、建物が雛壇状に連なっていて美しい。いくつも見えるモスクの丸いドームとそこに伸びる尖塔が、絶妙なアクセントになって風景を引き立てている。
 そんな景色を見るためと、もう1つここに来たのには目的がある。「サバサンド」だ。オレの知るかぎり世界一ウマいトルコのパンに、焼いたサバと生玉ねぎをサンドしてレモンを絞って食べる。イスタンブールでもこのガラタ橋の下でしか食べることのできない名物料理だ。
 パンと焼き魚? と思うかもしれないがこれがウマい! 旅をしていると、魚は敬遠しがちになってしまうのでなおさらだ。

 サバサンドの朝食を済ませたオレタチは、フェリーに乗ってアジア側へ行ってみた。市場を散策し、フルーツや木の実などを買い、アイスを食べる。
 ふたたびフェリーに乗り、今度は新市街へ行く。ガラタタワーを見た後、ガラタ橋を渡って旧市街へ戻る。
 どこも風景は良かったが、どこかイスタンブールはこれまでと勝手が違った。
 オレタチは以前にも何回か一緒に旅をしたが、2人とも初めてのヨーロッパに同じことを感じていたのだ。
「熱くなれないな・・・」
 やはりオレタチにはアジアの喧騒と雑踏、そして暑さと熱さが必要なのかもしれない。
 かといってイスタンブールがつまらないというわけではなかった。
 さすがに何世紀も前から、西洋と東洋の文化の交差点として栄えてきたこの街にはそれだけの歴史を感じたし、まるで城のように巨大でかつデザイン的にも優れたモスクなどの建築物にも目を奪われる。ブルーモスク、アヤソフィア、トプカプ宮殿、ガラタ橋、ガラタタワー、エジプシャンバザール・・・。見どころも多い。世界遺産に登録されるだけのことはあるすばらしい街だった。
 美しさでいえばイランのイスファハーンに匹敵するほどだろう。イスファハーン・・・。そうだ。ここはイスファハーンに似ているのだ。
 すばらしく美しい町並みに古い文化を残しながら、快適な生活を送れるような近代的な街。だがなぜか心の底から好きとは言えない街。
 オレはイスファハーンにいる時、それはイランの若者たちのせいだと思っていたのだが、どうも違ったようだ。ナグに会って、ナグと話して確信した。オレの、オレタチの求めているものは別のものだったのだと・・・。

 それを求めに行くというつもりはないが、オレタチはイスタンブールを離れることにした。ナグはあまり時間がなく遠くまで行くことはできないので、行先の選択肢は3つにしぼられる。説明は省くがトロイ、サフランボル、セルチュクの3つだ。
 オレタチはそのうちのセルチュクを選んだ。決め手は海。エーゲ海だ! もちろんこの時期に泳ぐわけではないのだが・・・。やはりオレタチはビーチだ!!

   
ナグと / イスタンブールのブルーモスク



72.メッセージ     2004 5/7(トルコ)

 セルチュクへ行くために、イスタンブールのバスターミナルへ向かった。バスターミナルはトルコでは「オトガル」と呼ばれているが、このイスタンブールのオトガルは巨大なものだ。まるで空港並みの広さ。同じ目的地へ行くにしてもいくつものバス会社があって、値段やサービスを競い合っている。トルコの長距離バスはサービスに定評があり、飲みものや菓子が配られたり、香水をかけてくれたりと、旅人をもてなしてくれる。やはり「旅人には施しをせよ」というイスラムの訓えからくるものだろう。
 こんな巨大なオトガルからセルチュク行きのバスを見つけるのは一苦労かと思ったが、そこは人の良いトルコ、人に聞くと親切に教えてくれた。

 オレタチは夜行バスでイスタンブールを発った。
 1時間も走らないうちにバスは港でフェリーに乗る。オレタチはフェリーのデッキに出て海からの夜景を見ていたが、すぐに体が冷えてしまった。昼は暖かいこの季節も、さすがに夜の海の上は寒かったのだ。こんな時には1杯のチャイが体を温めてくれる。
 フェリーが対岸に着きバスが再び走り出すと、オレはすぐに眠りについてしまった。

 セルチュクはオレの好きなタイプの町だった。観光客もそれほど多くなく、町は手ごろな大きさで、良い宿もある。近くには見所も多く、エーゲ海に面した町クシャダス、古い町並みが残る山間の村シリンジェへは共にバスで30分だし、エフェスという遺跡へは歩いて行ける距離だ。

 まず最初に向かったのは古代ローマ時代の遺跡、エフェスだ。ローマ劇場や数々の神殿など保存状態が良いものが多い。これまで見てきた遺跡などとはまったく違う文化のもので、オレはここで改めて「遠くまで来たもんだ」と実感した。
 そんなことを感じさせてくれたエフェスだったが、遺跡そのものよりも遺跡までの道の方が印象に残っている。
 クシャダスからエフェスへと続く道は長い直線の一本道で、その片側には遺跡のある小高い丘が、もう一方側にはキレイに花が咲いている花畑が続いていた。初夏の日差しの中、草の緑と花の白や黄色がまぶしく、そして鮮やかに輝いている。道路を通る車はほとんどなく、老人を乗せたトラクターが悠々と走る。その傍らでは農作業をする老婆。のんびりとした、平和な時間が流れていた。

 翌日は午前中にシリンジェ村へ行き、午後はクシャダスへ向かった。いよいよオレタチお目当てのエーゲ海だ。しかしこの日はあいにくの天気で、小雨が降ったり止んだり。それでもオレタチは「一目エーゲ海を見よう」と曇り空の下ビーチを目指す。
 この町で最も人が集まる「レディースビーチ」へ行くことにしたオレタチは、トルコでは「ドルムシュ」と呼ばれるバンタイプの乗合タクシーに乗り込む。もちろんこのドルムシュで行けるはずだったのだが・・・、誤解なのか間違いなのか、とにかく目的地にはたどり着かなかった。いかにもオレタチらしい・・・。適当な場所で車を降りたが、そこもオレタチにはお似合いの場所だった。
 誰もいないビーチに、いかにもローカルなバー、そして気の良いおっちゃん。オレタチはタイでは「シンハ」だが、トルコでは「エフェス」とビールは決まっていた。曇り空の下、閑散としたビーチで昼からビールを飲みただ海を見つめる・・・。あの時と同じだ・・・。2年前のタイと、同じシチュエーション・・・。
 しかしオレの心の中は、2年前とはまったく違う。旅に出たオレ・・・。ただ・・・、旅に出なかったナグの心中は、オレには量るすべもなかった。

 オレタチが1番楽しみにしていたエーゲ海はこんな天気で残念だったが、それでも高台から見下ろしたエーゲ海はこれまでに見たことのない色を発していた。晴れていたらどんなにきれいだっただろう・・・。

 ナグは実質5日間という限られた時間しかなかったため、時間を無駄にしないために行き同様に帰りも夜行バスで車中泊をし、イスタンブールへ戻る。
 再び市内観光をさせてもらい、おいしい食事と酒を楽しませてもらう。たった5日のためによくもこんな遠くまで来てくれたものだ。オランダのアムステルダム経由というかなりの遠回りの便で時間もかかるし、いつもの東南アジアの旅と違って時差ボケもある。たいへんだったことだろう。オレはこの男には本当に感謝している。

 オレタチは深夜眠い目を擦りながら空港へ向かった。あっという間の5日間だった。

 今だからここに書くが、実は8ヶ月前つまりオレが旅に出て1週間目にタイでナグと会った時、オレはナグを空港まで送っていかなかった。その時は1人旅を始めたばかりで、身も心も軟弱だったオレは「別れ際」を恐れ、ナグを1人でタクシーに乗せて帰してしまった。
 しかし逆に今はどうだろう? 空港までは送って行ったものの、まるでまた明日会うかのような軽い別れ方をしてしまったような気がする。長い旅で多くの「出会い」と「別れ」を経験し、「別れ」に慣れすぎてしまったのだと思う。この両極端なオレをあいつはどう思ったのだろう?
 そのナグは最後にオレに1冊の本をプレゼントしてくれた。それには強烈なメッセージが込められていたのだが、その内容はここには書かないでおこう。とにかく
「ありがとう!」

 ナグといる間と帰った直後、ショッキングな出来事が2つあった。
 1つ目はインドネシアでお世話になったアリさんから、日本の実家へ手紙が届いたこと。妹に内容をメールしてもらうと・・・
「おかねをかしてください」
 と書かれていた。ナグといて気が紛れたが、向こうの事情はどうにせよこれにはショックだった。この旅の中で1番お世話になった人だけに・・・。こんなことがあると、日本人に良くするのも結局は「金」なのかよ。などと思ってしまう。
 そしてもう1つは、デジカメのメモリが壊れてしまったこと。パキスタンの後半と、あのイスファハーンを含めたイランの大部分、そしてトルコの東部の写真が・・・! 心にはしっかりと焼きついてはいるのだが・・・。あーー! やっぱオレはイランとは相性悪かった・・・。


エフェスの遺跡



73.次のルートは?      2004 5/16(トルコ)

 オレはイスタンブールから先のルートに悩んでいた。東欧へ行こうか? 中東へ行こうか? どちらにせよ両方へ行くつもりなのだが、どちらへ先に行った方が良いのかを考えていた。インドを出た時からずっと悩んでいたのだが、結局出した答えは単純な理由によるものだった。
「暑い所へ行こう」
 オレは南へ、つまりシリアへ向かうことにした。まずはシリアのビザを取らなければならない。が、ちょうど週末で領事館は休み、イスタンブールに居るのはもう充分だったし、物価の高いこの町での土日の2日間をムダに感じたオレは、首都アンカラの大使館でシリアビザを取ることにした。
 だがこれが間違いだった。アンカラのシリア大使館には100人を超すと思われるトルコ人が詰め掛けていたのだ! 順番待ちだけで2日かかってしまった。しかも、ビザを取るために提出する書類がトルコ語とアラビア語のみだったり、銀行へ行って手数料を振り込んだりと、外国人旅行者にとっては難易度の高いものだった。しかし、ここはトルコだ。いつでも、どこでも、誰かが助けてくれる。そして助けられたうえに手続きは外国人優先。他の人たちはさらに時間がかかったのか・・・、みんなごめんねー。
 「ビザ取り以外に行く必要はない町」と旅行者に言われているアンカラは、意外にも良い所だった。完全に欧米化したイスタンブールとは違う雰囲気で、人もツーリスト擦れしていなく、坂の多い町の景色もきれいだった。

 アンカラの次は奇岩石で有名なカッパドキアへ向かった。キノコのような形をした石灰岩をくり抜き、岩の中に教会や家、地下都市まで作って生活をしていた村だ。
 カッパドキア
 今までに見たことのない類の所だっただけに、これは凄いと思った。やはり自然が創り出したものはスケールが違う。ただ、あまりにも観光地化しすぎたこの村自体は、あまり好きにはなれなかった。それに、もういい加減トルコの物価の高さから逃げ出したかったため、オレは足早にシリア国境の町アンタクヤへ移動した。

 トルコ最後の町となったアンタクヤで、宿代と明日のバス代を残し買い物をした。オレはどの国の通貨も、なるべくその国にいるうちに全部使い果たすようにしている。
 だがやはりどうしても小銭が残ってしまった。その金で買えそうな物は、量り売りの物をほんの少し分けてもらう程度という金額だった。クルミを買おうと思い、店の主人に金を見せ
「この分だけ頂だい」
 と身振り手振りで伝えると、店のオジサンはクルミを袋に詰めてくれた。クルミは何回か買ったことがあったので手持ちの金額で買える量は分かっていたのだが、明らかにそれよりも多い量を入れてくれている。
「さすがトルコ人はやさしいな」
 などと思っていると、どうやらオジサンはオレが貧しくてこれだけしか金がないものだと思い込んだらしい。
「金はいらない」
 と言うではないか。
「いやいや違うから」
 何とか金を渡そうとしたが、彼は受け取らなかった。
 ありがたくクルミをいただき、次に八百屋でキュウリの1本くらいは買えるだろうと行ってみると、今度はトマトまでおまけしてくれた。トルコ人は最初から最後まで本当に良い人たちばかりだった。泣けてくる。
「ありがとー!! トルコのみんな」

   
アンカラの風景 / カッパドキアの奇岩群



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