アラビアンワールド!
〈中東編〉
シリア(14ヶ国目) 2004/5/16-25
レバノン(15ヶ国目) 5/25-27
シリア 5/27(経由)
ヨルダン(16ヶ国目) 5/27-6/3
エジプト(17ヶ国目) 6/3-27
74.アラブの空気 2004 5/19(シリア)
オレがシリアに対して持っていたイメージは「砂漠」「遺跡」「イスラム」、これくらいのものだった。次に行く予定のヨルダンにしてもそうだ。オレは中東の国のことを良く知らない。まさに未知なる国への旅で、半年以上も旅を続けていくらか旅慣れたオレではあるが、久しぶりに興奮していた。
トルコからバスで国境を越え、シリアへ入国する。バスから見る風景は思っていたような砂漠でも、イランやトルコのような岩山でもなかった。標高の高い場所が多いトルコからシリアへ向けて下っていくと、高台を走るバスからシリアの風景が眼下にひろがる。金色に輝く麦畑が一面に広がり、点在する丘も緑にあふれている。まったく予想外の光景だった。そしてさらにバスは走って市街地へ入ってくると・・・、街はこれまた意外なほど良く整備されて緑が多く、商業的にも発展している印象を受けた。
イメージ的にはイランに似ている。黒いチャドルをまとった女性が多く、アラビア文字とペルシア文字が似ていることもあるためだろう。そして肝心の人間はというと、今までのところはトルコのように、いやそれ以上に良い人が多い。物価は安く、食事はトルコと比べてしまうとイマイチだが、甘いものは種類が豊富でおいしい。オレとは逆に中東を北上して来た旅行者に「シリアは良かった」という話をよく聞いたが、オレもすぐに好きになった。
シリアで最初の町はアレッポ。ここは古代より栄えていた町で、今でも旧市街にその面影を残している。町は外敵の侵入を防ぐために迷路のように道が入り組んでいて、歩いていて楽しかった。ただ歩いているだけでも庶民の生活に触れることができ、出会った誰もが親切に接してくれたからだ。
そして街は食べ物、香辛料、香水、水タバコの香りが入り混じり、これまでのどの国とも違った匂いだ。
「これがアラブの空気か」
そんな空気を感じながら、「スーク」と呼ばれる屋根に覆われた市場を歩いていった。スークには絨毯、金銀製品をはじめ衣料品から日用雑貨、食料品までが売られている。道の両側に店が並んだ狭いスークを荷馬車ならぬ荷ロバが歩く光景は、いかにも中東といった感じだ。屋根に覆われたスークの中は薄暗く、空気の乾燥しているこの地方ではこの日陰だけでかなり気温が下がって気持ちが良い。屋根には一定間隔をおいて天窓が配置されているのだが、そこから差し込む太陽の光がスークに光のすじを描き、庶民の生活の市場であるはずのスークはまるで荘厳なモスクのような表情を見せる。
長いスークを抜けると、外の光とともに岩山にそびえ建つアレッポ城が目に飛び込んでくる。工事中なのが残念だったが、バンコクで作ったニセの学生証でディスカウントされ、城内を見てまわった。情報によると、これから先このカードが力を発揮する場面が多いそうだ。
シリアやヨルダンという国は国土がそれほど広くなく、東部は砂漠地帯で町などは少ない。したがって旅行者は西側に集中した町を移動することになり、その移動は短時間ですむ。道もバスも悪くないし、その点は楽だ。そのため多くの旅行者は気に入った町に宿泊し、そこから日帰りで観光をしている。そんな拠点の1つがハマだ。
古い水車が今も残っている町で、町中に水路が流れ大小さまざまな水車が回っている。町も小さく旅行者もそれほど多くないが、密かな人気がある所だと聞いていた。特にこの町の「リヤドホテル」という安宿が中東で最高だという噂も、このあたりを旅しているバックパッカーの間では有名な話だ。オレも期待してここへ来てみた。たしかにシングルやツインの部屋は最高だ。部屋は清潔だし、シャワー、エアコンにテレビまで付いている。値段から考えてもたしかに最高といえなくもない。ただ、オレのいるドミトリーはたしかに良いことは良いがランクは下がる。そういえばこんな情報もあった。
「リヤドホテルが最高なのはシングルとツインの部屋なので、1人の人はシェアする相手を探しましょう」
今回初めて感じたことではないが、やはり2人で旅をしているとなにかと便利だ。部屋代はツインの方が安くつくし、タクシーも2人なら半額だ。2人で1つ持っていれば良い荷物もあるし、食事もいろいろと食べられる。それにやはり何といっても会話ができることが大きいだろう。オレも最近ナグと一緒だっただけに、このことは良く分かる。
そのハマからオレは日帰りでクラック・デ・シュバリエという古城へ行ってきた。ここはかつて十字軍が建てた城で、軍事上の重要拠点だった。宮崎駿アニメ『天空の城ラピュタ』のモデルともされている城だ。城の中はまさにラピュタ。コケやツタが壁を這い、破壊にあった廃墟の城。
ここはもともと観光客が多い場所ではないのだが、城が多くの部屋に分かれているために観光客も分散し、よけいにひと気がない感じがする所だ。まわりに誰もいない廃墟を1人で観光していると、不思議な気分になった。「孤独感」「儚さ」「寂しさ」、そんなものから「廃墟の美しさ」を感じたのだ。「孤独感」「儚さ」「寂しさ」というマイナスイメージのものから、「美」というプラスイメージのものが生まれた。まさに『平家物語』の冒頭のような美しさに通じる。
旅に出るといろいろと新しい発見があるものだ。
などと1人で哲学者気どりだったオレは、ある男に現実へ引き戻された。それもいやーな現実に・・・。
オレとこの男以外誰もいない城の部屋で、男はこう言う。
「I love Japanese. Show me your peni○. 」
「はぁあっ??」
「Show me your pe○is. Please ! 」
出たっ! 中東はホモが多いと評判だが、オレはここまで運良くそれをすり抜けて来た。マレーシアではホモに襲われかけたオレだっただけに中東では心配していたが、ついに現れた!
「Please show me. 」
「Only look. 」
男は続けて言っていたが、オレは「No. 」とそれを軽くあしらった。
「もー! 寄るな!! あっち行け! ラピュタが台無しじゃねーか!!」
アレッポ城 / 迷路のような旧市街
75.遺跡と人 2004 5/25(シリア)
中東には古代遺跡が多く残っている。その中でも特に有名なのがシリアのパルミラ、レバノンのバールベック、ヨルダンのぺトラだ。
オレは水車の町ハマから、そのパルミラの遺跡へ向かった。
パルミラはシリアの東部にひろがる砂漠の真ん中にある。バスから見た砂漠は、今までパキスタンやイランで見てきた岩山や石の多い礫砂漠ではなく、日本人が「砂漠」と聞いてイメージするような、文字通り砂の砂漠だ。右を見ても左を見ても、砂の地平線が延々と続いている。そしてオレを乗せたバスが走る砂漠の1本道は果てしなく直線だ。標識にはこうある。「↑Iraq 」このままこの道を行けばイラクへ行けるのだ。確かにこの道を通る車は軍用車が多いし、道からはずれた砂漠の中には軍の駐屯地なども目にすることができる。そんな光景を目にすると安全なこの場所にいながらも、国境の向こうの緊張感が伝わってくるようだった。
そんな中を3時間走り、パルミラへ到着。ここは小さな町で、遺跡さえなければ人が寄り付かないような、砂と岩山以外何もない所だ。同じバスだった日本人2人と宿にチェックインし、「暑いから夕方行く」と言う2人を残してオレは1人で遺跡へ向かった。
これまで出会った多くの旅行者が「パルミラはたいしたことない」と言っていたが、ここを一目見てオレはこう思った。
「ぜんぜんスゴいじゃん! みんな何言ってんの? 何でこれがたいしたことないの?」
特に夕暮れ時のパルミラは絵になった。夕焼けでピンク色に染まった砂漠と遺跡が、紫色の空と絶妙なハーモニーを奏でる。夕日が西の岩山に隠れると、今度は真っ赤な空に遺跡の黒いシルエットがくっきりと浮かび上がった。はるか昔にラクダで砂漠を旅したアラブ商人のキャラバン隊も、こんな幻想的な風景を目にしていたのだろう。
とにかくパルミラは聞いていた以上に良かった。
「ラクダはらくだ〜」
と日本語でつまらないギャグを言いながらしつこくついてくるラクダ引きさえいなければなお良かったが・・・。
宿に帰って2人に話した。
「なんでこの遺跡が『たいしたことない』なんて評価になっちゃうんすかね?」
「ヒロ君は南下して来たからまだ分かんないと思うけど、この後ずっとこんなのばっかだからそのうち飽きるよ」
「俺たちは北上してきたからもう完全に飽きちゃったけどね。だからやっぱここ見てもたいしたことないって思っちゃったよ、実際ね」
確かにエジプトまで観光地の大半がこの手の古代遺跡なのだ。南から上がって来た旅行者にすれば「たいしたことない」のかもしれない。これを聞いてオレも納得した。
が、逆に考えればこれからもっとスゴいのがいっぱい出てくるわけだ! こりゃ楽しみだ。
パルミラの次は首都のダマスカスだ。まずここに来て驚いたのは、町の北にある急勾配な岩山にへばりつくように家が建っていることだった。遠くから見るとまるで岩に黒いコケが生えているように見え、この異様な光景を初めて見た時は「気持ち悪い」と思ってしまったほどだった。
だがそれは夜になり家々に明かりが灯ると、全く違う光景になる。真っ黒な急斜面の中に四角い光の群れが現れるのだ。まるでSF映画に出てきそうな夜景だった。
ダマスカスでの2日目、宿の日本人みんなでその岩山に登ることになった。オレと同じ宿には5人の日本人が泊っていたのだが、5人がそれぞれ他の4人と前にどこかで一度会っていた。つまり5人全員が知り合いだったのだが、その5人が集まったのはここが初めて。この地域を旅している旅行者はほぼルートが同じなので、このようなおもしろいことが起こるのだ。
山から街の夜景を見ようと、夕方岩山へ向かった。ヒッチハイクで山の途中まで車で登る。急勾配で登るのは大変そうに思えたが、住宅地の階段なども使って意外とすんなり頂上へ。そしてタイミング良く日は落ちた。
ダマスカスの街は、いくつもあるモスクの尖塔が緑色にライトアップされていた。しばらくするとその緑色の尖塔からアザーンが流れる。
「アッラーアクバル、アッラーアクバル、アッラーアクバル・・・・・・」
いかにもアラブの夕暮れ。子供のころ、5時のチャイムが鳴ると「家に帰らなければならない」「もう遊びの時間はおしまい」と悲しい気分になったが、夕方のアザーンもそれに似ている・・・。
「さあ、お家に帰らなきゃ」
と、オレたちも山を下りた。
ダマスカスの見所といえば、旧市街にある世界一古いモスクである「ウマイヤドモスク」とその周辺のスークなのだが、どちらもいかにも中東といった感じでなかなか雰囲気のある所だった。歩いていておもしろいし、居心地も良い。そんな町だった。
ダマスカスから日帰りでボスラへ行って来た。ボスラもまた古代遺跡なのだが、ここは他の遺跡と違って遺跡の中に家を建て、人が住んでしまっている遺跡なのだ。つまり町と遺跡がごちゃ混ぜになっている。それがおもしろいと思い行ってみたのだが、ここが良かったのはそんな遺跡よりも「人」だった。
シリアはどこの町でも人が良く、シャイ(紅茶)やアラブコーヒーなどを何度もご馳走になったのだが、このボスラの人たちは特別に良い人ばかりだった。1、2時間で帰るつもりだったのだが、いろいろな所でシャイにコーヒー、昼食に夕食まで食べさせてくれ、結局帰りは夜になってしまった。
特に20人家族というメッサルさん一家には本当にお世話になった。
オレが遺跡と民家が共存している地域を観光している時だった。道端に2人の老人が座っているのが目に入り、挨拶をした。
「アッサラームアレイクム」
老人たちはオレを手まねきして呼ぶと、ここへ座れと地面をたたく。ひとりがポットに入ったアラブコーヒーをカップに注いでくれ、オレに差し出す。英語を話せない彼らは終始無言だったが、オレをもてなしてくれていることは感じとれる。
しばらくすると近くの家から人が出てきて、英語でオレに話しかけた。
「この老人は私の父親です。あなたは日本人ですか?」
このメッサルさんとしばらく話したあと、家の中へ招待された。家の外観は土壁でできた粗末なものに見えたが、中はすばらしい家だった。大勢の家族もオレを笑顔で迎えてくれ、子供たちもみなかわいかった。イスラム教徒なのでしかたがないが、女性たちが別の部屋へ行ってしまったのが残念だ。
そのうち食事まで出してもらった。シリアの食事はあまりバリエーションがないのだが家庭料理は別らしく、久々にいろいろな料理を食べた。そして食事をしながらいろいろなことも話した。イラクを攻めたアメリカのこと。テロのこと。イスラム教のこと。日本のこと。
こんな人の良い国シリアを、アメリカはテロ支援国家と指定している・・・。もっとも民間人レベルと国家レベルとでは次元が違う話ではあるが・・・。だが、戦争で被害を受けるのはこんな人の良い、ごく普通の市民なのだ。それだけはまぎれもない事実だ。
夜になりメッサルさんはオレをバス停まで送ってくれ、オレはダマスカスへと戻った。帰りのバスの中で、オレは久々にいろいろなことを考えていた。
パルミラにて / メッサルさんの子どもたち
76.何も知らないオレ 2004 5/27(レバノン)
シリアの次はヨルダンへ行くつもりだった。だがオレは寄り道をしてレバノンのベイルートへ向かった。人から話を聞いているうちに、レバノンへ行きたくなったのだ。オレの悪い癖かも知れないが、旅なんてこんなものだ。
ベイルートは聞いていたように中東とは思えない街並みだった。まるでヨーロッパだ。おしゃれなカフェやレストランが多く、地中海沿いの道路は外国人ツーリストを含め様々な人でにぎわっていた。ムスリムの格好をした人がいるかと思えば、体のラインをおもいっきり強調した若い女性もいる。アラブ系、ユダヤ系の人はもちろん、南米、フィリピン、アフリカと、いろいろな国から働きに来ている人がいる。オレはここのように多くの人や文化が混ざっている所が好きなのだ。
レバノンは無料ビザでの滞在が3日間と限られているため、宿をとってすぐにビブロスという「世界最古の町」とされている遺跡へ行った。世界最古の町という歴史的価値のわりに遺跡は全くおもしろくなかったが、地中海の海岸近くにあるここからの風景は良かった。港とビーチにも行ったが、海はまさにマリンブルーといった感じのキレイな青だった。
そのビブロスからベイルートへの帰り、オレは宿から少し離れた所で乗合タクシーを降ろされた。たいした距離ではなかったので宿まで歩くことにしたのだが、その間の街並みはこれまでに目にしたベイルートとは違うものだった。オレはその風景を目にし、ある事実を思い出した。
崩れた家や銃痕が残る建物・・・。レバノンは少し前まで内戦をしていたのだ。ここへは予定を変えて来ることにしたため、何も調べずに来てしまった。オレはこの光景を見るまで内戦のことに気付かなかった。しかもその傷跡が今も残っていようとは・・・。後で知ったのだが、宿の周辺のしゃれた高級な店が建ち並ぶエリアは最も戦闘が激しかった地域で、その廃墟を再開発したものだそうだ。何も知らずに来たのは少しうかつだったと思う。中には今でも治安のあまり良くないエリアもあるそうなのだ。オレはこのことで1つの決断をした。
「イスラエルへ行くのはやめよう」
実はこのレバノン同様、イスラエルにも行きたくなっていた。特にダマスカスで一緒だった日本人5人のうちの3人がイスラエルへ向かって旅立っていったので、オレもその影響を受けていた。しかしイスラエルはここ以上に複雑だし、危険もあるかも知れない。何も知らないオレは行くべきではない。そう思ったのだ。オレはイスラエルやパレスチナの紛争、歴史、宗教についてあまりにも無知すぎる。それらを知った上で行くのであれば良い経験になるとは思うのだが・・・。
翌日はレバノン観光のメイン、バールベックへ行った。前に「遺跡もそのうち飽きる」と言われたが、トルコのエフェスに始まり、パルミラ、ボスラ、ビブロス、と5つ目のここで早くもそれが分かってしまった。スゴいものでも同じようなものばかり見ているとやはり飽きてしまうし、何より感覚が鈍る。感動のスイッチが入りにくくなるのだ。頭ではスゴいものだと判断できても、心でスゴいと感じることができなくなってしまう・・・。
しかし幸運なことに、その入りにくいスイッチがオンになる出来事があった。遺跡内の神殿にいる時のことだった。欧米人の団体客に出くわしたのだが、しばらくして彼らは歌を歌いだした。よく分からなかったが、ゴスペルソングなのだろうか? どことなく宗教的な響きのある合唱だった。その合唱は神殿に反響し、遺跡の雰囲気も手伝いすばらしいものになったのだ! 本当に純粋に感動した。
内戦の傷跡 / ヨーロッパのような街並
77.好きになれませんでした 2004 6/2(ヨルダン)
オレはレバノンのベイルートからヨルダンのアンマンへ向かった。一度シリアへ戻り、ダマスカスでバスを乗り換えるのだが、1日に2つの国境を越えたのは初めてだ。
アンマンではバスで一緒になった外国人旅行者たちと部屋をシェアすることになった。カナダ人のジョンとノルウェー人のマイケル、韓国人でニックネームがバンダという女の娘、そしてオレの4人。
オレたちは宿に部屋をとると、夕食へ出かけた。何気なく入ったレストランだったが、後で日本人に聞いてそこが有名な「イラク人レストラン」だったことを知った。この時はそのことを知らなかったオレたち4人。しかしジョンが店員と話をしていて、その店員がイラクから逃れてきたということを聞いた。
「戦争になってヨルダンに来たわけじゃない。戦争にならなくてもあの国には未来はないんだ。戦争に負けて、フセインがいなくなったからイラクも良くなるかもな。でも帰れるのはまだずっと先のことだろうね」
・・・・・・オレたち4人には返す言葉がなかった。韓国こそ厳密には北朝鮮と休戦中ということにはなっているが実際は危機感などないだろうし、カナダもノルウェーも日本も平和そのものだ。平和な国から来たオレたちとイラクから来た人たち・・・。
オレはイラクの人の話を聞いて、イランで会ったアフガン人のことを思い出していた。あの時も何も言ってあげられなかった・・・。
宿に帰ってから、4人でマジメな話をした。戦争について、宗教について、中東について・・・。旅をしていていくらか英語もマシになってきたオレだったが、難しい話になるとまったくついていけなかった。英語力も情けなかったが、仮に英語が理解できたとしても話にはついていけなかっただろう。中東の紛争については知識がなさすぎる。改めて平和ボケした日本人を恥じた夜になった。
こんなんじゃイスラエルに行かなくて正解だったな・・・。
翌日、気を取り直してアンマンの町を歩いたオレは、久々に熱くなった。アンマンの街に活気があったからだ。イランあたりからずっと活気のない町ばかりだったため、すぐにこの町を気に入った。しかし、飽きっぽいオレはそれもすぐに飽きてしまった。街の風景、売っているもの、食事、文化、すべてがシリアと同じだったからだ。国境を越えたのに何の変化も見つけられない。なのにヨルダンの人間はシリアのように良い人ばかりではなかった。ここまで似たような国なのにどうして人間はこんなに違うのかと思うほどだ。
数時間街をぶらついて宿へ帰ると、バンダが「宿を移るので一緒に行かないか」と言う。彼女はカワイかったし、同じアジア人だからだろう、ジョンやマイケルよりも気が合った。オレは喜んで彼女と宿探しに出た。何軒かあたったが、さすが金にきびしい韓国人、いくら交渉しても「Yes 」とは言わなかった。そのうちオレはそんな彼女にウンザリしてしまい・・・
「オレ、アンマンで有名な日本人宿を知ってるからそこに行くよ」
と残し、彼女と別れてしまった。一応「一緒に行く?」と誘ったが、「日本人宿は汚いから」と断られた。たしかに汚いけどね・・・、そんなにハッキリ言わなくても・・・。
その「有名な日本人宿」とは「クリフホテル」という名の宿だ。オレが行くと、この宿の名物男サーマルが対応してくれた。
「ベッドは空いていない」
しかたがなくオレは近くにある安宿に部屋をとった。
この町に来た初日はバンダたちに誘われて他の宿に泊まったが、オレはアンマンではクリフと決めていた。日本人が多いからという理由もあったし、有名な日本人宿に泊まりたいということもあった。さらには宿と同じく有名な、サーマルに会いたいという理由もあったが、何といっても情報ノートの存在が大きかった。
多くの人がこのクリフホテルからイラクを目指していて、1ヶ月前にイラクで人質となってしまい無事解放された3人組のうちの一人もここに滞在していた。そのタカトウさんの書き込みがクリフの情報ノートには残されているのだ。
オレはそれを読ませてもらうために、再びクリフを訪れた。
ノートにはやはりイラク関連の書き込みが多い。情報はもちろんだったが、「イラクへ行くこと」に対しての賛成意見、反対意見が熱く書き込まれていた。そしてタカトウさんの文章も。
オレはそれらを読んで頭が混乱してきた。賛成意見も反対意見も、その両方が正しいと思えたし、間違っているとも思えた。
「答えなどないのではないか? それが『戦争』なのではないか?」
もう・・・、考えるのはイヤになってしまった・・・。
アンマンからは死海へ出かけた。ここは海抜−400mという世界一の低地にある湖だ。塩分が強すぎるこの湖では生物が生きていけないため、死海という名前になったそうだ。そしてこのミネラルたっぷりの湖の「泥」は美容に良いと有名で、「泥パック」はここが元祖らしい。
死海のビーチ沿いにはレストハウスや温泉があり、普通はそこで泳ぐのだが・・・、オレはその手前でバスを降ろされてしまった。どうやらポリスのチェックポストがあったため、運転手は外国人のオレが乗っていると面倒だと思ったようだ。ここからリゾートエリアへは歩くと30分ほどだ。オレは暑い中を歩きたくなかったので、そこまで行かずにバスを降りた近くで泳ぐことにした。
しかし、これが間違いだった・・・。道路から死海へは歩いてすぐの距離だったのだが、その短い湖までの道で、オレは野犬3匹と闘うことになってしまったのだ! オレは犬が好きだが、野犬は別だ。旅をしていて1番怖いものは、強盗でもテロでもマラリアでもコレラでもなく、狂犬病なのだ。オレは石を投げ、棒を拾い威嚇する。しばらくすると、暑さでイヤになったのか、犬たちは木陰へと逃げて行った。
しかし、一難去ってまた一難。この区域は遊泳区域ではなかったらしく、湖へ着く50m手前から泥沼になっていた。足が埋まって歩くのが一苦労だ。しかも波打ち際では泥を採取して化粧品の原料とするのだろう、ショベルカーが作業をしていて泳ぐような場所ではない。だからと言ってリゾートエリアまでこの泥沼を歩いて行くのは骨が折れる。
オレは作業をしている場所から死角になった所を見つけ、その誰もいない湖で泳いだ。死海を独り占めだ。塩分が濃いのでプカプカと体が浮きおもしろかった。美肌効果のある泥も塗ってみるとあっという間にスベスベになるのが分かる。1人だったがそんなこんなで楽しめた。
いろいろとあったが、さらに問題が発生! それは帰りの足だった。1時間待ってもバスが来ないのだ。後で知ったが、行きは午前中、帰りは夕方しかバスはなかった。しかたがなくヒッチハイクをしたが、なかなか止まってくれない。そのうち行きに出くわした犬たちが、道の反対側でまた吠えだした。犬は怖いし、暑いし、車は止まってくれない。オレはかなりまいってきてしまった。
そのうち1人のヨルダン人がオレの近くでヒッチを始めた。すると、なんと1台目で止まったではないか! 行き先が同じだったためオレも乗せてもらったが、これまで通り過ぎた車は外国人だからという理由で止まらなかったようだ。まったくヨルダン人め・・・。
アンマンの次はヨルダン観光のハイライト、ぺトラだ。今だに謎が多いこの遺跡は、ヨルダン随一の観光地とあって遺跡内はもちろん町の人間も、宿の人間も、まともな金額では物を売ってくれない。ぺトラへ行くバスにしてもそうで、ぺトラより遠い町へ行くバスの2倍以上の料金なのだ。そしてこのように金が絡んでくると、ろくな人間がいないように思えてしまってくる・・・。とにかくぺトラ遺跡のある町、ワディムーサはどこもかしこも最悪だった。
ぺトラは映画『インディージョーンズ』の撮影にも使われた有名な遺跡だ。
両側が垂直に切り立った岩の切れ目を30分歩くと、巨大な岩の神殿「エルカズネ」が現れる。岩の間からその姿が初めて見える瞬間が、ここでの最高感動ポイントだ。そこに遺跡があると分かっていてもこの感動なのだから、ペトラを発見した人物はどれだけ驚いたことだろうか?
このエルカズネから始まる岩窟神殿群はすごいスケールで、それらが並んでいる風景を岩山の上から見ると迫力があった。ペトラは間違いなくスゴい所だ。
しかし、オレはすでに遺跡に飽きてしまっていたし、あまりにも広すぎて坂も多い遺跡に疲れきってしまった。そして当然暑いし、かといって飲みものは法外な値段でしか売られていない。土産売りやラクダ引き、タカリもうるさいし、そのうえ入場料はとんでもなく高い。遺跡そのものはスゴかったが、そんなものでかなりイメージダウンしてしまった。
どうもヨルダンの人間は好きになれない・・・。
これからエジプトへ行くわけだが、ヨルダンにもの足りなさを感じたオレはエジプトへの中継地であるアカバという町で1泊してみることにした。町はさびれたリゾートといった感じなのだが、海はきれいだった。それに紅海の対岸にイスラエルとエジプトが見えるのもおもしろい。
明日はいよいよ船で紅海を渡りそのエジプトへ。紅海のきれいなビーチに、砂漠に、遺跡、ピラミッド。そしてアジアのような熱さがカイロにはあるそうだ。エジプトには期待大!!
死海に浮く / ペトラ遺跡への道
78.告白 2004 6/9(エジプト)
ヨルダンのアカバからフェリーに乗り、紅海を渡ってエジプトへ入る。紅海という名前はどんな由来でついたのだろう? 当然紅海は紅色ではなく、真っ青! キレイなブルーの光を放っていた。そんな紅海を航海するフェリーの甲板で、顔見知りに会った。トモヒロくんだ。彼とはカッパドキア、ダマスカス、ペトラで3回出会っている。この地域を旅していると、ルートが同じ旅行者と何度も会うことがよくあった。
3時間ほどでエジプトへ到着。このヌエバという港町からダハブというビーチリゾートへ行くのだが、ヌエバのバスターミナルが分かりにくい所にあった。何人もの人に道を聞いたが、みな違うことを言う。事前に悪い噂は聞いていたが、このように皆でグルになって最終バスに乗り遅れさせ、料金の高いタクシーに乗せようとウソを言っているのだ。南から来た旅行者にエジプト人は最悪だと聞いていたが、オレも一発で嫌いになってしまった。
彼らエジプト人を信用しなかったおかげで、無事バスターミナルを発見。そして向かったダハブ。ここは紅海に面したビーチリゾートで、ダイビングやシュノーケリングが楽しめる。ダイバーにとって紅海は世界3大ダイブポイントとして有名らしく、ダハブにも長期滞在のダイバーが大勢いた。周辺を砂漠に囲まれた海なので、この海に流れ込む川がない。つまり川から汚い水が流れこまないこの海は、透明度が信じられないほど高いのだ!
ダハブはダイバーでなくても最高に居心地の良い町だった。ビーチがあること、海がきれいなこと、物価が安いこと、そして何より日本人が集まっていたことがあり、ダハブには1週間の滞在となった。移動型の旅人であるオレにとっては長い方だ。ダマスカスで一緒だった5人全員もここに集まっていたため、毎日楽しくすごすことができた。
ここにいる間に2回シュノーケリングをした。以前にもマレーシアのランカウイでシュノーケリングをしたことがあったが、それとは全く別物だ。最高の透明度を誇る透き通った海。そこを泳ぐと、まるで空を飛んでいるような錯覚さえ覚える。10m近い深さの海底までもクッキリ見ることができ、そこはきれいなサンゴが。そこをさまざまな大きさ、姿、色の魚が泳いでいる。ナポレオンフィッシュという大物にも遭遇した。陸の上には絶対にありえない美しい世界を見て、思わずダイビングのライセンスを取ろうかと考えたほどだった。
ダハブのもう一つの楽しみ方といえばビーチでただボーっとすること。何時間も何日間もビーチ沿いのレストランのソファで寝転がり、パラソルの日陰で涼しい風にあたりながらビールを飲む。何も考えずに海を眺めたり、仲間たちと話をしたり。最高に贅沢な時間だった。できることならここにずっといたいくらいだ。
何も考えていない昼間とは対象的に、宿では毎晩考え事をしていた。それはエジプトの後のルートについてだ。カイロでエアチケットを買うつもりなので、カイロまで到着する前にどこへ飛ぶのかを決めておきたかった。
イスタンブールから南下を始めた時点ではカイロからギリシャのアテネへ飛び、ヨーロッパをまわろうと思っていたのだが、迷いが生じたのだ。それはどのような迷いか・・・? それは「東南アジアへ帰ろうか?」というものだ。
今さらの告白なのだが、オレは地球を一周したい! 旅に出る時は「目的地はないよ」などと言っていたが、本当は初めから地球一周を考えていたのだ。ところが、どうも思い返してみるとイランあたりから「楽しさ」という最も重要なものが欠けていたように感じる。特に中東ではそうだった。そしてヨーロッパや南米にもその予感がある・・・。それならばいっそのこと東南アジアへ帰ろうかと思ったのだ。
いったい何を優先すべきなのか? 地球一周という「目的」なのか? 水の合う東南アジアの「楽しさ」なのか? どちらにしても今のところ「日本へ帰る」という選択肢は頭にない。まだまだこのままでは終われない・・・。このままでは帰れない・・・。
ダハブのビーチでまったり / メチャクチャきれいな海
79.熱いカイロ 2004 6/18(エジプト)
カイロからどこへ飛ぶのか? 結論の出ないままオレはダハブを発った。カイロに着いて早速航空券を探すと、幸いにもカイロには日本人スタッフがいるため評判の良い旅行会社があった。そのエジトラブのマリアム・ヨーコさんは評判通りの人だった。話好きな彼女と4時間以上も話しこんでしまったのだが、マリアムさんの話を聞いていてオレは思った。
「やはり人生楽しく生きなきゃ」
旅も同じだ。そう考えるとやはり東南アジアへ帰ろうかとも思ったが、どうも決断できなかった。帰ってしまったらもう一度ここまで来ることはできないのだ。それに帰ることはいつでもできる。今でなくても・・・。
そしてオレがカイロにいる間に考えて出した答えはこうだ。予定通りアテネへ行く。その後チェコのプラハまで行き、そこから新たな大陸、北米か中米へ飛ぶ。しかしプラハへたどり着くまで間にアジアへ帰りたくなったら、途中でイスタンブールへ引き返そうと思う。もしもそうなったらイスタンブールからバンコクあたりにでも飛ぼう。
オレのように長期の貧乏旅行で世界の広い地域を旅していると、航空券をどこで買ってどこへ飛ぶかということが大きな問題になってくるのだ。当然、航空券が安く手に入る都市からフライトすることになるのだが、この辺りだとカイロ、プラハ、イスタンブールがそれにあたる。そのためこのようなルートがベストだと考えた。
とにかく、オレはカイロからアテネへ飛ぶ航空券をここで買った。
カイロには噂通りの「熱さ」があった。この街にはアジアのような喧騒があるのだ。
オレはそんなカイロの街を歩いていて久々に楽しくなった。ダハブの楽しさとは別の、旅の初めの頃に感じていたような楽しさだ。やはりこれだ! こうでなくては! オレは喧騒や雑踏が好きなのだ。アラブ圏で初めての、いやアラブ圏で唯一の大都会に熱くなり、ここにも1週間以上滞在してしまった。ダハブといいカイロといい期待以上の場所だった。
カイロでの宿はサファリホテルという有名な日本人宿だ。オレのようにアジア、中東はもちろんアフリカを北上してきた人や、ヨーロッパや南米から飛んできた人など、世界中を旅している人が集まり、長期滞在者も多い。旅を始めた当初は避けてきた日本人宿だが、いつの頃からか落ち着くようになってきた。そしてあれほど否定していた「沈没」すら理解できるようになっている。いやむしろ
「オレ自身どこかで沈没してしまうのではないか?」
という怖ささえ感じているほどだ・・・。
が、今のところはまだかろうじて大丈夫。カイロでもいろいろな場所を観光した。
まずなんといっても最初に行きたくなるのはギザの3大ピラミッドだろう。オレはカイロに着いた翌日、早速マツモトさんと2人でギザへ向かった。
マツモトさんとはシリアのアレッポ、ダマスカスで一緒になり、ダハブでも長い時間を共にすごした仲だ。彼はオレよりも1日早くカイロに来ていた。
暑い中で観光することを避け、3時ころに宿を出た。「あわよくば夕日のピラミッドも見たい」というのも目的だった。乗合タクシーを乗り継ぎギザへ。カイロの広い街を走ること1時間弱。意外な光景が目に飛び込んできた。ピラミッドだ!
「ピラミッドは砂漠にある」あたりまえのように思っていた。カイロの街を離れた砂漠の真ん中にあるのだと思っていた。しかしピラミッドは街中の、ビルの合間から顔をのぞかせたのだ!
「こんな街の近くにあるなんて・・・」
オレたちが驚いていると、ドライバーがここで降りろと声をかけた。
乗合タクシーを降り10分も歩くと、ギザの3大ピラミッドがある遺跡地区の入口だ。ここからもその雄大な姿を見ることができる。感動の瞬間だ! 入口からピラミッドまではまだ相当な距離があるのだが、その巨大な謎の建造物はものスゴイ存在感を放っていた。その傍らにはスフィンクスが。
「ち、ちっちゃい・・・」
オレとマツモトさんは声をそろえた。
想像以上のスケールだったピラミッドに対して、スフィンクスはかなり小さい。もしかしたらピラミッドの迫力に負けてしまってそのように感じるだけなのかもしれないが、とにかくスフィンクスにはガッカリだ。しかも、そのスフィンクスから道を隔てて50mの所には、ケンタとピザハットが・・・。これじゃ古代ロマンも何もないじゃん・・・。
と言っておきながらオレたちは、冷房の効いたケンタで時間をつぶすことになった。暑いからと考え夕方ここへ来たわけだが、それが失敗だった。すでに入場時間が終わっていたのだ・・・。せめて夕日を見て帰ろうと、それまでケンタで待つことにした。スフィンクスを眺めながらコーラ1杯で長い時間粘る。
しかし残念ながらこの日の夕日はそれほどキレイではなかった・・・。
翌日、気を取り直して今度はトモヒロくんと2人でギザへ。彼とも何度となく会ったり別れたりを繰り返していたが、カイロで合流していた。
今回は昼間に行き、昨日のリベンジを果たす。高台にあるピラミッド目指し、遺跡の入口から砂漠の上り坂を歩いた。暑かったが、それを忘れるほどの「ワクワク」があった。こんなことは久しぶりだ。そして砂の丘を登りきると、3つのピラミッドが間近に迫った。その外観には圧倒された! ご存じの通りピラミッドは四角い石を積み重ねて造られているわけだが、そのたった1つの石でさえもオレの背よりもデカいのだ! そのスケールの巨大さは圧巻だ。
「さすがはピラミッド!!」
と期待を膨らませ、オレたちは高い金を払ってクフ王のピラミッド内部へ入場した。暗く、狭く、急な階段を昇っていくと、最高に興奮した!
ところが、そのメイン通路から枝分かれした何本かの通路は鍵がかかっていて進めない。メイン通路もしばらくして突きあたり、「王の間 」が姿をあらわすのだが、そこにはただ空っぽの石の棺があるだけ。何の見どころもない。
「オレは今、あのピラミッドの中にいるんだ」
そう考えればスゴイ経験なのかもしれないが、さすがにこの何もなさは「この旅最大の期待はずれ」と言えなくもなかった・・・。
そしてそこにいたのは、ただ無駄にしつこくて、ただ無駄にうるさいエジプト人の管理人だけだった・・・。彼はオレたちが日本人だと分かるとこう連呼した
「ヤマモトヤマ! ヤマモトヤマ!! ヤマモトヤマ!!!・・・・・・・・・」
どうでも良いが古すぎる・・・。
その次の日にはマツモトさんとカイロ動物園へ出かけた。カイロを流れるナイル川。そこに生息するナイルワニが目当てだった。この動物園にはかなりデカイ奴がいるそうだ。
カイロから列車で数駅、そこからバスに乗り換える。オレたちが駅を出てバスを探していると、大学を発見。
「こりゃ大学行ってみるしかないでしょ!」
てなことになった。バンコクではよく大学に潜入して学食でメシを食べたし、いろいろな国で小学校に勝手入り、子供たちと遊んでいたオレ。ここでもカワイイ女の子とでも知り合いになろうというノリだった。エジプト人は美人が多い。マツモト隊長もテンションアップだ。
しかし門には守衛が立っていて、学生たちは学生証を見せて中に入っていた。オレたちは一か八か、ニセの国際学生証を手に突破を試みる。そしてみごとに阻止された・・・。あたりまえか。
しょうがなく動物園へ。
園内は人がいっぱいだった。しかし肝心の動物はあまりいない・・・。動物を見ている人もあまりいない・・・。ここへは家族や恋人とピクニックに来るようだ。動物のオリよりも芝生の方に人が集まり、シートを敷いてお弁当を食べているのだ。
そしてオレたちに気づくと、
「変な外国人が来たーっ!」
と子供たちが群がってくる。そしてそれにつられて大人までも。
結局、この動物園で1番の注目を集めている動物は、オレとマツモトさんだった・・・。
日本人宿では相変わらずみんなグータラな生活だった。オレも人のことは言えないが、それでもまだマシな方だったと思っている。そんな仲間たちは誰もオレの観光になど付き合ってくれず・・・、それからは1人で街を歩いた。
カイロで最大規模をほこるモハメッドアリーモスクと周辺の旧市街。土産物屋がひしめくハンハリーリ。階段ピラミッドのあるサッカーラ。巨大なラムセスU世立像があるメンフィス。多くの王のミイラと、ツタンカーメンの黄金のマスクが有名な考古学博物館。
どこも良かった。カイロはおもしろい! エジプト文明はすばらしい!
イスラム都市カイロ / カイロといえばピラミッド
80.ナイルの遺跡 2004 6/25(エジプト)
10日後にアテネへ飛ぶチケットを手配し、上エジプトと呼ばれるナイル川の上流、つまりエジプト南部へ遺跡を見に行った。カイロから列車で13時間かけて、一気にエジプト最南端のアスワンへ。列車はナイル川に沿って南下していく。遠くには何もない砂漠が果てしなく見えているのだが、ナイルの近くには緑があふれ、町もそんな川沿いに集中していた。おそらく4000年前エジプトに文明が興った時から変わらないスタイルなのだろう。
アスワンに着いたのは夜だった。にもかかわらず、街はにぎやかだ。「エジプト人は意外と、夜まで出歩いているんだな」などと思っていたが、そうではない。翌日になってその理由を身をもって知ることとなった。この時期はエジプトが最も暑くなる季節の少し手前。とにかく最南部のこの地域は激しく暑いのだ!! 昼の気温はゆうに40度を超えている。それで旅行者はもちろん地元の人でさえ昼間は出歩けないというわけ。昼の町はまるでゴーストタウンのように閑散としていた。夜になると人々が活動を始めるのだが、それで社会が成り立っているのには驚きだ。
そんな灼熱のアスワンの夜を、汗ダクになりながら宿まで歩く。そしてドミトリーにチェックイン。しかしとてもじゃないが暑くて室内にはいられなかった。宿の前の道端で宿のオーナーの息子と、この宿の長期滞在者の日本人と3人で夕涼み。
しばらくすると、宿から知った顔が出てきた。マツモトさんだ。
「あれっ? ルクソールに行ったんじゃなかったっけ?」
「行ったけど暑すぎてさー、観光もしないでアスワンまで来ちゃった・・・」
「へーそうだったんすか。でもさー、暑いって南に来たらもっと暑いじゃん!」
「だよねー。だと思ったんだよ。暑いよね。オレなんかエアコン付きの部屋に泊まっちゃってるよ」
この人はいつもこんな感じなのだ。一見なにも考えていない風の感じの良いアニキだ。
結局オレも暑さに耐えきれなくなり、エアコンのあるマツモトさんの部屋に転がり込んだ。
翌朝、マツモトさんと一緒にアスワンからツアーに参加し、アブシンベル神殿へ行った。巨大な一枚岩を掘って造った岩窟神殿だ。すばらしい遺跡なのだが、アスワンハイダムの建設にともない湖の底に水没してしまうことになったこの神殿は、ユネスコによって今の場所に移設された。「よくもまあこんな巨大なものを動かしたな」と感心するしかないような世紀の大プロジェクトだ。実際に神殿を見てみると、そのスゴさが良く分かった。もっとも、動かしたという現代の技術もスゴイいが、これを造った何千年も前の技術も信じられない。内部のライトアップに少しヤリすぎ感はあるが、さすがエジプトの古代遺跡といった感じだ。
アスワンの次はナイルをカイロ方向へ戻りルクソールへ。ここには多くの神殿と、王家の谷に代表される多くの墓が残されている。ナイルを境界として、日の出ずる東岸は「生の世界」、日の沈む西岸は「死の世界」だ。駅を含め、町は「生の世界」である東岸にある。もちろん宿も東岸にあり、こちら側の観光は歩いて半日。そして王家の谷のある「死の世界」の観光は、レンタサイクルでほぼ1日だ。これがまさにオレにとっても「死の世界」だった。この灼熱の太陽の下を自転車で走るのだから・・・。
何とかミイラになる前にその「死の世界」にある主な遺跡を走破した。
スゴかった所はやはり有名なハトシェプスト神殿と、王家の谷だ。特に王家の谷にある王の墓はすばらしいものだった。相変わらず貧乏旅行のオレは、別料金のツタンカーメンの墓には入れなかったが、何ヵ所か入った名前も知らない王の墓でさえも鳥肌ものだった!
極限まで乾燥した砂漠地帯の地下に隠されていた王の墓は、ほとんど劣化することなく現代までその姿を保っている。それがここの凄さの1番の要因だろう。壁画は鮮やかな赤や金で塗られ、ヒエログリフと呼ばれる古代エジプト文字のデザインもカッコイイ。「映画に出てきそうな地底の迷宮」そんな感じだった。
夕方、「死の世界」からナイルを渡り「生の世界」へと生還。そこでオレを待っていたのはライトアップされてオレンジに輝くカルナック神殿だった。昼間のカルナック神殿も良かったが、夜はサイコーだった! 「こんな中で神官たちは神の言葉を聞いたのか」と何千年も昔のことを思い浮かべる。ここではそれが容易に想像でき得るのだ。そんな雰囲気を持った場所などそうそうあるものではない。ここに最盛期を迎えたエジプト文明の、そしてオレのエジプトの旅の総決算のような風景だった。
アブシンベルもルクソールも、遺跡としてのレベルは世界でもトップクラスだと思う。今まで多くの遺跡を見てきたが、スケールの大きさといい、保存状態の良さといい、これほどのもの他になかったと言ってもいいだろう。
しかし遺跡は良かったのだが、この暑さとエジプト人にはまいってしまった。どこの国でもそうなのだが田舎の観光地というものは町の人間ほとんどがツーリスト擦れしてしまっていて、オレたち観光客の目からすれば悪人ぞろいということになってしまう。今までのどこにも増して、ここの人間は最悪だった。
そしてこの暑さ。カイロにいた時、これからアフリカを南下するという人に何人か会ったが、つまりもっと暑いということだよな・・・。暑いのは得意のオレでさえここより暑いのなんてムリだ! オレには行けそうにない・・・。
その後、ハルガダという町のビーチでのんびりしようと思っていたのだが、カイロに戻ることにした。
中東をトルコからここまで南下してくる間に、マツモトさんやトモヒロくんをはじめ何人もの日本人と知り合ったのだが、みなほぼ同じペースでカイロまで来ていた。出会ったり別れたりしながら進んできたみんなが、カイロで集まったというわけだ。そのうちの何人かが次の国へフライトすることになっていたため、最後に彼らに会いたくなってカイロへ戻ったのだ。
中東で出会った仲間たちは、パキスタンやアフリカ、タイや日本へとバラバラに散ることになった。この先でも会えそうなのは、チェコのプラハへ飛び東欧をまわるというトモヒロくんと、オレと一緒にアテネへ飛ぶことになったマツモトさんくらいだ。またひとつの旅が終わる・・・。
そして彼らに別れを言い、オレはナイルの河口の町、アレキサンドリアへ向かった。
アレキサンドリアは地中海に面したエジプト第2の都市だ。建物、公園などはヨーロッパ調、おしゃれな店も多く、エジプトではないような所だった。「次に行くギリシャもこんな所なのだろうか?」そんなことを考えながらビーチでぼんやりしていたが、残念ながらここの海はきれいではなかった。
今日再びカイロへ戻り、明後日の早朝にはアテネだ。街はもうオリンピック一色なのだろう・・・。
エジプト文明の壁画 / 夜のルクソール神殿