ユーロのはしっこ
〈東ヨーロッパ編〉
ギリシャ(18ヶ国目) 2004/6/27-30
ブルガリア(19ヶ国目) 6/30-7/5
ルーマニア(20ヶ国目) 7/5-11
ハンガリー(21ヶ国目) 7/11-14
スロヴァキア(22ヶ国目) 7/14-16
オーストリア(23ヶ国目) 7/15
チェコ(24ヶ国目) 7/16-22
ドイツ(25ヶ国目) 7/22
81.オリンピックは? 2004 6/30(ギリシャ)
たったの2時間で世界は完全に変わった・・・。
飛行機を使ったのだから当然といえばそれまでなのだが、それにしてもここまで何もかもが変わってしまうのもおもしろいものだ。移動したのはたったの1000km。東京から沖縄にも満たない距離なのだ。エジプトのカイロとギリシャのアテネ。アフリカとヨーロッパ。途上国と先進国。この世はまったく平等ではない・・・。
カイロからアテネへはマツモトさんと一緒に来たのだが、ここに着いて2人してこの変化ぶりに戸惑ってしまった。とにかく街並みが変わり、きれいになり、宗教が変わり、人が変わり、食べ物が変わり、物価が上がり・・・。
そして何よりもヨーロッパの「寂しさ」というものを感じた。日曜の早朝ということもありアテネの街は人影も少なく、あの喧噪のカイロから来たオレたちにはまるで死んだ街のようにさえ思えた。オリンピックに向けて街も活気づいているのかと想像していたのだが・・・。
アテネに着いてまずそのオリンピックのメイン会場へ行ってみた。だがスタジアムもその周辺も、最寄りの駅でさえ工事中だった。あと1ヶ月ほどで開幕だというのにこんな状態で大丈夫なのだろうか? そして工事はスタジアムのみではなく、街のいたる所で行われていた。残念なことにアテネの象徴であるパルテノン神殿までも工事中だったのだ。オレはアクロポリスの丘には登ったものの、工事中の神殿へは入るのをやめてしまった。
見所が多いようで意外と少ないアテネには、物価の高さも考えると長居はしたくなかった。オレは1泊だけして1人で次の町へ行くことにした。マツモトさんはアテネに残ったが、ブルガリアのソフィアでまた会えるだろう。
オレはアテネからブルガリアへ向かう途中、テッサロニキという町に寄っていくことにした。物価の高いヨーロッパでは宿代をうかすために夜行列車での移動が有効なのだが、アテネからブルガリアのソフィアまでは夜行で2回分の距離があり、テッサロニキで中継ついでに観光をと考えたのだ。つまりアテネから夜行列車に乗って翌朝テッサロニキへ、朝から夕方まで観光をしたその夜の夜行列車でソフィアへ、という強行日程だ。
テッサロニキには世界遺産にもなっている有名な教会が3つあるのだが、どこもたいしたことがなく街並みもアテネと変わらない町だった。海沿いにはおしゃれなレストランやカフェが続いていて、良く整備されたきれいな公園が多い。夜行列車で寝不足ぎみだったオレはそこで気持ち良く昼寝をしていたのだが、目を覚まして周りを見まわした瞬間、ヨーロッパがこれまで旅してきた地域とは決定的に違うあることに気が付いた。それは「人々がオレに対して無関心」だということだ。思い返してみれば、ギリシャに来てこの3日間、地元の人から声をかけられたことがない。ヨーロッパだからということではなく先進国だからということなのだろうか? オレがヨーロッパに感じていた寂しさは単に「人間が少ない」だとか、「活気がない」だとかではなく、「人と接する機会が少ない」ということが理由だったのかもしれない。ヨーロッパをまわる間は旅のスタイルも変わってしまうだろう。これまでのような人と交わる旅ではない別の旅に。
建設中のオリンピック会場 / 修復作業中のパルテノン神殿
82.東 2004 7/11(ブルガリア、ルーマニア)
テッサロニキから再び夜行列車に乗り、ブルガリアの首都ソフィアを目指す。
深夜国境に到着すると、列車は乗客のパスポートチェックのために停車。国境の職員が車両をまわり、1人1人のパスポートにスタンプを押していく。オレと同じ車両だった韓国人はあれこれと質問された後、ようやくスタンプを押してもらっていた。
「こりゃオレも油断できないな」
と構えていたが、その悪い予感は当たってしまった・・・。オレは列車を降りるように言われ、駅にある事務所へ連れて行かれた。最初にいくつか質問をされ、そのまま長時間待たされる。この間、特にオレのパスポートを調べている様子もなく、荷物を調べるでもなく、質問を続けるでもない。何とも不自然な時間だった。そして結局はそのまま列車に戻される・・・。
「いったい何だったんだろう?」
オレの予想はこうだ。東欧では国境で日本人旅行者からワイロをせびったりすることが多々あるらしい。彼らもオレから金を巻き上げようとしたのだが、同じ部屋に上司がいたためにそれができなかったのではないか? その上司が部屋を出るのを待っていたのではないか? そう考えるほかこの不可解な時間の説明がつかない・・・。
ブルガリアへ入国し、翌朝ソフィアに到着した。街はギリシャに似た雰囲気だったが、どことなくアジアの面影を感じなくもない。街を歩いてまず驚いたのは酒の安さだった。500mlの缶ビールが0、5レヴァ(約35円)なのだ! これは同じ量のミネラルウォーターよりも安いことになる。今まであれだけ物価の安いアジアや中東を旅してきたにもかかわらず、1番酒の安い国がヨーロッパにあったとは驚きだった。その安さもあってか、街中で昼間からビールやワインを飲んでいるブルガリア人。当然オレもそのマネをすることになった。あくまでも節約のために・・・。
ソフィアで泊っていたのはビキという老婆が経営している「ホテルビキ」。宿泊客の多くは日本人で、トルコで1度会っている写真家のシンジさんともここで再会した。翌日には1日遅れでソフィアに到着したマツモトさんと合流し、その次の日にはトモヒロくんもやって来た。彼はカイロからチェコのプラハへ飛び、東欧を南下するルートをとっていた。アテネから北上のオレたちとはどこかで会うだろうと思っていたが、こんなに早く会うとは思ってもいなかった。
それともう1人印象に残っているメンバーは、バイクで世界一周を目指しているタカハシさんだ。彼は南米から旅を始め、アフリカ、ヨーロッパを走破してきたらしい。彼に聞く南米の話や、見せてもらった南米の写真に心が熱くなった。東欧の次は中南米へ向かう予定のオレにとって、その刺激的な内容はたまらなかった。一時は中南米へ行くのをやめようかとも考えたが、これで一気に期待が高まった。
そして・・・、そんなオレ以上にタカハシさんの話に聞き入っていたのがマツモトさんだ。マツモトさんはドイツで働きたいという目標を持って、旅をしながらドイツを目指している。タカハシさんは旅の途中で資金が底をつき、フランスとドイツで働いていたらしい。そんなこともあって彼らはいろいろと話をしていた。
とにかくここで一緒だった旅行者はみな気の合うおもしろい人たちだった。ソフィアは特に見どころがあるという所ではなかったが、宿も街も居心地は良かった。これは完全に長居してしまうパターンだ。酒は安いが基本的に物価はそれほど安くはないので、早く抜け出さなくてはならない。しかしこの時サッカーの欧州選手権が行われていたので、TVのあるこの宿で決勝戦を待ちたかった。そして決勝。サッカー好きなみんなで熱くTV観戦。特に盛り上がっていたのは、なぜかブラジルのユニフォームを着たフランス人と、母国が決勝まで進んでテンションMAXのギリシャの女の娘。と、オレかな?
欧州選手権がギリシャの衝撃的な初優勝で幕を下ろしたその翌日、オレ、マツモトさん、トモヒロくんの3人でルーマニアのブカレストへ向かった。
「旧共産圏の国々はダークなイメージの街が多く、特にブカレストはひどい」
と悪い評判があったが、たしかにそのような地域はあるものの、中東などに比べればぜんぜん良かったし、若者たちにも垢ぬけたイメージを受けた。21世紀になり、「東」も「西」も「赤」も「白」もなくなったのだろうか?
その「東」の時代に、あのチャウセスクが建てた巨大な建物群がブカレストにはある。その光景には圧倒された。まさに独裁政権の賜物といった感じだ。そんな共産時代のルーマニア国民は厳しい生活を強いられていたそうだが、今の明るい彼らからは全く想像できない。東欧で唯一のラテン民族であるルーマニア人は、明るくてノリも良いのだ。久々にオレは思った。
「やはり重要なのは人なのだ」
ブカレストの次に向かったのは、「ブラン城」という古城のあるブラショフ。この城は『吸血鬼ドラキュラ』のモデルとなったヴラド・ツェペシュという人物の、その祖父が建てた城で「ドラキュラの居城」のモデルとされた。城自体はまあまあだったが、肝心のドラキュラを感じさせるものは何もなく、その点はつまらなかった。
そして次に行ったのはシギショアラという小さな町。ここもドラキュラゆかりの地で、ヴラド・ツェペシュの生家がある。いかにも中世ヨーロッパという雰囲気の、古い街並みを残す田舎町なのだが、その反面どことなく日本の田舎にも似た風景が落ち着く所だった。
ブラショフ、シギショアラがなにより良かったのは街や城よりも宿だった。安宿のないヨーロッパではプライベートルーム、つまり一般家庭の一室を借りるというタイプの宿があるのだが、運良くオレたちは良い家を紹介され、3人でいたこともあって楽しい日々を過ごすことができた。
シギショアラからイスタンブールへ戻るトモヒロくんと別れ、ドイツを目指すマツモトさんと2人で夜行列車に乗る。次の目的地はハンガリーの首都、ブダペストだ。
ルーマニア共産時代の象徴、国民の館 / ドラキュラ城
83.美しいヨーロッパ 2004 7/15(ハンガリー、スロヴァキア、オーストリア)
オレとマツモトさんは、早朝のブダペストに到着した。列車を降りると1人の老婆に声をかけられた。オレたちが行こうとしていた日本人宿「へレナハウス」のオーナー、へレナだった。こんな朝早く客引きに来ているとは・・・、こんな歳なのに・・・。
ヘレナに連れられ彼女の家へ向かうオレたち。もう7月だというのにブダペストは肌寒かった。それもそのはず。地図を見てみると、もうすでに北海道よりも北まで来ているのだ。
チェックインを済ませ、オレはまずドナウ川へ行ってみた。「ドナウの真珠」と呼ばれ、世界遺産にもなっているブダペストのその街並みを、何より先に見てみたかった。しかし、そこへ辿り着くまでもなく、川へ行くまでの街並みも充分にすばらしいものだった。そしてその美しい建物の間を抜けて行くと急に視界が開ける。そこには息をのむような光景がひろがっていた。ドナウ川に出たのだ。対岸には城や教会、レンガ造りの家々が建ち並び、すばらしい彫刻の施された橋がいくつか見える。そこを流れるドナウは実に静かだ。
これまで東欧をまわっていてどうもイマイチだと感じることが多かったのだが、ここに来てやっと東欧らしい中世的な美しい風景というものに出会い、初めて東欧のすばらしさを感じた気がした。オレと逆ルートを辿って来た人から聞く話では、ウィーンやプラハはもっとスゴいらしい。どうやら期待できそうだ。
ところで、マツモトさんはヨーロッパで働きたいという目標を持って旅をしている人だ。特にドイツかスペインで働きたいそうだ。オレはこの旅にそのような明確な目標は持っていないため、常々そんな彼を尊敬し、羨ましいとも思い、そして「本物の旅人」だとも思っている。
そんな目的でとりあえずドイツへ向かっていた彼だったが、中米のグァテマラという国でスペイン語が安く学べるという話を聞き、さらにヘレナハウスで会った南米から来た人には「中南米は良かった」と聞かされ、行き先をドイツからグァテマラに変更することにしたようだ。ソフィアで一緒だったタカハシさんの話にも影響されていたのだろう。このところ一緒にいて、彼が考え込んでいる姿をよく見ていた。
ということはつまり、航空券が安く手に入るチェコのプラハからメキシコへ飛ぶことになり、それはオレと同じルートだということになる。彼とは長いつき合いになりそうだ。
しかしマツモトさんがそれを決心した時点で、オレはすでにスロヴァキア行きのバスチケットを買ってしまっていた。プラハで再会することにして、オレは一足先にスロヴァキアのブラチスラヴァへ向かった。
ブラチスラヴァは首都とは思えないほどの小さな町だった。そしてどことなくガラが悪く、暗いイメージだ。そのくせ物価は高い・・・。来る前からその話は聞いていたし、この国にもこの町にも興味はなかったのだが、ここに来たのには理由があった。ブダペストからウィーンを経由してプラハへ向かうよりも、一度ここへ来てここからウィーンに日帰りし、そしてここからプラハへ行く方が断然安かったのだ。しかもこの町では、夏休みの期間中限定で大学の学生寮に安く泊まることができるのだ。ちょうど今は夏休み中。タイミングが良かった。
ブラチスラヴァからオーストリアのウィーンへはバスでたったの1時間半。ウィーンはやはり凄かった。まるで街全体が美術館か博物館かといった感じだ。雰囲気も今までのような「東」的なものではなく「西」的なもので、ついでに物価も「西」になってしまっていた。ジュース500mlが1,5ユーロ(約210円)、タバコ3ユーロ(約390円)〜。もうオレには手が出ない。本当はイタリアやスペインにも行きたいのだが・・・。それはまた今度、金に余裕がある時だ。
街中どこを見ても美しいウィーンだったが、なにか大きなイベントでもあるのだろうか? オリンピック前のアテネがそうだったように、街じゅうの多くの建物が工事中だった。それは残念だったが、それでもウィーンの美しさ、すばらしさは感じることができた。
ブダペストの国会議事堂 / ブダペストの街並
84.なぜかミュンヘン 2004 7/22(チェコ、ドイツ)
ドイツ、ミュンヘン。こんな所に来るつもりはまったくなかった・・・。
スロヴァキアからチェコへ入ったのは6日前のことだ。プラハに着いてまずしなければならないことがあった。それはエアチケットを取ること。ここプラハからメキシコへフライトする予定なので、すぐにでも航空券を探さなければならない。物価の高いチェコの滞在を1日でも短縮したいのだ。しかもこの日は金曜日、明日、明後日と代理店は休みになってしまう。オレは宿にチェックインすると、すぐに代理店へ向かった。
1軒目の店は最悪だった。東欧の国々ではどこへ行っても愛想がないし対応は悪い。特に列車やバスのチケットカウンターでは腹立たしいことも多かった。そしてこの代理店でもそうだった。その対応の悪さに加え、安いと聞いていたプラハ発のエアチケットがそれほど安くなく、しかもどの便も8月中旬まで満席だということだったため、今までずっとツイていたこの旅の運も、ついにここで尽きてしまったかと思った。
最悪イスタンブールまで戻ろうかなどと考えながら2軒目へ行ってみるがやはり満席・・・。だが、この店の女の子は珍しく笑顔で良い応対をしてくれた。いろいろと探してもらうと、ドイツのミュンヘン発なら安いチケットがあるとのことだった。出発まで1週間近くもあり、しかもドイツまで移動しなければならないが、もう選択の余地はない。オレはもしも行けるようなら一緒に行こうと思い、とにかくマツモトさんを待つことにした。
そして彼に会えたのは翌日の夕方だった。後で来るものだと思い込み、待っていたつもりだったのだが、なんとオレよりも先にプラハに来ていた。連絡がうまく取れていればもっと早く会えていたのに・・・。彼も旅行代理店を何軒かまわり、良いチケットが見つからなくて困っていたところだった。オレが事の次第を説明し、2人で他の方法も考えたが、やはり5日後のミュンヘン発、455ユーロ(約6万円)で妥協せざるをえなかった。
翌日、日曜だったが観光ついでに代理店へ行ってみた。するとラッキーなことに営業していたのだ。オレたちはメキシコシティ行きのチケットを手に入れた。前回に続き、またしても同じ飛行機に乗ることになった。
プラハの街はウィーン同様に、どこを見ても絵になるようなきれいな所だ。中でも特にモルダウ川に架かるカレル橋から見る王宮は、東欧のラストを飾るにふさわしい眺めだった。東欧はどうもつまらなく、人も良くないし、物価も高いのだが、そんなものを帳消しにしてくれるのはこのような美しい町並みなのだ。
そしてもう1つはビール。チェコは世界一のビール消費国で、「ピルスナー」は世界一おいしいといわれている。たしかにピルスナーは味が濃くておいしかった!
プラハを観光してもまだ時間は余っていた。オレたちはチェスキークルムロフという、古い町並みが世界遺産になっている田舎町へ行くことにした。ここは時間が余ったために行ったのだが、このように「時間つぶしに偶然行った所」が良い所だったというパターンは今までにも何回かあった。この町もまさにそれで、森の中を蛇行しながらゆっくりとモルダウが流れ、緑が多くてのんびりできるような雰囲気の良い町だった。
チェスキークルムロフからミュンヘンへ向かうため、中継地のプルゼニュへ向かった。ここがピルスナービール発祥の地で、ビール工場でビールが飲める。そこで飲んだ出来たてのピルスナーは最高だった。
しかし1つ誤算が。プルゼニュからミュンヘンまでの列車が、たいした距離ではないのに50ユーロ(約6500円)もしたのだ。だがもうエアチケットも取ってしまったし、しかたがない・・・。泣く泣く高いチケットを買いミュンヘンへ向かったのだった。
翌朝ミュンヘンに到着して、オレは1人で街を見て歩いた。マツモトさんは眠いからと言って先に空港へ行ってしまったが、フライトまではまだ12時間もある。オレも夜行列車ではほとんど眠れなかったが、せっかく来たのにもったいない。
といっても目当てはまたしてもビールだ。あと、ついでにウィンナー。そしてここでまたしてもビックリ! ここで飲んだ「ヴァイスビール」はピルスナーの数段上の味だったのだ! これは世界一だ! ビールの概念が根底から覆ったといっても過言ではない!!
次はメキシコで「コロナ」と「テキーラ」か・・・。
プラハの路上パフォーマー / プルゼニュのビール工場でピルスナーを