一番遠い大陸
〈南米編〉


コロンビア(30ヶ国目) 2004/9/6-18
エクアドル(31ヶ国目) 9/18-26
ペルー(32ヶ国目) 9/26-10/14
ボリビア(33ヶ国目) 10/14-25
アルゼンチン(34ヶ国目) 10/25-30
パラグアイ(35ヶ国目) 10/31-11/4
ブラジル(36ヶ国目) 11/4(通過のみ)
アルゼンチン 11/4-20
チリ(37ヶ国目) 11/20-12/13






92.3Cの2つめ
     2004 9/14(コロンビア)

 オレとケイスケくんはコスタリカよりコロンビアの首都ボゴタに到着した。ついに南米だ!
 オレたちはボゴタの空港でケイスケくんの昔からの友人と合流することになっていた。彼はNYに住んでいて、ケイスケくんの旅に合わせてコロンビアまで遊びに来たのだ。空港でうまく彼に会え、挨拶を交わす。バンコクとイスタンブールにナグが来てくれたことを考えると、彼らの再会もそれに似た感動があったはずだ。

 3人で宿に向かってバスに乗ったのだが「どこで降りれば良いのか?」と周りの人に尋ねているうちに、3人の大学生が宿まで案内してくれることになった。アジアなどを旅をしているとこの程度のことはよくあるのだが、最近東欧や中米を旅していて地元の人とのふれあいが少なかったため、久々に良い人たちに出会った気がした。
 実際コロンビアの人は良い人が多かった。さすがは明るいラテン系が多いだけのことはある。コロンビアと聞くと麻薬やゲリラといったマイナスのイメージが強いだけに、少々意外な感じはしたが。やはり人が良い国というのは旅がしやすい。

 ボゴタはかなり広い町で、そして都会だ。「発展していないわりに物価の高い」中米とは逆に、「発展していて物価が安い」といううれしい環境だ。そしてこの街で印象に残っている一番のもの。それは女性だ!
 中南米で美人が多いのは「3C」あるいは「ABC」だといわれている。「3C」というのはCで始まる3ヶ国で、コスタリカ、コロンビア、チリ。「ABC」というのは、アルゼンチン、コロンビア、ブラジルの頭文字だ。つまりその両方に入っているコロンビアは最強なのかもしれない。それほどコロンビアには美人が多いのだ。スペイン系の白人の人口比率が多いため、特にそう感じるのかもしれない。確かに「3C」も「ABC」も、中南米の中では白人比率が高い国だ。欧米系の女性はあまり好みではないオレでさえ、コロンビア美人にはかなり惹かれるものがあった。街を歩いているだけで楽しくなる。
 ちなみにコスタリカは「まったく話が違うじゃないか!」という結果だった。アルゼンチン、チリ、ブラジルにも期待しておこう。

 ボゴタは街を歩いていて楽しかったが、さすがは治安が悪いといわれるだけのことはあって、夜はイヤな感じだった。バスの中から見ただけだったが、昼間でも行きたくないような地域もある。スラムと呼べるようなそこにはコンクリート造りの長屋が並び、目つきの鋭い男たちが道端にぐったりと座り込んでいる。バスの中にいても緊張感が走ったほどだ。
 オレは一度、そんな治安の悪い地域へ知らずに入ってしまったことがある。街の繁華街を歩いていて何気なく横道にそれたのだが、いかにもガラの悪い男たちが4,5人、道の両側に立っていた。ビールの空きビンや、ゴミがちらかり、道の雰囲気もガラっと変わった。「これはマズイ」と思ったが、引き返せば彼らを逆に刺激してしまいそうな気がした。この道はそれほど長くなく、道を抜ければ繁華街に戻れる。走るのもマズイと思い、オレは早歩きでそこを抜けた。
 中米も決して治安が良いとはいえなかったが、これからはさらに気を付けなければならない。
 移動にしてもそうだ。特にここコロンビアではバスがゲリラに襲われることもあるらしい。土日が危険だそうだ。この場合はゲリラではなくサラリーマン強盗。普段サラリーマンをしている人が週末だけ強盗になって武装し、バスを狙う・・・。オレたち旅行者にとってはまったくもって迷惑な話だ。

 ボゴタでは宿で一緒だった日本人たちとカジノへ何回か通った。「ブラックジャック」で勝負だ。
 コロンビアのカジノは掛金が小さく、庶民でも気軽に入ることができる。東欧でもカジノはあったが、ドレスコードがあったりして、貧乏旅行者には敷居が高い場所だった。しかしここのカジノは買い物帰りの近所のおばちゃんなんかもよく見かけるような、日本でいうところのパチンコのような感覚だ。それにディーラーたちも陽気に話しかけてくる。さすがラテン・・・。
 勝負は小さく勝ったり負けたりをくりかえしていたが、最後の日に大きく勝ってトータル1万ペソのプラス。それでもたったの500円。やっぱ庶民の遊び場だ。

 この町は特に観光する所もないのだが、1週間の滞在になった。理由は・・・。
 実は日本の祖父が倒れてしまったからだ。ボゴタに着いた翌日にネットカフェでメールを読んでそのことを知らされた。その時点では「危ないかも」というような状況だった・・・。手術もしたのだが、病状の推移を見守る必要があったのだ。もしも最悪の場合は帰国しなければならないし、ボゴタからは動けなかった。
 何日か様子をみて、日本へも初めて電話を入れた。そして「峠は越えた」という話に一安心。
 それでも迷いはあった。
「こんな時に呑気に旅なんかしてていいのだろうか?」
「帰って見舞ってやらなくていいのだろうか?」
 旅を続けることに罪悪感はあった・・・。だが、ここはワガママを聞いてもらおう・・・。
「ゴメンね、おじいちゃん」

 そして週末強盗も会社に復帰した月曜日、オレはケイスケくんたちと別れ、カリという町へ向かった。
 ちなみに・・・。ケイスケくんの友人はコロンビアを気に入り、2ヶ月くらい住んでみると言っていた。なんとも自由なヤツだ。そしてケイスケくんにはコロンビア人の彼女ができ、来週末に2人でビーチへ旅行に行くことになったらしい。あー、うらやましい。
 オレは寂しく、そして心にモヤモヤが残ったまま移動することになった・・・。

   
ボゴタの街並



93.サルサ     2004 9/19(コロンビア、エクアドル)

 ボゴタではコロンビア人と話す機会も多かった。陽気な彼らによく話しかけられたからだ。話を聞いているとカルタへナ、メデジン、ペレイラ、カリ、この4つの町のことを良いと言う人が多かった。地図を見るとどこも近いように見えるが、南米はデカいしほとんどの観光地がアンデス山脈の山地にあるため、移動時間はかなりのものだ。オレは南下のルート上にあるカリだけに行くことにした。

 ところが、「カリ、カリエンテ(カリは熱い)」と聞いていたカリはそれほどおもしろい町ではなかった。この町には日本人宿があったため、宿のテレビでサッカーを観たり本を読んだりしている時間がほとんどだった。この分だとあとの3つの町もこんなものなのだろう。ただ単に自分の出身地や行ったことのある町のことを良く言っていただけのような気がする。

 カリに3泊してエクアドルとの国境の町イピアレスへ向かった。このカリ、イピアレス間が最もバスが襲われる危険なルートと聞いていたが、南米を南下するには避けられない道だ。
 強盗よりも崖すれすれを走るバスの方にヒヤヒヤしたが、無事イピアレスに到着した。宿を決め、街を少しぶらついて部屋に戻る。しばらくすると廊下で知っている声がした。タツヤさんだ。彼とはメキシコシティ、アンティグアで一緒だった。特にアンティグアにいた時には同じ学校に通い、よく遊びに行ったりしていた。オレとケイスケくんよりも1週間長く学校に通っていたのだが、それも終わってやはりボゴタまで飛んで来ていた。
 宿で知り合った2人のコロンビア人とオレ、タツヤさんの4人で食事に出かけた。その後ビリヤードをしたりしたのだが、この2人は楽しい良い人たちだった。翌日も町はずれにある有名な教会へ連れて行ってもらい、エクアドルへ仕事に行くというアレハンドラと3人で国境まで行った。

 エクアドルに入ってアレハンドラと別れたオレとタツヤさんは、オタバロという小さな町へ向かった。ここは先住民が多く住んでいて、彼らが作った民芸品のマーケットが有名な町だ。ここのインディヘナはこれまでに中米で会った人たちとは違った民族衣装を着ている。マントのようなポンチョに帽子。いかにもアンデスという格好だ。これが南米のインディヘナ。
 その先住民のマーケットを見ながら街のメインストリートを歩いていると、日本語の張り紙を見つけた。小さな旅行会社だったが、こんな旅行者の少ない町にこんなものがあって驚いたオレたちは中に入ってみた。そこで日本人の女性2人と知り合う。青年海外協力隊で教師として派遣されたというタカヨさんと、日本から遊びに来たというその友人だ。
 これまでにも何人か協力隊で来ている人と出会って話を聞いたが、自分にはとてもできそうにない。ボランティアには興味があるが、派遣先も選べないのに2年も日本に帰れないというのはムリだ。自分の好きな国へ行けるのであれば喜んで行きたいが・・・。しかも国を代表して税金で来ているため、行動にも制限があったりして大変だそうだ。
 その日の夜、彼女に誘われサルサディスコへ行った。中南米ではサルサやタンゴが人気で、踊れる男はモテルのだ。メキシコやグァテマラでもいたる所にサルサ教室があった。しかし、オレもサルサを見たことがあったが正直かっこいいとは思えない。このディスコでも
「こんなダンスがおもしろいのかな〜?」
 などと言いながら酒を飲んでいた。タカヨさんに誘われ一緒に踊るが、やはり自分が踊ってみると本当にかっこ悪い・・・。しかし、意外なことにこれが楽しかったのだ! やはり「踊るアホウに見るアホウ〜」というヤツだろう。それともただ単に女の娘と踊るのが楽しかっただけなのか?
 どこかで習っちゃおうかな。
 ところで、インディヘナが民族衣装を着てサルサを踊っている所というのはめったに無いらしい。この町のディスコではそれを見ることができたわけだが、どうやら貴重な体験をしたようだ。

   
イピアレスの教会 / オタバロのウィークエンドマーケット



94.赤道直下     2004 9/24(エクアドル)

 オタバロを発ったオレとタツヤさんはエクアドルの首都キトへ向かった。キトは赤道まで1時間もかからないという地点に位置しているが、2850mもの標高があるために太陽が出ていないとかなり寒い。これまでもボゴタに始まった南米の旅は標高の高い所ばかりだったが、さすがに2850mともなると空気の薄さが身にこたえる。宿の階段を上りきると、もう息は完全にあがってしまうほどだ。
 世界遺産にもなっているキトの旧市街は植民地時代の教会などが建ち、キレイな町並みだった。特に教会が建ち並ぶ広場のライトアップされた夜景はなかなかのものだ。街には店も多くて活気もあるし、思っていた以上におもしろい街だった。
 ここでも日本人宿に泊まっていたのだが、これが居心地が良かった。以前にも会って知っている人も何人かいたし、何より良かったのは日本食だった。このホテルスクレに長期滞在している元料理人のタロウさんという人が、毎日おいしい日本食を作って食べさせてくれたのだ。これは明らかに長居してしまうパターンだった。

 スクレには日本人以外の人も泊まっていた。といっても旅行者ではなく、コロンビア人の娼婦や貧しいエクアドル人という人たちだった。
 コロンビア人の娼婦たちはそれほど仕事熱心ではなく、むしろ日本人旅行者にタカって生活しているようにも見えた。まったく何やってんだか。と言いたいところだが、オレたちバックパッカーだって彼女たちとそう変わらないのかもしれない・・・。
 タバコ売りの親子は屋上で暮らしていた。この寒いキトの屋外で寝ているのだ。彼らは宿の従業員につかいを頼まれ、その小遣いとしてパンをもらって食べていた。一度タロウさんの作った料理の残りをおいしそうに食べているのを見て、何ともいえない気分になってしまった。今までどこへ行っても貧しい人々を見てきたが、ここまで身近にその生活を見たことはなかった・・・。久々に多くのことを考えた・・・。

 キトからバスで赤道へ行った。赤道記念館から引かれた赤い線にまたがり写真を撮ったりしていたのだが、実は違う場所にも線があったらしい。オレたちは「ニセモノの線を赤道だと勘違いしてしまったのか」と思ったが実はそうではなく、地球の自転にはズレがあるために赤道そのものは日々動いていて、その巾は1kmにもなるということらしい。つまり1km範囲がすべて赤道というわけだ。

 キトの南にあるリオバンバという町から、世界で唯一の屋根に乗れるパノラマ列車というものが運行されている。屋根の上で山を見ながら移動するという観光列車だ。インドでも列車の屋根に人が乗っているが、あれは屋根に乗れるのではなく、乗れない屋根に乗ってしまっているだけだ。
 この列車は週に3本しか出ていないため、オレとタツヤさんはそれに合わせてキトを出た。これがなければキトに長居してしまっただろう。
 リオバンバに1泊して列車に乗る。
 しかし、その日は2人そろって朝寝坊をしてしまった。飛び起きて寝起きのまま走って駅へ向かう。まさにギリギリ! 列車は走りだしていたが、文字通りそれに飛び乗ってなんとか間に合った。遅く来たため屋根の上はほぼ満席、走っている列車の上を渡りながら座れる場所を探した。車両の連結部分ではジャンプして向こう側へ行かなければならない。スリル満点だ! なんでこんなアクション映画みたいなことしてるんだ? オレたちは・・・。
 屋根の上から見る山の景色は良かったが、この列車でもまた考えさせられる出来事があった。欧米人の旅行者たちが列車の上から、下にいる子供たちに菓子を投げて与えていたのだ。子供たちは列車が来ると菓子が欲しくて走ってそれを追う。
 オレはそんな気には絶対になれなかった。日本人的な考え方なのかもしれないが、本当に子供たちをバカにしている行為だと思う。完全に「上から目線」ではないか! もっとも当の子供たちはそれを楽しんで喜んではいるのだが・・・。

   
赤道にて / ホテルスクレにて



95.ペルー入国     2004 9/29(エクアドル、ペルー)

 リオバンバからパノラマ列車に乗ったオレとタツヤさんはアラウシでバスに乗り換え、クエンカへ到着した。毎度のことながら南米の移動は長くて疲れてしまう。夕食を食べ終え宿に戻ると、オレたちを呼ぶ声がした。ケイスケくんだ! 彼は結局ボゴタの彼女とは別れ、南下してきたのだ。それにしても追いつくのが早い。やはり彼はオレたちに追いつくために急いでやって来たということだった。
「女よりも友情っすよ!」
 まったく調子の良いヤツだ。
 翌日3人でクエンカの街を歩いたが、世界遺産になっている旧市街もたいしておもしろくはなく、昼すぎには宿に帰ってきてしまった。部屋でトランプをして過ごす。どうも中米あたりから「観光」や「街ぶら」そして「現地の人とのふれあい」よりも「宿で日本人と過ごす」時間の方が圧倒的に多くなっている。これはイカンとは思いつつも、「楽しいからいいか」とそれにハマりつつある。
 いってみればこれが「中南米の旅のスタイル」なのかもしれない。

 その翌日にはペルーへ向けて出発することにした。クエンカからペルーへは2つのルートがあるのだが、直線的に進むと山間部を通っていくことになり、距離は短いが時間がかかってしまう。オレたちは海沿いのボーダーを越えて行くことにした。遠回りだが時間はかからないルートだ。ただこの国境のペルー側には悪人が多いので要注意、と旅行者の間で噂になっていた。特にニセ札に気を付けろと。

 結局オレたち3人は何事もなくそこを通過できたのだが、ここの国境は少しおかしかった。エクアドル側、ペルー側ともにイミグレーションが国境から3〜4km離れた所にあったのだ。つまりエクアドルのイミグレから国境、国境からペルーのイミグレまでの2区間で乗り物を使わなくてはならず、それがために悪人どもがハバを効かせている。
 オレたちは運良くエクアドル側のイミグレから国境までは地元の人の車に乗せてもらえたが、国境からペルー側のイミグレまで暑い中を歩くことになってしまった。海岸沿いのルートをとっただけあって、標高の低いこの地方はとにかく暑かった。タクシーなどもあったが、悪い噂があったために乗りたくなかったのだ。話のとおり彼らはかなりしつこく、値段もメチャクチャにふっかけてくる。お釣りも当然のようにニセ札だろう。誰がそんなタクシーなんかに乗るか!
 1時間近くも歩いてようやくイミグレへ。何事も起こらずボーダーを越えられた。
 ところが・・・。国境で何もなかったことで油断したというわけではなかったのだが、そこから最も近い町トゥンベスまで行くタクシーにやられてしまった。
 オレたちはトゥンベスからバスに乗るつもりだったのだが、このトゥンベスにはバスターミナルがない。バスは数社あるバス会社のオフィスから出発しているのだ。その何社かのオフィスをタクシーがまわってくれるということになったのだが、最後にその分の金をよこせと言い出したのだ。それもどう計算しても合わないような金額を。
 だが考えてみれば当然のことだった、オレは運転手にはもちろん腹が立ったが、こんな手にひっかかった自分たちが腹立たしくてしょうがなかった・・・。

 トゥンベスから夜行バスに乗りトルヒーヨに向かった。この町の周辺には世界遺産のチャンチャン遺跡をはじめ、多くのインカ遺跡が残っている。南米のイメージとはかけはなれているが、ペルーの沿岸部は砂漠地帯で、その砂漠の中にある遺跡はまるでエジプトのようだった。月のワカというピラミッド遺跡を見た翌日、チャンチャン遺跡へ行った。ここは今までに見てきた遺跡と比べてもかなり広いものだった。そして・・・、つまらなさもかなりのもので、オレたちはこの遺跡のメインのエリアを見ることなく帰ってしまった。「どうせ大したことないでしょ」と判断したわけだが、それでも砂漠の風景だけは楽しめたということで良しとしよう。

   
クエンカの教会 / チャンチャン遺跡にて



96.問題だらけ     2004 10/3(ペルー)

 オレたち3人はペルーの首都リマへ向かった。トルヒーヨからリマへ向かうバスは海沿いの砂漠の道を走っていく。そんな南米らしくない風景の中を走ること8時間、ようやくリマに到着した。
 リマは大きな町だが、想像していたような大都会というほどでもなかった。中南米の都市によくあるようにコロニアル調の旧市街と新市街とに分かれていて、このリマの旧市街も世界遺産に登録されている。
 その旧市街の街並みはきれいだったが、どうも中南米ではどの町も同じようなイメージになってしまう。どこもスペインの植民地だったため当たり前なのかもしれないが。変化のない街並みに早くも飽きてきてしまった。
 そんな旧市街の中心に、日本人宿の「ペンションオキナワ」がある。中南米の主な町には必ずといっていいほど日本人宿があり、オレたちのような南米を旅する旅行者は日本人宿から日本人宿へと町を移っていくことになる。そのため違う町で何度も同じ人と会うことも多く、自然と仲間は増えた。そして気の合う仲間が集まると、そのうちそこから動けなくなる。そんな環境の南米では沈没組も多かった。

 オレたちがリマで最初に行った所はチャイナタウンだ。中南米では初めての中華街だが、こんな地球の裏側にもチャイナタウンがあることに驚いた。しかし! そのチャイナタウンで事件は起きてしまった。タツヤさんのカメラが盗まれてしまったのだ! 3人で歩いている間にスラれてしまったのだが、人込みの中にいたわけでもないし、オレとケイスケくんもずっと一緒にいたのに・・・。誰も気付かなかったとは・・・。ペルーには特にスリが多いという話だが、やはりこうなってしまったかという感じだ。
 そんなことがあったからというわけではないが、リマは今までに見た町の中でも一番治安が悪いように感じた。もちろん多くの国で見たスラムなどの特殊な地域は除いての話だ。
 治安の悪さのせいで営業できなくなってしまった日本人宿まであるほどなのだ。「西海」というその宿は、客のほとんどが宿の入口で強盗の待ち伏せに遭って金などを取られてしまったという・・・。ひどい話だ。
 西海は今でも予約さえすれば食事だけは可能で、おいしい日本食を食べさせているという話を聞き、オレたちも行ってみることにした。オキナワのオーナーに電話をしてもらったが、「危ないから必ずタクシーで宿の入口まで来るように」と念を押された。
 西海に着いたが、やはりいかにも治安の悪そうな地域にあった。ベルを鳴らすと、「とにかく早く入って」と出てきた女性は過剰なほど治安の悪さを強調した。よっぽどひどい目に遭ったのだろう・・・。
 この日の食事はサシミとスキヤキだった。この旅で食べた日本食の中でも一番の味だったが、悲しい気分になってしまった。日本人なのか日系人なのか、そこまでは聞くことができなかったが、宿の婦人がいかにも辛そうで暗い表情をしていたからだ。それもそうだろう、責任だって感じてしまっているのかもしれない。オレがこんなことを言って良いのか分からないが、強盗なんかに負けないで、これからもオレたち旅行者のためにもがんばってもらいたいと思う。

 それにしてもリマに限らず中南米には治安が悪いといわれている町が多い。もちろん今まで旅してきた地域が安全だったということではないが。貧困に差別に強盗・・・。本当に日本に生まれて良かったと思うし、逆に旅に出てこのような世界を知ることができて良かったとも思う。
 ただ重要なのは「だからどうするのか?」ということではないだろうか? 問題を解決するために何かをするというのはもちろんのことだが、このような世界で生きている一旅行者として、問題を抱えている人々にどう接するのか? ということが重要だと思うのだ。
 旅をしているとそのような人と接する場面も多いのだ。その時彼らに対してどのような態度を、どのような対応をすればよいのか? オレたち旅行者の責任も重いのではないだろうか・・・。

   
夜のリマ / タツヤさんとケイスケくんとオレ



97.ナスカの地上絵! マチュピチュ!!     2004 10/10(ペルー)

 リマに4泊してオレたちはナスカへ向かった。あの有名なナスカの地上絵がある町だ。リマを出るとすぐに景色が一変した。あいかわらずの砂漠だ。ナスカもこのような砂漠地帯にあるため、何百年も前の地上絵が水に流されることなく残っている。

 ナスカに着くと多くの客引きが寄ってきた。いかにも観光地らしい光景だが、思っていたよりも街はツーリスティックでなく小さな田舎の町という感じが気に入った。
 翌朝オレたちは空港へ向かい、何軒かの会社をまわって安いセスナを探した。事前に情報を得てだいたいの相場は頭に入れていたが、やはり最初の言い値はどの会社もとんでもなく高い。粘りに粘ってようやく交渉が成立し、いよいよ空から地上絵を見る。飛行機にはもう慣れたが、セスナに乗るのは初めてだ。パイロットとオレたち3人で満席のセスナは、風にあおられ大きく揺れながら飛び立った。
 しばらくするとパイロットが下を指し「あれがクジラだ」と言っていたが、どこに絵があるのか分からない。「えっ? どこ? どこ?」3人で声をそろえたが、そのうちタツヤさんとケイスケくんはそれを見つけたらしい。オレは結局最初の絵を見逃してしまった・・・。
「次はクモだ」
「えーっ? どこー?」
「あー、あれか」
「ん? どれ?」
「おっ! 見つけた!」
 なかなか見つけられなかったわけだ。地上絵はオレが想像していたものよりもはるかに小さかった。もっと巨大なものを想像していたオレは地上全体をキャンバスとしてとらえていたため、その中の小さな絵にまで意識が届かなかったのだ。その小ささには少々がっかりしてしまったが、それでも子供の頃から憧れていたナスカの地上絵を見ることができて感動。遺跡の類に関していえば久々に感動できるものを見た。
 うずまき、滑走路、手、シャチ、サル、コンドル、ハチドリ、ガチャピ・・・、んっ! ガチャピン? 日本人にはガチャピンに見えるが宇宙飛行士だと考えられているそうだ。
 30分ほど上空にいただろうか? それでもあっという間だった。オレたちのセスナは空港へと引き返す。その帰り道、パイロットが言った
「Montana ! (山)」
 山の地上絵でもあるのかと思ったが次の瞬間、セスナの機体が急上昇した! そして今度は急降下! アクロバット飛行だ!! 山のように上がって落ちる、この技の名前が「モンターニャ」だったらしい。
 そしてオレたちは
「Otra ves ! (もう1回)」
 今までに乗ったどのジェットコースターよりも楽しい!

 滑走路に下りたオレは足がふらふらだった。モンターニャが原因ではなく、地上絵を見逃すまいと地上を凝視しながら急旋回を繰り返したため、乗り物酔いをしてしまったのだ。乗り物には強いはずのオレだったが・・・。
 そして残念だったことが1つ。デジカメの設定に失敗してしまい、写真がうまく撮れていなかったのだ。やってしまった・・・。唯一まともに映っていたのは、・・・ガチャピン・・・。

 ナスカから夜行バスで16時間も山を登り、標高3360mのクスコへ到着した。ここはインカ帝国の首都として栄えた町だ。
 南米お決まりのコロニアル調の広場に教会という街にもそろそろ飽き始めていたが、坂が多く家々が連なって見えるクスコの街はきれいだった。標高が高いために空気が薄く、高山病になる人もいるのだが、オレも初日に頭が痛くなってしまった。この体で坂と階段が多いこの街を歩くのは辛い。考えてみれば富士山の9合目あたりにいるのだ。
 3日間居心地の良い日本人宿でゆっくりして体調も良くなったところで、タツヤさん、ケイスケくんと3人でマチュピチュへ行くことにした。

 空中都市マチュピチュ。スペイン人に追われたインカ人が切り立った山の上に町を造り、そこに隠れ住んだという都市遺跡だ。下から見上げても何も見えないため、この都市遺跡は滅亡後も何百年もの間発見されずにいた。
 麓から400mの崖の上にあるマチュピチュまではツヅラ折りの道が続いている。麓の町アグアスカリエンテからマチュピチュまではバスもあるのだが、料金が4,5USドル(約500円)と高額だ。オレたちは歩いてそこを登ることにした。
 朝早起きし、1時間半かけて急な階段を上っていく。バスに乗らなかったことを多少後悔しながら・・・。そして頂上へ。マチュピチュを見る前にもうクタクタだ。入口のカフェで一休みと考えたが、これまた何もかもが激しく高い! ベンチで休憩し、遺跡へ入る。入場料はこれまでにオレが訪れた世界中の観光地の中でも、最も高額な20USドル(約2200円)! ニセ学生証で半額になったが、その10USドル(約1100円)でさえもオレたちのような貧乏旅行者にとってはキツい額なのだ。そしてそれは当然、現地の人にとっても大金もということになる。しかし、ごくごく普通の日本人や先進国の人間にとっては何でもないような金額だろう・・・。まさかこんな所で世界の格差について考えることになろうとは・・・。
 マチュピチュを一通り歩いて、次は遺跡の隣りの峰までさらに45分登る。マチュピチュの全景を上から見るためだ。細く険しい道を、ロープ頼りに登っていく。足は悲鳴をあげたが、そのかいがあった。ここからの眺めはすばらしかったのだ。インカの時代に造られた断崖絶壁の段々畑に腰をおろし、そこからの風景を楽しんだ。
 いい加減満足したところで、遺跡に戻って今度は反対側の丘へ。
「これだーーー!! これがマチュピチュだ!!!」
 そこからの風景はまさに空中都市といった感じで最高のものだった! 多くのマチュピチュの写真もここから撮られているようで、本やTV、インターネットで見たマチュピチュはまさにこの姿だった。遺跡と、その背景にひろがる急勾配な山々。そして先住民のカラフルな民族衣装。
「This is the インカ!」

 マチュピチュで有名なのが「グッバイボーイ」だ。バスの通るくねくねとしたツヅラ折りの車道と、徒歩で上り下りする人のために設けられたほぼ直線的な階段とは、何度も交差しながら上と下とをつないでいる。そのため階段を走って下りると、遠回りをしながら走っている同じバスに何度も先回りすることができるのだ。つまりバスに乗った人から見ると、「同じ子供が何回もバスの前に現れてグッバイと手を振る」という光景に出くわすことになる。こうやってチップを稼いでいるのがグッバイボーイと呼ばれている子供たちだ。
 オレとケイスケくんもグッバイボーイの1人と一緒に階段を駆け下りてみた。9才だという男の子だったのだが、信じられないような速さだった! しかもサンダル! オレたちもなんとかすべての個所でバスを先回りすることはできたが、最後の所でこの男の子は姿を消してしまった。オレたちが一緒にいるとチップがもらえないと思ったらしく、少し離れた所でバスを止めてチップをもらっていたのだ・・・。ただ早いだけではなく、ちゃっかりしているグッバイボーイ。なんとたくましいのだろう・・・。
 この日は疲れたが楽しい1日だった。

   
ナスカの地上絵 / マチュピチュを背景に



98.ティティカカ湖     2004 10/14(ペルー、ボリビア)

 マチュピチュを歩いて登ったオレたちは3人そろって足がボロボロになってしまった。クスコに戻ってからは宿で休んでいる時間がほとんどだった。こんな時にここの日本人宿「ペンションヤワタ」は最高だった。本やマンガは充実しているし、NHKも見ることができて日本のビデオまでそろっている。ここではペルーにいることを忘れてしまうほどだった。2日間ゆっくりして、ボリビア国境にあるティティカカ湖へ向かった。

 ティティカカ湖畔の町プーノに到着し、翌日のボートトリップツアーを申し込んだ。富士山頂より標高の高い所にあるティティカカ湖。その世界一標高の高い湖に浮かぶいくつかの島をめぐるものだ。オレとケイスケくんは1日ツアー、タツヤさんは2日ツアーを選んだため、タツヤさんとはここで一時別れることになった。
 ツアーの当日は前日の曇り空がウソのような快晴になってくれた。最初に行った2つの島は浮き草で作った浮島だ。浮き草を束にして何重にも重ね、半径10mほどの島を造ってその上に家を建てている。湖上で生活するインディヘナたちの島だ。ミャンマーやカンボジアでも湖上生活をしている人たちがいたが、世界中どこにでも同じような人たちがいるものだ。
 浮き草の島は初めてだったので、興味を持って見ることができた。島が草なら家も舟もすべて草、そして乾燥させる前の浮き草は食料にもなる。これほどまでに文明から離れた生活をしているかと思えば、電気がないこの島にはソーラーシステムと衛星アンテナでテレビが見られる家があり、そのアンバランスぶりはおもしろかった。東南アジアのとんでもない山奥の村の少数民族が携帯電話で話しているのと同じで、文明の進歩を飛び越えて100年前から一気に現代まで進化した感じだ。そしてその100年前と現代が共存している不思議ゾーン。これはおもしろい。
 次に行った普通の島、つまり草の浮島ではない土の島も風景の良い所だった。今回のツアーはなかなか楽しむことができ、2人とも満足。

 ティティカカ湖のツアーから戻ったオレたちは、翌日プーノを発ちボリビアの首都ラパスへ向かう。途中国境でバスを乗り換えるのだが、この国境が少しクセモノだった。スタンプは簡単に押してくれたものの、荷物検査がやっかいだったのだ。オレとケイスケくんは別々にさせられ、オレ1人に対して検査官が3人。しかも密室だ。オレは金を分散させるためにサイフをいくつも持っていたのだが、そのすべてをチェックされた。彼らは明らかに札を抜き取ろうとしていたのだ! そもそも金を調べる必要はないし、やたらと話しかけてきて注意をそらそうとしていた。しかも3人が同時に別のサイフを探っていて、オレの視線を分散させる作戦だ。オレは質問には一言も答えずにただ彼らの手元をにらみつけ、サイフを返された後にすべてのサイフの中身を数えた。
「甘いよ君たち、ダテに何十回も国境を越えて来たわけじゃないんだから。パスポートのスタンプの数を見た瞬間に諦めなさい」
 オレはしてやったりと得意げになっていた・・・。
 一方のケイスケくんもワイロを請求されたらしい。さすがは南米の最貧国だ。幸い2人とも何も取られなくて良かった。
 ボリビアに入国してからも大変だった。両替屋もなければ銀行もないという状況だったからだ。このままではボリビアの金を持っていないオレたちはバスにも乗れない。運転手にUSドルが使えるか?と聞いたが、これ見よがしにとんでもない金額を提示してきた。それに屈するわけにもいかず、さびれた国境の町をさまようオレたち・・・。いろいろと聞いてまわったが、結局この町で両替ができる所は闇両替のおばちゃんただ1人だった。

 国境からミニバンに乗り、ラパスへ。途中の丘から見下ろしたラパスとその向こうにそびえる雪山は絶景だった。このラパスも富士山の山頂に近い標高があるのだ。
 そしてラパスの中心へ入って行ったオレたちは、ラパスが近代的な街であることにまず驚いた。野生のリャマやアルパカが生息する街の外とはまるで別世界だ。さすが首都なだけあって人口も多くて活気はあるし、物も豊富で物価も安い。ボリビアもなかなか良さそうだ。

   
真っ青な空のティティカカ湖 / 島に住むインディヘナの子どもたち



99.旅のヘタなオレ     2004 10/21(ボリビア)

 ボリビアの首都ラパスは標高3600m、四方を赤茶けた山に囲まれたすり鉢状の町だ。国境からラパスへ向かうバスが、その山からラパスへ下りる時の風景はすばらしかった。赤茶の山には同じく赤茶色のレンガ造りの家が建ち並び、町の中心には近代的なビル群、そして遠景に雪山。これぞアンデスという風景だ。

 ラパスでの3日目にはティティカカ湖で一度別れたタツヤさんと再会した。
 オレたちがこのラパスで楽しみにしていたことは2つ。1つは買い物だ。週に2回、街の郊外で大きなマーケットが開かれ、さまざまな物が格安で売られる。その多くは激安の古着なのだが、中には旅行者から盗んだカメラなどもあって、メモリーカードのデータまでもそのままで売られているという話も聞いた。「カメラを盗まれても市場を探せば買い戻せる」という笑い話だ。
 街の繁華街にも民芸品を売る店が多く、物価の安いボリビアは買い物天国なのだ。ここぞとばかりに土産物を買いあさるオレたち。そして重くなった荷物はここから日本へ送る。南米で唯一の内陸国であるボリビアだが、なぜか船便が存在し、しかも安い。にもかかわらずオレがラパスにいる間に日本に届くという速さ。これはお得だった。
 そしてもう1つの楽しみは日本食。ラパスにはうまい日本食屋が何件かある。海外で日本食を食べるならバンコクかカトマンドゥかラパスといわれるくらいだ。もちろんこの国の物価からしてみればかなり高価なものだが、それでも他国よりは数段安いということになる。
 買い物と日本食という贅沢三昧のラパスだった。

 オレとケイスケくんは一足先にラパスを発つことにした。ルートも限られている南米の旅だ。タツヤさんとはまたすぐに会えるだろう。

 ボリビア観光のメインといえば断然「ウユニ塩湖」だ。
 太古の昔、アンデス山脈は海の底だった。大規模な地殻変動によって今のような山脈が形成されたわけだが、その時海水を閉じ込めて多くの湖が作られた。そのうちの何ヶ所かは水が蒸発して塩だけが残り、塩湖になった。そこは一面真っ白の塩の世界だ。
 ラパスからそのウユニへ向かうルートはいくつかあるが、オレとケイスケくんは列車に乗っていくことに決めた。ラパスからバスで4時間の所にあるオルーロという町から列車が出ているのだが、便数は少なく週に4本の運行だ。オレたちはその運行日に合わせてラパスを出ることにした。しかしバスターミナルへ行ってみると、ラパスからオルーロへ向かうバスに欠便が出たという話だった。ストらしい。そういえばラパスではデモ行進が何回も行われていた。ガソリンの値上げに反対するものだったらしいが、旅にも影響が出てしまった・・・。
 1時間遅れで次のバスに乗ったのだが、そのせいでオルーロから出ている列車の時間に間に合うことはできなかった。
 だが・・・、仮に間に合っていたとしても当日ではチケットは買えなかったらしい・・・。下調べが足りなかった。

 オルーロからウユニへは翌朝のバスで行くことにしてここで1泊。列車で行きたかったが、スケジュールが合わないのでバスを選んだのだ。
 ところが、翌朝バスターミナルへ行ってみると、ウユニ行きのバスは夜行しかなかった。この町で夜まで待つのは長すぎる。ムダに時間を使うよりも、ウユニに近い町まで行ってしまおうと考えたオレたちは、そのままウユニ行きではなくポトシ行きのバスに乗り込んだ。またしても事前に調べておかなかったことによる失敗だった。

 ポトシに着いてバスターミナルでウユニ行きのバスを探したが、朝か夜行の便しかなかった。朝の便はもうすでに出てしまっていたが、できれば夜行は避けたい。結局ここでも1泊することになった。
 ポトシは標高4000mという世界で1番高い所にある町だ。赤茶けた岩山の風景と乾いた空気が印象的だった。銀山が有名で世界遺産にもなっている。1泊ついでに観光もできたので、ちょうど良かったのかもしれない。
 ところが翌日・・・。なんと数社あるバス会社の朝の便はすべて満員だったのだ。前日にチケットを買っておくべきだった・・・。
 またしても自分たちのミスだ。この町でもう1泊するハメになってしまった。1年以上も旅をしているというのに、何て旅がヘタなんだろう。オレは・・・。


丘から見下ろすラパス



100.南米の大自然     2004 10/23(ボリビア)

 朝のバスに乗れなかったオレたちは、結局ポトシにもう1泊することになった。どうもボロボロのバスでの夜行は気が引けたし、何より景色が見たかった。ボリビアの移動は風景の良い所が多いのだ。
 ペルーのプーノからラパスまでの道は湖、平原、岩山、雪山、そして山から見下ろすラパスの街並と見所は尽きなかった。オルーロからポトシへの道も迫力があった。グランドキャニオンを思わせるような巨大な大地の裂け目が何kmにもわたり続いていたのだ。地図をひろげてみたが、その場所に○○渓谷といった地名は見当たらなかった。どうしてあれだけスゴいものが有名でないのか不思議なくらいだ。とにかく南米の自然はスケールがでかい。

 今回は前日にチケットを買っておいたので、やっとウユニへ向かえることになった。予定より3日も遅れてしまった。これも自分たちの失敗とボリビアの交通の便の悪さのせいなのだが、これだけ国中どこも山ばかり悪路ばかりでは、それもしかたない。
 そしてこのポトシ、ウユニ間も最悪の道だった。いや、というよりは道でない区間もあったという方が正しい。なんと川底を走って行くのだ! もちろん川の水が多い季節には通行できないのだろうが、乾季には川は干上がって道に変わる。しかし大きな石がゴロゴロしていて、バスの乗り心地も最悪だ。今までミャンマー、ネパール、ラオスなどの道路事情の悪い国でもここまでの悪路はなかった・・・。
 道は悪いが、あいかわらず景色は良かった。特に湿原の中を走った時には感動!
 アンデス山脈の高地にはリャマやアルパカといった高山動物が住んでいる。両方とも小型のキリンのような、首の長い羊のような、コブのないラクダのような姿だ。どちらも毛はセーターなどの材料となるのだが、アルパカの方が毛が柔らかくて長く、その分高級とされている。そして肉は食用にもなる。そんなリャマやアルパカは、バスでの移動中も良く見かけるのだが、この時は数がハンパではなかったのだ! 湿原のいたる所にリャマ、アルパカ、そして羊、馬が暮らしていた。その数は千単位なのか万単位なのか、まったく想像もできないほどだった。家畜なのか野生なのかは分からなかったが、見た目はアフリカの野生の王国そのものだ! 本当に自然には感動させられっぱなしである。

 そして極めつけはウユニ塩湖だ。行く前は「日本の雪景色とそれほど変わらないだろう」などと思っていたが、まったくの別物だった。もともとが湖でその湖面に凹凸がないため、100%まっ平らなのだ。それが延々と続いている白の世界・・・。まったく想像以上だった。写真で見るのと行くのとでは感動がまるで違った。まるで南極にいるような風景だ! そして湖の外に見える砂漠の向こうには蜃気楼・・・。最高の景色だった。
 乾季のこの風景でさえこれだけ興奮したのだが、雨季はさらにスゴいらしい。雨によって表面に薄い水の層ができ、湖は一面鏡のようになるのだ。そして山、空、雲すべてのものが映り込む・・・。大地が空になるというのだ。それこそ本当に絶景だろう。そこで朝日や夕日を見てみたい!
 これでもう一度来たい所がまた1つ増えた。

   
ポトシのカテドラル / ウユニ塩湖で



101.低い人間     2004 10/25(ボリビア)

 ウユニに着いた日、オレとケイスケくんが翌日のツアーの申し込みをしていると、タツヤさんにちょうど会うことができた。本当はウユニで待ち合わせて一緒に観光する予定だったのだが、オレたちが失敗をくり返してモタモタしているうちに到着がずれてしまったのだ。彼はこの日、すでにウユニ塩湖の観光を済ませてしまっていた。
 タツヤさんはこの後チリへ行くつもりだったそうだが、ボリビア政府に反対する住民らが道路を封鎖したため、ボリビアから直接チリへは抜けられなくなってしまったらしい。アルゼンチン経由でチリへ入るしか選択肢がない状況だ。彼はルートを変更し、この日の夜行列車でアルゼンチンへ向かった。
 ケイスケくんもここからチリへ行く予定だったのだが、同じく行き先を変えなければならなくなった。もともとアルゼンチンへ行く予定だったオレとは、もうしばらく一緒のルートということになる。それにしてもラパスでは何回もデモがあったし、この国の政治はうまくいっていないようだ。

 塩湖のツアーを終えてアルゼンチンへ南下するオレたちは、バスに乗り込み出発を待っていた。ふいにケイスケくんが声をあげる。
「おーい! なんだよコレ?!」
 見ると彼の上着にケチャップが付いていた。「ケチャップ強盗」だ! バスや市場などの人込みの中で旅行者にケチャップを付け、それに気をとられた旅行者から荷物を奪うのだ。すぐそれに気付いたオレたちは、荷物に注意しながらケチャップを拭く。知らない人はやられてしまうだろうが、バックパッカーなら誰でもこんな話は知っている。それよりも犯人が近くにいるはずだ。犯人はチケットを持っていないでバスに乗っていて、バスが発車する前に降りるはず。とオレたちが話しているまさにその時、オレたちの後ろに座っていたボリビア人らしきカップルがバスから降りた。
「おい、たぶんあいつらが犯人だぞ! 捕まえてブン殴るか?」
「いいっすよ、もう。相手にしない方がいいっすよ」
 何も取られなかったから良かったものの、やられたケイスケくん以上にオレの方が頭に来てしまった。それにしても中南米はこんなんばっかだ。

 そんなことがあったウユニを発ち国境へ向かったオレたちだったが、またしてもボリビアの交通の便の悪さに旅程を狂わされることになった。
 ウユニから国境の町ビジャソンまでの直通バスがないため、トゥピサという町で乗り換えなのだが、バスの便数が少ないので同日乗継ができなかったのだ。その乗り換えのためにこの何もない小さな町で1泊し、翌日のバスに乗らなければならなくなった。
 この日のうちにボリビアを出るつもりだったオレたちは、ボリビアの金も残り少なくなっていたのだが、かといってボリビアの最終日に両替をして金を余らせるのも損だ。そのため、乏しい所持金でまともな食事すらできなくなってしまった。こんなに物価の安い国で金欠になるとは・・・。

 話はまったく変わるが、オレたち日本人はアジアから離れた地域では「チーノ」「チネー」「チン、チョン、チャン」などと言ってバカにされることがある。中東、東欧、中米、南米それぞれで言われ方は違うのだが、どれも「中国人」「東洋人」といった意味だ。中東、東欧でからかわれた時には頭にきていちいち相手につっかかっていたオレだが、中南米ではそれほど頭にくることはなくなっていた。
 しかしそれは、バカにされることに慣れたからでも、オレが大人になったからでもない。本当は良くないことだとは分かっているのだが、「アホはほっとけ」と思ってしまうようになったのだ。
 つまりオレは中南米の人間を見下しているのかもしれない。といってもそれはメスチーソに限ってのことだが・・・。
 中南米には白人、メスチーソ、インディヘナが暮らしているのだが、その中で「チーノ」と言ってくるのはメスチーソだけ。それにムカツいているからということもあるだろうが、正直彼らを見ているとやることなすこと頭が悪いように思えてしまう。計算はできない、オーダーは間違う、時間も間違う、ウソはつく、物を盗む・・・。
 悲しいことだが、中南米では白人、メスチーソ、インディヘナという順に社会的な地位に優劣があるようだ。その真ん中のメスチーソ。治安の悪い中南米において、悪いことをしているのはほとんどがこのメスチーソだという。
 しかしオレが彼らを認められない最大の理由は、インディヘナを差別している点だ。やはり少数民族や先住民というのが偏見や差別の対象になってしまうのは世界共通だが、もともとそのインディヘナとスペイン人の混血であるメスチーソには、半分インディヘナの血が流れているのだ。それを否定するのは自分の半分を否定することにつながる。それっておかしいだろ。

 なぜこんなことを書いたのかというと・・・、ここトゥピサでついにキレてしまったからだ。
 オレが1人で街を歩いていた時、2人の若者が例によって「チーノ」と言って肩にぶつかってきた。言われることはしょっちゅうだったが暴力的なことは初めてだったので、思わずやり返してしまった! 手を出すのはまずいと瞬時に判断したのだろう、手ではなく頭が出てしまった! 頭突き!! ちょうど鼻に当たり彼は鼻血を出した。
 2人はそのまま逃げてしまったが、殴っておけば良かった。オレのためにも、日本人旅行者みんなのためにも。


ラパスではデモが何回もあった



102.熱いぜ!アルヘンティーナ!!     2004 10/29(ボリビア、アルゼンチン)

 バスのコネクションが悪いため1泊するハメになったトゥピサからバスに乗り、アルゼンチン国境の町ビジャソンへ到着した。ここまでたったの2時間だ。これなら前日にバスがあっても良さそうなものだが・・・。
 しかし1日遅れてしまったが、このバスに乗れたのはラッキーだったかもしれない。オレたちは「ダブルデッカーのバスの2階の一番前の席」という特等席に座れたからだ。しかもこの区間は岩山や崖が多くて景色が良い。2時間で国境に着いてしまって物足りないくらいだった。
 この国境は「いかにも国境らしい国境」といえるだろう。隣り合う2つの国に貧富の差がある場合、「国境の貧しい国側では様々な物が安く売られ、裕福な国側の人間がそれを買いに来る」という状況が生まれる。この国境もそのパターンだ。ボリビア側には商店街が続き活気があるのだが、国境の橋を渡ったアルゼンチン側は何もない静かな所だった。
 そんな小さな町だったが、ボリビアとは雰囲気がまるで違うことは感じてとれた。家や店はきれいになり、インディヘナは姿を消してメスチーソも少なくなった。アルゼンチンはほとんどが白人なのだ。これまでオレが通過した国境の中で、最も変化の大きかった所ではないだろうか。

 国境からバスに乗り、5時間半かけてフフイという町へ。フフイへ到着したのは夜の12時をまわってしまっていたが、多くの店がまだ営業していて人々が酒を飲んでいた。南米の今までの国ではありえないことだ。それを見てオレたちはうれしくなった。
 バスターミナルを出て道を尋ねていると、警官が宿までパトカーで送ってくれることになった。「なんて良い人たちなんだ」と思っていたが、アルゼンチンの人はみんなこんな感じで明るく優しい人たちなのだ。宿の人も宿の近くにあった食堂の人たちも、いかにもラテンのノリで楽しい人たちだった。その食堂で、久しぶりに冷えたビールを飲む。ボリビアでは冷えた飲みものはほとんど口にできなかったため、このアルゼンチンの「キルメス」というビールがたまらなくおいしく感じた。
 食事もビールもワインもおいしいし、そして何より女の娘がカワイイ! オレたちのアルゼンチンに対する第一印象は「サイコー!!」だった。

 オレはこの後メンドーサという町まで南下し、そこからチリへ入る予定だった。つまりアルゼンチンの西の端を「通過するだけ」のつもりだった。ところが一発でこの国を好きになってしまい、もっとアルゼンチンを見たくなった。2、3日悩んだが、結局ルートを変えることにした。首都のブエノスアイレスへ行く。
 これまで何人かの人が「ブエノスが南米で一番だった」と言っていたため気にはなっていたのだが、オレもやはり行きたくなった。それならばついでにイグアスの滝も見よう。どうせイグアスへ行くのならパラグアイを通って行こう。ということでパラグアイのアスンシオンへ向かうことにした。
 ケイスケくんはこれからチリのアントファガスタへ行く。オレたちはアントファガスタ行、アスンシオン行のバスが共に出ているサルタという町へ移動した。彼とも長いこと一緒だったが、このサルタで最後になるかもしれない。

 オレたちがサルタへ到着すると、この日サルタでボカの試合があるという偶然にぶつかった。ボカとはアルゼンチンの名門サッカークラブ「ボカジュニアーズ」のことで、以前日本人の高原が在籍したこともある人気チームだ。サッカー好きの2人がこれを見逃すはずはなかった! 運良くチケットも手に入りスタジアムへ。
 さすがに本場は熱かった! 試合は寒い内容だったが充分に楽しむことができた。日本のものとは違う歓声にブーイング・・・、金網を登ったりピッチに乱入したりする熱いヤツら・・・、オレたちを見て「タカハラー」と叫ぶ男・・・。やっぱラテンだ! やっぱサッカーの国だ!! 次はブエノスでもっと熱い試合を観るぞ!

   
相手は前に広山がいたパラグアイのセロ・ポルテーニョ / オー、オー、ボカ!ボカ!



103.ひさびさ一人旅     2004 11/4(パラグアイ、ブラジル)

 サッカーを観た翌日、ケイスケくんはチリへ向かった。しばらく逆周りになるが、どこかでまた会えることを願って別れた。オレはサルタでもう1泊してパラグアイのアスンシオンへ。
 アスンシオンへは夜行バスで向かう。オレは迷わずダブルデッカーのバスの2階の一番前の席を取った。が、良く考えてみれば夜行だ。せっかくの特等席でも景色は楽しめないか・・・、と思っていたが、意外なすばらしい景色を見ることができた!
 この地方はこれまでの山がちな地形とはうって変わって、果てしない平原が広がっている。そういえばいつの間にかアンデス山脈から降りて来ていたのだ。その大平原の一本道には照明などなく、真っ暗な闇にバスのヘッドライトだけという場所だ。そのうちスコールが降りだしたかと思うと、激しい雷が天を裂いた! もの凄い数の稲光が、オレの特等席からはキレイに見える。南米の雷は迫力がケタ違いだった!

 翌朝、パラグアイ国境でバスは止まった。アスンシオンまで直行ではなかったらしい。しかもバスターミナルからイミグレまでは距離があるという話で、タクシーに乗るしかない。
「あー、こんな時いつものように誰かがいればタクシー代も割カンで安いのに」
 1人で旅をするのは本当に久しぶりだ。思い返してみるとシリアでマツモトさんやトモヒロくんたちに会ってから約5ヶ月の間で、オレは5日以上1人になったことがなかった。特に南米に入ってからは常に誰かと一緒で、1人になったのはコロンビアでのたったの半日。良いような悪いような複雑な感じだが、仲間たちと旅をするのは楽しい。
 そんなことを考えながらイミグレに到着した。特に何事もなく簡単に通過。とはいかなかった・・・。
 職員は自信満々でこう言った
「このパスポートはニセものだ。お前は中国人だろ」
「あーーっ!? 何言ってんだよ? Soy Japones ! ! (オレは日本人だ)」
 しばらくすると、職員が電話に出ろとオレに受話器を渡す。相手は日本人だと言うが・・・
「もしもし?」
「こちらは日本大使館の者ですが・・・・・・」
 電話先はパラグアイの日本大使館だった。いくつか質問をされ、それに答えると間違いなく日本人だということになった。当然だ。国境の職員に電話を変わって大使館員がそれを伝えると、無事国境通過となった。
 電話で話した大使館員の話では、パラグアイには中国人の不法労働者が多く、そのほとんどが日本人か韓国人の偽造パスポートで入国して来るらしい。
「また中国人かよ!! だからチーノ、チーノ言われんだよ!!」

 国境からアスンシオンまではバスで1時間もかからなかった。バスを降りセントロを目指す。しかし街はひっそりと静まり返っていた。ちょうど週末に来てしまったため、ほとんどの店が閉まっていたのだ。
 とにかく久々に1人になったオレはヒマだった。特にアスンシオンでは何もすることがない。ほとんど見所のないこの街の土日・・・しかも連日昼すぎから雨が降り・・・まったくムダに2日間を過ごしてしまった。

 アスンシオンを発ち、シウダドデルエステという国境の町へ。ここは「南米の香港」と呼ばれているらしく、街は物であふれアルゼンチンやブラジルからの買い物客で活気がある。そして中国人が多く住み、中華レストランも多い。オレはやはりここのようなゴチャゴチャした所が好きなのだ。普通なら通り過ぎてしまうような国境の町だったが、宿のクーラーが気持ち良かったこともあって3泊もしてしまった。
 その間にコロニアイグアスという日本人移民の村を見に行ってきた。かつて、多くの日本人がブラジルをはじめとした南米の各国へ移民をした。「日本人の町」こそサンパウロにしかないが、「日本人の村」は南米各地に多数存在し、ここもそのひとつだ。
 本当に何もないような所なのだが、多くの日本人が主に農業をして生活している。良くいえば「緑がきれい」といったところだが、山も海も川もないただの平原。自然大好きのオレだが、山も海もないのはキツい。オレにはとても住めそうにない。しかしここには現代の日本が忘れてしまったものがあったような気がする。道ですれ違う見知らぬ人が「こんにちは」と挨拶をしてくれるし、日本人会館の女性も親切だった。昼食を食べた日本食屋の青年は「これから魚を仕入れに行くから一緒に来ませんか?」と言って車で村を案内してくれたし、「家に泊っていかないか」とも誘ってくれた。オレはすでに宿をとっていたので誘いは断ってしまったが、みな感じの良い人たちだった。ここへ来て彼らと会って、本当に心からホッとした。

 オレはシウダドデルエステから国境を越えてアルゼンチンへ行き、イグアスの滝を見る予定なのだが、パラグアイとアルゼンチンの間にはほんの少しだけブラジルがある。このブラジル領内を通って行かなければアルゼンチンへは行けないのだが、その際本来ならばブラジルビザが必要になるのだ。もちろんオレは持っていない。通過するだけならOKという話もあるが、逆に最近は中国人の不法入国者が多いために厳しくなっているという話もあった。実際オレも中国人疑惑をかけられたばかりだ。かと思えば地元の人はパスポートすら持っていなくても自由に国境を通過できる。とにかくここの国境はあやふやなのだ。
 いろいろと調べ、考えた結果、ブラジルのイミグレーションは無視して通過することにした。最悪見つかれば「不法入国」ということにもなりかねなかったためドキドキしたが、イミグレに行くほうがやっかいのように思ったのだ。
 とにかく不安だったためブラジルは足早に通り過ぎてしまったが、結局はすんなりとアルゼンチンへ入国となった。こんなことならもう少しブラジルも見ておけば良かった。

   
コロニアイグアスの鳥居 / 川の向こうはブラジル



104.イグアスの滝     2004 11/9(アルゼンチン)

 世界三大瀑布のひとつイグアスの滝は、ブラジル、アルゼンチン両国の国境になっているイグアス川にある。つまり滝にもブラジル側とアルゼンチン側があり、オレはアルゼンチン側の滝を見ることにした。滝へのアクセスの拠点となるのはプエルトイグアスという小さな町だ。この町に着いた翌日滝へ行くつもりだったのだが、その日は大雨に降られてしまい予定を1日ずらして滝を見に行った。
 滝はジャングルの中にあるのだが、バスの通る道路からも轟音とともに水煙が宙に舞い上がっているのが目に入ってきた。これはスゴそうだ。

 国立公園の入り口から滝までジャングルの中の遊歩道を進んでいくと、多くの動物を見ることができた。鳥にトカゲにアナグマ、蝶、セミ。コスタリカで野生動物を見るために2ヶ所の自然公園へ行ったが、ここイグアスの方がよっぽど多くの動物に出会えた。
 滝に近づくにつれ、霧雨のように水しぶきが降ってきた。それでもまだ滝の姿さえ見えない距離だ。さらに歩いてようやく滝が見えてきた。スゴい迫力だ! 幅4kmにもわたり茶色く濁った水が猛烈な勢いで流れ落ちている。遠くに見える「悪魔ののどぶえ」とよばれている所が一番激しく、上から落ちた水が水煙となって逆に天に昇っているのだ。まるで噴火をしているようだった。
 と、ここまでは感動の連続だったのだが、ツイていないこともあった。1つはその「悪魔ののどぶえ」の近くまで行けなかったこと。前日の大雨で水量が多すぎ、危険ということだった。遠くから見た感じ、確かに近づけるようなものではなかったが・・・。
 そしてもう1つはカメラのデータが壊れてしまったこと。最も滝に近づける場所で写真を撮った時、全身びしょ濡れになる程の水しぶきを浴びてしまい、カメラも壊れてしまったのだ。カメラ本体はその後なんとか使えるようにはなったようだが、データは半分ほどが消えてしまった・・・。本当にカメラに関してはツイていないことが多い。この旅でデータが消えてしまったのは3回目なのだ。

 プエルトイグアスからバスで18時間かけて首都のブエノスアイレスへ向かう。バスは高かったがその分快適なものだった。「フルカマ」とよばれる、座席がベッドのような状態にまで倒れるタイプだ。真新しい車内は広々していてトイレ、エアコン、TV付。サービスも良く、2食の食事にワインまで出されるという豪華バスだった。そのため18時間という長距離移動もそれほど苦にはならなかった。
 朝ブエノスに着くと「寒い」というのが第一印象だった。それだけ南まで来たということだ。南半球なので当然南の方が気温は低い。そして地図で位置を確認する。ここが今回の旅で一番日本から遠い所だ。ということは・・・日本からは地球の真裏に近いということで、つまりは地球一周をしているオレにとって距離的にはその半分ということになる。
 えー!? これだけ旅をしてまだ半分かよ!! やはり地球はデカい! 世界は広い!

   
イグアスの滝はものすごい水しぶき! / 滝の周りはジャングル!アライグマだ!



105.一番遠い街で・・・     2004 11/19(アルゼンチン)

 南米の南部にはパタゴニアと呼ばれる寒冷地帯が広がっている。氷河や雪山、ペンギンなどを見に観光客も多く訪れる地方だ。しかし寒冷地のため観光ができるのは夏の間のみ。オレがブエノスアイレスに着いた11月上旬は、そのシーズン直前といった時期だった。そのためこれから南へ向かう大勢の旅行者が、ここブエノスで夏を待って待機している状態なのだ。オレが泊まっていた「日本旅館」という日本人宿にも、20人以上の日本人がいた。
 宿自体の居心地は悪くなかったが、とにかく人が多すぎる。そして何より街の中心から遠すぎるということを考え、2泊だけして中心地に近い宿へ移ることにした。こちらの宿も日本人旅行者には有名な宿で、やはり日本人は10人近く泊まっていた。世界中のどこにでも住んでいる中国人もすごいが、世界中のどこにでも旅行者がいる日本人もやはりすごいものだ。

 宿を移った翌日、ケイスケくんがブエノスに到着した。オレとは途中からルートが逆回りだったので、どこかで合流できるか確実ではなかったが、また会えて良かった。しかもブエノスでの再会という最高のシチュエーションだ。
 ケイスケくんはオレと別れた後タツヤさんと合流していたため、3人で会えるのを楽しみにしていたが、タツヤさんはパタゴニアへ向かってしまった。オレは今のところパタゴニアへは行かない予定なので、南米ではもう会えないだろう。
 今回は残念だが、彼とは1月にタイで会えるかもしれない。オレは南米の後アジアへ帰るつもりだし、タツヤさんも一度日本へ帰った後、シンガポール、バンコク、香港を経由して上海へ行き、学校で中国語を勉強する予定らしい。ちょうどバンコクで会える計算になる。

 ブエノスは噂どおり楽しい街だった。宿のみんなとサッカーを観に行ったり、飯を食べたり、買い物をしたり。日系人協会のレストランで日本食を食べたり、韓国人街で焼き肉を食べたり、公園で中国人の先生と太極拳をしたり・・・。日本人はたくさんいるし、何でもあるといった感じだった。よく「ブエノスは楽しい」と聞かされていたが、まさにその通りだった。最初はここへ来るつもりのなかったオレだが、ルートを変えたのは大正解だ。
 ただ観光となると、この街には特に何もないのだが・・・。

 ブエノスには1週間くらいのつもりでいたのだが、結局11日間いることになった。理由はサッカーだ。ワールドカップ南米予選のアルゼンチンvsベネズエラがブエノスで行われることを知り、その試合を観てからチリへ向かうことにしたのだ。待ったかいもあり試合は3−2の好ゲームだった。これまでサルタ、ブエノスで2試合ボカのゲームを観たが、やはり代表の試合は海外のスター選手も多く招集されていたこともありレベルがまったく違う。知っている選手も多いし、かなり熱くなれた。
 ところが、サポーターの応援はアルゼンチンリーグの方が迫力がる。ボカのホームスタジアム「ボンボネーラ」での試合の時には、試合後に相手サポーターがスタジアムに火をつけてしまい、ピッチに消防車が出動するほど熱かったのだ! 日本だったらJリーグよりも代表戦の方が盛り上がるのに・・・。国民性の違いなのか? サッカー文化の違いなのか?

 サッカーを観た翌日、オレはチリへ向かう。
 ケイスケくんとはここでお別れだ。彼とは3ヶ月も一緒に行動してきた。これは誰かと一緒に旅をした最長記録だ。彼にはいろいろと感謝しているし、年下なのに尊敬できるヤツだった。
「旅は出会い」
 と何度も言ってきたが、それと同じ数の「別れ」もある。今まで多くの別れがあったが、アンティグアでマツモトさんと別れた時と、今回だけはやはり特別だった。バスの中で1人になり、いくらか感傷的になったオレだった・・・。
 まーそのうち日本で会えるんだけどね。

   
ブエノスアイレスのプラダデマーヨ / リケルメがフリーキックを決める!



106.高かったチケット     2004 11/30(アルゼンチン、チリ)

 ブエノスからチリへ向かう途中、メンドーサという町で1泊した。この町はワインの産地として有名で、そのワイン工場の見学ツアーや、南米大陸最高峰のアコンカグア山を見るツアーなどがあったが、1人だったこともあり観光するのが億劫になってしまった。
 そのまま翌日のバスでチリのビーニャデルマルへ向かった。
 メンドーサからチリへ行くには、アンデス山脈を越えなければならない。ボゴタから始まった南米の旅の前半はほとんどがアンデスの町だったが、これでアンデスの山々も見収めだ。つまりこの南米の旅も大詰め。
 その最後のアンデスの風景はすばらしかった。山に雪があったからだ。
 国境を越えてチリに入り、しばらくすると急に視界がひらける。そこから見下ろす雪山とそのさらに下のチリの大地、さらには遠く太平洋まで見えるのではないかと思うくらいの大パノラマが目に飛び込んできた。バスの中の誰もが声をあげるほどの風景だった。

 南北には長いが東西には狭いチリ。アンデスを下るとあっという間に海までたどり着いた。ビーニャはビーチリゾートで、近くにはバルパライソという世界遺産の町もある。しかしビーチやバルパライソよりも、新鮮な海産物を目当てにここへ来る日本人が多い。いやむしろビーニャへ来るというよりもここの日本人宿「汐見荘」へ来るといった方が適切かもしれない。オレもそんな1人だった。この日本人宿に泊って、近くの港で魚を仕入れ、みんなで自炊。これがビーニャの過ごし方だ。
 ここではシンペイくんと再会し、また宿でみんなとダラダラ過ごす生活が始まった。南米での旅のスタイルは、観光よりも日本人宿でダラダラすること。これなのだ。

 しかしオレには仕事があった。チリからアジアへ帰る飛行機のチケットを探さなければならない。チリのサンチアゴからイースター島、タヒチを経由してオーストラリアのシドニーへ、そしてオーストラリアからインドネシアのバリ島へ。これがオレの考えていた理想のルートだった。今まで聞いていた話ではサンチアゴからシドニーまで1100USドル(約12万円)ほどで飛べるらしい。・・・、ところがそのチケットは値段が上がってしまっていた。1800USドル(約20万円)! これじゃ高すぎる・・・。さらにオーストラリアからバリまでのフライトもそれほど安くはないという話を聞き、オレは予定を変更せざるをえなかった。
 サンチアゴからイースター島を往復し、再びサンチアゴからバリへ飛ぶのだ。それでも1600USドル(約18万円)と決して安くはないが、2000USドル(約22万円)以上出すのはキビしい。それにタヒチ、オーストラリアはどうしても行きたいという所ではない。とにかくイースター島にさえ行ければ良いのだ。
 というわけでイースター島行きのチケットとバリ行きのチケットを探す。イースター行きのチケットはネットでキャンペーンをやっていたために安く買うことができた。といってもクレジットカードを持っていなかったオレは、一緒にイースター島へ行くことになったコウキさんに買ってもらったのだが・・・。そしてバリ行きのチケットはなかなか難しかった。どこの代理店をまわっても席がいっぱいだったのだ。結局キャンセル待ちということになってしまった。

 イースター島へ出発する前日までビーニャでのんびりしていたが、この9日間はなかなか楽しいものだった。そしていよいよイースター島! オレ、コウキさんをはじめ一緒に行くのは何と11人! もちろん全員日本人だ。ネットのキャンペーンが11月いっぱいという噂があったため、11月30日発のこの便に駆け込んできた人が多かったからだ。1週間のイースター島・・・。またしても楽しくなりそうだ。

   
ビーニャといえばこれ!市場で魚を買って汐見荘で自炊 / 坂の多いビーニャにはケーブルカーが



107.最後にモアイ     2004 12/8(チリ)

 英語で「イースターアイランド」、スペイン語では「イスラデパスクア」、原住民の言葉では「ラパヌイ」。空港に降り立つと懐かしい風が吹いていた。風が湿っている。南米のオレがまわっていた地域はほとんどが乾燥地帯だったためにこう感じたのだろう。東南アジアのような湿度の高さに懐かしさを覚えた。
 オレたちが11人でゾロゾロ歩いていると、シンペイくんが出迎えてくれた。彼はオレたちが乗ってきた飛行機に乗ってこれからサンチアゴへ戻るのだ。入れ違いになってしまった。
 入れ違いといえばもう1人。オレがサンチアゴからイースター島へ移動したこの日、マツモトさんがサンチアゴに着いたのだ。彼はアンティグアでのスペイン語の勉強を終え、南米を南下していた。久々にマツモトさんに会いたかったが、オレがイースター島から戻るまではビーニャかサンチアゴにいるそうだ。帰ったら会えるだろう。

 オレたちはキャンプ場でテントを借りて泊まることにしていた。物価が高いイースター島では安宿でも10USドル(約1100円)はしてしまうからだ。「ミヒノア」という名のキャンプサイトへ向かう。ここにはテントを張る広いスペースと、キッチン、トイレ、シャワーのある小屋があり、キャンプとは名ばかりで実際はこの小屋でほとんどの時間を過ごし、テントでは寝るだけという生活なのだ。自炊用に大量の食料もサンチアゴで買い込んできていた。まさしく合宿!

 その合宿も最初の3日間はほとんどトランプをして過ごすことになってしまった。ずっと大雨だったのだ。強風でテントがつぶれたり、水がしみ出てきて寝袋までびしょびしょになったりと散々だった。モアイ観光はお預けだ。空港で入れ違いになったシンペイくんの話では天気はそれほど悪くはなかったという話だったのだが・・・。
「みんなスイマセンこの雨はボクのせいです」
 そう言ったタジマくんは自他共に認める世界最強の雨男らしい。乾季のアンデスに大雨を降らせ、世界最南端の町ウシュアイアには嵐を呼んだという。これは本物だ。

 雨の合間をみて、オレたちは近くの港へでかけた。「イースター島ではマグロが捕れるのでサシミが食える」と日本人のバックパッカーの間では評判になっていたからだ。
 ミヒノアから海岸沿いに丘を下ると、すぐに小さな港へ出る。そしてそれと同時に目に入る黒く大きな物体。最初のモアイだ! ここにあるモアイは1体だけで、形もそれほど美しいものではなかったが、それでもやはり感動する。早く島をまわりたいものだ。
 マグロは上がっていなかったこの日、カツオを買って宿で食べた。そしてウニ。海岸にゴロゴロと、養殖場のように大量に落ちているのだ。しかし中身はほとんどカラ・・・。それでもこれだけの量があると全員分にはなった。オレと同様、日本を長く離れている人が多かったので、誰しもがその夕食には大満足。横では欧米人の旅行者が気色悪そうにそれを見ていた・・・。

 5日目には11人のうち、雨男のタジマくんを含めた3人が島を離れる予定になっている。4日目には雨が降っても観光に出かけなければならないのだ。日本風にテルテル坊主をつくって晴れを祈る・・・。
 そして4日目、11人の願いが届いたのか、朝起きると晴れ間がのぞいていた。晴れたー!! みんなで喜んで町へ出て、2グループに分かれてレンタカーを借りる。

 この島には大きさも形もさまざまなモアイが各地に点在している。どのように造られたかも、なぜ造られたのかも解明されていない世界の7不思議だ。一説によると丸太を利用して運搬したため木材が不足し、それが燃料不足にもなって島の文明は滅びたともいわれている。たしかにこの島には大きな木は生えていない。
 島の風景を見ながらみんなでそれを納得していると、モアイが登場した! まずは小さめのヤツが1体。オレたちはそこを素通りして島の西へと向かう。雨が降らないうちに1番見たい所を目指すことにしたのだ。そこは「モアイ工場」とも呼ばれるモアイの切り出し場だ。岩の成分を分析した結果、すべてのモアイはここで掘られてから各地へと運ばれたことが解かったらしい。
 岩山に無数のモアイが存在している。立っているもの、座っているもの、倒れているもの、切り出し中のもの、まさに圧巻の光景だった。オレが子供の頃から憧れていた古代遺跡。中でもピラミッド、ナスカの地上絵、そしてこのモアイには憧れも強かった。今そのモアイがそこらじゅうにいるのだ。これはテンション上がりまくりでしょ! 天気さえ良ければサイコーだったに違いない・・・。などと言っているうちにまた雨が降り出した。
 その後何ヵ所かのモアイを見て、雨が強くなったところで宿に戻る。他にも見所はまだまだ多いが残りは明日だ。
 そしてその翌日、初めての晴れ! 雲は多いが雨雲ではなさそうだ。この日帰る人には申し訳ないが、これで島中を見てまわれる! 飛行機の出発時間までに島を1周し、3人を空港まで送る。そして! ここでオレたちは奇跡を目にすることになった。
 タジマくんたちを乗せた飛行機がチリ本土のある東へ向かうと、それを追いかけるように雲が西から東へと流れていった。そして30分もしないうちに快晴!! 彼が雲を引き連れていったとしか考えられない・・・。最高の置き土産だった。

 残ったオレたちはさらに島を走る。海岸に横1列で並ぶモアイ、目玉のあるモアイ、帽子をかぶったモアイ、モアイの背に沈む夕日・・・、この日でほとんどの主なモアイを見ることができた。遺跡の類は好きなオレだが、そうでなくてもモアイには驚き、感動するだろう。南米の最後に良い所に来ることができて良かった。
 しかしイースター島の良さはモアイだけではない。太平洋の孤島であるこの島の自然はすばらしかったし、今は季節外れだがビーチもある。当然海はキレイだ。夜は星もキレイに見えるし、独特の文化や宗教にも興味はある。そしてやはり・・・マグロ!!
 何日か通ったが、ついに港でマグロをGET! マグロとしては小さいのだろうが重さが14kg。11人だったメンバーは3人が帰って1人がホテルに移ったので今は7人。1人2kgの計算だ! マグロ祭り開催!!
 刺身、すきみ丼、ステーキ、フレーク。これを3食続けてようやく完食! 始めは良かったが、もう見るだけでも気分が悪い・・・。これで嫌いになったらどうしよ。何で嫌いなの? って聞かれて「イースター島のせい」って答えても意味不明だよな・・・。

 タジマくんのお陰でその後は雨も降らず、まさに観光日よりだった。しかし残りの2日半は宿の近くにある物以外のモアイを見に行くことはしなかった。モアイ以外には何もないこの島でみんなでのんびり、そして楽しく、自然と共に過ごす。これがとても贅沢に感じられたからだ。これは南米に入ってからの悪いクセではあるのだが・・・。
 とにかくイースター島は最高だった!

   
1人マグロ2kg!マグロ祭りだー!!



108.南米脱出     2004 12/15(チリ)

 イースター島での1週間は本当に楽しかったが、オレには1つ心配事があった。サンチアゴからバリ島へ行きたいのだが、そのチケットがまだ取れないでいたからだ。みんなの話を聞いているうちにパタゴニアへも行きたくなっていたので、チケットが取れないようであれば世界最南端の町ウシュアイアまで南下しようかと考えていた。
 そしてオレはイースター島からサンチアゴへ戻り、キャンセル待ちを頼んであった代理店へ行ってみる・・・。結局バリはNGだった。
 他の店をあたってもやはりダメ。しかし同じインドネシアのジャカルタ行なら空席があるということを教えられた。しかもジャカルタの方が50USドル(約5500円)ほど安く行けるというのだ。
 もうこれしかない。バリ行きはもうあきらめよう。オレは4日後のジャカルタ行きを決めたのだった。

 ところでサンチアゴに戻ればここかビーニャでマツモトさんと会えると思っていたのだが、またしても入れ違いになってしまった。なんとオレが戻ってきた日にイースター島へ行ってしまったのだ・・・。タイミング悪すぎる・・・。
 イースター島へ一緒に行った人たちも次々と次の町へと旅立っていった。1人、また1人と知り合いが減るたびに何となく寂しくなった。南米を離れる寂しさもあったのだと思う。
 フライト待ちで1週間サンチアゴにいることになったが、コウキさんとは最後の日まで一緒だった。ちなみに彼はオレが旅の中で会った数少ない静岡県出身者だ。だからというわけではないのだが、何となく気が合う人だった。ビーニャで知り合って以来3週間を共にし、ほとんどの時間を一緒に過ごした。サンチアゴでは2人とも宿でダラダラしていることが多かったが、何となく南米らしい最後だったように思う。もっとも、サンチアゴには何も見所がないのでしかたがないのだが。

 いよいよ南米を発つ時が近づいてきた。空港へ向かい、チェックインし、飛行機に乗る・・・。今まで何度となく繰り返してきたことだ。オレはその度に新しい土地へ向かうという期待に胸を躍らせた。ところが今回はどうだろう。そんな楽しい気持ちよりも、ブルーな気分の方が大きい。
 この長い旅の前にも、オレは何回か1週間程度の海外旅行を経験している。その旅行を終えて日本へ帰る時には、決まってこのようにブルーになっていたのだが今回もそれと同じ・・・。それだけ南米が楽しかったということなのだろうか? それとも旅の終わりが近づいてきたということなのか? 今でこそこれなのだ。本当の旅の終わりにはどうなってしまうのだろう?



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