やっぱアジアでしょ!!
〈東南アジア編V〉
インドネシア 2004/12/15-2005/1/9
シンガポール 1/9
マレーシア 1/9-15
タイ 1/15-2/16
ミャンマー 1/29(1日入国)
109.長い一日 2004 12/15(インドネシア)
インドネシアの首都ジャカルタにある安宿街「ジャランジャクサ」。オレはそこにある安宿のベッドで横になっていた。ひどく疲れているのだが眠れない。完全に時差ボケだ。それにしてもここに辿り着くまでは長い道のりだった。
チリのサンチアゴからオレを乗せた飛行機は、ニュージーランドのオークランドを経由し、18時間かけてオーストラリアのシドニーへ到着した。シドニーで飛行機を乗り換えるのだが、その待ち時間が9時間。そこから7時間かけてジャカルタへ。計34時間の移動に加え時差が14時間。しかも飛行機に乗っている間、寝たり起きたりを繰り返していたため、時間に関する感覚はすっかり混乱してしまっていた。とにかく13日の夜サンチアゴを発ち、15日の夜ジャカルタに着いたのだ。
到着してからもなかなかすんなりとはいかなかった。まず片道航空券での入国が問題となった。この件は毎回フライトの度に心配の種となっているのだが、メキシコ入国時と今回以外は特に何も言われることはなかった。前回メキシコでは持ち金をすべて申告することで入国させてもらえたのだが、ここジャカルタでは・・・。30分程待たされたところで責任者らしき男が現れ、一言。
「いちまんえん」
は? 1万円払えってこと? ついに賄賂を求められた。「イミグレで賄賂」というのは良く聞く話だが、それらしいことをそれとなく言われたり、されたりしたことは何度かあったものの、実際にここまであからさまに求められたのは初めてだ。しかもこの男は日本語で「いちまんえん」と言いやがったのだ!
そんなものを渡すわけがない。オレは
「カードとチェックしかない。現金は持っていない。それにお前の言っていることは大問題だぞ!」
と言ってそれを拒否した。そしてこの男は無視して横の若い男に
「ノープロブレムだ!」
と言うと、意外にもあっさり責任者は若い男にOKを出したのだった。
そんなことをしているうちにオレは1人だけになってしまった。他の旅行者とタクシーをシェアしようと思っていたのだが、みんなはもう行ってしまっていた。夜なのでバスはもう走っていない。
しかたなくタクシーに値段を交渉するが、誰もが激しくボッてくる。何人かに聞いてまわり、底値は10万ルピアだった。約11USドル(約1200円)だ。正気な額ではない。
とにかく11USドルは払えないと思ったオレは、次の飛行機を待って旅行者を見つけ、タクシーをシェアするしかないと考えた。
ところが、続けて到着した2つの便に乗っていた旅行者はツアー客か金持ちばかりだった。結局シェアする仲間が見つからなかったオレは、空港で寝て翌朝のバスに乗ろうかと思った。しかし歩き出すとかなり疲れていたことに気づき、頭もボーッとしてきた・・・。しかたがなくタクシーでジャランジャクサへと向かったのだった。
それにしてもこれまでに乗った乗り物の中で一番高い乗り物だった・・・。
オレはこうして辿り着いた安宿のベッドで眠れぬ夜を過ごし、朝方ようやく眠りにつくことができたのだった。長い1日がやっと終わった。
110.久々のアジア 2004 12/21(インドネシア)
朝、モスクから流れるアザーン(イスラム教のお祈り)で目を覚ました。ジャカルタに到着した昨夜はいろいろあってアジアを感じる余裕はなかったが、これを聞いて「帰ってきたんだな」と実感した。
オレはこの日タカヒロくんと知り合った。朝の屋台で偶然出会ったのだが、聞くと同じ宿だった。これから同じ方向へ向かうため、しばらく一緒に行動することになった。
2人ともジョグジャカルタへ行くのだが、ジャカルタはそれほどおもしろくなさそうだったため、早速翌日に移動することにした。移動手段はいろいろある。特急列車、普通列車、ツーリストバス、ローカルバス、それに飛行機も驚くほど安い。本当だったら安い普通列車か、ローカルバスを利用したいところだが、どちらもチケット入手や市内移動がとても面倒なものだった。オレたちは値段の高さには目をつぶり、特急列車で行くことにした。これならば簡単にチケットを購入できるからだ。
列車は高いだけあってエアコン、食事付で快適そのものだ。久々に見るアジアの風景を眺めながらジョグジャカルタへ。
ジョグジャカルタはジャワ文化発祥の地だ。ジャワ芸術の中心地でもあり、郊外には仏教やヒンドゥー教の寺院遺跡も多い。オレたちのお目当てはその遺跡の1つボロブドゥールだった。カンボジアのアンコール、ミャンマーのバガンと並び、世界3大仏教遺跡の1つとされている。
オレたちはまずこのボロブドゥールへ行った。ローカルバスに揺られて1時間半。終点からさらにインドネシアでは「ベチャ」と呼ばれている人力車に乗って15分。深い森の中に埋もれていたボロブドゥールへ到着。現在でも周囲は山と森に囲まれていて景色は良い。
ボロブドゥールは確かに凄いものではあったが、世界3大仏教遺跡というわりには「イマイチ」という感じがしてしまった。やはりアンコールやバガンは「遺跡群」のため、スケールが違いすぎる。このボロブドゥールは単体としてはスゴいのだが、これひとつだけがぽつんと存在しているので迫力に欠ける。他の遺跡と比べるというのもナンセンスなのだろうが、これがオレの率直な感想だった。やはり多くを見過ぎてしまったオレは「感動のスイッチ」が入りにくい・・・。
そして入場料の高さと観光客の多さ、さらには炎天下での観光と急なスコールなどがさらに印象を悪くしてしまった。
翌日気を取り直してヒンドゥー寺院の遺跡プランバナンへ行く。しかしまたしても感動できるようなものではなく残念・・・。それにしてもとにかく入場料が高すぎる!
ジョグジャカルタでは王宮で伝統舞踊を見たり市内散策をしたりと、久々に動きまわっていた。疲れたので1日何もせずにゆっくりしてからバリ島へ向かう。短い間だったがタカヒロくんとはここでお別れだ。
彼はジャカルタに住んでいるインドネシア人の友人に会うために、インドネシアまで来たそうだ。オレはその話を聞いてアリさんのことを思い出した。あの家族にもう一度会いたい。あの村の人たちにもう一度会いたい。もう一度会いたい・・・が、前にアリさんが「金を貸してくれ」と手紙をよこしたことを考えると、やはり「会わない方が良いのでは」とも思ってしまう。どちらにしてもアリさんの村はバリとは反対方向だ。とりあえずバリへ行き、後のことはそれから考えよう。
ジョグジャカルタの伝統舞踊 / ジョグジャカルタの街並
111.まだ大丈夫 2004 12/22(インドネシア)
オレはジョグジャカルタからバスでバリ島へ向かった。ジョグジャカルタのあるジャワ島とバリ島との間にはフェリーが運航されているため、バスで直行できるのだ。
ジョグジャカルタを発ってしばらくすると激しい雨になったが、エアコン付のバス内は快適だった。チケットは食事代込みで、途中のレストランでの夕食もボリューム満点でウマかったし、このバスには満足していたのだが・・・。
事件は起こってしまった!
ジャワ島からバリ島へフェリーで渡った時、バリ側の船着場で乗客は全員バスから降ろされ、身分証のチェックがあった。この時早朝の4時すぎで、オレは眠いところを起こされ少し不機嫌だった。
チェックは簡単なものだったが、何が悪いのか唯一の外国人だったオレは別の部屋へ行くように言われた。だが、別室に入ったは良いが職員の中に英語を話す人間が1人もいない・・・。
「意味ねーじゃねーか!」
と思いながらバスに戻る。
ところが何とバスはすでに走りだしているではないか! ダッシュしたが追いつくはずはなく、しかたがなく他のバスに乗せてくれと頼んでみた。しかしダメ・・・。オレはチェックポストへ戻るしかなかった。彼らに責任を取って送ってもらう! とにかく急がなければならない。到着が遅れるのは問題ではないのだが、バスはオレの荷物を乗せて行ってしまったのでターミナルでそれが行方不明になる恐れがあるのだ。
しかし英語がまったく通じない彼らにどうやってそれを伝えるか? 一番手っ取り早いのはこれだ! これしかない! キレるのだ!! いや、「キレたふり」だ! オレは先ほどの部屋に入るなり机を蹴り倒して怒鳴った!
「テメーらがウダウダやってっからバスが行っちまったぢゃねーかっ!!」
日本語だったがこの迫真の演技で充分に通じただろう。
「デンパサール!!」
オレのバスはバリ島のデンパサールまで行くのだ。少しやり過ぎた感はあったが効果はてき面だった! 職員の1人がバイクを持ってスッ跳んできたのだ。この様子だとこんなことが今までにも何回かあったのだろう。そう思えるほどの対応の早さだった。
まだ小雨が降り止まない中でのバイクは風が冷たかった。
「こんなんで1時間以上も走るのかよ!?」
そう考えると、さっきまでの「キレたふり」も「ふり」ではなくなり、本当に腹が立ってきた。
10分程走っただろうか、ラッキーなことにスタンドで給油中のバスを発見! オレはもう一度、今度はバスのスタッフを怒鳴りつける。今回は本気だ。バスの車体を蹴りつけてバスに乗り込んだ。それにしてもオレの横の席の男は何も思わなかったのだろうか? オレが戻っても何事もなかったような顔をしている。こいつにも怒鳴ってやりたかったが、くだらないので寝ることにした・・・。
バリ島は意外に大きい島だ。それから2時間以上かかってようやくデンパサールに到着した。快適なバスが一転最悪のバスになりかけたが、最後にもオマケが付いていた。バスの車体下部にある荷物入れが大雨で水浸しだったのだ。オレのバックパックも中身までずぶ濡れ。もう何も言う気にもならなかった・・・。
こんなふうに書くと何か悲惨な目に遭ったようだが、実はそうではない。ずい分前にも書いたがトラブルは楽しいものでもあるのだ。幸いオレはそう感じることができる。そう思うことができているうちは、まだ旅に飽きてないということなのではないか。オレはまだ大丈夫なようだ。
112.芸術の村 2004 12/29(インドネシア)
バリといえば誰でもビーチを思い浮かべるだろう。もちろんビーチも楽しみなのだが、それは後まわしにして、オレはウブドゥという村へ向かった。ウブドゥは「芸術の村」と呼ばれ、絵画や彫刻、踊りなどの伝統芸術が盛んな村だ。そして田園に囲まれた小さな村ということで旅行者にも人気が高い。オレはもしも可能ならばここでバリ絵画を学ぼうと思っていた。
オレがそのウブドゥへ向かっていると、同じ車に乗っていた男性が話し掛けてきた。彼の家は宿をやっているので来ないかと言う。とりあえず見るだけ見てみようと思いこの男性について行ったが、かなり良い部屋だった。当然その分値段も高かったのだが、オレはここに宿を決めた。理由はオーナーが画家だったからだ。絵を描くところも見せてもらえるように約束もした。早くも絵を習える機会ができたと思ったオレだったが「絵を描き始めるのは来週」と言われてしまった。
バリでは西暦の他にバリ暦というものを使っていて、祭りや田植え、収穫、宗教行事などはこのバリ暦にのっとって行われているらしい。そして絵を描き始めるにもバリ暦の吉日を選ぶのだそうだ。
しかたがないのでそれまでの間はウブドゥにある画廊や工房を見てまわったのだが、スクールよりも商売に力を入れている所がほとんどだった。つまり「習うより買え」という感じなのだ。こんな環境を見て、一気にやる気をなくしてしまった。この村はあまりにもツーリスティックで外国人も多いために、こうなってしまったのだろう。純粋に絵が好きな人間にとっては寂しいことのように思う。
オーナーが絵を描き始めるまでの間、オレは村の田園を散歩したり、美術館へ行ったり、祭りや踊りを見たりして過ごしていたが、雨季のこの時期は雨が多かったために宿のバルコニーでのんびりしている時間も長かった。久々に長い時間を1人で過ごしたため、いろいろなことを考えていた。ここ最近「旅が楽しい」ということしか頭になかったので、良い時間が持てたように思う。
そんなある日、オレはネットカフェで日課のメールチェックをしていた。メールボックスを開いてビックリ! ふだんなら多くても5件くらいしか来ないメールが、20通以上も来ている。メリークリスマスのメールかな? それとも一足早いハッピーニューイヤー? などと思いながらメールを開くと・・・、オレの安否を心配するような内容のものがほとんどだった・・・。
スマトラ島沖で大地震が発生したのだ。津波で多くの犠牲者が出てしまった。
オレはメールの返信は後まわしにして、ネットでニュースを見た後、テレビのあるレストランへ走った。
「アリさんは大丈夫だろうか?」
アリさんの村は震源に近い。家も海岸からそれほど離れていない。津波の被害はあったのだろうか? テレビから流れる映像に心配は膨らんだ・・・。
それにしてもバリ島では幸い何ごともなかったのだが、オレが津波に遭っていた可能性も充分あったのだ。今考えてみるとチリですんなり航空券が取れていればもうタイあたりまで行っていたかも知れない・・・。被害のあったタイ西海岸はオレがこの後行く予定をしていた所だ。そう考えるとゾッとする。本当にツイていたというしかない。
昨年はイランの地震でバムに行けなくなり、今年もこの地震でタイの西海岸には行けなくなってしまった。ツイていないといえばツイていないが・・・。
ウブドゥの田園 / 宿のオーナーは画家
113.最悪の年越し、最高の正月 2005 1/8(インドネシア)
バリ、特にウブドゥの一般的な家庭には、家の中にファミリーテンプルという寺を設けている家が多い。オレが泊まっていた宿にもこの寺があり、毎朝オーナーが米を供えていた。ある日この寺で小さな「宗教的奉り」を行った後、オーナーは絵を描き始めた。オレはそれを見させてもらったが、やはり勉強になることは多かった。もっと本格的に学びたかったが、1日見ているだけでも得るものはあり、今回はこれで良いということにした。
9日間滞在したウブドゥを離れ、オレは年越しと正月を静かなビーチで過ごすためにギリメノという小島へ向かうことにした。ここは中東、東欧、中米で一緒だったマツモトさんに良い所だと教えてもらった場所だ。オレがウブドゥを出たのは大晦日だったのだが、これが失敗の始まりだった。
バリ島からギリメノへ行くには一度ロンボク島へ行かなければならない。ボートには2種類があり、高くて早いボートならば1日でギリメノまで行くことができる。しかし、安くて遅いボートの場合はロンボク島で1泊した翌日ギリメノへ行くという日程になるのだ。
オレは2004年中にギリメノへ行くことができないのであれば、バリで年越しをしたいと考えた。ところが旅行代理店の男は「今日中に着ける」「何とかスピードボートをチャーターできる」と言うではないか。その言葉を信じてこの日にボートに乗ったのだが、結局オレはこの男にダマされていた。ロンボク島の何もないつまらない町で年越しとなってしまったのだ。本当に頭にきた。何日か後にはバリへ戻るので、その時に怒鳴りこんでやる! 最悪の年越しだ。
2005年の元旦にギリメノへ到着。やはり昨夜は島の1番大きなホテルに島中のツーリストを集めてパーティーがあったらしい・・・。行きたかった・・・。
だがもうそんなことはどうでも良かった。この島を最高に気に入ったからだ! オレの泊っている宿はビーチにレストランがあり、そこがこれ以上にない居心地の良さだった。青い海に青い空、レストランの屋根の影で涼しい海風にあたりながら、本を読んだり何も考えずに海を眺めたり。ここには地元の若者たちが多く集まっていたので、彼らとも親しくなって朝から晩までくだらない話をし、ギターを弾いて唄い、海を眺めた。これこそまさに「癒し」だ! バリと違って天気も良いし、海もなかなかきれいだし、シュノーケリングも楽しい。日本人旅行者のマイコさんとミホさんとも知り合い、最高の正月になった。
今後の予定さえなければずっとここに居たかったが、残念ながらオレには予定があったのだ。バリ島からバタム島という島へフライトするチケットを早々と買ってしまっていた。バタム島はインドネシア最北部の島で、シンガポールにほど近い。
ウブドゥに長く居すぎたこともありギリメノには4泊しかできなかったが、この旅で1番の所を見つけたような気がする。
バリといえばクタビーチだ。1人で行ってもつまらないとは思っていたが、世界有数のビーチリゾートがどんな所なのか見てみたかった。バリへ戻ったオレはそのクタへ行った。街は思っていたよりもオレの好きな感じだ。世界中から旅行者が集まっているわりには、庶民的な面も見ることができる。ビーチはイマイチだったが、これも2年前にここで起きたテロの影響なのかもしれない。
クタでは、以前ジョグジャカルタで知り合ったユキちゃんに偶然再会した。おかげでこんなリゾート地で1人寂しい思いをすることなく、楽しい時間を過ごすことができた。しかもこの日はオレの誕生日。夜は2人でちょっとだけ気のきいたレストランへ行き、ささやかな誕生パーティー。
2005年は今のところ調子良いみたいだ。
ギリメノはかなりいー感じ
114.何て最低な人間なのだろう・・・。 2005 1/8(インドネシア)
正月は最高に楽しかった。しかしオレは楽しさのあまり大事なことを忘れてしまっていた。そのことを思い出した瞬間、オレはそのことを忘れていた自分を疑った。そして責めた。信じられなかった。
アリ・ムルティム。彼の家は西スマトラ州の小さな漁村にあり、今回の津波で最も被害の大きかったアチェの東南に位置している。彼の村は漁村なので当然海に近い場所にあり、しかも特に高台にあるというわけでもない。オレは初めて津波のことを知った時、しばし呆然としてしまった・・・。
「アリさんの村はどうなってしまったのだろう・・・、アリさんは? 家族は? 村のみんなは?」
本来ならばすぐに電話をするのが当然だろう。しかしオレはしなかった。いやできなかったのだ。
オレがアリさんと出会ったのはもう1年以上も前のことだ。その後オレは友人の結婚式のために1度日本へ帰り、その時アリさんに手紙を出した。「日本に帰りました」と。再びオレは旅を続けているわけだが、アリさんはそのことを知らない。もしもここで電話をして、オレがまだ旅をしていると知ったら、しかも今インドネシアにいると知ったら、アリさんはこう言うかもしれない。
「村に来てくれ」と、そして「助けてくれ」と、そう言うかもしれない。もちろんそうしてやりたい気持ちはある。しかし残念ながらオレはそれを実行に移せるような人間ではなかった・・・。ヒドイ人間なのだ。最低な人間なのだ。
それに「被災地では感染症が発生する危険が高い」と各メディアで警告されている。とにかく行くことはできない・・・。つまりオレは助けてくれと言われたら困ってしまうし、それを断ることもしたくない。それならば最初から電話しない方が良いではないか。そう考えてしまったのだ。
電話できない理由は他にもあった。もしも電話が不通になっていれば余計に心配になってしまうし、つながったとしても状況を聞くのが怖かった。誰かが亡くなってしまっているかもしれない・・・。
とにかくオレは自分の楽しい、きれいな思い出を守るために、友人を、恩人を見捨てたのだ。逃げたのだ。裏切ったのだ。本当になんて最低な人間なのだろう、オレは・・・。
と、ここまで思い詰めていた年末のオレだったのだが・・・。たった4、5日の間に楽しさに負けてしまった。完全にアリさんのことは忘れてしまっていた。だからそれを思い出した時にはさらに自分がイヤになってしまったのだ・・・。
みんなが苦しんでいる時にオレは「最高に楽しい」などと言っていたのだ・・・。
今の世の中、特に日本にはこんな人間ばかりなのだろう・・・。
本当にイヤになってしまう。
今はアリさんたちの無事を祈るしかない・・・。
そしてせめてもの罪ほろぼしにと、オレはガラにもなく募金を始めた。
「ごめんなさい。どうか無事でいてください」
115.TSUNAMI 2005 1/14(インドネシア、マレーシア)
1月8日。オレは旅に出て2回目の誕生日を迎えた。29才・・・。旅に出る前には、この29才の誕生日までには日本へ帰るつもりだった。しかしそれは地球を一周したかったオレにとってムリな話だったのだ。オレはこれでも行きたい所をかなり省いて来ているし、移動ペースもかなり早いのだ。行きたい所へすべて行っていてはどんなに急いでも2年半はかかるだろう。とにかくオレはもう少しだけ旅を続ける。
この日、オレはバリ島からバタム島へと飛行機で移動した。バタム島はバリ島と同じインドネシア国内にあるシンガポールの近くの島だ。本当ならばバリ島からマレーシアかタイまで飛んでしまいたいところだが、バタム島まで飛んだ後、海路と陸路で北上する方がはるかに安かったし、国際線では片道チケットが問題になる可能性もあった。
そのバタム島で1泊してボートでシンガポールへ。シンガポールからバスを乗り継ぎマレーシアのクアラルンプル。さらにその翌日にはペナン島へと足早に移動した。
シンガポール、クアラルンプルには前にも来ているし、もう一度見たいと思うような町もこの間にはなかったのだ。だがペナン島にはしばらく滞在することにした。ここだけはもう一度行っても良いと思える所だし、それよりもタイ南部の様子をしばらく見る必要があったからだ。
オレはこの後タイ南部、東海岸にあるタオ島でダイビングのライセンスを取りたいと思っている。しかし年末に起こった津波により感染症が発生する危険がある。タオ島は被災地の西海岸とは逆側の東海岸だ。しかし西海岸で大規模に病気が流行すれば東海岸まで拡がる心配はないとはいえない。とにかく念のためにしばらく様子を見ることにした。
ペナンでの宿はやはり「アーベンゲストハウス」。1年以上前に2度来ているが、宿の人たちは「何となく見た顔だな」と覚えていてくれたらしい。それはうれしかったが、ケンちゃんとマサコさんたちは顔を見せなかった。残念。
この宿には日本人向けの情報ノートも置いてある。それをひろげ、前にオレが書いた書き込みを読んでみた。なんとも懐かしい感じと、まだ旅に慣れていない感じが面白い。それもそのはずだ。オレは1年以上もかけて地球を一周してまたここへ戻って来たのだから・・・。
「ん? えーーーっ!!? そうか!! オレ・・・いつの間にか地球一周してた・・・」
オレは今まで、地球一周のゴールは日本だとばかり当然のように思い込んでいた。「地球一周を達成した瞬間って、どれだけ感動するんだろう?」と楽しみにしていた。ところが考えてみると、オレはシンガポールへ着いた時点で地球一周を達成していたのだ。
感動も何もあったもんじゃない・・・。気付きもしなかったのだ・・・。
ところでこのペナン島も津波の被害を受けている所だ。オレはそれを知っていたため、始めはクアラルンプルから一気にバンコクまで行って様子を見て、大丈夫そうならタオ島まで戻ろうと考えていた。しかしペナンの被害はビーチのみで、病気の心配もほぼないということが分かり、ここまでやって来た。
旅行のハイシーズンということもあるのだろうが、タイから旅行者が流れてきたことで、ペナンのビーチはいつになく賑わっていた。これを見てもここは全く問題ないことが分かる。
しかし、ビーチを見てみるとやはりレストランやホテルの石垣が壊れ、ヤシの木の根元はえぐれてしまっていた。初めて津波の威力を実感した。ここに来てこれを見て正解だったと思う。ここ以上の被害があった所へ行くのは危険なのだから・・・。
そしてオレはここにいる間に情報を集めて判断した。
「タオ島へ行く」
ペナン島にも津波の被害が・・・
116.帰って来ましたタイランド 2005 1/19(タイ)
マレーシアのペナンを発ったオレは、タイのタオ島へ向って北上していく。途中何個所かに寄りながら行くことにした。まずはタイとマレーシア国境近くの町ハジャイ。以前来た時に「国境の町のおもしろさ」というものを初めて感じた所だ。
約1年ぶりのタイということもあって久々にくたくたになるまで街を歩きまわった。そういえばオレはタイという国にいると、どこの町でもやたらと歩きまわっているような気がする。いったいタイの何がオレをそうさせるのだろう?
ハジャイの次はサムイ島だ。ハジャイからスラタニーまでミニバスで行き、そこから港までバスに乗り、さらにボートでサムイ島へというジョイントチケットを買った。ところがこの会社、スラタニーで乗り換えの時に追加料金を払えと言い出した。
またやられた・・・。どうもアジアに帰って来てからダマされてばかりだ。バリからギリメノへ行った時は今日中に着くと言っていながら翌日に着いたし、バタム島からシンガポールへのボートチケットは外国人用の片道チケットではなくインドネシア人用の往復チケットを買わされたし、ペナンからハジャイへ来た時もミニバスは街の中心まで行くと言ったのにバスターミナルまでしか行かなかったし、今回またこれだ・・・。アジアへ戻ってくる前に東欧、中米、南米とまわっていて、ダマされるということはほとんどなかったために、少し感覚が鈍ってしまったのかもしれない。そう考えるとアジアはイヤな所だと思ってしまったりもするが・・・。
とにかく今回も頭にきたオレはいつもの手を使うことにした。店の人間、店の看板、車のナンバーを写真に撮り、一言
「I go police ! 」
これで今までのところは100%オレの勝ちという結果に終わっている。しかしこの会社はなぜかオレを止めなかった・・・。
「おいおい、止めてくれよ。止めて『分かった分かった』と言ってバスに乗せてくれよ」
オレの思惑は外れ・・・しかたがなく今回、初めて本当に警察へ行くことになってしまった。ヘタな英語で説明したが、意外とすぐに理解してもらえた。よくあることなのかもしれない。
30分後オレが警官を連れて店へ戻ると、案の定あわててオレをバイクに乗せてバスターミナルまで行くことになった。だったら最初からそうしてくれよ! どこの国でも警察は強いのだ。
そんなこんなでサムイ島へ到着した。この島について何の情報も持っていなかったオレは、とりあえず港の町で1泊し、ネットでサムイについて調べた。そして日本人が経営する宿があるビーチを見つけて翌日そこへ移動。宿は良いがビーチはイマイチといったところだ。2泊だけして次のパンガン島へ行くことにした。
海はいーねー
117.潜る! 2005 1/27(タイ)
サムイ島からボートで1時間。パンガン島へ到着した。ここはフルムーンパーティーで有名な島だ。オレがここに着いたのは19日、フルムーンの24日が近いということで、もの凄い数の欧米人で溢れていた。空港でも見たことがないほどの旅行者の数だ。ビーチのレストランやバーからは大音量の音楽や映画が流れ、パスタやピザ、ハンバーガーの店が多い。まるでタイではないような所だった。
誰かと一緒なら楽しかっただろうが、1人だったオレはあまり居心地が良いとは思えなかった。知り合いでもできればフルムーンパーティーまで待っても良かったが、ここではそんな出会いもなくて残念・・・。
ほとんどの時間をバンガローのハンモックで過ごし、いよいよタオ島へ向かうことにした。
タオ島に着いたオレはブッダビューというダイブショップへ行った。これまで旅で出会った人の多くがここでダイビングのライセンスを取得していたからだ。
翌日から早速講習を始めることになった。最初のレベルの「オープンウォーター」というライセンスに3日、次のレベルの「アドバンス」に2日。オレはここまで取るのだが、それでもたったの5日間、400USドル(約4万5千円)だ。日本ではどのくらいかかるのか見当もつかないが、たぶん400USドルはかなり安いのだと思う。
講習の2日目からは実際に海に潜っての練習だ。さすがに初めてのダイブの時には感動した。しかし残念なことに今の時期、海はあまりキレイではなかった。オレは旅の途中でここに寄ったために、ベストシーズンに日程を合わせることができなかったのだ。オレが潜っている間の何日間かは特にコンディションの悪い日が多く、インストラクターの人でさえ「ここまで透明度が低いのは初めてだ」と言っていたほどだった。
このことが理由で、今回はダイビングにハマるまでには至らなかったというのが本音だ。だが、ただ泳いでいるだけでもおもしろかったし、いつかキレイな海に潜れば絶対にハマると思う。また1つ楽しみが増えた。
タオ島ではダイビング以外の時間も楽しく過ごすことができた。ダイビングのベストシーズンではなかったが日本人もそれなりにいたし、やはりビーチがあるというのは良いものだ。バリ島から多くの島を渡り、1ヶ月間ビーチで過ごしてきたが、それでも飽きることはなかった。やはりオレは海が好きなのだろう。1人でものんびりできるし、みんなといても楽しいものだ。タオ島には近いうちにもう1回行きたいと思う。そんな島だった。
ダイビングは楽しーよー
118.ラストバンコク 2005 2/14(タイ)
タイの次は中国へ行くつもりだ。バンコクから雲南省の昆明へ飛ぶ予定。陸路で行ってもおもしろいのだろうが、旅も1年半になってくると長距離移動がめんどうになってきてしまった。それに道も整備されていない地域だ。バリ島からバタム島へ飛行機を使ったように、今回も飛行機を使う。
ところが、このままのペースで中国へ飛ぶと中国正月の「春節」とぶつかってしまう。去年の春節にはアンコールワットにいて、中国人だらけで観光どころではなくなってしまった経験がある。中国本土はもっとすごいらしい。ホテルはなくなってしまうし、バスや電車のチケットも取れなくなってしまう。そんなことを考慮すると、昆明へ行くのは春節の休みが終わる2月14日以降にする方が無難だ。まだ20日も時間があるがちょうど良い。今回バンコクではタイマッサージの講習を受けようと思っているし、タツヤさんとも会うことになっている。インドで知り合ったユウコさんもバンコクに来る予定だし、何よりオレの好きなバンコクに長居してみるのも良いと思う。意外にもバンコクには6日以上連続で滞在したことがないのだ。長い間ひとつの街で生活してみれば、また違うものも見えてくるだろう。
タオ島からバンコクへ向かう途中に一度ミャンマーへ行き、タイへ再入国。これでタイの滞在期間が30日にリセットされた。これでタイに滞在できる日数が増えたのだ。
そしてバンコクに着いたオレは早速タイマッサージの学校をまわってみたのだが・・・。結論から言うと講習を受けるのはヤメてしまった。料金が思っていたより高かったこともあるが、「これを習ったところで何になるんだ?」と思い始めてしまったことで、急にヤル気が失せてしまったのだ。
それからのオレはただ春節が終わるのを待つだけという、いってみればネガティブな生活を送ってしまったように感じる。タツヤさんやユウコさんと会ったり、他の日本人と話したり、街を歩いたり、チャイナタウンの祭りへ行ったりと、楽しいことは楽しかったが、どうも今までと何かが違ったような気がした・・・。
少し苦労したが16日発昆明行きのチケットが取れた。中国はいったいどんな所だろう? 世界中に住んでいる、そして世界中で嫌われている中国人はいったいどんな人間なのだろう? オレのこの旅の最後の国、中国。
最後にハードな旅になりそうな予感だ。
ミャンマーのコートーンへはボートで移動 / バンコクの中華街も春節で祭り