最後の大国
〈中国編〉
中国(38ヶ国目) 2005/2/16-3/10
ベトナム 3/10-18
中国 3/18-24
香港特別行政区(39ヶ国目) 3/24-29
マカオ特別行政区(40ヶ国目) 3/29-4/1
中国 4/1-14
119.ニーハオ中国! 2005 2/20(中国)
曇り空の空港に降り立ったとたん、冷たく乾いた風に身を震わせた。予想はしていたがやはり寒い。ここは中国雲南省の昆明。中国の南の端ではあるが標高が高いので気温は高くない。
ついに長かったこの旅も最後の国を迎えた。
片道航空券で国際線を利用すると入国時にトラブルになることが多い。本来ならば片道航空券では入国できない国がほとんどなので、こちらは文句を言えないのだが・・・。オレも今までメキシコとインドネシアでもめたことがあった。
そしてやはりここ中国でも。しかも相手はあの中国人だ、別室に入れられたオレは「タダではすまないかな」と少し弱気になった。そして調べが進むと、徐々にオレは不利になってしまった。旅行者を証明するためのデジカメのデータは、バンコクでCDに焼いたために消去してしまっていたし、旅の終わりが近いので所持金も少ない、ニセの学生証は見つかってしまうし、パスポートには無数のスタンプ、そして旅を始めて1年半・・・。空港職員というのに英語のほとんどできない彼らを相手に、1時間半の時間を費やすこととなった。
が、彼らの英語力のなさが逆にオレに有利に働きだした。彼らは「中国を出国する航空券をこの場で買え」と言っていたのだが、オレはその英語を分からないふりをしていた。実際メチャクチャな英語なのだ。英語を諦めた彼らは、筆談を始めた。日本人のオレにはそれで通じてしまったが、筆談の漢字も分からないふりだ。とにかく分からない演技を続ける。
そのうち彼らはめんどうになってきた様子だった。そして・・・、何事もなく無事入国! 今回ばかりは少し危ないところだった・・・。
昆明は都会だ。21世紀の今日、どこの国を見ても信じられないくらいに発展している。それを見てきた今だからこそ驚きはしなかったが、中国の発展ぶりも目をみはるものがある。土地が広く、開発されたのが近年とあって、日本以上に都会だと感じる場面さえあるくらいだ。
旅を始めたころはゴミゴミした都会が好きになれなかったが、旅を続けているうちに都会の方が好きになってしまった今のオレにとって、昆明は居心地の良い所だった。特に見るものはないのだが、この街には長居をしてしまった。
友達ができたのが動けなくなった大きな理由の1つだ。オレと同じ日にベトナムから中国へ入ったコマくん、これから昆明の大学に通うというジョウジさん。そして何故かここでは日本語のできる外国人と多く知り合った。韓国人の女の子、香港から来た3人組、沖縄に住んでいるフランス人カップル。彼らといた昆明は楽しかった。
特に中国が長いジョウジさんと香港の3人にはいろいろと教えてもらい、中国のスタートとしてはうってつけの仲間たちだった。
メシはうまいし、物価は安い、要注意とされていた中国人もこの街では不快な思いをすることも少ないし、女の子はカワイイ。この街で一気に中国を好きになったが、中国はまだまだ広い。この国では油断していると痛い目にあいそうだ。
昆明の町には花がいっぱい / 昆明は楽しかった
120.麗江 2005 2/27(中国)
友達がたくさんできた昆明には結局8日間もいてしまった。オレはここで知り合ったコマくんと2人で麗江(リージャン)という古い街並みの残る世界遺産の町へ移動する。
汽車站(バスターミナル)へ着いたオレたちは、売店で菓子や飲みものを買いながら出発時間を待っていた。そろそろバスに乗り込もうと待合室へ向かうと、1人の男に話しかけられてそのままバスまで案内された。別にバスが分からなくて探していたわけでもなかったので、チップが欲しいのだろうと思っていたが、案の定だった。オレたちは「No」と言い続けたが、こいつはしつこい。相手をするのも面倒になり無視を決め込むと、この男はコマくんの買った菓子と飲みものをひったくってバスから降りてしまった。完全にドロボウだろ! と思いオレが追いかけようとしたが、コマくんがそれを止めた。
この国に来て初めて不快な思いをさせられた。
ところでオレたちが乗ったバスは「寝台バス」だ。「寝台列車」は多くの国で走っているが、「寝台バス」は初めてだ。おそらく中国にしかないものだろう。始めはベッドが狭く、中国人の足が臭くて不快なものだったが、眠ってしまえばかなり楽に移動できた。これで長距離移動も苦にならないかもしれない。
中国は交通事故が多くて有名だが、最初の移動で早くも事故渋滞に遭ってしまった。バスのチケットを買うときに強制で保険に入らされるくらいなので、相当事故が多いのだろう。それもそのはずだ。オンボロの車で悪路を暴走するのだから・・・。
翌朝麗江に着いて、泊まろうとしていた宿を探したオレとコマくん。しかしこの街はまるで迷路のような造りになっているため、ついにそこを見つけることはできなかった。そして地図を見ながら歩いていると、1人の女性に声を掛けられる。「うちに泊まらないか?」と。安かったのでついて行ってみると普通の民家だ! どうやらベトナムのホーチミンやヨーロッパにもあったように、こうして民家を宿にしている家がここにもいくつかあるらしい。オレたちはここに宿を決めることにした。 これが正解。部屋はキレイだったし、庶民の生活にも触れることができた。家の人たちも良い人ばかりで、小学生の娘さんもカワイかった。ただ1つ、家の造りについて驚いたことがあった。玄関を入るとすぐにトイレがあるのだが、そのトイレにはドアがないのだ! 中国ではトイレにドアがないことは不思議ではないが、それが門をくぐっていきなり現れるとは! 用と足しているところに客が来たらどーすんのさ!!?
麗江はキレイな街だ。石畳の細い路地が入り組み、そこには水路が整備されている。庶民の生活の水だ。飲み水、野菜を洗う水、服を洗う水と別れている。水路沿いには柳の木と赤い提灯。そこに火が灯る夜が、この街の1番キレイな時間だ。そして夕食の良い匂いが、あちこちから流れてくる。
その匂いに惹かれて砂鍋飯(土鍋で炊いた炊き込みご飯)を食べる。う、うまい・・・。この国では何を食べてもウマいし、日本食にも近いものを感じる。それだけ日本に近づいたということだろう。そういえばこの街の古い町並みも、時代劇で見る江戸の風景に似ていなくもない。
それにしても麗江は寒かった。昆明より標高も高く、内陸に来たからだろう。間近には雪山がせまっている。雪といえば・・・、昆明で知り合った香港の3人組にデジカメの写真を見せてもらったことがある。その中に一面の雪景色が写っていた。香格裏拉(シャングリラ)という町だった。彼らは「とても良かったからぜひ行ってみて」と言っていたが、オレはその時点ではあまり魅力を感じなかった。寒い所にも行きたくなかった。ところが、ここ麗江の何気なく立ち寄った本屋でその香格裏拉の写真集を見たオレは、「やはり行ってみよう」と考えが変わったのだ。それだけのすばらしい景色がその本の中にはあった。
翌朝、ビザを取っていないため中国の滞在期間が残り少なくなったコマくんは、足早に大理(ダーリー)へ向かった。オレは香格裏拉へ行くまで、もうしばらく麗江の街を歩くことにした。麗江といえば少数民族のナシ族。今でこそ漢民族も多く暮らしているが、麗江はナシ族の町なのだ。そしてそのナシ族が昔から伝えている文字がトンパ文字という象形文字だ。トンパ文字、ナシ族の伝統文化、そして伝統料理がこの古い街並の中にあふれている。麗江は歩いているだけでも楽しい街だった。宿でも地元の人の生活にふれることができ、とても良い経験になった。もっと寒くない時期にもう1度来たいと思えるような所だった。
麗江の風景 / ナシ族の使うトンパ文字
121.3月の雪 2005 3/9(中国)
旅をしていて「ここはすごい!」と思った風景の半分くらいは移動中に見たものだろう。
麗江から香格裏拉へ向かうバスもそんな風景の中を走っていった。のどかな農村に一面の菜の花だろうか黄色の花が咲き、100年前にタイムスリップしたかのような造りの民家に農民たち、そして牛、豚、羊・・・。香格裏拉は桃源郷と呼ばれているが、まさに「桃源郷へ向かっているのだ」と感じられるような風景だった。
しかし景色は良いがとにかく寒い。中国人たちは走っているバスの窓を開けたままなのだ! ただでさえ寒いのに、風にあたると顔が切れそうになった。もちろんバスに暖房などというものはない。5時間かけて北へ向かい、香格裏拉へ到着した。香港の3人の写真のように雪こそ積もってはいないが、麗江とは比べものにならないくらい寒い。
そして失敗・・・。この町について何も知らずに来てしまったが、主な見所は町の外にあり、ツアーでないと行くことは難しかったのだ。ツアーはもちろん高いし、英語の通用度がかなり低いこの国のことだ、ツアーであっても英語が通じるかは疑わしい・・・。
結局町のはずれにあるチベタンテンプルだけを見て、あとの2日間は宿の電気毛布にくるまってTVを見ていた。寒くて動く気になれなかったのだ。TVのある宿で良かった・・・。
それでもここには来てよかった。ここはチベット文化圏の最端で、漢民族の文化とは少し違ったものにふれることができたからだ。オレはこの街の風景を見てネパールを思い出し、懐かしくなった。いつか本場のチベットにも行ってみたいものだ。
香格裏拉から南へ戻り大理へ。この町も麗江同様古い街並が残っていて、東には湖、西には急にそそり立つ山と、風景の良い所だ。そして麗江にナシ族がいるように、ここにはペー族が住んでいる。やはり食べ物などは独自のものがあり、ぺー族の民族衣装も見ていて楽しかった。そして暖かかったことにほっとした。昼はTシャツ1枚でも大丈夫なほどだったのだ。
ところが・・・。3日目からなんと雪! 気温もぐっと下がってしまった。それからはどこにも出掛けらなかった。こんなことなら最初に観光をしておくべきだった。そうすればすぐにでも次の町へ移動したのに・・・。
それでも、日本人宿に泊まっていたおかげでマンガとマージャンでヒマをつぶすことはできた。マージャンは中国人に大金をまきあげられてしまったが・・・。
3日間雪は降り続いた。その間は電車もバスも止まってしまっていたので移動はできない。それにまだこの街の観光をしていなかった。
雪が止んだ日、天気はまだ良くなかったのだがしかたがなく観光をし、その翌日には昆明へ戻った。良くあるパターンではあるが、昆明へ向かう日の朝になってようやく晴れ間がのぞいたのだった。
ところで、中国へ来る前は「中国人は最悪」、「中国人はムカツク」、「中国人には要注意」と、さんざんいろいろな話を聞かされていた。しかし昆明で1週間を過ごし、実際には「ぜんぜんそんなことないじゃん!」と思っていたオレだった。ところが、オレも麗江、香格裏拉、大理と旅をしているうちにその悪評が理解できるようになってしまった。理由を挙げればきりがないが、今では完全に「中国人嫌い」が深刻になってきている。
そんな気持ちで旅をしていたため、大理を離れる時にちょっとしたトラブルも起こしてしまった・・・。
大理の旧市街にあるバス停でバスを待っていると、しばらくしてバスがやって来た。しかし人がいっぱいだからと言って乗せてもらえなかったのだ。たしかに座席は満員だったが、乗れないことはなかった。
イラつきながらも、しかたがなく次のバスを待つ。
しかしまたしても乗車拒否。しかも運転手のその話し方に、ムカツキ度はMAX近くまで上昇!
オレは列車のチケットを買ってしまっていたので、駅へ行くのに時間の限りがある。次のバスにはどうしても乗らなければ、列車には間に合わない状況だった。
そして次のバス・・・。なぜかバス停の手前20mほどの所で停車して2、3人の客を乗せると、走って乗車口へ向かったオレを無視してドアは閉じてしまった・・・。ここまでくると、外国人旅行者に対する嫌がらせとしか思えない! 顔は中国人とほとんど変わりのないオレだが、バックパックを背負っているからだろう。
完全にオレのムカツキは頂点に達し、そのバスを追いかけて乗車口のドアを叩いた!
「開けろ!! このクソ中国人!!!」
運転手はバスを止めることなく走り去った・・・。
なんとか次のバスに乗ることができたオレだったが、時間はギリギリだ。焦りながら駅に到着。すると、ひとつ前にオレを置き去りにしたバスの運転手が、オレを待ちかまえているではないか! 手には鉄の棒を持っている! オレがバスのドアを叩いたことを怒っているらしい。
「なんだこいつ! アホか!!」
オレはもう30分も前のムカついた出来事などは完全に頭にはなく、今は列車に間に合うかということが最優先なのだ。この男は無視してホームまで走りたかったが、それではコイツから逃げるように見えてしまうではないか!! それにしても武器まで用意して待っているとは・・・。中国人は根に持つタイプで、執念深い・・・。
オレは逃げたと思われないようにゆっくりと歩きながら駅舎へ向かったが、結局は列車が遅れて1時間以上も待たされることになった・・・。
これでもう、オレも立派な「アンチ・チャイニーズ」だ。世界中で中国人が嫌われているわけが良ーくわかった。
昆明は麗江、香格裏拉、大理と比べるとかなり暖かい。もう春なのだろうか、2週間前に来た時には葉がすべて抜け落ちていた街路樹に、新緑がつき始めていた。
オレは宿で知り合った大学生の女の子につきあって、龍門という有名な寺へ行った。そういえば前回は8日間も昆明にいたにもかかわらず、ほとんど観光はしていなかった。ただみんなで騒いでいた記憶しかない。
ここで2泊したオレはベトナムへ向かう。中国のビザが切れるということと、前回ベトナムへ行った時には北部をまわっていないということで、うまくルートをつくることができた。一度ベトナムへ行き、そこから再び中国の香港側へと抜けるのだ。
その時までには完全に春になっていることを願う。もう寒いのはイヤだ・・・。
チベットのような香格裏拉 / 雪の大理
122.一度ベトナムへ 2005 3/15(ベトナム)
昆明から寝台バスでベトナムへ向かう。
オレがバスに乗って出発を待っていると、なにやら英語で口論している声が聞こえてきた。その声の主である欧米人がオレの横のベッドに席をとると、それを追って中国人がバスに入って来た。アイツだ・・・。
前にオレとコマくんがここから麗江へ向かう時にしつこくつきまとってきて、コマくんの菓子を盗んでいったあの男だ! 今日はこの欧米人がタカリの相手らしい。しばらく2人は何やら言い合っていたが、そのうち横のオレに気づいたらしい。
「Hi ! Do you remember me ? 」
オレが言うと、中国人の男は「まずいなぁ、またコイツだ」といった顔をしていた。
オレは続けて欧米人に、
「こいつは泥棒だから気をつけろよ。前にオレの友達がこいつに物を盗られたんだよ」
と話すと、男は中国語で捨てゼリフをはいてバスから降りて行った。
昆明でバスに乗ってから14時間。翌朝国境の町、河口(ヘイコウ)へ到着した。バスで隣だったイギリス人と一緒に、紅河という川を渡りベトナムへ入る。2回目のベトナムの第一印象は「ベトナム人にホッとした」というものだった。これは意外だった。
オレはベトナム人が好きではないし、南よりも北のベトナム人の方がキツイと聞いていたからだ。それでもホッとするというくらいに中国人はムカツク。きっとそういうことなのだろう。
それにしても旅の最後にベトナムと中国という国を選んでしまったのは「人間」という点では失敗だったかもしれない。最後くらい気持ち良く旅をしたかったが・・・。
ベトナム側の国境の町ラオカイからハノイへ向かったイギリス人と別れ、オレは車で1時間山道を入ったサパという町へ向かった。もともとは山間の小さな村だったのだが、周辺には多くの少数民族が暮らしているため、今では一大観光地になった町だ。
このような所というのは、有名になる前に訪れれば最高に良い所なのだろう。しかし、旅行者が集まりだすと町は変わってしまう・・・。そして人も変わらざるをえなくなってしまう・・・。ホテルができ、レストランができ、みやげ物屋ができ、そして金、金・・・。
昔からの生活を守ってきた少数民族は旅行者を相手にするようになる。それを見て「なんだ、少数民族ってこんなか。結局は金じゃん」などと言っている旅行者たち・・・。悪いのはオレたち旅行者の方なのに・・・。
とはいっても金を落としていくわけなので、ただ悪いばかりでもないとは思うが。難しい問題だ。
こんな町をいくつ見てきただろう。そしてこれからもこのような町や村は増えていってしまうのだろう。静かな生活を奪われる少数民族たち・・・。そのうちその独自の文化も失われてしまうのかもしれない。
などと言いながらも、それでもオレはこのような町は好きだ。矛盾しているが、旅行者なのだからしかたがない。
「サパは寒いし、天気も悪い」ベトナムから中国へ来た人たちは、みなこのように言っていたが、オレが行った時は天気も良く暖かかった。やはりもう春なのだろうかと思ったが、ただ運が良かっただけだったらしい。サパを出る日には雨となり、やはり寒くなってしまった。
サパから一度ラオカイへ戻り、そこから列車でハノイまで行く。この寒さでカゼをひいてしまった。中国同様ベトナム人も窓を開けっぱなしなのだ。そしてハノイでも雨が降り、寒い日が続いた。街も特におもしろくはなく、ベトナム人も相変わらずだ。気分は良くない・・・。
サパはモン族の町 / サパは山の中
123.ついにやられた!! 2005 3/18(ベトナム)
ハノイから東へ向かった海岸に、ハロン湾という景勝地がある。海から奇岩がいくつも生えていて、「海の桂林」と呼ばれている。ハノイからツアーで行くのが一般的だが、オレは自分で行くことにした。ツアーが高いということもあるが、結局は自分で行っても同じくらいの金額がかかってしまう。それよりも心配なのは天気だった。サパで会った人が「天気が悪くて霧で何も見えなかった」と言っていたからだ。実際ハノイもずっと曇りか雨。そこでオレは自分で行けば天気によって延期も中止もできると考えたのだ。まずはハイフォンというベトナム第3の町へ向かった。
ハイフォンで1泊して翌日のフェリーでバイチャイという町へ行き、そこからボートでハロン湾を観光する予定だ。ところが・・・。ハイフォンで安い宿が見つからずに歩きまわっているうちに熱が出てきてしまった。カゼをひいたまま無理して移動したのがまずかった・・・。
オレは体調を考えて少し良い宿に泊まったのだが、フェリーの時間を調べる気力もなくなってしまい、ガイドブックの時刻表を信じて寝ることにした。が、やはりこれは失敗だった。翌日フェリーターミナルへ行ってみると発着時間は変わってしまっていたのだ。朝の便はもう出発してしまっていた。最新の情報をチェックしないとダメという旅の初歩で失敗・・・。しかたがないのでバスでバイチャイへ行くことにした。
このバスで事件は起きてしまったのだ。これまでは運が良いことに1年7ヶ月もの間、金も物も盗まれたことはなかったのだが、ついにやられてしまった! しかもバスの中でクツを盗まれるというマヌケなことに・・・。
ベトナムのバスには荷物を入れるスペースがないものが多いのだが、このバスもそうだった。オレは荷物を座席の足元に置くしかなかったのだが、当然そうすると足を入れる隙間がなくなってしまう。そこでオレはクツを脱いで席にあぐらをかいて座っていたというわけだ。そしてバイチャイに着くとクツは消えていた・・・。これが前から嫌いなベトナム人だっただけに最高に頭にきた。オレのクツを盗んだ奴が残していったサンダルを履いてバスを降りる。雨が降っていたが、傘をひろげる気にもならず、ハロン湾を見に行く気も、宿を探す気もなくなってしまった。
ハロン湾は雨と霧で真っ白だったのだ。何も見えない・・・。
頭にきたオレは、「もうベトナムなんかにいてやるか」と思ってしまった。それにここで何泊かしても天候は回復しそうにない。オレはそのままハノイへ戻ることにした。そして明日中国へ向かうのだ。ハロン湾は所詮「海の桂林」だ。この後中国で、その桂林へ行くのだからそれでいいではないか。そう思うしかなかった・・・。
ハノイに着くと、また熱が出てきてしまったので、宿にチェックインするとそのまま布団にもぐった。夜になって目が覚め、夕食を食べに外へ出たがフラフラになっている・・・。近くの安食堂に入ったのだが、こんな時に限って近くの席で酒を飲んでいたベトナム人に酒を勧められた。本来ならこの酒をいただき地元の人たちと盛り上がるのだが、1杯だけいただいて店を出てしまった。このタイミングの悪さといいやはりツイていない。
店を出ると雨は強くなっていた。サンダル履きの足はドロまみれだ。もう最悪・・・。
ハノイの土産物屋
124.不運は続き・・・ 2005 3/20(ベトナム、中国)
体調は悪かったがオレは中国へ向かった。1日も早くベトナムを出たい気分だったのだ。国境の町ドンダンに着いたのは夜。宿を探して夜の街を歩くと、そこらじゅうで野良犬に襲われそうになった。その度に石を投げて応戦。最近とことんツイていない・・・。
しかもこの町では、行く宿行く宿でムカツクことになってしまった。この町のほとんどの宿が中国人の経営で、中国人以外は泊めないか、中国人以外からは大金をまきあげるという宿ばかりだったのだ。
なんとかベトナム人経営の宿を探してそこに泊まった。まったく中国人のヤツら、人の国でデカイ顔しやがって!
1泊して翌朝ボーダーへ行くと・・・。中国人の団体旅行者が10台ほどのバスで大挙して中国へ帰るところだった。ボーダーでこれほどの数の人を見たのは初めてだ! もちろん窓口は大混雑。
ようやくオレの番になったが、係員はオレのパスポートにブラックライトをあてたり、紫外線をあてたりしながら5分以上もにらめっこ状態だ。どうやら偽造パスポートだと思っているらしい。上司らしき人間に見せてOKが出たが、いったい何だというのだ? 入国ではなく出国でここまでチェックするなんて、まったく意味が分からない。
1時間もかかってベトナムを出国したが、当然中国側も同様の混雑ぶりだった。ここでも1時間近くかかってしまった。
そして、やっとボーダーを抜けたと思ったところでまた問題が。この国境から1番近い、憑祥(ピンシャン)という町まで行くバスがないのだ! 団体のバスに便乗させてもらおうとも考えたが、中国人のことなのできっとひどいことを言われて断られるに決まっている。
しかたなく大金を払ってタクシーで行くことになった。そして憑祥から列車に乗り南寧(ナンニン)という町まで移動。このまま乗り換えて次の目的地、桂林まで行けないこともなかったが、あまり無理をしてまた熱が出てはいけないと思いここで1泊することにした。さらに体調を気遣い、宿を探して歩きまわるのを避けた。駅前にある少し高い宿に決めたのだ。
ところが・・・、高いからそれなりだろうと思って部屋を見ずに決めてしまったのが失敗だった。いざチェックインしてみるとかなりボロイ部屋だったのだ。しかもトイレの強烈な臭いが部屋中に充満していて、とても不快だ。
ここのところ本当にろくなことがないと思っていたが、ここまで続いてしまうとは・・・。しかし、オレの不運はまだ終わらない。
この日、翌日の桂林行きのバスチケットを買っておいたのだが、カゼのせいもあったのだろうか? なんと翌朝寝坊をしてしまい、バスに間に合わなかったのだ! チケットはパアになってしまった! 交通費の高い中国でこれは痛い。このチケットも80元(約1100円)もしたのだ。しかも遅れたのはたったの10分だっただけに、余計くやしかった。
これだけ悪いことが続きカゼもひいていると、かなり精神的にダメージがある。そしてオレはついにこう思った。
「もう日本へ帰りたい」
旅に出てから心底このように思ったのはこれが初めてだった。しかしこれは、もうすぐ旅の終わりを向かえるオレにとって良いタイミングだったのかもしれない。「帰りたくないけど帰る」よりも「帰りたくて帰る」この方が良いのだ。
ハノイのホァンキエム湖
125.中国の風景 2005 3/23(中国)
いろいろあったが桂林へ到着。
桂林といえばあの山水画のような風景をイメージするだろう。桂林からそんな風景の中を船で川下りというのが観光のメインとなっているのだが・・・。この船があきれてしまうほど高い! 外国人は中国人の5倍の金額なのだ。そこでオレは船には乗らず、陽朔(ヤンシュオ)という町へ行く。この町は桂林からの川下りの終点の町で、陽朔からならば船に乗らなくてもすばらしい風景を見ることができるのだ。つまり陽朔へ行けば高い船に乗る必要などなく、あの風景を見ることができる。
桂林へ着くとすぐにバスを乗り換えてその陽朔へ。
バスは桂林の街を抜けると田園の中を走って行った。そしてしばらくすると、右にも左にもあの「いかにも中国」というような形をした山々が見え始めた。天気がすっきりしなく、霧がかかっているのも雰囲気がありイメージ通りだ。そんな山水画のようなすばらしい車窓のおかげで、陽朔までの1時間半はあっという間だった。陽朔の町もそんな風景の中にあり、景色は良い。ツーリストエリアもあるので居心地は良さそうだ。
このところ体も心も疲れていたので、ここでしばらくゆっくりとすることにした。とはいっても4日間しかいることはできないが・・・。
理由は約束があるからだ。昆明で知り合った香港の3人と、香港で再会することになっている。彼らのうちの2人が出張でスイスへ行ってしまうため、それまでに香港へ行く約束なのだ。
とにかく陽朔ではカゼを治すことが先決だ。中国ではほとんどの宿にTVが置いてあり、ちょうど週末だったのでF1やサッカーをずっと観ていた。体を休めるには良い機会だった。
おかげで体調は良くなり、陽朔での最終日はレンタサイクルで近くの村まで行くことにした。
自転車を借りる時、前に会った客引きのオバチャンに声をかけられた。オレに宿を紹介してくれた人だ。オレが自転車で走っていると、そのオバチャンが自転車に乗って追いかけてくる。そして「ついてこい」と言うとオレの前を走り出したではないか。さっき会った時に「村まで行く」と話したために案内をするつもりだろう。しかし後で「ガイド料をよこせ」と言われるだろうと思ったオレは、オバチャンを止めた。
ところがオバチャンはその村に住んでいるらしく、家へ行くところだからついてこいと言う。半信半疑だったが、とにかく着いていくことにした。
村へ行くまでの風景も良かったが、その後さらに最高の風景に出合うことができた! オバチャンの案内で、村から田んぼのあぜ道を進んで行く。さらに村の細い道を抜けていくと、視界の開けた所に出た。
「うぉーーーーっ!!」
菜の花がキレイに咲いた畑の向こうに川が流れ、そそり立つ山々が連なっている。オバチャンも誇らしげな顔をしてオレに笑いかける。オバチャンがいなければこんな道は見つけられなかっただろう。
そしてそこを流れる小川を小舟に自転車ごと乗って下る。意外な所で川下りをすることができた。しかも格安で。
結局オバチャンは金をよこせとも言わず、最後まで良い人だった。久々に良い人に出会った気がした。こんな中国だからこそ、良い人はメチャクチャ良い人に感じるのだ・・・。
自転車と小舟で陽朔の郊外をまわる
126.ウィングたち 2005 3/29(香港)
陽朔の次は香港だ。香港では香港人の友人と会うことになっている。同じ会社に勤めている3人の若者だ。ウィングという男の子と、ルイサ、コシカという女の子の3人。
香港はかつてイギリス領だったため、イースター(キリスト復活祭)は祝日になっている。今年は3/25〜28が4連休なのだ。彼らの会社も休みのため、オレはこれに日程をあわせて香港へやって来た。ルイサとコシカは27日から出張でスイスへ行ってしまうが、その前なら会えるということだった。ちなみにウィングとルイサは現在日本語の勉強中だ。
香港に着いたオレは早速ウィングに電話をし、4人で夕食を食べに行くことになった。出張前で忙しいらしく女の子2人は遅れて来たが、1カ月ぶりに会って楽しい時間を過ごすことができた。しかも香港の広東料理は美味い! 「おもしろくない」と言う人が多い香港だが、オレはおもしろく感じることができた。日本とほとんど変わらない街なので、長い間日本を離れているオレにはそう感じたのだろう。
2日目はウィングがいろいろな所に連れて行ってくれた。香港に行ったら誰でも訪れるようなムービーロードやビクトリアピーク、名前も忘れてしまったようなレアな寺や古い港町、映画の撮影で使われた場所や、外国人のたまり場。
中でも特に良かったのはやはり夜景だろう。「100万ドルの夜景」さすがだ! 香港島側から九龍側へ渡るスターフェリーから香港島側の夜景を見る。これがサイコーだった。徐々に遠ざかるビル群がしだいに光のパノラマの中に溶けていき、オレの目のスクリーンいっぱいにそれがひろがる。サーチライトが雲を照らし、その雲を突き抜けたレーザービームははるか天空へと伸びていく・・・。男2人なのが残念だった。
3日目、連休なのに仕事というルイサとコシカの昼休み中に、みんなで飲茶へ行くことになった。香港といえば飲茶だ! オレはてっきり4人かと思っていたのだが、彼女らの会社の同僚の女の子が4人来て全部で8人。メシは美味かったが女の子たちのパワーに押されてあまり話をできなかった。明日からスイスへ行ってしまう2人とはこれで最後だったのに・・・。
彼女らは他の卓に偶然座っていた会社の上司を見つけ、しっかりと8人分おごってもらうことになった。どこの国の女の子も似たようなものだ。
彼女らと別れた後も、ウィングが街を案内してくれた。彼はヒマだからと言っていたが、4連休をオレのために使ってくれて本当にありがたかった。それに金も使わせてしまって悪かった。彼はやさしくイイヤツだ。いつか必ずまた遊びに行こうと思う。でも次回は誰かと一緒に行きたい。香港はそんな街だった。
100万ドルの夜景 / みんなでヤムチャ
127.カジノ 2005 3/31(マカオ)
香港からフェリーで1時間。香港の宿で知り合った大学生の男の子と一緒にマカオへ。マカオといえばカジノだ! オレたちももちろんそれを目当てにやって来た。が、カジノにハマるその前に観光だ。
マカオは最近中国に返還されるまで、ポルトガルの植民地だった。観光地といえばセントポール教会とその周辺の西洋建築だ。西洋と東洋の風景が混ざりあう、独特の街並みがおもしろい。
はいっ。観光はお終い。とにかくカジノだ!!
マカオには、「東洋のラスベガス」の名のとおり、巨大なカジノやホテルが建ち並んでいる。オレたちも何ヶ所かのカジノをまわったが、最低賭け金が驚くほど高い! バックパッカーにはチップ1枚が大金に思える金額なのだ。しかし、オレには前々から決めていたことがあった。
「マカオを出ればあと2週間で日本だ。2週間分の旅費を残してすべて勝負!!」
そしてそのステージもすでに決定済み。マカオのカジノといえば「リスボアホテル」だ。マカオのカジノの老舗中の老舗。『深夜特急』の沢木耕太郎もここで熱くなっていた。
カジノでは大小というゲームをやることにしていた。賭け方はいろいろあるが、簡単に説明すると「大」か「小」かを予想するサイコロゲームだ。最初はあまり金を賭けないようにしていたが、それでも日本円で約1万3千円負けてしまった。この時点で、やはりギャンブルはやめて金をとっておこうと思ったのだが、その夜寝る時になってあることを思い出した。高校の時に数学の教師が教えてくれた、1/2の確率のギャンブルに負けない方法だ!
大か小かを当てるのは1/2の確率。(ぞろ目は大でも小でもないルールなので正確には違う)チップを1枚賭け、負けた場合は次の勝負に2枚を賭ける。それでも負けたら4枚、8枚と賭け金を増やしていき、勝ったらまた1枚に戻る。この方法で勝負すれば、4回の勝負の場合なら15/16の確率でチップは1枚ずつ増えていくのだ。1枚ずつしか勝てないというセコいやり方ではあるが、確実に増やしていけばチリも山となる。
翌日この方法を実践してみると、着実にチップは増えていった。・・・が、これには落とし穴が。1/16に当たってしまうと一気に大金を失うことになるのだ! 結局その1/16にハマってしまい、1万円ほど勝っていたのにまた1万3千円の負け・・・。勝ちは小さいが負けはデカい!
一緒に行った大学生はというと・・・、なんと7、8万円勝っている! 彼はオレのように最小のチップではなく大きなチップで勝負しているのだ。
そうか! 1枚、2枚、4枚、8枚ではなく5枚、10枚、20枚、40枚と賭け続ければ勝ちもデカいではないか! 15/16の高確率で勝てるのだから大金を賭けよう! 実際一時は1万円勝っていたのだから、これならば5万円の勝ちになる! オレはこれで勝負を再開した。
思った通り、今までの負けを一気に取り返し、あっという間に2万円のプラスに! しかし引き際が肝心だった・・・。またしても1/16に当たってしまったのだ・・・。そしてチップは0に・・・。トータル5万円の負け。
ここまで負けると覚悟は決まった。2週間分の旅費に少し余裕をもたせ、あとは全部賭ける! 計算ではあと2万円は使えるのだ。
ところが戦法も変えたために、ここからは勝ったり負けたりでチップは増えも減りもしなかった。そこでオレは考えた。
「ここのままチップを金に戻せば5万円の負けだが、もうこうなりゃ5万円も7万円も同じだ! この2万円は捨てたつもりで3万円負けか7万円負けかにラストの一発勝負だ!!」
そして結果は・・・・・・7万円の負け・・・。
結果論では2万勝っていた時点でやめるのが正解だったことになる。この引き際の見極め・・・。難しい。旅も同じかもしれない・・・。
ポルトガル時代の教会 / リスボアホテルのカジノ
128.罪と罰 2005 4/2(中国)
マカオのカジノで大敗してしまったオレは中国へ戻った。珠海という町から中国へ入り広州へ。そして目指すは上海! 上海からフェリーで日本へ帰るのだ。ノービザでの中国の滞在期間は15日なので、この旅も最長であと15日ということになった。
広州からは、上海あるいは上海のすぐ南の杭州(ハンジョウ)まで飛行機で飛ぶことにした。途中におもしろそうな町はないし、列車で30時間もかかるような長距離移動はもうしたくないからだ。それに金の余裕はある。
そして上海では大学に通って中国語を勉強中のタツヤさんと会うこともなっている。いよいよ旅もラスト! なのだ。
広州に着いたオレは、まずそのエアチケットを探しに代理店へ行った。上海行きは高かったが、杭州行きなら納得の金額だ。オレは即決でそのチケットを買った。
次にオレは駅前まで行き宿を探してまわった。この日は安い宿がみつからず、しかたがなく1泊だけのつもりで高い宿に泊まっていたからだ。翌日から安い宿へ移ろうと思い、宿を探しに行ったのだった。
この時に、この旅史上最悪の出来事が起こってしまった・・・。
買ったばかりのエアチケット、チケットを買うために用意した大金、そしてパスポート・・・。
盗まれてしまったのだ!! しかも、完全にオレが悪かったとしか思えないような手口でやられてしまった・・・。
この事件の詳細については後で書くことにして、とにかくバカなことをしてしまった自分が情けなくてしょうがない。
とにかく領事館へ行って話をしたかったが、もう夕方で閉まっている。しかも週末で明日、明後日は休み・・・。まったくツイていない。警察へも行ったのだがまったく相手にしてくれず・・・。どうしようもない。
それにしてもベトナム以来よくもここまで悪いことが続くものだ。盗難はこれまで1年7ヶ月の間一度もなかったのに、この1ヶ月で2回だ! これはたぶんオーラなのだと思う。
オレは38ヶ国をまわってきたが、やはり中国人とベトナム人が最もキライなのだ。そんなオレは常に「お前たちはキライだ。お前たちはムカツク。お前たちは敵だ」というオーラを出してしまっていたのだろう。そしてそのような人間というのは悪人を引き寄せてしまう・・・。
それともう1つ強く感じたことがある。「金は人を狂わす」そしてその時の金欲、つまり「欲」は醜く、そして「罪」だ。これはその「罪」に対する「罰」に他ならない。きっとそうなのだ・・・。
129.事件レポート1 2005 4/2(中国)
オレは広州駅の近くを歩いていた。すると前を歩いていた人民Aが、なんと札束を落としたのだ! バッグからタバコを出す時にそれは落ちたのだった。
するとオレの横を歩いていた別の人民Bがサッとそれを拾い、自分のポケットにしまってしまった。
そして・・・。ここからオレがとった、今ではまるで信じられないような行動が事件を招いてしまった・・・。まさに自業自得。
オレはBに向かい言った。
「半分よこせ!」
Bは英語が解らない様子だったが、ジェスチャーで言いたいことは伝わったようだ。Bは逃げようとしたが、オレはBを追っていった。Bはしかたがなく
「OK。人のいない所で分けよう」
と中国語で言っていたようだが、これも彼のジェスチャーから読み取った、オレの解釈だ。人混みを避けるように歩く。
しかしそこにAが現れてしまった。
「お前たちオレの金を拾っただろう」
と言っているようだった。Bは知らないと言いAを追い払おうとしたが、Aは諦めない。しつこくBとオレにつきまとう。
AはオレとBのバッグと体を調べることになった。オレは貴重品が入っているため見せたくなかったが、見せなければ疑われるし、Aもこの場を離れないだろう。何かを盗られないように細心の注意を払いながら中身を見せた。
すると注意どころではない・・・。パスポートに挟んであった現金をワシづかみに抜き盗ったではないか! Aは身長が低いうえにひょろっとした体格だったため、オレは殴り倒してやろうと思ったが、そんなことをすれば札束は手に入らなくなってしまうかもしれない・・・。オレは力づくで金を奪い返し、また元どうりにバッグの中にしまった。
Aは今度はBのバッグを調べている。この時札束はBのポケットに入っていた。次にAはBのポケットを調べるだろう。このままではバレてしまう。
そこでBは、Aがバッグに気を取られている間にこっそりと、札束をオレのバッグにしまい込んだ。Aはバッグを調べ終えるとBの体を調べたが、やはり札束はない。
「オレたちは持っていないだろ! 早く他を探せ!」
Bがそんなことを言っているように聞こえた。オレとBは早くAと別れたかったのだ。
しかし・・・。実際にはAとBがオレから別れたかったのだ。すでにオレのパスポート、現金、航空券はBの手に渡っていたのだから・・・。
オレのバッグに札束を入れた時に、それらは抜き取られていた・・・。札束ではなかった、ただの紙屑とひきかえに・・・。
そして2人は、オレが少し目を離したスキに人混みに消えていた・・・。
その瞬間、オレはようやく全てを理解したのだった・・・。
しばらく呆然と立ち尽くしていた。そして激しい怒りが込み上げてくる。AとBとすべての中国人と、そしてオレ自身に対して・・・。
時刻は5時すぎ。領事館も旅行代理店も閉まっている。パスポートもチケットも今日のところはどうにもできない。
オレは今まで差していた傘をたたみ、雨に打たれながら歩きだした・・・。そして警察へ。ところが彼らは全く相手にしてくれない。社会主義の国は警察が腐っている・・・。
この日はなかなか寝付けず、そして何かひどい夢を見たような気がする。
130.事件レポート2 2005 4/2(中国)
今考えてみるとオレはいくつもの失敗を重ねてしまっていた。そしてそれがすべて悪い方向へと連鎖していってしまったのだ。
まず金曜の昼に広州へ到着したのは失敗だった。土日になれば銀行も旅行代理店も閉まってしまうだろうと思い、焦って行動してしまったからだ。
いつものオレは、まず代理店へ行ってチケットの金額を調べ、その金額分だけを換金するようにしていた。しかしオレは先に銀行で多めに金をつくり、代理店へ向かった。結果、1万円以上も金を余らせてしまったのだ。
次に、買ったチケットと余りの金をパスポートに挟んでそのままバッグに入れてしまったことが失敗だった。
シークレットベルトをしていたにもかかわらず、なぜそんなことをしてしまったのだろう? まったく旅の終わりにきて気が抜けていた。
チケットと大金を持ったまま街を歩いたのも失敗だ。宿に帰り、貴重品は置いてくるのが普通だったのだ。この日泊まっていた宿が高かったため、早いうちに他の安い宿を見つけたかった。夜になって歩き回りたくなかったのでそのまま駅前まで行ってしまったのだ。
オレが札束と思い込んでいた物は伝票の束だった。今見ると、どうやっても札には見えない。マカオのカジノでこんな札束をボンボン賭けていた中国人を見たばかりだったので、そのように見えてしまったのだろう。
「金を半分よこせ」と言ったことが最大の失敗で、そして「罪」だった。なぜあんなことを言ってしまったのだろう・・・。
マカオで大敗していたために、「これは神の救いだ!」などとまったく救いようのないことを考えてしまった。
そしてこの時点で思考能力を狂わされたオレは、さらに重大なミスを犯していく・・・。
Aは一度オレの金を奪っている。これはとんでもないことだ! ナゼこんなことがあった後も、その場を離れなかったのだろう? やはりこの時のオレは札束を手に入れることしか頭になかったのだ。
そして最後にBがオレのバッグに手を入れた時、つまりパスポートなどを盗られた時にナゼ気が付かなかったのか? パスポートについていたストラップが切れるほどに引っ張られたにもかかわらず・・・。
確かに感触はあった。しかしオレはただ単にファスナーがうまく閉まらなかったので力が入ったのだと思った。それに視線をBの手元に移せば、Aに札束のありかがバレてしまう。
Bを仲間だと思ってしまったことがオレから警戒心を奪ってしまったのだ。なぜなら最初の場面でオレの方から話しかけているからだ。もしもBの方から話しかけられていれば、信用しなかっただろうし、それ以前に最初から相手にしなかったかもしれない。
金とチケットの金額は足して2万円とちょっとだ。バックパッカーには大金だが、こんな時には日本人に戻って2万円で良かったと思うしかない。それにカジノで負けた7万円と比べればたいした金額ではないのだ。
しかし、しかし、パスポートは痛い・・・。痛すぎる・・・。
ほとんどのページがスタンプで埋っていたオレのパスポートには、スタンプの数だけ思い出も詰まっていたのに・・・。
でもデジカメのデータよりはましだったかな?
131.その後 2005 4/5(中国)
土曜日、営業しているか分からなかったが、チケットを買った代理店へ行ってみた。
運良く営業していたのでチケットを盗まれたことを話すと、奥から日本語を話せる女性が出てきた。彼女はこれからすべきことを教えてくれ、警察にも電話で話してくれた。昨日はまったく相手にしてくれなかった警察だが、このおかげでポリスレポートを作る手続きをしてくれることに。本当に彼女のおかげで助かった。あんなことがあった後だけに感謝の気持も強い。
これからどうなってしまうのか? 不安なまま土日の2日間を過ごさなければならなかった。
そして月曜、まず日本領事館へ行く。オレはそこで強く感じた。
「やはり話せるのは日本人だな」
窓口の女性はオレの予定などもふまえ、いろいろとアドバイスをしてくれたのだ。
その結果、ようやく予定が決まりホッとしたのだが、これからしなければならないことがたくさんある。自分が悪いとはいえ、仕事の多さにウンザリした。
まずは公安局へ行きポリスレポートを作ってもらわなければならない。ところが公安局の案内の悪さと、対応の悪さ、客のマナーの悪さで、丸1日を費やすことになってしまった。航空券も買い直さなければならなかったが明日だ。
1日も早く広州を出たかったのに・・・。オレは日本へ帰るための手続きを上海ですることにしたのだ。「上海まで旅をしたい」と領事館の女性に伝えたところ、それならば上海で申請した方が時間と金の節約になると教えてくれたのだ。広州で申請をして、結果広州に長居してから上海へ行くよりも、上海で申請すれば手続きが完了するまでの間に観光ができ、それがベターだと考えた。やはり盗難にあったからといってここで旅を終えてしまっては、それこそこの1年8ヶ月の旅自体が否定されてしまうように思う。それにタツヤさんにも会いたいし、まだ旅は続ける!
翌日の朝一でいつもの代理店へチケットを買いに行く。しかし・・・、
「パスポートがないので飛行機に乗れない」
と言われてしまった。領事館ではポリスレポートで飛行機に乗れると聞いたのだが・・・? その後直接航空会社へ行ったのだがやはりダメ。かなりの確率で領事館の言っていることの方が正しいとは思うが、もうこれ以上何をしても無駄だろうと思った。これまで何度もあったことなのだが、中国人は客に対してであっても面倒なことはしないのだ。いつものこのパターンなのだろう。
もういい! オレは列車で行く! 27時間かかるが最後にバックパッカーの意地を見せてやる!!
ところで広州だが、「食は広州にあり」といわれるほどなので食事はさすがにウマイ! 繁華街は発展していて活気があるし、洋館が多く建っている川沿いの地域も雰囲気が良く、夜景もキレイだ。この洋館は、かつて広州の港を手に入れるために侵攻してきた欧州各国が建てた。
しかし街が発展している分物価は高く、そのため陰では浮浪者が非常に多いのが目につく。完全なる格差社会。オレも最初にそんな街の姿を見ていれば、あるいはあんなことにはならなかったのでは? などとも思ってしまった。
川沿いの夜景はきれい
132.最後の町 2005 4/9(中国)
広州から上海までは27時間の列車の旅だ。もうしたくないと思っていた長距離移動だったが、寝台列車の27時間は肉体的には快適なものだった。しかし精神的には少し疲れてしまった。理由はいつものようにやはり人民・・・。
禁煙の車内で堂々とタバコを吸い、それをジュータンの敷かれた床に捨てる。ゴミはちらかし放題、人のベッドの上に勝手に荷物を置き、大声で会話する・・・。
とにかくモラルが低い。
何もすることがなく、ただベッドに横になりながらそんな中国人に腹を立てていると、ショックから立ち直っていたはずのあの事件のことを思い出してしまい、余計に気分が悪くなってくる・・・。
この列車ではスピーカーから音楽を流していたのだが、オレがムカついていたそんなタイミングで知っている歌が流れてきた。中国語ではあるがキロロの歌だ。キロロはこちらで人気があるらしく、これまでに何度も聞いたことがある。
オレは歌を聴きながら頭の中で日本語の歌詞を思い出していた・・・。
「ほーら、足元を見てごらん、これがあなたの歩む道。ほーら、前を見てごらん、あれがあなたの未来」
そうだ! オレも前を見ていかなければ! オレの未来・・・。この旅のテーマ! FUTURE!!
旅に出る前のオレは、この旅を「旅を終えた後の自分のために」と位置づけていた。
「オレは未来につながる旅ができたのだろうか?」
それについて考えているうちに列車は上海へと到着した。この旅の最後の地、上海・・・。
宿にチェックインしてすぐに領事館へ向かう。そしてパスポートの替わりとなる「帰国のための渡航証明書」というものを発給してもらった。この書類の有効期限は1週間・・・。つまりこの旅もついにラスト1週間ということになる。オレはいよいよ旅の終わりを実感することになったのだ。
この日は上海で大学に通っているタツヤさんと再会し、久しぶりに楽しい酒を飲んだ。やはり旅はこうでなければいけない。
そして大都会上海の夜景にただ驚かされた。中国の大きな町は本当にどこへ行っても凄い。
だが、その発展の裏には「闇」の部分も濃いように感じてしまう。どこか中国の都会は見せかけだけで中身のないような気がしてしまうのだ。オレは中国で最初に昆明の街を見てからずっとそんな気がしていた。街の発展に人々がついていけていないようにも感じる。都市と地方の格差や貧富の差を一番強く感じるのもこの国だ。
しかし、良いか悪いかは別として旅行者側の勝手な意見としては、これこそが中国の魅力なのだと思う。そしてそれを感じることができるのは、この国が急速に発展している真っ只中の今だからこそなのだ。
オレは中国以外の国でも何度もこう思ったことがある。
「良い時代に旅ができて良かった」
大都会上海 / 庶民のエリアはこんな
133.地に杭蘇あり 2005 4/13(中国)
上海から日帰りで蘇州(スージョウ)という町へ行ってきた。蘇州には多くの中国庭園があり、それらは世界遺産になっている。
それともう1つオレの見たかったものは、三国時代に「呉」が使っていた城の跡と孫権の建てた寺だ。三国志が好きなオレは、中国にいる間に1ヵ所くらいは三国志のゆかりの地へ行ってみたかった。
ところが蘇州に着くと急に天気が悪くなってしまった。雨はたいしたことはなかったが、強風が吹き荒れ空も薄暗くなってしまったせいで、せっかくの風景の良い街も台無しになってしまった。
それにどこも入場料がハンパな額ではない・・・。一番安い庭園だけを見ることにしたが、やはりイマイチ。
そして城にも寺にも三国志の「さ」の字もない・・・。ガッカリな町だった。
月曜日、公安局へ行き出国ビザを受取り、木曜発日本行きのエアチケットも購入。これでパスポートを盗まれてしまったことに対してのすべての面倒なことが片付いた。領事館や公安局へ何度も通うハメになってしまったが、とにかくこれでホッとした。
もともとは船で日本に帰りたいがために、この上海を最後の地に選んだのだ。だが、船は火曜と土曜に上海を出港する。オレは滞在期間が木曜までになってしまったので火曜の船で出国しなければならなかったが、月曜までゴタゴタしてしまっていて火曜に帰るのは気分的にイヤだった。
それに最後の悪あがきで1日でも長く旅を続けたかった。たったの2日ではあるがギリギリまでこちらにいたい。それで木曜に飛行機で帰ることにしたのだ。
この日でタツヤさんに会うのは最後になった。彼は学校の旅行で西安へ行ってしまう。彼をはじめ、オレは今回の旅で多くの友人と知り合うことができた。そんな出会いのひとつひとつすべてが一番の思い出なのだ。
やはり「旅は出会い」だった。
翌日からオレは1泊2日で杭州(ハンジョウ)という町へ出かけた。「天に極楽あり地に杭蘇あり」といわれ、蘇州とともに並び賞されている。杭州は中国一美しいといわれている西湖と、竜井茶(ロンジンチャ)で有名で、南宋時代には都が置かれていた町だ。
たしかに西湖の周辺はきれいだった。多くの公園が遊歩道で結ばれ、山の上には寺が、そして湖には船が、と風景を見ながらのんびりするには良い所だった。
そしてオレは再び上海へと戻ってきた。海外から最後のメールを送ろうと思い、まず最初にネットをする。そこで見たニュースにビックリ! 中国各地で反日デモがあり、上海の日本領事館では窓が割られたりして大変なことになっていたらしい。オレは何日か前に領事館へ行ったばかりだったのだ。これは危なかった・・・。旅の最後でまさかこんなことが起ころうとは・・・。
上海の繁華街では特に変わった様子も感じられず一安心だったが、油断は禁物だ。オレが日本人と分かったら、調子に乗って何をされるか分かったもんじゃない。
そんな旅の最後の夜、宿のドミトリーで同室になったアメリカ人に「飲みに行こう」と誘われた。
最後はパーっと盛り上がるのも良かったが、1人にもなりたかった。結局オレは誘いを断り、1人ベッドでこの旅を振り返っていた。
ついに明日、この旅は終わる・・・。
蘇州にある呉の城 / 杭州の西湖
134.目的地 2005 4/14(中国)
空には薄い雲がかかっていた。そして上海の街も霞がかっている。わずか200mほどしか川幅のない浦江の対岸に建つ上海タワーも、やはりぼやけて見える。延びゆく上海そして中国の象徴、上海タワー・・・。しかしオレの目には「中国の虚勢の象徴」に映ってしまう。これがオレの旅の最後の風景だった。
そんな浦江の風景を横目に、地下鉄駅へと続く地下道へ降りる。
「あれ? あの子がいない・・・」
この道はオレが上海にいる間、毎日通っていた道だ。いつもこの地下道の入口に女の子の物乞いが座っていた。しかし今日は姿がない・・・。
海外を旅していると、多くの国で物乞いを目にする。インドほどではなかったが、ここ中国もそんな人たちが非常に多い。
しかし・・・、オレは彼らに金を与えたことは1度たりともなかった。特に強い信念があってそうしたのではないが、とにかくオレは見て見ぬふりをしてきた。何か心を打たれるような場面にでも遭遇すれば、いくらかの金をあげようとは思っていたものの、そんな場面に出くわす機会もなかったのだ。
ところが、この場所にいつも座っていた女の子は、毎日笑顔だった。満面の笑みをもって物乞いをしていた。オレは彼女のその笑顔に、金をあげても良いと初めて感じたのだ。
「最後にここを通る時、つまりオレの旅の最後にこの子の金をあげよう」
そう心に決めていたのだ。
その彼女が今日はいない・・・。
最後にではなく、その時にあげるべきだったのだ。
結局のところ、オレは最後の最後まで中国人とはうまく付き合うことができなかった・・・。
オレは地下鉄に乗り、世界で唯一のリニアモーターカーに乗り、そしていつものように飛行機に乗る・・・。1年8ヶ月にもなったこの旅が終わるというのに、何の実感も何の感動もわいてこない・・・。
「いったいどうなってしまっているのだろう?」
これではオレの思い描いていたものとあまりに違いすぎるではないか。
オレは上海から船で帰るつもりだった。オレは「旅のゴール」こそ「旅の最大のイベント」だと考えていたからだ。その最大のイベントを飛行機に乗ってたったの2、3時間で終わらせてしまいたくなかった・・・。船で2泊3日かけながら、ゆっくりと達成感と充実感に浸ろうと思っていたのだ。しかし、いざ「終わり」をむかえてみると、何の感情の変化もない・・・。
船ではなく飛行機に乗ったからという理由ではないと思う。最後に不運が続いてしまったからという理由でもないと思う。
オレはもともとこの旅について大げさに考えすぎていたのかもしれない。しかし実際にやってみると、大それたことではなかったし、誰にでも簡単にできてしまうようなものだった。
ただ単に、そのギャップだったのだと思う。正直に言うと、「大きなことをやり遂げた」という手ごたえがまったくないのだ。つまり地球一周などという旅は、「大きなこと」でもなんでもなかった・・・。
だがこれは、「もっと大きなことができるんだ」という自信の表れであると、前向きにとらえることとしよう。
飛行機はたったの2時間でオレを日本まで運んでしまった。
機内ではアナウンスが流れる。
「本日は当、中国国際航空をご利用いただき・・・・・・どうかみなさま目的地までお気を付けてお帰りくださいませ」
目的地・・・。
オレの目的地はどこなのだろう? これからの、この旅以上に重要なこれからのオレの人生の目的地・・・。
1年前、ナグからも同じメッセージを受け取った。トルコのイスタンブールで別れ際に渡された1冊の旅の詩集。あるページには印がしてあった。
「おまえは何が欲しいんだ? それに答えられないヤツは旅を続けられないぜ」
しかしオレは違った。その「目的地」や「欲しいもの」それ自体を旅から見出そうとしていたのだ。しかしそれは見つからなかった・・・。
いや、オレは探すことを途中で止めたのだ。
その無意味さに気付いた時から・・・。
答えは始めから出ていたものだと気付いた時から・・・。
その答えはだれしもが、当たり前のように知っているものだ。
しかし、ただ「知っている」、「分かっている」というのと、旅をして「強く実感した」というのでは、まったく違うのではないか。それだけ大きな意味があったのではないか。
オレはそう信じ、それを大切にしながらこれからを生きていこう。
これからの人生を旅していこう。
旅の最後の風景