忘れかけていたもの
《TRAVEL5》
ベトナム、カンボジア 2006/12/29-2007/1/7
146.フォトジャーナリスト
旅をしている間、オレは世界中で多くの人と知り合った。すべての出会いが人生の貴重な財産だが、やはり長い時間を共に旅した日本人旅行者との出会いはオレに大きな影響を与えた。
そんな旅の友人たちとは、日本へ帰ってからもメールのやりとりなどはしているものの、日本で会ったことがある人となると、ほんの数人しかしない。別れ際に「じゃ今度は日本で」と言って別れた多くの友人たち。しかし悲しいことだが、実際に会うことはほとんどない・・・。
東京にでも住んでいれば話も別なのだろうがオレはそうではないし、日本ではお互い仕事もある。気軽に会うこともなかなか難しいものだ。
日本でも何回か会っている友人の1人に、中東と東欧を一緒に旅したトモヒロくんがいる。彼はオレと出会った旅から帰った後も、何回か旅をしている。そして写真を撮りためているのだ。彼が目指しているものは、
「フォトジャーナリスト」
最近の彼は主にカンボジアへ出向き、貧困やエイズなどといった社会問題の取材をしている。
最後の旅を終えてからは地元の会社で働いているが、その合間にも写真コンクールに入賞したり、個展をひらいたりといった活動は続けている。
「写真では食っていけないよ・・・」
その言葉から彼のジレンマや迷いを感じる。
オレと同じだ・・・。やはり旅をした人間というのは、日本へ帰ってからも何かしらの迷いを抱えて生活をしていることが多い。
そんなトモヒロくんからメールが届いた。
「正月休みはどこか行かないの? オレはカンボジアへ行ってきます」
日本からカンボジアへの直行便はなく、ベトナムかタイで飛行機を乗り換えるか、同じくベトナムかタイから陸路で入国というルートになる。彼もカンボジアへはベトナムのホーチミンから陸路で向かうそうだ。
なんという偶然だ! 今回の正月休み、オレはそのホーチミンへ行く予定だったのだ! 本当はバンコクへ行きたかったのだが、チケットが取れなかった。
「じゃホーチミンで会おう。その後取材に付き合っても良いかな?」
そんなわけで、オレたちはホーチミンで合流し、カンボジアの首都プノンペンへ取材の旅へ出ることになった。
オレも写真には興味があるし、社会問題やボランティアなどにも関心がある。彼の写真も好きだし、彼の活動にも共感する部分が多い。今回のこの偶然も「タビガミ様」がオレに用意したものなのだろう。「もっと『旅』以上のものを見ろ」と・・・。
147.ただいま
深夜の空港を一歩出ると、あの懐かしい空気だった。
「ただいま」
まさにその言葉が一番合う。
ここはベトナム、ホーチミン。
4か月前、夏休みに香港へ行った時には感じることができなかった「アジアの空気」。ここにはそれがあった。オレの大好きな空気。
早速タクシーの運転手たちがオレに群がる。
「バオニェウ?」(いくら?)
「10ダラー」
「マッ クァー! ボッ ディー」(高いよ! もっと安くして)
「OK、5ダラー」
旅をしていてオレが最初に覚える現地の言葉は、「こんにちは」と「ありがとう」。次に「いくら?」、「高い」、「まけて」と数字。これがいつものやり方。
それにしても5ドルでもまだ高い。ここからまだ粘ったが、結局これ以上は下がらなかった。深夜だしこれが適正だろう。しかしこのまま乗ってしまうオレではない。ゲートを出てくる日本人を探し、数人でシェアして割カン。貧乏旅行のセオリーだ。
しばらくすると女の娘2人組が空港から出てきた。「ラッキー! しかもカワイイ!!」
3人で待たせておいたタクシーに乗り、市街へと向かう。幸先の良いスタートだ。
安宿街のフォング―ラオに到着し、宿をあたる。しかし旅行者で溢れるこの界隈も、さすがに深夜は静まり返っていた。閉まっていた門を「ガンガン!」。宿の人を叩き起こしてチェックイン。
女の娘たちに「おやすみー、また明日」と言って部屋に入ると、そのまま爆睡した。この後この娘たちとは顔を合わせることがなかったのが残念だが、今回は良しとしよう。あくまでもこの旅の目的は「取材」だ。
1日遅れで明日の深夜に到着するトモヒロくんと合流し、カンボジアへ向かうのだ。
翌朝、目を覚まして窓の外を覗くと、そこにはアジアがひろがっていた。外国人旅行者が闊歩するフォング―ラオの反対側の風景は、庶民の暮らすエリアなのだ。複雑に入り組んだ細い路地を人々が行き交い、バイクが行き交う。ゴチャゴチャとしていてパワーを感じるのだが、どこかのんびりもしている。宿の4階から下を見ていて飽きなかった。
シャワーを浴びた後、街を歩いた。安食堂でメシを食べ、また歩き、歩き疲れてカフェで一休み。甘〜いベトナムコーヒーを飲みながらアジアの空気を全身で感じるこの時間。これがベトナムだ。
日常の仕事、そして昨日の長距離移動の疲れを癒すため、オレはこのベトナムの時間の中に浸りきる。たったの1日で、「旅の中のオレ」に戻っていく自分を感じた。
夜、トモヒロくんを迎えに空港へ向かう。フライトに遅れが出て2時間も待たされた。後で聞いたのだが、中国の北京で乗換えの時に雪が影響したらしい。オレも北京乗換えだったのだが、やはり昨日も寒かった。こうなると帰りも心配だ・・・。
ベンチで寝転んで待っていると、ようやくトモヒロくんの飛行機が到着。しばらくして彼が出てきた。
「ういーっす。おかえり!」
昨日同様、1人で旅をしていた日本人を見つけ、3人で宿へ向かう。
いよいよ元旦の明日はカンボジアだ。
148.ゴミの山とゴミの川
オレたちはカンボジアの首都プノンペンへやって来た。
ホーチミンからプノンペンというルートは2年前にも一度通っているが、その時とはくらべものにならないくらいに道が良くなっていた。カンボジアも貧しいなりに発展しているのだ。
今では「リーマンパッカー」になったオレたち2人。多少の金の余裕はあるので、プノンペンではエアコン、TV付きの部屋をとっていた。衛星放送でNHKも見ることができる。大みそかのこの日は「紅白」だ! 日本にいたらほとんど見ることはないのだが、なぜか海外にいると「見なければ」という気になってしまう。おかしなものだ。
年越しのカウントダウンイベントも何もないこの街の夜を、「紅白」とビールで過ごす。なにはともあれハッピーニューイヤー!
2007年、元旦。オレたちは早速、取材に出かけた。
バイタクで3人乗りしてまず向かったのは、ストゥミンチャイという地区にあるゴミの山。プノンペン市内のゴミがすべて集められる、広大な面積のゴミ集積場だ。
腐ったゴミから強烈な臭気がたちこめ、正体不明の液体が溜まった水溜りが点在する。熱帯の暑さにより臭気は倍増し、自然発火による有毒ガスまで発生している始末。今は乾季なのでまだましだそうだが、雨季には極めて劣悪な状況になるようだ。
そんな環境の中で働く人々がいる。彼らはこのゴミ山からリサイクルできるものを集めては業者に売っている。そしてそんな人たちの多くが、このゴミ山の中の粗末な家で暮らしているのだ。いうまでもなく世界の最貧困層の人々。そしてここで働く人たちの多くは・・・、まだ幼い子供・・・。
オレたちがゴミ山へ行くと、何人かの子供が家から飛び出してきた。家といってもゴミ山の中の、かろうじてトタンで屋根がついた家。中では大人たちが寝転んでいる。
オレたちが子供にカメラを向けたとたん、「ダメだ」というふうに手を振る大人たち。「見世物じゃないんだから」ということなのだろう。それは理解できる。実際オレたち自身にも、この人たちを撮っていいものだろうか? というジレンマはあるのだ。
ゴミの中を進んでいくと、鼻をつく臭いはさらに強くなる。思わず鼻を手で覆いたくなったが、「それはここで働く人たちに対してあまりにも失礼な行為だ」と手を止めた。
足元にはペットボトルやアルミ缶、ビニール袋に生ゴミ、紙クズ、ゴム、布・・・。まったく分別のされていないゴミで埋め尽くされている。
クツを汚さないために液体には特に注意しながら歩いていたが、そんな中をサンダル履きで歩きまわる彼ら。汚れはもちろんのこと、割れたビンやするどい金属などでケガをしないか心配だ。この衛生状況では最悪、破傷風にでもなってしまうのではないか? そんな環境なのだ。
ゴミ山では、何人もの外国人カメラマンに出会った。やはりここはジャーナリストやカメラマンにとってかっこうの場所になってしまっている。それだけ問題も大きいということだ。
トモヒロくんの写真仲間にも偶然会った。彼も旅の途中でここを知り、写真を撮っている。
そしてササキさんもここへ来ていた。
彼はプロのカメラマンで、日本の仕事の合間にプノンペンへ通って写真を撮り続けている。そして現地のNGOを通じてプノンペンに学校を建てる、というボランティア活動もしている人物だ。トモヒロくんとも知合いで、今回オレたちはササキさんの学校へもおじゃまさせてもらうつもりだった。
ゴミ山で少し話をし、翌日その学校を見せてもらえることになった。
学校はスラムの中にあった。
「スラム」という言葉に明確な定義などないが、ここはスラムと呼べるような環境だろう。
この日、授業はなく学校には誰もいなかった。誰もいない教室でササキさんからいろいろな話を聞く。
「ボランティアは始めることよりも続けることが大変」そんな言葉が印象に残った。今までにも聞いたことがある。「一時的に何かを与えるのはボランティアではない。彼らを自立させるのがボランティなのだ」
まさにその通りだと感じた。この学校も建てることが大切なのではない。これを運営し、継続させる。そしてそれを現地の人間だけに任せる。その段階までいった時にはじめて、このプロジェクトが成功するのではないか?
オレたちは学校を出て、周辺のスラムの中を歩いた。そのほとんどが崩れかかった粗末なトタン張りの家・・・。
学校の裏手にはドブ川が流れ、ここもまたゴミで溢れている。「水よりもゴミの方が多い」そんな悪臭漂うドブ川だ。貧困層の人々はこの川に高床式の家を建てて暮らしている。劣悪な衛生状況・・・。
正直にいって、日本人だったら生きる希望さえ失ってしまうのではないかというような環境だ。その中で人々は笑顔で生活している。強く生きている。
どこかで見た風景・・・。忘れもしないあの風景・・・。オレを旅に出させたあの風景・・・。それがここにもあったのだ。
プノンペンのこの風景は、オレが忘れかけていたものを思い出させてくれた。大切なものを・・・。
ゴミ山で働く人たちとそこで出会った少年
149.プレゼント
オレの働く会社にはいらないTシャツがいっぱいある。Tシャツにプリントをする会社なのだが、ミスプリントや試作などに使った不要なTシャツがいくつもあり、それらはボロ布として雑巾代わりになる。オレはその中から子供サイズのものを選び、20着ほどを持って来ていた。
学校の子供たちに渡そうと思ったのだ。
完全な失敗作や、もうすでにインクを拭くのに使ってしまっているものまであったが、それでも喜んでもらえるだろう。貧しい子供たちが毎日同じTシャツを着ている姿は、旅をしている時にもよく目にしてきて承知している。
こんなことも何回かあった。仲良くなった現地の若者と話をしていて
「おまえTシャツ何枚持ってるの?」
と聞かれる。オレは質問には答えずに同じ質問を返すと、3枚だとか4枚という答えが返ってくることが多かった。オレは旅をしていて荷物を減らすためにTシャツもそれほど多く持ってはいなかったが、それでも4,5枚は持っているのだ。彼らはここに住んでいるのに、そんなオレよりもTシャツを持っていない・・・。
とにかく今回、オレは子供たちにTシャツをプレゼントしたかった。
しかしササキさんと話していて、「これを渡してもいいのだろうか?」という疑問が頭をよぎり始めた。
「ボランティアとは物や金を援助することではない」
そんなことが気になったのだ。
それに、学校にはオレが思っていた以上に生徒が多く、Tシャツは全員の手には渡らない。これが原因でケンカになってしまわないだろうか?
ササキさんに相談してみると、彼は「ぜひ渡してやって下さい」と快く返事を返してくれた。先生がうまく理由をつけて、特に貧しい家の子供に渡せるようにしてくれるそうだ。
翌日、再び学校を訪問。授業の風景を見させてもらえることになった。この時行われていたのは音楽の授業と、図工の授業。
音楽の授業では、日本から送られたピアニカで子供たちが曲を弾いていた。テストなのだろう。日本と同じように、1人づつ順番にピアニカを弾いていく。この風景だけを見ると、スラムの中の学校とは思えないような立派な学校に思える。
図工の授業ではみんなで村の絵を描いていた。色鉛筆は学校のもので、みんなで色をまわしながら使っている。絵を描く紙は画用紙ではなく、ペラペラの紙だ。これらを見るとやはり「物の援助」も必要なのだと感じる。
校長先生にTシャツを渡してそのまま帰るつもりだったが
「自分の手で子供たちの渡してやって下さい」
ということを言われた。
授業も終わり、先生に選ばれた子供たちが集まって来た。オレはひとりひとりにTシャツを手渡す。みんな喜んでくれて良かった。みんなとびっきりの笑顔だ!
結局のところ・・・、オレはプレゼントをしたつもりでいて、実はプレゼントを貰ってしまっていた・・・。オレのあげたTシャツ以上に、オレがもらった彼らの「笑顔」の方がよっぽど大きなプレゼントだったのだ。
純粋にうれしかった。
みんな、ありがとー!!
ササキさんが建てた学校の授業風景
150.運
話は前後するが、オレたちはササキさんの学校へ行く前にプノンペンの王宮近くを歩いていた。人を探していたのだ。ある親子を。
以前にカンボジアを取材したトモヒロくんは、ここでゴミ拾いの母親と娘に出会っている。荷車を引いてリサイクルできるアルミ缶やペットボトルを集めていたそうだ。彼女たちを取材した写真は、写真展でも発表している。
今回もその親子にうまく出会うことができれば、追跡取材をさせてもらおうと考えていた。
しばらく歩いたが、残念ながら彼女たちの姿はなかった。
その後、トゥールスレーン刑務所博物館へ行った。ここはポルポト時代、拷問の末に多くの人たちが殺された場所だ。当時の写真や絵、拷問に使われた道具、見ていると何ともいえない感情に襲われる。言葉にできない・・・。
ササキさんの学校を訪れた後、オレたちは泊っている宿の近くでボラという運転手を探していた。彼は英語を話すことができ、旅行者をつかまえては3輪タクシーでガイド兼運転手をして生活している。トモヒロくんもプノンペンでは彼にガイドを頼んでいるそうだ。
「いつもこの辺りで客引きしてるから」
と大事なガイドにアポさえとっていないトモヒロくんだったが、近くの屋台で昼食を食べながら待っているとボラを発見。うまく会うことができて良かった。
オレたちはボラの3輪タクシーに乗り、エイズ孤児の孤児院、そしてエイズ患者の病院へ取材を申し込んだ。結果はどちらも取材拒否。しかるべき機関を通じた正式な許可が必要とのことだった。やはりフリーランスでやっていくのは大変だ。
しかたがなく、オレたちはプノンペン郊外の農村を取材することにした。
しかし、興味を引くような話は聞けず、取材にあたいする風景にも場面にも出合うことはできなかった。残念だが今回はうまくいかなかったと言えるだろう。
「まー取材なんてこんなもんさ。失敗の方が多いよ」
帰り道でトモヒロくんが言った。
フォトジャーナリスト。シロウトながら、それについてオレはこう考える。写真の腕はまず関係ない。重要なのは被写体だ。要するにその被写体に出会えるかが勝負。それに必要なのは多くの場所を訪れる「足」と、多くの情報を得る「コネ」と、そして何より「運」。
トモヒロくんも同じ考えだった。もともとバックパッカーの彼に「足」はある。ササキさんをはじめ「コネ」も構築しつつある。あとは「運」だ。
たいへんだろうが、がんばって写真を撮り続けてほしい。オレは勝手にそう応援している・・・。
トゥールスレーン刑務所に投獄された罪のない人たちの写真 / プノンペン郊外の農村で出会った子供たち
151.人生を変える旅
翌日から1泊2日の間、オレたちは別行動をとることにした。オレはビーチに行きたかったからということもあるが、オレがいると取材もやりにくい部分があるのではないか? とも思ったためだ。
オレはカンボジア第2の都市でビーチリゾートのシアヌークビルへ向かい、トモヒロくんはササキさんに紹介してもらった日本人に会いにトンレサップ湖へと向かった。
オレはいつものように、大好きなビーチで何も考えずに海を眺めた。ビーチにあるレストランの日陰で、涼しい風にあたりながらビールを飲む。いろいろなことを考えていた、いや考えさせられた昨日までとは、まったくかけ離れた生活。頭がオーバーヒートぎみだったオレにとっては良いクールダウンになった。
再びプノンペンでオレたちは合流し、お互いの行動を報告し合う。トモヒロくんの取材の方はまたしても収穫が少なかったそうだ。
ここで1泊して、オレたちはベトナムへと戻った。そのまま日本へ帰るトモヒロくんを空港まで見送った翌日、1日遅れでオレも日本への帰路についた。
帰りの飛行機の中でオレは考えていた。
「旅をすると人生が変わる」
よくいわれていることだ。確かにオレも少なからず旅によって変わっただろう。しかしおもしろいことに、オレを変えた旅とは「1年8ヶ月の地球一周の旅」ではなく、その1年前の「ナグと行った、たった1週間のタイの旅」だった。そして・・・、今回のこの旅も、そんなもののひとつになるのかも知れない。今はそんな気がしている。