祈りの空の下で
〈チベット編〉
中国チベット自治区 2007/10/21-11/16
172.アリ 2007 10/22 (中国)
西チベットの状況はあい変わらず何も分からなかった。もう11月も近く、気温もだいぶ下がってきた。旅などできる状況なのだろうか? とにかくまずは、西チベットの玄関口であるアリという町を目指すこととなる。といってもそれは簡単なことではない。砂漠を越え、チベットへ入り、山を登り、5000m級の峠を越えて行かなければならない。移動には24時間以上かかり、高山病も心配されるというハードな道のりなのだ。しかも入域許可証が必要なチベットへ許可証なしで突入しようというのだから検問で問題が発生する可能性もある。
アリへは不定期ではあるが、カールギリックという町からバスが出ているという情報だ。マオくんたち2人はカシュガルで中国のビザを取るのに1週間かかるそうで、オレは一足先に移動となった。カシュガルで防寒着や食糧などを買い込んで、そのカールギリックへと向かう。
カールギリックに着いて、早速その足でアリ行きのバスが出ている商店を目指す。新疆とチベットとを結ぶ超重要路線だというのに、このバスはバスターミナルからではなく小さな商店の裏の空き地から出発するという。
しかし残念ながらこの日のバスはなかった。チケット屋も次のバスがいつなのか分からないそうだ。金の腕時計にネックレスといういかにも「このバスで儲けました」といった感じのチケット屋は、オレに携帯電話の番号を書いた紙を渡した。
「明日連絡をくれ。バスがいつ出るか分かるかもしれない」
翌朝、オレは宿の近くの電話屋からチケット屋に連絡を入れた。
「おう。昨日の日本人か。バスは明後日出るぞ! 乗るか? 乗らないか?」
明後日・・・、しかも出発は夜だ。つまり今日、明日と明後日の夜までの2日半がムダになってしまった・・・。しかしもう選択の余地はない・・・。
最後の悪あがきで700元を550元まで値切ってこのバスに乗ることにした。550元でも現地の人に売るチケットの倍くらいはしているのだろうが、これが限界だろう。チベットでは外国人にまともな値段でチケットを売ってくれないという話も良く聞いている。とにかく念願のチベットに1歩近づいたわけだ。
オレは時間の空いてしまった2日半を利用してホータンという町へ出かけた。タクマラカン砂漠にあるウイグル人のオアシス都市だ。
気分は完全にチベットモードに突入していたのに、またしてもシルクロードの砂漠に逆戻り・・・。気分ものらなかったし、ホータンの町もそれほどおもしろい所ではなかった。何より、新疆や中央アジアのムスリム文化圏にも飽きてしまっている。だからといって何もないカールギリックよりはましだと考え、ホータンで2泊してカールギリックへと戻るバスに乗った。
カールギリックからアリへ向かうバスは夜の7時に出る予定になっている。余裕をもって朝ホータンを出たオレだったが・・・。
ホータンからカールギリックへ向かったバスは、途中で砂漠の小さな村に停車した。単なる休憩かと思い、トイレだけ済ませて足早にバスに戻ったのだが他の人たちはなかなか戻って来ない。30分、1時間と時間は過ぎていった。
「何これ? どーなってんだよ?」
長い休憩だなと思っていたが、良く考えてみれば今日は金曜日。バスは金曜礼拝のためにモスクの前で停まっていたのだ・・・。
「これじゃ文句は言えねー・・・」
そんなこともありカールギリックへ帰ってきたのは6時過ぎ。急いでアリ行きのバスが出る商店へ向かうバスに乗ったのだが・・・。
今度はこのバスがエンスト! 30分以上も修理を試みたあげく、他のバスに乗りうつることになってしまった。もうすでに7時はまわっている。もしもバスに乗れなかったら・・・。と少しだけ頭によぎったが、正直心配はしなかった。
「中国のバスが時間どおりに動くわけがない。しかもチベット行きならなおさらだろう」
ここで日本人のように焦ってもバカをみるのは自分だけなのだ。
結果、オレの予想どおりだった。バスは出発せず、客すら集まっていない。今度は逆にバスが出発するのか心配になるほどだった。
ところで、バス停にはマオくんとリサさんもやって来ていた。彼らは公安の職員から「1週間かかる」と言われていたビザを、他の職員から即日でゲットしたそうだ。職員によって対応が違うなんて、まったくいい加減なものだ。
とにかくオレたちは3人でバスに乗り、いよいよチベットを目指す!
アリへの移動は、これまでの経験からしてもトップクラスのハードなものだった。30時間という移動時間は何度も経験していたが、寒さと高山病と悪路が難敵だったのだ。寒さ対策はしていたつもりだったが、オレの考えが甘かったことを認めざるをえない。完全防備で寝台の布団に包まっていてもまだ寒い。そして、容赦なく入ってくるすきま風が痛い。閉めても閉めても、悪路によるバスの振動ですぐに窓は開いてしまうのだ。ちなみに道は当然のように舗装などされておらず、大小さまざまな石や岩が転がる道なき道だ。事前にそれを予想したオレはガムテープを用意していたが、粘着力を上回る振動の激しさで意味をなさなかった。窓が開かないようにガムテープで貼り付けても、1時間もすれば剥がれてしまうのだ。
この振動はやっかいだった。窓を開けてしまうだけではなく、高山病で痛くなった頭に響くからだ。高山病対策には水分を多めに摂れば良いのだが、ほとんど休憩をしないこのバスで水を大量に飲むのは危険だった。とにかくすべての環境が悪すぎる・・・。
さらに、何度もあった検問の度にノーパーミットのオレたちは止められてしまうのではないかとビクビクしなくてはならない・・・。標高5000mを越える峠では雪が積もり、道路は凍結している・・・。
「こんな時期に西チベットなんて無謀すぎたのかもしれない」
そんなことを思い、不安になってきた。せっかくの絶景もほとんど楽しむ余裕もなく布団に包まり、ズキズキと痛む頭をうずめた・・・。
30時間後。オレたちはなんとか生きてアリへ到着。深夜だったこともあり、宿にチェックインするとそのままの姿で布団へ入った。
翌朝外へ出てみる。高山病は良くならず頭は割れそうだったが、初めてのチベットの風景に感動!
しかし寒い・・・。寒すぎる・・・・・・。
アリへのハードな道
173.超ラッキー 2007 10/24 (中国)
アリではまずしなければならないことがある。罰金を払うのだ。
ここアリを含めたチベット自治区へ入るのには、外国人旅行証というものが必要だ。しかしオレたちはそれを持っていない。理由は簡単。高いから! 事前にそれを取るとなると旅行会社を通して取得することになり、多額の手数料を取られてしまう。許可証なしでチベットへ行き、罰金を払った方が安いというバカげたルールになっているのだ。ならばこのまま罰金も払わずに旅をすればさらに安く済むのだが、ここから先はチェックが厳しいらしい。実際、アリのバスターミナルでは許可証なしではチケットを買えない。幸い日本人は中国人と似た顔なので中国語がペラペラなら話も別だが、残念ながらオレにそこまでの中国語力はない。これこそまさに「芸は身を助ける」というヤツだ。オレにはその芸がなかった・・・。
高山病も治っていなかったが、公安へ行く。日曜日だったこともあり担当の警官が現れるまで長いこと待たされたが、その後は何事もなく罰金を払って許可証をゲット! これでもう検問に怯えることもない。
西チベットでは苦労が多い。まず寒いし、高山病も辛い、物価は少し高めだし、宿はそれほど多くなく、シャワーはほとんどないうえにまともにお湯は出ないし有料だ。しかし、何より苦労するのが移動。どこへ行くにしてもバスの本数は少ないし、不定期。バスのない区間もあり、ヒッチハイクも必要になってくる。
オレは高山病から回復していなかったし疲れもあってゆっくりしたかったが、バスを見つけたら乗らないとタイミングを逃して何日かをムダにしてしまう。オレたち3人は高地順応する間もなく、次の目的地グゲ遺跡へと向かった。
グゲ遺跡は秘境と呼ばれる西チベットの中でもインド国境に近い、秘境中の秘境とも言えるような場所にある。かつてチベットに興ったグゲ王朝の王宮跡がある遺跡だ。
アリからの道はかなりの悪路だった。今回も5000m以上の峠を越え、未舗装の険しい山道を行く。オレは高山病がさらにひどくなり、車窓にひろがる絶景がまるで幻のように思えた・・・。
9時間かかってグゲ遺跡の近くにある唯一の町、ツァンダに到着。
するとオレの体調はすっかり良くなっていた。ここはアリよりも標高が低いからだ。高山病は低地へ下ればすぐに治る。とはいってもここは標高3600m・・・。富士山の山頂近い標高だ。
翌朝、ヒッチハイクを開始する。このツァンダからグゲ遺跡へ行く公共交通機関が存在しないからだ。距離は20kmで、歩くには遠すぎる。
しかし、ヒッチをしようにも車はまったく走っていない・・・。止まっている車を見つけては持ち主を探して交渉、という難度の高いヒッチになった。最初はオレが一人で、しばらくしてマオくんたち2人と交替した。交替して宿で休んでいると、すぐに2人が戻ってきた。
「乗せてくれるって〜!」
ラッキー! オレは半ばあきらめていたのだが、2人がこんなにすぐに見つけて来るとは思わなかった!
オレたちはすぐにその車の持ち主の所へ行く。小さなツァンダの町に数件ある食堂のうちの1軒にそのヒゲのおっちゃんはいた。数人の仲間たちと朝食の最中だった。食事が終わるまで待つつもりだったが、彼の好意にあまえ朝食までいただいてしまった。
ところで、20kmもの道のりを乗せて行ってもらえるのはありがたいが、帰りに車がつかまらなければ宿もないような遺跡で凍え死ぬことにならないだろうか? オレたちの心配はそこだったが、なんと彼らは帰りも乗せてくれると言う。どうやら遺跡近くの工事現場で働く人たちらしい。車の持ち主は監督か何か、とにかくそこのお偉いさんのようだった。
朝食を食べ終え、遺跡へ向かう。ランクルはヒゲのおっちゃんをはじめとして、何人かの工夫や多くの道具や荷物を乗せていっぱいだった。オレたちはその隙間にもぐり込むように車になんとか押し込まれた。不自然な体勢で全身痛かったが、乗せてもらえるのだから文句は言えない・・・。
工事現場に到着。ここで荷物と工夫を降ろすとおっちゃんはオレたちを乗せて遺跡の入口まで行ってくれた。帰りの時間を決めておっちゃんと別れる。
「おっちゃん。良い人そうだったけど、やっぱ帰りは心配だよね・・・」
そんなことを思いながらオレたち3人は遺跡を歩き始めた。
グゲ遺跡はかなりの広さがあり、メインの王宮跡までは砂利の坂道を1時間近くも歩いた。途中いくつかの小さな遺跡を見ながらだったが、とにかく遺跡よりも周囲の景色がすばらしかった! 決してキレイではなかったが、荒々しく荒涼とした岩山、遠くに見える雪山、自然の造り出したスケールのデカい風景だった。
オレたち3人以外観光客がいないような僻地の観光地。1人で来たら怖いくらいだろう。聞こえるのは風の音のみ。まさに秘境だ。
買い込んでいった菓子を昼食にし、1日遺跡と風景を楽しんだ。
約束の時間に遺跡の入口で車を待った。待っても待ってもおっちゃんはやって来ない・・・。
「やばいんじゃない?」
オレたちは不安になり、工事現場まで歩くことにした。しかし歩き始めてから失敗に気付く。
「あれ? おっちゃんと行き違いになったら、それこそ置いてかれるんじゃない??」
しまった! と思っているうちに車が遺跡の方から工事現場の方へ走っていった。
「あっ!! やっぱ来てくれたけど、オレたちがいなくて帰っちゃうんじゃない!?」
3人で車を追いかけ走った。富士山の山頂ほども標高がある場所を、全力で走った。昨日までの高山病がウソのように普通に走ることができた。置いてかれたら凍死! そんな恐怖から来る「火事場のばか力」だったのだろう・・・。
車はそのまま行ってしまった・・・。が、オレたちの不安は消えた。工事現場に人が残っていたからだ。さっきの車はおっちゃんではなかったのかもしれない。おっちゃんだったとしてもここに人がいる以上戻ってくるはずなのだ。
1時間以上待って、ようやくおっちゃんがやって来た。しばらく工事現場を見てまわった後、オレたちを乗せて帰路につく。良かった。オレたちは本当にラッキーだった。と思っていたが、ラッキーはこれだけではなかった! ツァンダへの帰り道、車の中でおっちゃんと筆談。おっちゃんは言った。
「オレたちはこれからアリへ行くけど、お前たちはこれからどこへ行くんだ?」
オレたち3人の次の目的地はカイラス山だ。しかしツァンダからカイラスへはバスもなく、ヒッチだけが頼りだ。今日のようなラッキーに出合えれば良いが、その確率はかなり低い。そうなると一度アリまで戻り、アリからバスでカイラスというのが無難な選択になる。
3人の意見は一致した。おっちゃんにアリまで乗っけてもらおう!!
ツァンダの宿で荷物をとり、オレたちはおっちゃんのお世話になることにした。このままアリへ向かう!
おっちゃんのランクルは、険しい道なき道を通り山を越え近道をする。
「日本豊田好」
と揺れる車内で紙にそう書くおっちゃん。日本車の四駆でなければ進めないのではないかと納得するような道だった。
6時間半でアリへ到着。バスよりも早くて乗り心地も良く、しかもタダ。到着は深夜だったが、どこかしらは開いているだろう。オレたちはおっちゃんにお礼で食事でもと思ったが、逆になってしまった・・・。
おっちゃんは知人の家だという場所へオレたちを呼んだ。なんと食事の用意ができている!! まったくなんて良いおっちゃんなんだ! しかもウマい! 作ったのは若くてキレイな女性だ。娘かな? と思ったがそこまで若くはない。筆談で聞くと・・・・・・、なんと奥さんだった! やっぱこれだけの男にはこんな若くて美人の奥さんがいるんだなぁ。きっとオレたちにしてくれたようなやさしさに惚れたんだろう。おっちゃんカッコイイぜ!!
最後にオレたちを宿まで送ってくれたおっちゃんは、何も言わずに笑顔で去って行った・・・。
人間関係ではイヤな思いをさせられることの多い中国で、こんな人物と出会えたことが何よりうれしかった。グゲ遺跡も周辺の風景も良かったが、やはりおっちゃんとの出会いの方が印象深い。秘境でもやはり「旅は出会い」だ! 大自然もすばらしいがやっぱり人間だ!!
「謝謝!!」
グゲ遺跡と周辺の大自然 / おっちゃんありがとー!!
174.コルラ 2007 10/28 (中国)
グゲ遺跡からアリへ戻ったオレたちの次の目的地はカイラスだ。カイラス山の麓の町、標高4700mのタルチェンを目指す。
カイラス山はチベット仏教における最高聖地で、ヒンドゥー教、ボン教、ジャイナ教においても聖地とされている聖山だ。
この山の南にあるタルチェンからカイラス山の周りを歩いて周回することが巡礼となり、これをコルラと呼ぶ。チベット人はカイラス山に限らず寺や祠など宗教的なものや、聖山や聖湖などの聖地など、なんでもそのまわりをまわる。「オム、マニペメフム」などとマントラを唱えながらまわる。祈ることこそが彼らの喜びなのだ。
カイラス山の巡礼路は1周52kmでチベット人たちは1日で周ってしまうが、旅行者は通常3日かけて歩くことになる。途中の寺や僧院に泊めてもらうことができるのだ。途中で5700mの峠を越えるハードな道のり。巡礼に興味はないが、やはりバックパッカーとしては周るしかない! といった感じでここへ来る旅行者も多い。
コルラには1周することと、もうひとつの大きな目的がある。それはカイラス山の北側の姿を見ること。カイラス山の北側はそそり立つ絶壁になっていて、その北壁の姿は仏陀とも大日如来とも言われ崇拝の対象となってきた。そんな姿も一目見てみたい。
アリからタルチェンへバスで向かう。バスで知り合ったフランス人のジェレミと4人でいよいよ西チベット観光のメイン、カイラスへ! と思ったがバスはなかなか発車しない・・・。オレたちのバスには解放軍の軍人が大勢乗っていて、軍の基地へ寄って荷物の積み下ろしを始めたのだ。その作業に2時間。
「いったい何やってんだよコイツら! 移動は軍用車でしろよ! 税金で働いといて何で公共の交通機関使うんだよ!!」
この時も4人で文句を言ったが、共産党による洗脳国家、軍事国家とも言える中国の政治にはこれまでにもイヤな思いをさせられてきた。
例えば数日前に観光したグゲ遺跡。ここは毛沢東の文化大革命により、宗教弾圧を受けて王宮が破壊されたという過去がある。しかし! 遺跡に建っている観光案内の看板にはこう書いてあった。
「戦争時に日本軍によって破壊された」
日本軍がこんな僻地にまで来た事実はないし、ここへ来るメリットも皆無。共産党による事実の歪曲、弾圧の隠蔽、文革の正当化で、政府への反感を反日感情へすり替えるという彼らの常とう手段であり、完全なプロパガンダ。
プロパガンダといえばテレビはもっとヒドイ。すべての放送局を管理している政府は、ニュースでも事実を曲げて報道し、共産党の宣伝ツールになってしまっている。オレが中国にいた時に、ちょうど新幹線が開通したのだが、その時のニュースはこうだ。
「わが国の技術力により開発された新幹線〜」
実際は日本の新幹線の中古にドイツのエンジンを乗せ換えたものだ。こんなのは朝飯前といったところで、視ていて笑える部分も多い。
反日感情を高めることにも躍起になっていて、テレビのチャンネルをまわせば必ずどこかの局で戦争ドラマを放送していて、日本人はヒドい描かれ方をしている。政府に何か不都合があればすぐに反日デモを扇動するという始末だ。
事実は隠蔽するためにインターネットも厳しく規制されている。まったく残念な国だ・・・。
と、まぁ中国の悪口を書いたらキリがないが、とにかく軍人たちに占領されたバスは2時間遅れで出発した。
2時間半ほど走ると、舗装路は終わって未舗装になってしまった。当然の悪路で、バスはガタガタと激しく震動した。標高は少しずつだが上昇し、良くなっていた高山病がまたしても襲いかかってきた。バスの振動が頭に響く。
頭痛に苦しみながら延々と高原の荒地を行くと、そのうちカイラス山が見え始めた。
「あれがカイラスか〜。ただの山じゃん・・・」
オレは率直にそう思ってしまった。なぜならバスの左手に見えるカイラスよりも、右手に見えるヒマラヤ山脈の方がケタ違いにスゴかったからだ。真っ白に雪をかぶったヒマラヤの山々は、チベットの強烈な太陽に照らされ白く輝いている。ジェレミはここからネパールを目指すと言うが、オレも思わず一緒に行きたくなるほどの景色がネパール国境方面にひろがっていた。
しばらくしてタルチェンに到着。
こんなチベット高原のド真ん中なのだから想像はしていたが、タルチェンは小さな村で電気は来ていない。宿や食堂も数えるほどしかなく、ここにいる間はシャワーも浴びられない。だがそんなことは問題ではない。気温が低く空気が極限まで乾燥しているチベットでは、汗が出ないからだ。チベット人たちは一生のうちに3度しか風呂に入らないそうだ。生まれた時、結婚した時、そして死んだ時。オレは現地の人のマネをするのが旅のポリシー。入らなくても大丈夫だろう。
しかし、この村には問題がある。それはトイレが村に1つしかないこと! 村に2つほどある高い宿にはトイレもあるようだが、その他の家や宿にはトイレがない・・・。公衆トイレが村に1つ。村人は大も小も男も女もその辺で用を足してしまうのだ。1度おばさんの立ち○ョンを目撃してしまったこともある・・・。が、これだけなら別に問題ではない。オレは屋外でも平気だ。ただ・・・、そこには犬がいる! この村には野犬がやたらと多く、昼はおとなしい彼らが夜になると狂暴化するのだ! つまり問題なのは夜のトイレ。狂犬病に怯えながらの命がけのトイレなのだ!!
結局オレは犬がイヤで、トイレまで行かずに宿の裏でしてしまった。犬はそこらじゅうで吠えているし凍えそうなほど寒かったが、星がたまらなくキレイだった。チベットの空気は澄み切っているし、街の明かりもない。まさに星を見るには絶好の場所だ。ここで寝っ転がって星を見たらサイコーだろうなと思ったが、そこに待っているのは凍死か狂犬病だ・・・。
足早に宿へ戻り、布団に包まった。この宿の唯一の暖房器具である暖炉は夜には消されてしまい、持っている衣服で可能な完全防備をしたうえで布団を2人分かけてもまだ寒い。そこで生活の知恵の登場だ。空のペットボトルにお湯を入れ、湯たんぽをつくる。そして部屋の中央には洗面器にお湯を張り、お湯に浸けたタオルをバンバンやって少しでも湿度を上げる。これでなんとか眠ることができた・・・。
と思ったのもつかの間。まだ治らない高山病のため、呼吸困難に陥り慌てて目を覚ます! しばらく息ができなくて心臓がバクバクと音をたてている。高山病は眠っている間が一番危険なのだ! 眠るのが怖くなったが、明日は1日じゅう歩かなければならないので眠らないと体がもたない。いや、それ以前に高山病のままコルラなどできるのだろうか・・・?
翌朝、オレたち4人はコルラを開始した! オレの体調は良くなかった。3人に先に行ってもらって、オレはもう1日ゆっくりして明日出発しようかとも考えた。しかし1人で歩くことの方がよっぽど危険に思えてそれはやめた。
歩きだすと気分が良いからだろうか、高山病は忘れてしまうほどに歩くことができた。景色もサイコーだ。巡礼路にはいたる所に祠があったり、タルチョと呼ばれる祈りの言葉を書いた旗がはためいていたり、祈りの言葉を彫った石やヤクの骨があったりして、存分に楽しめる。歩いているので体温が上がり、太陽も出ているので寒くはない。とにかく疲れも高山病もすっ飛ぶくらいの爽快なコルラだった。そしてついにカイラスの北壁とご対面。たしかに聖山とも思えるような姿だ。苦労した甲斐があった。
くたくたになって20km以上を歩き、ようやく今日の宿となる寺へ到着。そこでオレはある事実に気付いた。高山病はハイテンションに紛れていただけであって、むしろ悪化してしまっていた・・・。食事も摂ることができず、嘔吐もしてしまった。ガタガタと震えるほど寒いし、息は荒くなり、頭も割れそうだ。とにかく酸素が欲しい・・・。いつも当たり前のようにあるもの。その大切さはそれを失った時にしか気付くことができない。人間はなんてバカな生き物なのだろう・・・。
オレは寺の窓越しに見えるカイラスに向かって祈りながら眠りについた。
「明日の朝、目が覚めますように・・・」
オレの祈りはカイラスに近すぎて効力がありすぎたのか? オレは朝を待たずに目を覚ました。昨日と同じく呼吸困難だ。起きた瞬間は息をしておらず、しばらくは息ができないので本気で「死ぬかも」と恐怖を感じパニック状態になる・・・。落ち着きを取り戻してからも意識は朦朧とし、夢か現実かさえ分からなくなってくる・・・。
ふと窓の外に目を向けると、暗闇の中にカイラスが青白く浮かんでいるのが見えた。この日は満月だったのだ。幻想的で神々しく美しい・・・。大日如来が舞い降りたような夢のような光景。まさに高山病にうなされて見た幻影のような光景。それを見ていると心臓も呼吸も穏やかになっていく。不思議な、貴重な体験だった。
コルラ2日目の朝、オレは目を覚ました。目が覚めたという当たり前のことをうれしく感じられたことは、たぶん初めてだろう。体の方は昨晩のひどい状態からは脱したものの、決して良くなったわけではない。
2日目は最もハードなルートになる。巡礼路の最高標高地点となる5700mのドルマラと呼ばれる峠を越えなければならないからだ。しかも泊っていた寺からその方向に目を向けると、雪と氷で覆われている・・・。
オレはリタイヤを決めた・・・。もちろん行きたかった。が、昨夜のようなことが続けばそのうち本当に目覚めない朝を迎えてしまうかもしれない。高山病はそれだけ怖い症状なのだ。残念、無念。それ以外に言葉がないが、
「進むことより、戻ることの方が勇気が必要なのだ。それを選んだ自分は正しい」
オレはそう自分に言い聞かせながら、一人昨日歩いた道を引き返した・・・。
オレは無事タルチェンへ戻ることができた。疲れと頭痛ですぐにでも横になりたかったのだが、泊っていた宿が閉まっている。荷物を預けているので他の宿へ行くこともできない。しばらく入口の外で待っていると、宿の隣にある商店のおばちゃんが声を掛けてくれた。
「夜の8時まで宿の人は帰って来ないから家で待ってなさい」
オレは隣の商店で待たせてもらうことにした。しばらくすると宿の女の子が学校から帰ってきて、彼女もこの店で親の帰りを待つ。オレは宿の子と商店の子と3人で遊んでいた。そのうちオレは持っていたガイドブックの巻末にチベット語の会話集が載っていたことを思い出し、それを使って会話を試みた。それを見た少女がまず最初に発した言葉。
「ギャミ ヤポ ミンドゥ」
こんな幼い少女まで・・・。「ギャミ ヤポ ミンドゥ」とは「中国人は良くない」という意味だ。政府によるチベット弾圧に反感を持っているチベット人は多いが、ここまであからさまにこんな言葉を聞けるとは思いもよらなかった。それを聞いた母親は窓から周囲を警戒しながら続けた。
「中国人が村の仏像を壊した」
それは知っていた。泊っていた宿の情報ノートに書いてあったからだ。それによると1週間ほど前、村にあった大きな仏像が爆破されたそうだ。その時には村じゅう大騒ぎになったが、軍人が家々を巡回して家から出ないように言って周ったらしい。たしかに軍人たちが2,3人で棒を持って歩いている姿を良く見かけた。完全に弾圧だ! オレはタルチェンに着いた初日にこのノートを読み、崩された仏像のあった場所も見に行っていた。粉々になった残骸にむかって祈る老婆の姿が印象的だった・・・。
そういえばアリにいる時にインターネットで知ったが、ラサのデプン寺という寺が軍に包囲され、中の人たちが軟禁されているらしい。ダライラマがアメリカで勲章をもらったことを祝う式典を開こうとして、軍が阻止したという状況だ。ダライラマはインドに亡命中で、中国政府から見れば政治犯なのだ。
どうして次々とこんなことをするのだろう? チベットの独立運動に火をつけかねないのに・・・。解らない・・・。
とにかく、オレは少女の言葉に深く頷いた。
「ギャミ ヤポ ミンドゥ!!」
巡礼路は景色が良い / カイラスの北壁
175.最も過酷なバス 2007 11/7 (中国)
オレがコルラをリタイヤしてタルチェンへ戻った翌日、他の3人がコルラを終えて帰ってきた。聞くところによると2日目は相当きつかったらしく、3日目は何もなくて面白くなかったそうだ。つまり1日目が一番良かったと。途中で引き返してしまったオレに気を使ってくれていたのかもしれないが、オレの選択も正しかったようだ。
これからオレは、マパムユムツォという湖へ行きたい。ここも聖地とされている場所だ。車で1時間ちょっとの距離なのだが、その1時間ちょっとの移動が簡単なことではない。バスは来るのか来ないのか分からないし、ヒッチしても車はなかなかつかまらない。それにその後のこともしっかり考えて行動しなければならない。マパムユムツォから戻ってくることと、その後ラサへ向かうことを。このタイミングがずれると、また何日も足止めを食らうことになる。とにかく交通の便が悪いのが旅の大敵となっている状況だった。
移動手段の確保のために3日間を費やした結果・・・、もうイヤになってしまった・・・。マパムユムツォへ行くにしても、ラサへ行くにしても、バスも車も見つからない。唯一見つかったトラックはとんでもなく高かったし、宿でランクルを手配できると言うが、その車がラサからいつ戻るのかは分からない。ネパールへ向かうジェレミだけがヒッチに成功したが、オレたち3人はこの現状にイラ立っていた。
オレの高山病はしだいに良くなっていったが、今度はリサさんが悪くなってしまった。もうこれ以上先の見えない旅はしたくない・・・。そう思ってしまったオレたちは、アリへと引き返すことにした。アリからならラサへのバスが出ている。ルート的にはだいぶ遠回りとなってしまい、交通費もかかってしまうが、確実性をとったのだ。オレはともかく、体調の悪いリサさんたちは一刻も早くラサへ辿りついて病院へ行きたいだろう。
アリへ戻ってきた。チベットの旅のふりだしだ。マオくんとリサさんは背に腹は変えられず、高い金を払ってランクルをチャーターした。リサさんの体のために乗り心地とスピードをとったのだ。オレは一人バスに乗りラサへ向かう。これがまたしてもハードな道のりなのだ。チベットの西の果てアリから、チベット中部に位置するチベット最大の町ラサまでは1600km。日本でいうと東京、沖縄間に相当する距離だ。しかもチベットの険しい高原地帯。昼夜走り続けて、寝台バスで2泊3日の移動。・・・・・・のはずだった・・・。
バスは満員、乗りきれずに通路にまで人が寝ている。普通のバスではこんなことも当たり前だが、寝台バスでこの状況は初めて見た。しかもオレは金をケチって安い席を予約したため、オレのすぐ横の通路にも人がいるという狭い苦しい席になってしまった。
アリからラサへは北ルートと南ルートの2本がある。グゲ遺跡やカイラス山があるのは南ルートで、途中までは舗装路だ。しかしこのバスは北ルートを行く。アリを出るとすぐに道は未舗装になった。なぜ道の悪い方を通るのだろう? 南ルートを通ってくれればタルチェンからこのバスに乗ってラサへも行けるというのに。もしかしたら、オレのようにタルチェンからアリへ戻って、それからラサという旅行者からの観光収入を見込んでいるのかもしれない。
ともかくバスは道なき荒地を、砂埃をあげて走る。今回のバスも振動はハンパない。
2日目の夜までは順調だった。高山病もほぼ治っていたし、タルチェンでの経験を活かして寒さ対策も万全で臨んだ。夕方、立ち寄った小さな町で夕食を食べ、バスは再び走り出す。しばらく走ると、ガン! と大きな音をたてていきなりオレの横に人が降ってきた! 2段ベッドになっている2階部分が落ちてきたのだ! オレのすぐ横の席が! 上で寝ていた人はベッドもろとも下に落下。下に寝ていた人はその下敷きになったが、幸いケガは軽い打撲程度だった。バスの激しい振動で、鉄製のベッドの溶接部分が取れたのだ! これにはさすがに驚いたが、応急処置をしてベッドはすぐに直された。これがすべての始まりだった・・・。
オレは眠っていた。何かの拍子に目を覚ましたが、バスは停まっている。この時は何も考えずにそのまま寝てしまったが、しばらくしてまた目を覚ました。まだバスは動いていない。おかしいなとは思ったが、考えてもしょうがないのでまた眠る。そして朝、やっと停まっていた理由が分かった。バスは故障していたのだ! 何もない高原のど真ん中。東と西に山、北と南は地平線という果てしなく直線の1本道の真ん中で、バスは停まっている。ここがどこなのかは皆目見当がつかない。運転手たちが修理をしていたが、エンジンがかかる気配はまったくなかった。それでも乗客たちは落ち着いていた。チベットでは日常茶飯事なのだろう。旅も長くなったオレにとってもそれは同じで、この時点では何一つ心配することもなかった。
ところが・・・、修理は昼ごろになっても上手くいかず、運転手が携帯で呼んだランクルが客の分の水とビスケットを持ってきた。これを用意したということは、まだまだ時間がかかりそうだ。そう読んだオレの予想は的中してしまった。結局運転手はそのランクルで近くの町まで行き、工具やパーツを持って戻ってきた。この時点で4時。早くしなければ夜がきてしまう。寒くて暗い夜の作業は不可能だろう。チベットは広い中国の西の端にあるため、北京の標準時とはだいぶ時間がズレている。朝は8時ころまで暗いし、夜は8時ころまで明るい。つまりタイムリミットは4時間だ。
ただ何もしないで待っている時間はひたすら長く感じる。バスの寝台は狭くて外へ出たいのはやまやまだが、外は寒い。しかもここの地形のせいだろう、ここは風の通り道のようで、強風が吹くと体感温度はグンと下がる。中国人たちはトランプなどを始めて盛り上がっているが、オレは一人音楽を聞くか本を読むかしかない。本と言ってもこの時持っていたのはガイドブックだけなのだが・・・。
チベットの遅い夕日が沈み始めた頃、やっと修理が終わった。しかしエンジンは押しがけだと言う。乗客全員でバスを押す。すると、エンジンがかかった! やった! と誰もが喜んだが、それもつかの間だった・・・。
バスはラサへと向かわずに、来た道を引き返すことになった。まだ修理が充分ではなく、近くの町まで行って修理するというのだ。一番近い町は進行方向ではなく、道を戻る方向にある。そこでバスはUターンを試みたのだが・・・、なんと運転手のミスでバスの後輪が道をはずれ、1mほどの段差のある荒地に落ちてしまったのだ!!
「うぉーーーーーーーい!! マジかよ!?」
エンジンも止まり、万事休す・・・。と思ったが、これだけの人間がいるのだ。しかも目的はひとつ! ラサへ向かうこと! 一致団結したみんなの力は予想以上だった。この段差からバスを押し上げ、再び押しがけでエンジンをかけたのだ! この寒くて乾燥したチベットで汗だくになった。ラサに着いたわけでもないのに、妙な達成感と一体感を味わった。
2時間ほど走って、バスは町に着いた。看板によるとここはツォチェンという町だと思われる。地図を見ると、・・・まだ半分も来ていない。この町でやっとまともな食事を口にできた。しかもすべてバス会社のオゴリだ。当然と言えば当然だが、中国でこのように対応してくれるとは、なかなか気の利いた会社だといえる。
やっと落ち着いたところでバスに戻り布団に入ったが、エンジンがかかっていないので寒くて眠れない。そして・・・、高山病が再発してしまった。しかしこの原因は標高が上がったからではない。閉めきった車内は乗客の呼吸で二酸化炭素が増え、酸欠になったからだ。かといって窓を開ければ確実に凍死者が出るだろう。
オレはまたしても呼吸困難になってしまい、寝ても寝てもすぐに目を覚ましてしまう。しかも狭い寝台で暗い車内。目を覚ますたびにパニック状態に陥った・・・。これがきっかけで、閉所恐怖症と暗所恐怖症になりそうだ。もう最悪・・・。
翌日、丸1日かかってもバスは直らなかった。次第に不満を口にし出した乗客たちだったが、3食のメシ付きとあって険悪な状況にはならないで済んだ。まったく現金なものだと思ったが、オレも例外ではなかった。大勢で豪勢な食卓を囲むのは楽しいものだ。自然と時間が経つにつれてみんなは親しくなり、オレが日本人だということにみんなが気付きだすと、いつの間にかオレは人気者になっていた。筆談でメモ帳をすべて使い果たしてしまうほどだった。
何人かはヒッチハイクでラサへ向かったが、多くは今の状況を楽しんでいるようにも見える。そしてその筆頭がオレだった。何の予定もない旅行者のオレにとっては、むしろこのトラブルでみんなと親しくなれたことの方が大きい。Mr. トラブルメーカーの本領発揮といったところだろうか? 相変わらずオレはこういうのが好きなのだ。トラベルの語源はトラブルなのだ。トラブルこそ旅の醍醐味。
さらに次の日、朝起きると世界がすっかり変わっていた。一面の銀世界だったのだ! 一瞬、雪にテンションが上がったが、このままこの何もない小さな町で来春まで足止めか? と、初めて不安が頭をよぎった。しかし、この状況では開き直るしかない。最悪それもありか。という気になってきた。とにかく、仲良くなった若い奴と雪を投げ合って遊ぶオレだった。
バスは寝泊まりするだけで、この町にいる間はずっと食堂にいるか、散歩をするかだった。食堂にいる間は酒を飲んでメシを食べるか、トランプをするかテレビを視るか。昨日1日はこんなことが楽しかったが、2日続くともう飽きてきた。
そんなタイミングでやっとバスが直った! 試し運転で町を外れて1周してみる。雪のチベットの景色はサイコーだった。走行に支障のない程度で助かったし、思わぬご褒美になった。と、喜ぶと落とし穴があるのがこのバスのパターンだった・・・。
町の外でエンジンが止まってしまったのだ! 押しがけをすると言うが、この試し運転には乗客全員は乗っていなかった。景色を見たかったオレは着いてきたが、人数は半分以下。この人数で押しがけできるのだろうか? そう思ったオレは正しかった。人数が足りないうえに雪でぬかるむ地面に足をとられ、車体は動いてもエンジンがかかるだけのスピードまで加速できない。町までそう遠くないし、みんなを呼んでくるしかないとオレは思ったが、運転手は違う方法を思いついた。近くの坂道をバスを押して上がり、そこから加速をつけてエンジンをかけるという作戦だ。
今回、オレはそれを手伝わなかった。押して上がっている間に力尽き、坂を下りてくるバスにひかれるのではないかと思ったからだ。申し訳ないと思いながらも、それを見守った。そしてバスは坂を上がっていく。幸い事故なく上まで行けた。サイドブレーキをかけ、坂の上でスタンバイ。みんなが避難してからサイドブレーキを解除し、一気に坂の下へ! しかしエンジンはかからない!! そして! 勢いのついたバスは坂の下のT字路を曲がり切れずに電柱に衝突! 電柱は倒れて電線は切れてしまった・・・。
「もー、なんかメチャクチャになってきた!」
みんなもこれは笑うしかなかった。もうどうにでもなれ的な空気が流れだした・・・。
その夜。やっとのことで正真正銘の再出発! またどこかで止まりそうだったが、なんとかラサまで走りきった。結局2泊3日のはずが5泊6日。ハードだった、疲れた、寒かった、狭かった、酸素薄かった、過酷だった。でも・・・、楽しかった! だから良しとしようじゃないか。
みんなでバスを押す / 雪にはしゃいでたのはオレだけ・・・
176.さて、この後どうしよう? 2007 11/8 (中国)
ラサは都会だ。僻地の西チベットから来たオレにとっては、信号機ひとつ見ただけで都会だと感じてしまうほどだった。
ラサはチベットで最大の都市というだけあって、寺などの見どころも多く、ツーリスティックな店からローカルな店まで、なんでもありそうだ。標高は3650mと高いが、西チベットで完全に高地順応したオレにはなんでもなかったし、快適な生活をおくれそうだ。旅行者が多いのも楽しい。
ところで、オレは日本を出る時にだいたいの旅のルートは決めていた。が、それもラサまでの話。ここから先のルートは旅をしながら決めるつもりだった。
ヒマラヤ山脈を越えてネパールへ抜け、インドへ下りようか? 東チベットを抜けて雲南省へ出て、東南アジアへ向かおうか? この2つのルートが魅力的だが、そのどちらにも問題がある。それは冬だ。
どちらのルートも山岳地帯の悪路が続くため、雪で道路が封鎖されるのが一番恐い。もうすでに11月の第二週だ。ラサと、その周辺の観光には2週間ほどほしいし、季節は冬になってしまう。ここにきてそんなリスクは背負いたくない。西チベットでさんざん思い知らされたのだ。
でも行きたいし、どうしよう? 毎回のことながら旅のルートには悩まされるが、これも旅の楽しさのひとつなのだ。
今回の旅では行きたいと思っている所がいくつかあった。シルクロード、チベット、パキスタンのフンザ、モロッコ。フンザはチベットのように険しい山岳地帯にあり、来春まで行くことはできない。それに春には杏の花がキレイで、まるで桃源郷のような風景になるというから、それまで待つのがベストだ。来年の4月に帰国する予定のオレにとって、最後の地となるだろう。つまり、この後はモロッコへ行き、ついでにヨーロッパもまわる。そしてアジアへ帰ってきてからフンザを目指すというのがおおまかなルートになる。
ではどこから北アフリカに位置するモロッコへ飛ぼうか? 候補を考えると、インドのカルカッタ、タイのバンコクが頭に浮かんだ。どちらも航空券が安く手に入る町として有名だ。
そう考えるとうまくルートが重なった。ネパール経由でカルカッタからモロッコ、あるいは東チベット経由でバンコクからモロッコ。
結局はこの2択なのだ。
オレはバンコクを選んだ。理由は3つ。オレが大好きな国、タイへ行きたくなったこと。寒い所を旅してきたので、暑い所へ行きたくなったこと。そして友人に会いたくなったこと。
3年前に旅で知り合い、今年の正月には一緒にカンボジアへ行ったトモヒロくんが今タイに来ている。写真を撮っている彼はタイ南部とカンボジアの取材に来ているのだ。
ラサへの長いバスの中で、オレはこのように考えていた。そしてラサに着くと早速ネット屋へ行った。東チベットの情報を調べることと、トモヒロくんに連絡をとることが最初の仕事だ。
すると・・・、なんと東チベットは雪で交通網がマヒしているという情報だ。それに、取材が思うように進んでいないトモヒロくんからは予定を早めて帰国するかもしれないというメールが届いている。あれだけ悩んでやっと決めたルートだったのにこれではNGだ・・・。ネパールルートへ変更しようか? しかしヒマラヤの雪も心配だ。それに、一度タイへ行くと決めたオレの頭は東南アジアモードになってしまっていた・・・。こんな時は気分のままに動くのがオレの旅・・・。
結局、東チベットはカットして飛行機でバンコクへ向かうことに決めた。その場合のルートはまたしても2択。バンコクへ直行するか? 雲南省へ飛んでから東南アジアを陸路で南下するか?
翌日、ラサの旅行会社でチケットの値段を調べる。雲南省の昆明へは国内線なだけあって、バンコク行きの半額の値段だった。陸路での移動分の時間はかかってしまうが、雲南省の南部とラオスの北部にも行ってみたい。答えは簡単に出た。
昆明行きのチケットをその足で購入。8日後のフライトだ。ラサ周辺の観光で2週間と考えていたが、行こうと思っていたデプン寺は軍に包囲されてしまっていて観光はできないし、ナムツォという湖へ行く道も雪で閉ざされてしまったらしい。それに、ルートが決まると早く東南アジアへ行きたくなってしまった・・・。急げば8日間でも充分でしょ!
ラサへの道中も景色はすばらしい / ラサは都会だ
178.チベタンハウス 2007 11/10 (中国)
チベットは今オフシーズンだ。西チベットではあまり旅行者に出会わなかった。しかしラサは違う。ラサ周辺は鉄道や飛行機でもアクセスできるからだろう、街では外国人をよく見かけたし、宿もほぼ満室だった。ラサに着いた翌日には、知り合った日本人たちで食事へ行き、9人で円卓を囲むことができたくらいだ。
オレはそこで知り合ったヨウくんと、翌日からシガツェ、ギャンツェという2つの町へ一緒に行くことになった。まずはバスで4時間のシガツェへ。この道は2日前にあの史上最長バスに乗って通った道だ。その時は夜だったので風景も見られなかったが、改めて車窓を見てみると緑が多いことに気付く。延々と石と岩だけの荒地だった西チベットとは違う風景だ。緑のある河沿いの道路をバスは行く。
しばらくすると検問だ。しかし運転手と公安が何やら言葉を交わしただけで、そのまま通過。考えてみればアリからラサへの道でも、何度かあった検問はノーチェックだった。もしかしたらアリで取った許可証は意味のないものだったのかもしれない。こんなことならバックパッカー精神にのっとり、許可証なしで突入すれば良かった・・・。
それからまたしばらく走ると、バスは停まってしまった。事故だ! 渋滞の先頭ではバスが側溝に落ちて立ち往生している。そのバスに乗っていた客をオレたちのバスに乗せ、超満員になったバスで再び走り出す。
チベットへ入ってからバスでの長距離移動は5回目だが、何事もなかったのはたったの一度きりだ。毎回故障や事故に遭遇する。これも秘境チベットの厳しさなのだろうか?
シガツェに着いたオレたちは、早速この町一番の観光名所、タシルンポ寺へ行った。本格的なチベット寺院は前回の旅で1度だけシャングリラで行っていたが、日本や中国、東南アジア、インド、どこの仏教寺院とも違う造りの寺院が新鮮だ。なかなか楽しむことができて良かった。
その後、シガツェゾンという城塞の跡へ向かった。一目見ておもしろそうではないと判断したオレとヨウくんは、その周辺のチベット人居住区を歩いた。多人種が暮らす国ではよくあるパターンなのだが、ここチベットでも先住民のチベット人は旧市街、移住してきた漢民族は新市街という街の構図が成り立っている。キレイで新しく、物が豊富で華やかな新市街に対して、シガツェの旧市街は家々も粗末で、ろくに商店もない。
そんな旧市街を歩いていると学校帰りの子どもたちに囲まれた。例のごとく「写真を撮って!」という具合だ。旅をしていると写真を撮ってくれと言われることが良くある。子供に限らず、大人たちも。そして写真を撮った後のリアクションにもお決まりのパターンがある。その場でデジカメの画像を見て満足する。住所を教えてくれ、「ここに写真を送ってくれ」と頼まれる。メールアドレスを教えてくれ、「ここにデータを送ってくれ」と頼まれる。だいたいこの3パターンだ。
しかし、オレが実際に写真を送ってあげたことは一度しかない。インドネシアのアリさんへ送った一度きりなのだ。つまりその場限りの会話で終わってしまうことがほとんどだった。出会った人みんなに送っていたらキリがないし、そこまでするギリもない。というのが本音だが、相手は期待して待っていたかもしれない・・・。心が動いた時には送ってあげよう。そう思っていた。
そのオレの心が、ここでは動いた。ヨウくんも同じ考えだったからということもあったのだろう。オレたちはこの子どもたちに写真を渡してあげたくなった。それだけカワイイ子どもたちだったし、「写真を学校に送って」と言われていた。写真を撮ってあげた子のうちの2人の家は教えてもらっていたので、そのどちらかの子に渡しに行くことにした。
写真屋は泊まっていた宿の近くで見かけていた。データを渡し、写真をプリントしてもらう。夜になってしまったが、2時間後にそれを受け取って旧市街へと向かった。
まずは5年生か6年生くらいの女の子の家へ行ってみた。商店だった彼女の家は、シャッターが閉まっている。他に入口も見当たらない。しかたがなく、家を知っているもう一人の男の子の家へ行くことにした。
やはり木製の門は閉ざされていた。2階のベランダでは大きな黒い犬が、激しくオレたちに向かって吠えている。オレとヨウくんが門の外で話していると、道に面した部屋の窓が開いて女性が顔を出した。男の子の母親だろうか? オレが写真の入った封筒を渡すと、言葉も通じない彼女はすぐに喜んでくれて男の子を呼んだ。きっと男の子が「今日、日本人に写真を撮ってもらった」とでも話していたのだろう。すぐに理解されて良かった。こんな夜に突然外国人がやってきたら普通は驚くだろうから。
すぐに家族のみんなが出てきて、オレたちを中へ入れてくれた。
粗末な土壁の外見とは対照的に、家の中はしっかりとしていた。まず病気で寝ているおじいちゃんに挨拶をし、奥の部屋へと案内される。家の中は昼間見たタシルンポ寺のような装飾が施され、仏画や僧侶の写真、カイラス、ポタラ宮、ブッダガヤなどの仏教聖地のポスターが飾られている。チベット人の信仰深さがうかがえた。オレたちはチベットで一番メジャーな飲み物、ジャと呼ばれているバター茶でもてなされ、しばらく筆談で会話をしていた。長男はほんの少しだけ英語も話した。
「明日の1時にもう一回来て、昼ご飯を食べていけ」
やっぱ写真を渡しに来て良かった。オレたちはその言葉にあまえることにした。
翌日は朝からギャンツェへ向かう予定だった。しかし、やはり「旅は出会い」だ。オレとヨウくんは、観光よりも現地の人たちとの触れ合いをとった。予定を変更し、再び彼らの家へ行く。
子どもたちはまだ学校から帰っていないようだった。20歳くらいに見える長男が迎え入れてくれた。またしてもバター茶の飲め飲め攻撃に会うオレたち。子どもたちがいないと何となく会話も弾まない・・・。オレたちは家の他の部屋も見せてくれと頼んでみた。長男は快く家を案内してくれ、いくつかの部屋を見た。その中のひとつで、オレたちは意外なものを目にする。
ある部屋には日本の仏壇のようなものがあった。黄色いローソクがいくつも並び、派手な装飾がされている。いくつもの僧侶、指導者の写真が並び、彼はそれをひとつずつ説明してくれた。
「あなたたちはブディストですか?」
そう聞かれイエスと答えたオレたち。すると、彼は仏壇の引き出しの中からダライラマの写真を大切そうに取り出したのだ。
中国に支配されてからのチベットでは、政敵であるダライラマの写真を持つことはタブーとされている。だからこそ引き出しにしまってあったのだが、それを正体不明のオレたちに見せてくれるとは・・・。オレがタルチェンの少女に教えられたチベット語に共感してくれたのかもしれない。
「ギャミ ヤポミンドゥ」
ところで昨日は昼食を御馳走してくれると言っていたのだが、2時間ほど経ってもその気配はなかった・・・。社交辞令だったのだろうか? それともチベタン流の会話の一部だったのだろうか? 結局オレたちは子どもたちにも会えないまま家を出ることにした。チベットの家庭料理を食べられなくて残念だったが、そろそろギャンツェへ向かわなければバスがなくなってしまう。
と、門をくぐったところでちょうど男の子が帰ってきた。
「遅いよ〜。おまえ〜」
オレたちは彼に挨拶だけして、バスターミナルへ向かった。
「トゥジェチェ!」(ありがとう)
チベタンの家に入れてもらえた
179.チベタンの祈り 2007 11/16 (中国)
シガツェの次はギャンツェだ。乗合バンで約1時間。途中の風景は良かった。西チベットの荒野ばかりを見てきたオレは、荒野の風景がチベットなのだと思っていたが、東チベットは緑が多い。シガツェからギャンツェへの道中には畑や草原が多く、羊や牛、ヤクの放牧もいたる所に見られた。日本の田舎の秋の風景にも似ている。そんな中にある小さな町がギャンツェだ。
この町の見どころはバンコルチューデという城壁に囲まれた寺と、そそり立つ岩山に造られたかつての王宮、ギャンツェゾンだ。
バンコルチューデはどこかネパールの寺に似た雰囲気の寺で、特に寺の外壁に描かれた仏の目、ブッダアイがオレのお気に入り。螺旋状に上階へと向かう内部には仏像と壁画が無数にあり、見学するのにボリューム充分といった感じだ。
ギャンツェゾンは王宮自体はそれほどでもなかった。ただ、ここからの風景はすばらしい。ギャンツェの街すべてを見渡すことができ、特にバンコルチューデの全景は絵になる風景だった。白い寺に赤い城壁、茶色の岩山に青い空、白い雲・・・。みごとな色合い。
オレとヨウくんはギャンツェで1泊だけしてシガツェへ戻った。その翌日、朝一のバスでラサへ。
バスに乗り込み出発を待つが、バスは一向に動く気配がない。バスが時間どおりに動かないというのは海外では当たり前のことで、オレは特に気にとめもしなかったのだが・・・。どうも様子がおかしい。どうやらもめ事が起こったらしい。
しばらく様子を見ていて何となく見えてきた。どうやらバス会社と一人の女がもめているようだ。そのうち、それを聞いていた他の乗客たちが騒ぎ出した。
「降りろ!」
「降りない!!」
というやりとりが続き、ついには「バス会社+運転手+乗客VS一人の女」の戦いになった。この時点では、オレたちはみんなが何を言っているのか良く分かっていなかった。
「降りろ! 降りろ!! 降りろ!!!」
そのうちバスの全員がそう叫び出すと車内は騒然となり、バス会社の数人の男が女をバスから力ずくで引きずり降ろした。オレたちはわけも分からず笑うしかなかった。そしてやっと出発。
ところが、バスが最初の交差点で赤信号にひっかかってしまった。女は走ってバスを追いかけてきた。そしてバスの前に仁王立ちして何かを叫んでいる。今度はヤジ馬から公安まで集まってきて大騒ぎになった。道路も渋滞だ。
ここまでくるとただごとではない。オレは女の言葉に耳を傾け、周りの人にも話を聞く。オレの中国語力では何となくしか理解できなかったが、女は車内でバッグを盗まれ、その中には大金が入っていたと言っているようだ。
オレは騒ぎの最初から見ていたが、そんなことはたぶんあり得ないだろう。おそらくバスを降ろされたことに対する腹いせの狂言だ! 彼女はチベット人ではなく漢民族。ヤツらのやりそうなことだ。
しかし、ウソだろうが何だろうが女がこんなことを言っている以上、公安は仕事をしなければならない。・・・・・・そして何と、バスごと警察署へ移動して取り調べということになってしまった! バスの全員が容疑者というわけだ。
「おい〜! マジかよ、カンベンしてよ〜」
と、オレとヨウくん。外国人だし、面倒なことにならなければ良いが・・・。
幸い、悪い予感はハズレた。バスは取り調べられることもなく、女とバス会社の人間だけが連れて行かれた。公安も女の話はデタラメだとふんでいるようだった。それでも警察署では長い時間待たされることになり、この日の昼飯は警察の横にある商店で買ったカップラーメンを、警察の中庭で食べるという味気ないものになってしまった。3時間遅れでバスは出発。まったく漢民族め!
ラサへ帰ってきた。オレがフライトまでにラサで残された時間は3日。見どころの多いラサでこれは少なすぎると思っていたが、意外とそうでもなかった。理由は寺に飽きたから。何ヵ所か行った寺はどこも似たり寄ったり。良かったのは問答修行が見られたセラ寺と、風景の良かったガンデン寺、そして寺ではないがポタラ宮くらい。その他はどこも同じようなものだ。ラサの見どころの多くはその寺で、オレは「もうこれ以上寺は見なくていい」と観光を辞めてしまったからだ。
それからは時間ができた。ヨウくんとも別れて一人になったオレは、その時間のほとんどをバルコルで過ごした。
ラサにはチベットの最高位に値するジョカンという寺がある。ジョカンは旧市街の中心に位置し、バルコルと呼ばれる道がその周りを一周している。バルコルは商店街でもあり、巡礼路でもある。道の両脇に露店が建ち並び、その中央部分をチベット人たちが歩く。カイラスと同じようにチベタンはこのバルコルをコルラし、何周も何周もぐるぐると聖なるジョカンの周りを周るのだ。
そんなバルコルは人で溢れている。コルラするチベタン、商売をする漢民族、海外からの旅行者。オレもバルコルを周り、露店をひやかしチベタンの姿を眺める。そしてジョカンの正面広場に出るとそこで腰を下ろし、祈りをささげるチベタンを見続けた。チベット全土から集まってくるチベタン。彼らの地方によって異なる衣装や髪型を見ているだけでも飽きなかった。
五体投地という方法で全身を投げうって必死に祈る人々の姿を目にし、巨大な炉で焚かれているサンと呼ばれる独特の匂いのする香を嗅ぐ。耳からは呪文や経が聞こえてくる。何か不思議な感覚になる場所だった。
やはりどの宗教にも共通して、宗教色の強い場所というものは空気が違う。この雰囲気・・・、オレは嫌いじゃない。
そしてオレは、彼らの祈る姿を見ながら「信仰とはなんだろう?」などと考えてみた。
祈りこそが信仰。
祈りこそが彼らの喜び。
ブッダアイがカッコイイギャンツェの寺 / バルコルで五体投地をするチベタン
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