道に迷ってまたここに
〈東南アジア編W〉


中国 2007/11/16-19
ラオス 11/19-23
タイ 11/23-12/5






180.やっぱムカついちゃった     2007 11/18 (中国)

 飛行機でラサから昆明へと向かう。ラサを発った飛行機はヒマラヤ山脈の北側をかすめるようにして東へ飛んでいった。運良く右側の窓際の席をとることができたオレは、上空から見下ろすヒマラヤに目が釘付けだった。どこまでも続く山、山、山・・・そしてその一番奥には真っ白に輝く山脈。今回ヒマラヤはこの上空からとカイラスにいた時に遠目で見ただけだったが、いつかチベットからネパールへ抜けるルートを通って間近で目にしてみたい。

 オレの乗った飛行機は、雲南省北部にあるチベット文化圏の最果て、シャングリラ経由の便だった。シャングリラの空港へ着陸態勢をとり高度を下げると、雪景色が目に飛び込んできた。東チベットは雪で閉ざされたという情報だったが、ここまでこんな状況とは・・・。この時期に東チベットへ行こうとしていたことが、いかに無謀だったかを思い知ると同時に、行かなくて良かったという運の良さに気が付いたオレ。
 シャングリラの空港へ着陸。機内アナウンスによると気温は0℃。3年前にこの町に来た時、あまりの寒さに宿の電気毛布に包まっていた記憶が蘇ってくる。しかし、外へ出てみるとまったく寒くない。雪で湿度があったからだろうか? チベットがさらに寒すぎたからだろうか? とにかく0℃という気温は暖かくさえ感じるほどだった。

 そして乗客を入れ替え昆明へ。今回の旅で初めて、今までに行ったことのある町だ。まず第一印象は、予想どおりのものだった
「暖かい」
 緯度的には亜熱帯地域に属しながらも標高が高いため、1年中春のような気候の「春城」と呼ばれる昆明。この暖かさと、前にこの町へ来た時の良い思い出に、テンションが上がった。ただ歩いているだけでも気分は良かった。ところが・・・、そんな気分も台無しになってしまうような事件が起きてしまった・・・。

 昆明に到着した次の日の朝、タバコを買おうとしてタバコ屋へ行った時のことだ。何がどういけなかったのか? まったく理解不能だったが、とにかく店の老婆がいきなり怒り出し、食べていたラーメンの箸を投げつけてきた。何なのか聞きたかったが、オレの中国語力では通じるはずもなく、もちろん中国人のしかも老人の英語力は限りなくゼロに近い。そのうち老婆が奥へ向かって誰かを呼ぶと、爺さんが凄い形相で飛び出して来てオレを道路へ突き飛ばした! しかもその時に左手をつかまれていたために変な体勢になってしまい、手首をひねって痛くなってしまった。まったく意味が分からない! オレは公安へ行こうかとも思ったが、公安の人間にも言葉は通じないだろうし、こんなバカな人間にはこれ以上関わりたくなかった。
 それにしても中国人はこんなヤツばかりだ! オレは完全に頭にきてしまった・・・。これまで新疆で、チベットで、徐々に積もっていた中国人に対してのイライラももう限界! 前回の旅で大キライになった中国人を、今回も好きになれなくて残念だ。とにかく、
「こんな国にこれ以上いてもろくなことがない! この国に長く居すぎた!」
 と思ってしまい、オレはその日のうちにラオスへ向けて出発することにした。
 本当だったら雲南省では何ヵ所かに寄っていくつもりだった。棚田で有名な元陽、少数民族が多い金平・・・。それにバンコクで会う予定だったトモヒロくんが予定を早めて日本へ帰ってしまったので、急ぐ必要もなくなっていた。
 だが、もう中国はいい。このまま南下してラオスへ行く!

 夜行バスに乗り、景洪(ジンホン)という町へ。ここは雲南省南部の、シーサパンナ・タイ族自治区という地域だ。タイ族をはじめ多くの少数民族が暮らしている。オレの嫌いな漢民族は少数派だ。
 町はまるっきり東南アジアだった。タイ族が多いということで、建物はタイ風だし、寺院もタイ仏教の寺だ。そして食べ物もタイ料理なら、言葉もほぼタイ語。そして暖かい昆明とは違い完全に暑い。東南アジアの暑さだ。
「やっと帰ってきたぜー!!」
 という気分になり嬉しかったが、それでもここは中国。時々聞こえてくる中国語がたまらなく耳ざわりだった・・・。

   
昆明は好きな町だったのに / 景洪はもうまるっきり東南アジア



181.ロイクラトーン     2007 11/25 (中国、ラオス、タイ)

 景洪は特に何があるわけではなかったが、久々に東南アジアの空気に触れたオレにとっては楽しい町だった。何よりもオレに東南アジアを感じさせたのはメコン川だ。東南アジアの6ヶ国にまたがって流れる大河メコン。これこそがインドシナの象徴ともいえる存在だろう。
 1泊してさらに南下。モンラーという町でバスを乗り換えラオス国境の町モーハンへ。この区間は悪路で苦労するという情報もあったが、オレがここを通った時には立派な幹線道路が開通していた。
 モーハンは小さな町だった。本当だったらこのモーハンで1泊して、翌朝に国境を越えた方が何かと都合が良い。国境に着いた時点で夕方になっていたので、ラオス側へ入ってから次の町までの足を確保できるか怪しかったし、中国元も多めに余っていたのでこちら側で金を使いたいという理由だ。
 しかし、オレはそのまま中国を出国することにした。一刻も早く中国から出たかった。中国人のいない場所へ行きたかった。
 ところが・・・、それがいけなかったのだ・・・。

 中国のイミグレを抜けると、オレの行く先には山道が続いていた。ラオスまでどれくらいの距離があるのか見当もつかない。とはいっても両国のイミグレが2kmも3kmも離れていることはめったにない。オレが越えたいくつもの国境を考えてみても、そんな場所は2ヶ所しか記憶にないのだ。すぐに着くだろうと思い歩き始めたが、すぐにトゥクトゥクの運転手に呼び止められた。
「遠い、遠い」
 中国人の運転手がカタコトの英語でそう言う。
「歩いたらどれくらい?」
「1時間」
「で、いくらなの?」
「20元」
「高い! 5元ならいいよ」
「ダメダメ20元だ」
 オレはこの男とこれ以上交渉する余地はないと見て歩きだした。しかし、ここは山道で曲がりくねっているために視界が悪く、どこまで歩けばよいのか分からない。それにかなりの坂道だ。他の人たちはみなトゥクトゥクに乗っていく。
「ん〜。やっぱ遠い気がしてきた・・・」
 と思っていたところにまたしても別のトゥクトゥクが寄ってきた。今度は東南アジア系の男だ。
「いくら?」
「10元」
「高いよ。5元にして」
「OK」
 乗ってみると何のことはない、5分もしないでラオスへ到着した・・・。つまり東南アジア系の男の値段が適正だったわけだ。最後の最後で、中国を象徴するようなやりとりだったように思う。

 ラオスへ入ったオレは、すぐに移動手段を探し歩く。行きたいのはルアンナムター、あるいは可能ならばその先にあるムアンシンだ。
 しかし予想どおり、バスも乗合タクシーもこの日の出発はなかった・・・。大金を払ってチャーターすれば話も別だが、そんな無駄な金などあるわけがない。この国境の町、ボーデンで宿をとることになった。
 宿を決め、町をぶらつく。しばらくしてどうも様子がおかしいことに気付いた。ここは国境のラオス側だ。なのに町のほとんどが中国人・・・。言葉はすべて中国語、看板はすべて漢字だし、通貨も中国元だ。この町はラオスでありながら中国だった。中国人に完全に支配されていた。ここは中国人の金持ちがカジノで遊んだり、女を買ったりするための町・・・。ここで商売をしているのも中国人で、金のある人間を相手に商売をしているため、物価は必然とつり上がる。
 とにかく気分の悪い町だった・・・。中国人に会いたくなくてラオスへ来たのに・・・。オマエら人の国で何やってんだーーーーっ!!

 翌朝、ここラオスでもタイと同じようにソンテウと呼ばれている乗合タクシーを乗り継いで、ムアンシンへ移動した。
 山の中の小さな町、ムアンシンの郊外には少数民族の村が点在している。町はメインストリートを外れれば一面の田園風景という田舎町。オレの訪れた時期が悪く、焼畑の季節で空まで真っ白だということを除けばかなりイイ感じの町だ。やっぱ田舎は良い。
 レンタサイクルで少数民族の村を訪れるのもおもしろかったし、市場をぶらつくのもおもしろい。外国人のオレを見つけて群がってくる子どもたちや、町まで民芸品を売りに出てくる少数民族のおばちゃんたちの相手も楽しかった。
 しかしオレがここを何より気に入ったのは、祭りだ。
 毎日夕方になると、市場は祭り会場になる。屋台が出て、景品がもらえるゲームコーナーが設けられ、小規模な移動遊園地まで現れる。日が暮れて大音量で音楽が流れ出すと、大人も子供もここへ集まってくる。毎日のことなのだから祭りとは呼べないのだろうが、オレの目からすればこれはまぎれもなく村祭りだ。オレが子供の頃の、町内の神社の祭りに雰囲気が似ている。この場所にいると、幼いころの記憶が蘇ってくる。

 この町は気に入ったし、前にも書いたようにバンコクで会うつもりだったトモヒロくんは日本へ帰ってしまった。旅を急ぐ必要はまったくなかったのだが、オレはムアンシンにたったの2泊だけしてタイへ向かうことにした。どうもバンコクから先のルートが決まらずに落ち着かなかったからだ。早くバンコクへ行って航空券の値段も調べながらルートを決めたい。せっかちなオレはそう考えてしまった。
 明日の予定すらないような旅が好きでこんなことを続けているくせに、予定が決まらずに落ち着かないなんて・・・。その矛盾に自分でもおかしくなったが、とにかく先を急ぐことにした。

 タイへ入国して最初の町はメコン川沿いの国境の町、チェンコンだ。オレはどうもこの町ではイベント運が良いらしい。4年前に来た時にはモン族の正月の祭があったが、今回も祭りに出くわした。「ロイクラトーン」という祭りで、日本でいうところの「灯篭流し」だ。
 灯篭を川に流すのは日本と同じ。ただ、タイの灯篭流しは空にも灯篭を流す。クラトーンと呼ばれるバルーン、つまり熱気球を飛ばすのだ。それを3日間続ける。
 チェンコンでパレードを見た翌日、オレはチェンマイへと移動した。タイ全国のうちでもチェンマイのロイクラトーンが盛大で有名だと知ったからだ。チェンマイに着くと、ちょうど祭りが始まった。タイ航空の宣伝入りのバルーンが無料で配られ、みんなでそれに火をつけて飛ばす。たちまち何ヵ所かで火災が起こった! 「おいおい、大丈夫かよ」と思いながら、ゆっくりと上空へ上がっていくいくつものバルーンを見ていると、打ち上げ花火が上がった。それが開会の合図だったのか? その後は延々と続くパレードが町を一周する。花火がドンドン上がり、ライトアップはギラギラ、爆竹はバチバチ、大音量の音楽が流れ、カラオケ大会も盛り上がっている。とにかく賑やかな祭りだ。そして空には無数のバルーンが満点の星空のよう。うるさいが、キレイな祭りだった。
 それにしてもこの火のついたバルーンはどこかに大量に落下するんだろうな・・・。

   
超イイ感じのムアンシン / バルーンを飛ばす



182.旅の迷子     2007 11/28 (タイ)

 ロイクラトーンは楽しかったが、困ったことになってしまった。バンコクへ行く列車もツーリストバスもすべて満席だったからだ。やはりチェンマイはロイクラトーンで有名なので、全国各地から人が来ていたのかもしれないし、外国人の姿も多かった。結局ナゼかツーリストバスよりも高いローカルバスで行くことになった。

 バンコクに着いてまず航空券を探す。予定では次の目的地はモロッコ&ヨーロッパだ! カオサンの旅行代理店をいくつかまわり、値段を調べた。が・・・、高い・・・。モロッコ行きなど安くても10万円近い値段だ。パリ、アムステルダム、ローマ、ロンドン。そのあたりがまだ安めではあったが、考えていた予算は完全にオーバーだ。イスタンブール行きなら出せる金額だが、そこから陸路ではちょっと遠すぎる。唯一見つけたローマ行きの安いチケットはフライトが2週間後、しかも片道。アジアへ帰ってくる予定の今回は、往復のチケットをゲットしたい。でないと帰りのチケットがいくらかかるのか想像もつかないからだ。ヨーロッパでチケットを買えば当然高いような気がする。
 とにかくまた迷ってしまった。こんな時には情報収集が大切。ネットで調べ、本屋で立ち読み。こんな時にバンコクは便利だ。ISETANの中にある紀伊國屋で日本語のガイドブックをあさる。イタリア、フランス、スペイン、モロッコ。
「ん〜、こんなに寒いのか・・・」
 良く考えてみればあたりまえだ。バンコクの街も早くもクリスマスモード、もう12月なのだ。いっそのことやめてしまおうか? 寒いのもイヤだし・・・。
 ここにきて予定は白紙に戻ってしまった。困りながらも立ち読みを続けると、おもしろそうな所を見つけた。「東アフリカ」前に行ったことのあるエジプトも、今回行こうと思っていたモロッコも、アフリカ大陸ではあるが文化的には中東のアラブ文化圏に分類されるといってもいい。つまり本当のアフリカとはいえないのだ。オレにとって未知の大陸アフリカ。急に行ってみたくなった。
 早速カオサンに帰るとケニアのナイロビ行きのチケットをあたった。
「なんだよ・・・、ここも高いのか・・・」
 最近タイバーツは強くなっているし、物価そのものも上がっている。航空券の値段も上がっているし、それに加えて昨今の原油高騰。もうバンコクで超格安チケットという時代は終わったのかもしれない・・・。

 その後2日間、カオサンでぶらぶらして安宿のベッドでルートに悩む、という生活をしているうちに思った。このままここでこうして考えても結論は出せないのではないか? 時間をムダにし、旅の気力も失せていき、このバンコクで沈没してしまうのではないか?
 モロッコ? ヨーロッパ? 東アフリカ? フンザ? 沈没? 今のオレは、完全に旅の迷子になってしまった。
 こうなったらもう、旅をしながら考えるしかない。オレは先を見過ぎなのかもしれない。10歩先ばかりを見ていて、1歩先が見えなくなっていた。4年前にインドで訓えられたように、未来ではなく今を見なければならないのかもしれない。
「インド。インド・・・。インド・・・・・・」
「よっしゃ。行くか・・・」
 なんとなくインドへ行けば、その後の答えも出るような気がする。インドとはそんな国だ。
 4年前、オレはインドの北部を東から西へと横断した。今回は南インドを周る。ついでにインドの南、インド洋に浮かぶ島国スリランカへも行くことにした。すぐにチケットを調べると、バンコクからスリランカのコロンボにストップオーバーして南インドのトリヴァンドラム行きが約4万円。少し高いが、まぁ納得できる値段。オレはすぐにそのフライトに決めた。
 それにこのルートなら、南インドのムンバイからケニアのナイロビへ飛ぶことができる。この路線はバックパッカーが良く使うルートなので航空券も安く手に入るはずだ。ムンバイからモロッコ、あるいはヨーロッパでも良いだろう。とにかくムンバイに辿り着くまでの間に考えれば良いのだ。残りの時間、残金、その時の気分で決めよう。

 そうと決まればこれから2つの仕事をしなくてはならない。まずはインドビザの取得。翌日は早起きをしてインド大使館へ。
 ところが・・・、大使館では現在ビザを取り扱っていないという張り紙が・・・。その紙に書いてあったビザセクションのあるビルへ移動すると、ほとんど旅行者がいない状況だった。4年前に大使館へ行った時には人でごったがえしていて申請にえらく苦労したものだが、この人の少なさは何なのだろう? 疑問には思ったが、深く考えも調べもせずにオレは申請手続きを済ます。そしてビザ代金の支払いの時になって人の少ない原因が分かったのだ。
 なんと料金が4年前の倍近くに上がっていた! しかもビザ代が値上がりしたのならまだしかたがないのだが、手数料と税金がプラスされるようになっていたのだ。ビザ代760バーツに対して、手数料450バーツ、税金32バーツ、小切手代35バーツ。余分な金を517バーツ、約1500円も取られたのだ! 理由はこの立派なビルへ移転し、管轄がタイに移ったからだ! ビルの家賃とタイの職員の給料のために高額な手数料を払うハメになってしまった! つまり高くなったのはバンコクでビザを発給したからで、チェンマイの領事館や、他の国で発給すれば従来どおりの値段だということだ。
 下調べなしに大使館へ行ったことによる大失敗だった・・・。

 もう1つの仕事はしっかりと下調べをして臨んだ。もう1つの仕事は予防注射だ。
 インドの次は東アフリカへ行くかもしれないが、アフリカでは入国の際にイエローカードの提示が必要な国もある。イエローカードとは黄熱病の予防接種を受けていることを証明する書類だ。東アフリカへ行くとなると黄熱病の予防接種が必要というわけだ。それならばインドではなくタイで済ませておきたい、と100人中100人がそう考えるだろう。インドで注射は怖い・・・。
 バンコクの赤十字協会へ行って注射をしてもらった。これで10年間は有効なので、今回アフリカへ行かなかったとしてもいつかは役に立つだろう。

 ルートも決まりほっとしたが・・・、よくよく考えてみるとスリランカ&インドへ行くのならラサからネパールを抜けてインドへ降りた方が正解だったような気がしてきた・・・。わざわざ飛行機まで2回も使うことになってしまったし・・・。東南アジアへ来たこと自体が迷子の始まりだったのだ! バカの一つ覚えのようにバンコクを目指したのが失敗だった? 時間も金もムダにしてしまった? まぁ結果論でしかないのだが・・・。

   
相変わらずのバンコク / 早くもクリスマスモード



183.あー・・・タイ・・・     2007 12/6 (タイ)

 どうも失敗してしまった気はするが、とにかくルートは決まった。12/5スリランカのコロンボへ飛び、3週間スリランカを周った後に12/26のフライトでインド最南端に近いトリヴァンドラムへ。
 フライトの前日にインドビザの受取があるが、それまでの4日間はフリーだ。オレは迷わず海へ向かった。ビーチだ! 今回の旅では初めての海。4日間という時間にちょうど良い距離にある、チャーン島という島を選んだ。

 昼前にバンコクからバスに乗り、夕方にはチャーン島へ渡るフェリー乗り場に到着した。フェリーに乗って赤く染まった海を渡る。待望の海にキレイな夕日。ここまではオレの気分も良かった・・・。
 チャーン島へ到着し、フェリー乗り場からビーチへ向かうために他の旅行者と一緒にソンテウへ乗り込んだ。スーツケースがいっぱいで狭苦しい・・・。
「んっ? スーツケース??」
 イヤな予感が・・・。ソンテウに乗っている顔ぶれを確認・・・。そして確信。
「オレの来る場所じゃなかった・・・」
 ここの島は完全なリゾートアイランドだったのだ! 欧米からの老夫婦や家族連れが多く、オレのようなバックパッカーもほとんど見かけない。物価はメチャクチャ高く、立派なホテルがビーチ沿いを占めている。かなり開発の手が入っている印象だ。来る前に調べてきた安宿へ向かったが、そこも取り壊されてまさに今、リゾートホテルに建て替えられている最中だった・・・。
 何とかビーチから離れた場所に安めのバンガローを見つけたが、それでも値段は1000円以上。食事も普段食べている物の2〜3倍はする。オレは悲しくコンビニのパンをかじることに・・・。

 このチャーン島のようなビーチリゾートや遺跡などの観光地に限らず、タイの物価は上昇している。それに加えてバーツそのものも強くなっているので、旅行者にとってはダブルパンチだ。実質1,5倍ほど高くなっているといえるだろう。タイはもともと安い国の部類にギリギリ入るか入らないかという感じだったが、これで完全に安い国ではなくなってしまった・・・。
 特に日本や欧米からの旅行者に人気が高いタイの観光産業は、常に発展、開発を続けてきた。もちろんそれは旅行者にとって良いことなのだが、それがいき過ぎてしまうと残念な結果になってしまう。今までのタイはそのバランスが良い国として人気だったのだが、それが悪い方向へ行ってしまうような気がしてならない。タイが成長していくのはうれしいが、その代償として「失われるもの」が必ずある。その「失われるもの」こそが、「旅行者が求めるもの」に他ならないのだ。現に今この時点でも、タイに来るバックパッカーは減りつつあるし、オレと同じようにタイの将来を憂いている旅行者は多い。

 そんなことをこのチャーン島ではモロに感じてしまい、気分はのらなかった。このままバンコクへ逃げ帰りたいとも思ったが、その前にパタヤへ寄ることにした。パタヤもビーチリゾートとして有名で、バンコクからも近いので開発も進んでいる。
 オレは今までに4回もここを訪れていて、以前のパタヤも知っている。最後に来たのは4年前のことだ。今のタイの状況から察するに、このパタヤも大きく変わっていることだろう。今回オレは、その変貌ぶりを見てみたかった。
 そしてそれはパタヤの町が遠目に見えた瞬間に確認できるほどだった。今までと町の高さがまるで違う。高層ビルがバンバン建っているのだ! もちろんそれだけではない。バーやレストラン、ホテルのあるツーリストエリアは庶民の暮らすエリアを侵食し、かなりの広範囲に拡大していた。物価は跳ね上がり、町の誰もが外国人相手に商売しなければやっていけない、という雰囲気になってしまった結果なのだろうか? しかし、これでは明らかに供給過剰! それでは採算が取れないのでさらに価格を上げるという悪循環・・・。この町はもう終わってしまった・・・。
 タイ全土の観光地がこのようになってしまうのだろうか? 素朴で安いビーチなどもう残っていないのだろうか? あー・・・、オレの世界一好きな国が・・・・・・。

 バンコクへ戻ったオレは無事インドビザをゲット。あとは翌日のフライトを待つのみとなった。その帰り、オレはとんでもない渋滞に巻き込まれてしまった。10年以上も前から「世界最悪の渋滞」などと呼ばれ、渋滞対策のためにBTSや地下鉄を開通させたバンコクだが、この渋滞は今だに解消される兆しを見せない。しかし、この日の渋滞はそんないつもの渋滞とも違った。バスは30分以上も止まったまま、ピクりとも動かない。そのうち空が暗くなってくると、花火が上がりだした。
「そうか・・・、明日は国王誕生日か・・・」
 渋滞の原因は祭りだったのだ。まさか前日からこんなイベントがあるとは思わなかった。
 オレはバスを降り、花火を見ながら歩いてカオサンへ向かった。3時間近くも歩くハメになってしまったが、祭りも楽しむことができたので良しとしよう。
 翌日も当然祭りだった。カオサンでは無料でジュース、お粥、ラーメン、かき氷がふるまわれ、国王のカレンダー、ポスター、ブロマイドが配られた。この国の国王大好きっぷりはかなりのものだ。
 それにしてももっと早くから国王誕生日のことを知っていれば、フライトも1日遅らせたのに・・・。結局オレは祭りの途中でバンコクを発つことになってしまった・・・。国王のパレードをぜひ生で見たかった・・・。

   
コ・チャーンのビーチ / 国王誕生日の祭り



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