仏の国と神の国
〈南アジア編U〉
スリランカ(44ヶ国目) 2007/12/5-26
インド 12/26-2008/2/17
184.初めての夜に 2007 12/7 (スリランカ)
スリランカ航空。オレにとってあまり馴染みのないこの会社。名前から勝手にイメージしていたのは「機体は古く、スケジュールも遅れがち」そんなものだった。しかし、意外にもオレの乗った便は予定通りにフライトした。そればかりではなく全席にモニターが付いていて日本語字幕で映画が観られ、ゲームまでできる。今までに使った航空会社の中でもLAN航空と並んでトップクラスのサービスだった。
そんな機内で、オレは貴重な体験をすることになった。北京発、バンコク経由、コロンボ行きのこの便。オレがバンコクから乗りこむと、そこには団体客が乗っていた。全員が中年男性のその団体は大声で話したり、機内のいろいろな物を珍しがったりして、マナーは最悪。最初は中国の田舎から来た中国人かと思っていたが、良く聞くと言葉は朝鮮語のようだった。
「韓国人にもこんな人たちがいるんだ。なんかひと昔の中国人みたいだな」
とオレも彼らを迷惑な客だと思って不快になっていた。
しかし、しばらく彼らを観察していたオレはある物に気が付いた。全員が左胸にバッジを付けている・・・、将軍様の!! 彼らは韓国人ではなく北朝鮮から来たのだ! 一体何者なんだ?? オレはそれから彼らを好奇の目で見るようになった。
フライトアテンダントをしきりに呼びつけるのだが、誰一人英語を話せるわけでもなく、身振り手振りで高圧的な態度をとる。アテンダントも困った顔だ。食事も英語でオーダーできず、誰かの食べている物を指でさし、食事の食べ方もぎこちなくて汚い。入国カードは書き方が解からず、みんなで相談を始めたが、誰もペンを動かす気配がない。すると、オレの隣の席だった男はオレのカードを見てそれを丸写し! おいおいおい!! そりゃどー考えてもダメだろ!
オレはしかたがなく彼に書き方を教えてあげることになった。そうでもしなけりゃオレのパスポートナンバーでも記入してしまいそうな勢いだった。彼からパスポートを借りて中を見る。オレはもの凄いレアなものを見たのだろう。北朝鮮の、しかも国家公務員の公用専用パスポート。そのパスポートにはそうあった。やはりそうか。国家公務員でもなければ海外になど行けるような国ではない。彼らはエリートだったのだ。それなのにこのレベル・・・。国内は一体どうなっているのだろう・・・?
コロンボに到着。例の団体に関わりたくなかったし、夜だったので急いで外へ出た。だが、せっかく急いだのにバスはなかなか出発しない。1時間近く待ってようやく走り出したかと思えば近くの幹線道路沿いで停車し、ここで客集め。これを3回ほど繰り返し、おまけに検問もあったために、市内へ着いた時には夜中の2時をまわってしまっていた。
バスターミナル周辺で宿を探すがどこも閉まっている。唯一開いていたYMCAは満室。オレはロビーでいいから寝かしてくれと言ったのだがあっさり断られる。オレもそれに負けずにしつこく食い下がるが、どうしてもダメだということだった。しかたがないのでYMCAの前の道路で野宿をしようとしたが、駅の方が安全だからと言われ追い払われてしまった・・・。
そういえばここへ来るまでの間、何ヵ所かにポリスボックスがあって銃を構えた兵士が見張っていた。
「駅の方が安全って? ここは危ないってことか?」
たしかにスリランカは内戦中の国だ。民族対立によるもので、テロも頻発している。しかし、その多くは北部で起こっていることで、事前に調べた情報ではそれほど危険とは感じられない程度のものだったのだ。その考えは甘いものだったのだろうか?
とにかくオレは言われたように駅へ行くことにした。その途中の道では何人かの人に声をかけられた。客引きや怪しい輩、危ない人間ではなく、こんな夜中に外国人が何やってるんだ? という感じのものだった。駅にほど近い市場でもまた話しかけられる。そのうち何人かが集まってきて、真夜中だというのにオレもそこで30分以上も話し込んでしまう。コーラやココナツジュースをおごってもらった。宿がないというオレの事情を知った彼らは、
「それならオレたちのオフィスで寝ろ」
と言う。話によると彼らは市場のセキュリティを担当している警備会社の人たちだそうだ。オレを市場の一角にある建物にあるオフィスへと案内してくれた。オフィスといっても立派なものではないが、寝床が確保できただけでもありがたい。警備会社ということで夜勤もあるようで、オフィスには仮眠用にベッドも置いてある。そこには大きな腹をTシャツから出したヒゲの男が、これまた大きなイビキをかいて寝ている。彼がここのボスだそうだ。いかにもといった風貌。オレを含めた他何名かは床にゴザを敷いて寝る。背中が痛くなったが、やっと落ち着いた。とにかく彼らに感謝だ。
翌朝目を覚ますと、みんなはもう起きていた。昨日は寝ていてまだ話をしていなかったボスに挨拶。彼らはオレにシャワーを浴びさせてくれ、セイロンティーと小魚カレーの朝食までごちそうしてくれた。その後も昼近くまで話をした。
ボスが新聞を広げながら言う。
「またテロがあったのか・・・」
やはり小規模なテロは頻発しているようだ。
「どこですか?」
「アヌラーダプラという町だ」
「えーーーーっ!! アヌラーダプラーーー!」
アヌラーダプラはオレも行こうと思っていた、仏教遺跡のある観光地だ。オレがそう言うと、彼らは口をそろえて言った。
「大丈夫だ。心配するな。いつものことだから」
おいおい、いつものことなら余計にヤバいんでしょ!
どちらにしてももっと情報収集しなければならないし、行くにしても後まわしにして様子を見る必要がある。ここでこの話が聞けて良かった。
社員たちの何人かは制服を着て仕事へ出かけたが、そのうちの一人がこんなことを言い出した。
「俺はこれから仕事で、明日も仕事だけど、明後日は非番で家へ帰るから一緒に来ないか?」
列車で1時間ほどかかる場所から通っているそうだ。観光地でもないような小さな町。実に魅力的な話ではあったが、オレは断ってしまった。今から行くというのであれば着いて行っただろうが、明後日までは待ちたくない。コロンボにはそれほど長くいるつもりはなかったのだ。
また別の社員が言う。
「今夜また来い。夕飯作って待ってるからみんなで飲もう。お前酒は飲めるか?」
それならば大歓迎だ。オレは一度街へ出て宿をとり、昼寝をした後街をぶらつき、再びオフィスに顔を出した。飲もうと言っていたので酒を買って行った。
ところが、夕方そこにいたメンバーは朝と変わってしまっていた。知っている顔は一人だけ・・・。難しくて名前は覚えられなかったが、オレが勝手に斎藤さんと呼んでいた人だ。昨日お世話になった人たちと食事をしたかったのだが残念。それでもちゃんとオレの分も食事を用意してくれ、結局夕方いたメンバーで夕飯を食べた。
「それにしてもこの会社こんなに社員がいるんだ」
「いや違う。みんな友達さ」
夕方いた6人のうち、社員は3人。他はその知り合いらしい。変な外国人が来るからということで呼んできたのだろう。まぁ誰だろうと楽しいからいいけど。
食事を食べ終えてしばらくすると、今度は斎藤さんの家で飲もうということになった。オレ、斎藤さん、ラジェという市場の服屋の3人でバスに乗る。細い道が入り組んで、ゴチャゴチャした住宅地に彼の家はあった。
「アーユボワーン」(こんにちは)
奥さん、2人の娘さんが笑顔で迎えてくれ、食事も出してくれた。下のまだ幼い娘がカワイイ。
またしても飲んで、食って。斎藤さんとラジェの2人は酒もまわって上機嫌だった。ところが、オレに対しては笑顔だった奥さんと上の娘さんは、斎藤さんを別の部屋へ呼ぶと、何やら怒っているようだった。見ず知らずの外国人をいきなり連れてきたので迷惑だったのだろう・・・。部屋に戻って来てからもあからさまに斎藤さんを睨みつけている。早く帰らせてとでも言っているような感じだった。
空気を読んだオレはスゴスゴと退散・・・。今度はラジェと2人で、近くにあるというラジェの友人の家へ行った。その友人は革職人で、ハンドメイドのバッグやサイフ、アクセサリーなどが並んでいる。
「なんだよ、これをオレに売りつけたいのか。会社の人じゃなかったこいつは信用してはいけなかったんだな」
一瞬そう思ってしまったが、そうではなかった。ラジェも友人もそんなことは一切口にしなかった。ここでもまた酒を飲ませてもらい、そのまま泊まらせてもらうことに。一瞬でも疑ってしまったオレが恥ずかしい・・・。
なんだよスリランカ! こんな良い奴ばっかかよ!!
オレを助けてくれた警備会社の人たち / 2日目も家に招待された
185.文化三角地帯 2007 12/14 (スリランカ)
ラジェの友人の家に泊めてもらった翌朝、一度宿に戻って荷物を取ったオレはキャンディへ向かうことにした。列車で行くことにして駅へと向かう。駅へ行く途中には市場があり、そこにはお世話になった警備会社があり、ラジェの服屋もある。オレが市場の横を歩いていると、ラジェに会った。
「何だ。もう行くのか?」
「うん、キャンディへ行くよ」
「コロンボに帰ってきたらまた飲もう」
キャンディ行きのチケットを買うのを手伝ってくれた後、彼はそう言いオレを見送ってくれた。
構内に入って列車を探すがホームが分からない。何人かの駅員に聞いてもなぜか「分からない」「知らない」という答えが返ってきた。
「なんだよ、いい加減な奴らだな」
と思い困っているところに、一人の僧侶が声を掛けてくれた。流暢に英語を話す彼の話によると、キャンディ行きの列車は遅れているらしく、予定とは違うホームに入ってくるのでまだそれが分からないということだった。それで駅員も知らなかったわけだ。この坊さんもキャンディの寺へ帰るところだと言い、一緒に行くことになった。
しばらくして列車が入ってくると、ようやくアナウンスが流れた。と、同時に大勢の客がそのホームに殺到した。オレも坊さんに連れられホームを移動。シンハラ語のみのアナウンスだったので、彼がいなかったらオレは乗り遅れてしまったかもしれない・・・。助かった。
列車に乗ってから、彼とはいろいろと話をした。日本人の僧侶を受け入れたこともあるということで、日本語も少しだけ知っていた。英語が達者な理由も分かった。ヨーロッパへの留学経験があり、来週は研修で同じ仏教国のタイへ行くそうだ。オレがタイから来たと言うと、そんな偶然を驚いていた。それにしてもスリランカの僧侶は日本の僧侶のように金持ちなのだろうか? 留学にしろ研修にしろ、海外へ行くほどなのだ。腕時計も高そうなものをしていた。
そんな彼とは海外の話などで意気投合したが、仏教徒の多いこの国では「オレはブディストだ」と言うと急に距離が縮まるような気がする。警備会社の人たちもそうだった。
この僧侶の話によると、スリランカでは「他人に親切に接することによって功徳が積まれる」という仏教の訓えが浸透しているのだという。それでみんな親切だったわけだ。
この坊さんも、キャンディに着いてからオレを目当ての宿まで連れて行ってくれた。
キャンディはスリランカ第二の町で、かつて都がおかれた古都でもある。ブッダの歯を奉った仏歯時が有名な観光地で、高原の避暑地でもある。
そのキャンディは雨だった。考えてみると、この旅を始めてから初めてのちゃんとした雨だ。チベットで一晩の雪、ビシュケクで30分程の小雨が降ったが、4ヶ月でたったのそれだけだった。これだけ久々の雨だと、どこか新鮮ささえ感じる。が、やはりオレは雨がキライだ・・・。ところがそのキライな雨がこれから毎日続くことになった。スリランカ中部は今、雨季なのだ。スリランカの旅の後半で行くつもりの、西海岸のビーチは今がベストシーズンだそうだが、島の中部、東部、北部はモロに雨。これからしばらくは島の中部を周る旅だ。
古都キャンディ、石窟寺院のあるダンブッラ、岩山の上にかつて王宮が築かれたシーギリヤ、町に数々の仏教遺跡があるポロンナルワとアヌラーダプラ。この5つはすべて世界遺産に登録されていて、オレはスリランカの見どころの多さに驚いていた。
しかし毎日のように降り続く雨、入場料の高さ、そしてどこも似たような所で、しかもたいしたことがない・・・。残念ながらどこもガッカリだった。
となると、町もそれほど面白くないスリランカでは必然的に宿にいることが多くなった。なのにスリランカの宿はどこも値段のわりには質が良くなく、オレのテンションはガタ落ちだった・・・。どこへ行っても相変わらず人は良かったが、こちらがこんな気分だと会話もはずまない・・・。
今いるアヌラーダプラでも、2日間の大雨に降られた。ちなみにここは1週間前にテロがあった町だ。その後の情報からそれほど危険とは判断できず、しかも泊まる予定だった宿も町のはずれの湖近くにあったため、大丈夫だろうと考えてやって来ていた。
2日間は外に出ることすらできず、部屋で読書をする時間がほとんどだった。3日目にようやく天候が回復すると、ちょうど宿へ関西人のオバチャンたち3人組がやって来て、一緒に車に乗せてくれることになった。
「にーちゃんも乗ってきーや! 金なんかいらんから!」
タダで楽して観光させてもらってしまった。オバチャンたちありがとー!
明日からはビーチだ! やっとテンション上がってきたぞー!!
キャンディアンダンスのフィナーレ / どことなくタイっぽいスリランカの寺
186.雨とクリケットとジャングルの村 2007 12/21 (スリランカ)
「何がベストシーズンだよ!?」
ここんとこ1週間以上も雨にたたられたオレだったが、ベストシーズンだとされている西海岸にも雨が降っていた・・・。
雨のアヌラーダプラから移動してきたニゴンボというビーチも雨。しかもビーチはキタナイ! 犬のウンコだらけ、そして・・・、人間のウンコだらけ・・・。なぜか地元の人たちが波打ち際で用を足すからだ。そんな光景を何度も目にしてしまった。砂浜に無数に打ち上げられた魚の死体を狙って、これまた多くのカラスが飛び交う。なんでこんなに魚の死体が多いのだろう? 漁師が捨てているのだろうか? とにかく魚の死体とカラスが薄暗い曇り空の下で不気味だった。このニゴンボがスリランカNo.1のビーチリゾートだそうだから、これから行くつもりのいくつかのビーチも期待はできないのかもしれない・・・。
結局、オレはこのビーチでも宿の部屋で本を読んでいる時間が多かった。
「いったい何やってんだ・・・」
一度コロンボに戻ってから、次はゴールという町を目指す。コロンボへ寄ったのは、文化三角地帯を観光したチケットの割引分を返金してもらうためだ。このチケットは文化三角地帯共通のもので、1枚買えばそれで何ヵ所も観光できるというチケットだ。その分値段は高く、なんと5000円近い。学割で半額になるのだが、ナゼかそれをコロンボのオフィスで返金するという面倒なシステムになっている。めんどくさがったり、忘れたりして、返金しない人が出るのを期待したものとしか思えない・・・。
オレはバンコクで学生証を作ってきていたので、これで半額になる。学生証も高かったが、これ1発で元は取れる。
ところがこのオフィス、国連事務所の近くにある。テロが頻発しているスリランカにあって、国連事務所は最重要警戒エリアのひとつなのだ。オフィスへ行くにも一苦労だった。あっちへ行け、こっちへ行け・・・、そしてチェック、チェック。そのうち激しい雨まで降ってきてしまい、カサをさしていたにもかかわらずビショ濡れになってしまった。
もう本気で雨はイヤになってきた・・・。
その翌日ゴールへ。ここはかつてのオランダやイギリス植民地時代に築かれた城塞都市で、城壁や時計塔、教会などが残る世界遺産の町だ。がやはり、予想どおりだった。スリランカでこれまで見てきた5つの世界遺産同様に、まったくたいしたことはない・・・。それに、タイミング悪くこの町はクリケットの国際試合の最中だった。スリランカVSイングランド。イギリス人が大挙してこの町へ来ていたため、宿はどこも満室。オレはゴールには泊れず、隣町のウナワトゥナというビーチへ宿を探しに行くことになった。
ウナワトゥナに着いて宿を探す。ここでもなかなか部屋が見つからなかったが、苦労したあげくビーチから遠く離れた丘の上でなんとか宿を見つけた。
ビーチからは遠いが部屋は悪くない。それにこのビーチも気に入った。もしかしたらクリケットのおかげで良い場所を見つけたのかもしれない。
「たいしたことはなかったが、ゴールも一応観光してみよう」
翌日、そう考えたオレはゴールへ向かった。前日に町は一周していたが、宿探しがメインで観光らしいことはしていなかったからだ。
バスターミナルから町へ向かう途中にクリケット場があり、昨日に続いてこの日も試合があった。どうせだから見てみようと思い、城壁に登ってタダで観戦。城壁の上はオレと同じようにスタジアムへ入らないでタダ見を決め込む人でいっぱいだった。
クリケット。日本ではマイナーなスポーツだが、イギリスをはじめ大英帝国の植民地であったインド、パキスタン、スリランカあたりでは人気No.1のスポーツだ。だがオレはルールも知らない。野球に似ているということぐらいしかクリケットに関する知識がないのだ。おまけに両チームとも全身真っ白のユニフォームで、敵も味方も区別がつかない・・・。つまりまったくの意味不明。当然おもしろいわけもなく・・・、そのうちスリランカ人の2人に話しかけられると、もう試合はどうでも良くなった。
この2人はオレにゴールの町を案内してくれた。と言っても小さなこの町は30分もあればすべての見どころを見つくしてしまう。なんとなくビーチへ行って3人で海を見ていた。しかしスリランカの最南端のこの町でもやはり天気は良くない。そのうち雨が降り出すと、1人が言いだした。
「これから俺の家へ行こう」
ゴールからバスで30分も走ると、そこはもうジャングルの中だ。そのジャングルの中の小さな村に彼の家はあった。雨は止んでいたので村を歩いた。ヤシの木やバナナの木が茂る中に、茶畑や田園、畑が点在する小さな村。小さな小川が流れ、大きなトカゲがわがもの顔で歩くような自然に囲まれている。オレはすぐに気に行ったが、また雨が降り出してしまい彼の家へと走った。
家へ帰ると、彼の奥さんが食事を用意してくれていた。それを御馳走になり、テレビを見ながら1時間ほど会話をし、オレはウナワトゥナへ帰った。しかし、帰ってきてから何かが心に引っ掛かる。何かがおかしい・・・。
なぜ彼はオレを家まで招待してくれたのだろう? オレと親しくなりたかったのだろうか? 何かを求めていたのだろうか? ただ単に功徳を積むためだろうか?
いや、その前に・・・、なんでオレはそんなことが気になっているのだろう? うまくお礼をできなかったからだろうか? 彼の親切を素直に受け止められなかったからだろうか?
窓の外では、今も雨が降り続いている・・・。
砦の城壁に登ってクリケット観戦 / ジャングルの村の家族
187.スリランカの終わりに・・・ 2007 12/26 (スリランカ)
ウナワトゥナではやっと晴れ空が戻って来た。ここのビーチも気に入っていたし、ウナワトゥナはかつてヒッピーたちの楽園だったというだけあって、ツーリスティックすぎず、ローカルすぎず、スリランカでようやく出会えた良い場所となった。
2泊の予定を3泊して、次はヒッカドゥアへ。
ここヒッカドゥアもビーチ。サーファーのメッカだ。
スリランカはサーファーにとっては有名な国らしく、特にここヒッカドゥアを目指して各国の波乗り野郎たちが集まってくる。さらに年末が近いこの時期は、クリスマス休暇を過ごす欧米人たちであふれていた。
最後の最後でようやく分かったが、スリランカは遺跡よりもビーチ!
最初の2日間は、ただただビーチで頭の中をカラっぽにしていた。リクライニングチェアに横になりながら海を眺めボケーーーっとする。ある時はビールを飲み、またある時はビールを飲む、そしてまたある時はビールを飲み・・・。気持ち良くなりながらサーファーたちの技で楽しませてもらう。なんて贅沢なんだろう・・・。
そして3日目、ついに始動! サーフィン初挑戦だ!
とりあえずはインストラクターを頼んで海に入った。ビギナー用のポイントへ連れて行ってくれ、波に乗るタイミングを教えてくれたおかげで、なんとビックリ! 1発目から板の上に立つことができた!! その後も絶好調! インストラクターも、そばで見ていた欧米人のギャルも絶賛だった!! 隠れた才能が開花したか!? などと思ったりもしてみたがそう甘くはない。
休憩後に一人で海へ入ると、さっきまでのゴールデンルーキーの面影はすっかりと消え失せてしまった・・・。2時間くらい海に入って波に乗れたのはたったの3回・・・。そのうちスタミナが切れてくるとパドリングで波を越えられなくなり・・・、ボードから落ち・・・、リーフで足を切り・・・、波にもまれ・・・、そしてボードがアゴを直撃!!! 一瞬気を失って溺れそうになった・・・。
それからというもの、急に恐怖心が出てきてしまった。波に乗るどころではない。今日はこれでお終いだ。
ボードをショップに返しに行った。するとそこのニイチャンがずっとオレを見ていてくれたらしく、
「初めてなんて信じられない! 凄いじゃないか!」
とドレッドヘアを海風になびかせながら言った。本音かお世辞か分からなかったが、とりあえず「オレは凄かった」ということにしておこう。
サーフィンは楽しかった。ウナワトゥナもヒカドゥアも気に入った。ビーチでマッタリするのも大好きだ。が・・・、ここでもやはり何かがおかしい・・・。ジャングルの村に招待された時に感じたように、心の中に何かモヤモヤとしたものがある。
そんなものが心に芽生え始めたのは、スリランカに来てしばらくしてからだったように思う。
ちょうどクリスマスで欧米人たちが盛り上がっている中に、寂しく一人でいたからだろうか? 雨にやられ、遺跡もつまらなかったからだろうか?
違う。それとは違う。自分自身でも良く分からないが、ただ漠然とこの旅そのものに疑問を持ち始めてしまったのだ。
そんな心のモヤモヤが膨らんできてしまった理由のひとつが、最近届いた一通のメール。
それは妹からのもので、「オヤジが事故って怪我をした」という知らせだった。そしてさらには、1年近く前から入院している祖母の容体も良くないとのことだった・・・。
そんなことを知らされてから、オレはいろいろと考えだしてしまった。しかし、最近のオレは考えれば考えるほどネガティブになってしまい、考えることをヤメにした。
「今はビーチで、何も考えずにすごそう」
そう思っていたものの、結局は最後までモヤモヤが残ってしまったというわけだ。
このモヤモヤはそのうち消えるだろう・・・。旅を続けていればおのずと答えは出てくるだろう・・・。そう自分に言い聞かせたが、案外その通りなのかもしれない。なぜなら、次の国はインドなのだから。インドとはそんな場所なのだ・・・。
オレって、なんてタイミングでインドに行くことになったんだろう・・・。
ヒッカドゥアはサーファーパラダイス / でも漁村でもある
188.インドにて平和を願う 2008 1/4 (インド)
スリランカのコロンボから南インドのトリヴァンドラムまではわずか1時間のフライトだった。よく晴れた朝のフライトで、眼下に広がるヤシの森が印象に残っている。その風景はオレの知っている北インドとはかけ離れていて、空港を出ての第一声も
「何ここ? なんかインドっぽくないよね」
だった。スリランカでの2日目にコロンボで知り合っていたコウスケくんと偶然同じ飛行機だったので、2人で市内へ向かった。
このまま次の町へ向かうという彼と別れ、オレはこのトリヴァンドラムで1泊することにした。昨日は早朝の飛行機に乗り遅れないために空港で一夜を明かしたため、とにかく眠りたかったからだ。特に何もないこの町はスルーしても良かったが、インドの旅は急いではいけない。
南インドの第一印象、とにかく物価が高い。毎回物価の話になってしまうのはバックパッカーの悲しい性だが、とにかく北インドと比べると1.5倍ほど高いのだ。特に宿は高かったが、それに見合って質は良い。インドらしくないと言えばらしくないが、快適に旅ができそうだ。
街の風景こそはインドっぽさを感じさせるが、人はというと北とはだいぶ違って感じる。しつこい客引きもいないし、みな人当たりが良い。良くいえば楽だが、悪くいえば刺激が足りないといったところだろう。それに、この「人」こそがインドの最大の見どころなのだが、これではあまりに普通すぎる・・・。
翌日、インド大陸最南端のカーニャクマリへ行った。ここはヒンドゥー教の聖地で、この時期は巡礼シーズン。それに年末のホリデーとも重なって、インド人の旅行者であふれていた。宿はどこも満室で、空いていた宿もここぞとばかりに値上げをしていて泊まれるような金額ではない。オレはしかたがなく次の目的地、コヴァーラムまで移動した。カーニャクマリとコヴァーラムはそれほど遠くないので、後日出直すことにする。
コヴァーラムはビーチのある小さな町だ。インドのビーチは初体験だったが、いかにもビーチリゾートといった感じと、インドっぽさとが共存するおもしろい所だった。ビーチは小さな岬を堺にして違う顔を持つ。東は旅行者が多く、レストランやホテル、土産物屋が並び、西はローカルな感じで漁師や地元の若者の姿が目立つ。ビーチから離れると、そこはジャングルのようにヤシの生い茂る森だ。
オレはビーチ近くのツーリストエリアではなく、その森の中のゲストハウスに宿を決めた。多少不便だが、やはり安いのは魅力だった。それに宿は小さく、オーナーの家族と密に接することができるのも良かった。オレと同じ年代である息子のサディシュとスディシュも良いヤツらで、最初の半日くらいは同一人物だと思っていたくらいそっくりな兄弟だ。
コヴァーラムでは何人かの日本人と知り合いになり、大晦日の夜は日本人7人でパーティー! 最近日本から来た人がモチを持って来てくれていて、南国にいながら正月気分を味わうことができた。それにスリランカではほとんど1人だったので、久々の楽しい時間だった。
この時のメンバーのほとんどは2日に出ていってしまったが、オレはもうしばらくここに残ることにした。カゼをひいてしまったからだ。カゼのままでのインドの旅はつらすぎるし、体が弱っているとわけの解らん怪しい病気にもなりかねない。完全に直してから移動することにした。
ところで、年末にケニアで大暴動が起こってしまった。大統領選挙の結果に不満を持つ市民が起こしたものだが、民族問題まで絡んできて大規模なものとなってしまった。多くの死者まで出ているという報道だ。東アフリカの経済、物流の中心であるケニアのナイロビはゴーストタウンと化してしまい、周辺諸国でも物資不足や難民の流入などの影響が出ている。東アフリカの多くの国が混乱状況にあるというのだ。
これで東アフリカへは行けなくなってしまった・・・。インドの次の目的地は未だに決めていなかったが、東アフリカは今のところ第一候補だったのに・・・。
考えてみればオレの行きたいいくつかの国で、いろいろなことが起こっている。パキスタンではイスラム過激派による自爆テロや爆弾テロが頻発するようになってしまったし、バングラデシュは大型サイクロンにより甚大な被害を被り、ミャンマーではつい最近まで政府とデモ隊が衝突を繰り返していた。そしてオレが今まで滞在していたスリランカも、年明けに内戦の停戦協定が破棄されたため、今後は政府側の軍事攻撃が激化するだろうと予想される。そうなればテロによる反撃も必然と増えるだろう。
平和がどれだけ幸せなことか・・・改めて実感している・・・。
A Happy & Peaceful New Year !!!
インドらしからぬコヴァーラムビーチ / 日本人で集まって年越しパーティー
189.Happy Birthday to me. 2008 1/8 (インド)
今日1/8はオレの誕生日。ひとり寂しくビーチでバースデイを迎えた32歳・・・。
コヴァーラムには結局9泊もしてしまった。カゼをひいてしまったのでしかたがなかったが、やはりオレは「動く」旅の方が好きだ。と今までは思っていた。しかし、コヴァーラムに10日間いる間に
「ひとつの町に長居するのも悪くないな」
と思うようになってしまった。一歩間違えれば沈没クンになりかねないが、それもありなのかもしれない・・・。
今後行く予定のハンピやゴアは有名な沈没地だが、オレはうまく抜け出せるだろうか?
コヴァーラムを出てカーニャクマリへ移動した。ここへは年末に1度来ていたが、泊まれなくて引き返している。その後コヴァーラムから日帰りで観光しようと思っていたが、カゼをひいたのでそれも延び延びになっていた。今回は日帰りでも良かったが、
「もういい加減コヴァーラムを出ないと、それこそ動けなくなる」
と考え、バックパックを持って出てきた。今度はすんなりと空きベッドが見つかりチェックインすることができた。
カーニャクマリはヒンドゥーの聖地と呼ぶにはあまりに俗すぎる印象だった。宿やレストランが多いのは分かるが、とにかく土産物屋が多すぎる。道の両側に土産物屋がずらりと並び、それが町を1周しているほどだ。これでは巡礼者も完全に観光気分。
この町では良いことと悪いことがひとつずつ。
まず良かったのは夕日。インド最南端で見るアラビア海に沈む太陽はただでさえキレイなのだろうが、この日の気象条件が幸いして幻想的な自然現象を目にすることができたのだ。太陽は海にではなく空中に沈んだ。そしてそれからしばらくすると、まるで日章旗のように放射状の光のすじを何本も発した。最初は白い光だったそれはしだいに色味をおびていき、紫色の空にオレンジの光線がくっきりと浮かび上がった。まるでオーロラのようだ! こんな時に限ってカメラを持っていなかったのが残念・・・。
気分を良くして眠りについたが、翌朝起きるととんでもないことになっていた! 虫にやられて両足がブツブツだらけ!! あまりにスゴかったので数えてみようとバカなことを考えたが、左足の甲だけでも100を突破してしまい面倒になってヤメにした。それがヒザから下全体に・・・。少量だが横腹も喰われている。少し前にスリランカでもやられていたが、その時の比ではない。かゆい〜〜〜〜〜〜っっっ!!
カーニャクマリを発ったオレはヴァルカラというビーチへ。ここは日本のどのガイドブックにも載っていない所だが、欧米では紹介されているのでビーチは欧米人だらけ。
ここに限らず、日本のインドに関するガイドブックには載っていなかったり、ほんの少ししか書いてなかったりする人気の観光地はいくつもある。欧米のガイドブックを読んだり、ネットで調べたり、口コミで聞いたり、情報ノートで読んだりしてその存在を知るのだ。オレもコヴァーラムで一緒だったフランス人に教えてもらっていた。
オレは英語も苦手だし、どちらかと言うと欧米人と一緒にいるよりは日本人と一緒にいる方が楽しいと思っているタイプだ。ここへ来てもどうせ日本人は少ないだろうし、どうしようかな? と思っていたが、どうせ通り道なので寄っていくことにした。
しかし、ここまで日本人がいないとやはり寂しい。
しかもそんなタイミングで誕生日・・・。自分でシャツとパンツのバースデイプレゼントを買い、インドでは割高のビールを飲んだ。ぬるくてマズい・・・。
それにカゼもまだ100%は治りきってはいない。まったくもって最悪な32歳のスタートだった。
それにしてもスリランカの後半からほとんどをビーチで過ごしている。もう1ヶ月にもなる。オレはひとりビーチで何も考えずに海を眺め、ただぼーっとするのが大好きだ。しかしそれが1ヶ月にもなると、いい加減に飽きてきてしまう。そろそろ満足してもいいだろう。
そんなちょうど良いタイミングで、次の目的地からはビーチリゾートではなくなる。そのうちビーチが恋しくなるだろうが、これまたタイミング良くビーチへ戻るようなルートをとりながらインド大陸の西側を北上する。そしてインド最大の都市ムンバイを目指し、そこからどこかへ飛ぶ予定だ。しかし東アフリカへ行けなくなってしまった今、その先のルートにまた悩まされている・・・。毎度のことだが、楽しい悩み、旅のおもしろさのひとつだ。
インド大陸最南端には巨大なシヴァ神像が / ヴァルカラのビーチは崖の下
190.旅の根底にあるもの 2008 1/13 (インド)
ヴァルカラの次はクイロンという町へ。この町には無数に運河が流れていて、人々の交通を担っている。この辺りは湿地帯でバックウォーターと呼ばれ、自然の海、湿地、川と人工の運河とが絡み合っている。地元の人たちはバス代わりにボートに乗り、通勤も通学もボートという地域だ。クイロンからボートに乗って運河を進み、アレッピーという町まで行くボートツアーがこのバックウォーターの観光のメインとなる。
オレもボートツアーに参加した。
朝クイロンを出発したボートは、まずは海のように広い運河を走っていった。地元の漁師が小舟で漁をする姿がのどかだ。通勤通学のボートも頻繁に往来し、その度に子どもたちがハロー、ハローと手を振った。その中にこんな声も混ざる。
「Give me a pen !」
毎度のことだが途上国ではどこへ行っても子どもたちが「ペンちょーだい」と言って寄ってくる。でもこんな遠く離れたボートの上ではね・・・。と思っていたがひとりの欧米人がペンを投げた。ペンは運河に落ちてしまったが、浅い場所だったので子どもたちがビショビショになりながらもそれに殺到。オイ、オイ、何もそこまでしなくても・・・。
さらに進むとチャイニーズフィッシングネットがずらりと並んでいる場所に出た。これは大きな仕掛けを使った漁法のためのネットで、中国南部から伝わったということからこの名前がついたらしい。これだけ大量に並んでいると壮観だ。この時間はどれも使われていないため、その高く伸びた柱がカモメたちの休息場所になっていた。何かの拍子に一斉に飛び立ったカモメたちは空を白く埋め尽くす。
その先はジャングルで、マングローブの生い茂る狭い川を進んでいく。時おりジャングルに住む人の家を目にした。魚を捕って暮らしているのだろうが、こんな場所に住んでいては洪水や高潮で頻繁に水が来そうで心配だ。
ジャングルを抜けると広い湿地帯に出た。湿地で作られる作物を作っているのだろうか? 何か畑のような泥沼が見渡す限り続いている。草むらや小さな森が点在し、多くの種類の鳥が生息している地域だ。カワセミ、鵜、猛禽類、スズメ、巨大コウモリ、名前も分からないキレイな緑色の鳥。まさに鳥たちの楽園。特にカッコ良かったのはカワセミだ。カワセミはこの地方を代表する鳥で、キングフィッシャーと呼ばれる。この名前は上手に魚を捕まえるからで、ちなみに航空会社の名前やビールの銘柄にもなっている。
鳥の種類が最初のカモメに戻ると、再び海に出た。広い湾の中を夕日に向かって進む。この辺りはクリスチャンが多いのだろうか? それとも植民地時代の名残か? 岸には教会がいくつか建っている。夕日の逆光の中に十字架が黒く浮かんだ。
湾の対岸に着くと、そこはもうアレッピーの町だ。狭い運河へ入りしばらくするとこのツアーも終了。8時間の船旅で良い風景を見ることができた。久々にどっぷり観光した1日だった。
次はコーチンへ向かう。この町はかつての植民地時代に造られた街並みが残っていて、半島やいくつもの島の間をボートが行き来している海の町だ。ここでもバックウォーター同様にチャイニーズフィッシングネットが活躍していて、魚市場も活気がある。
オレはこの町を単なる経由地程度に考えていたのだが、なかなか感じの良い町で気にいった。他の町と比べてもツーリストは多かったので、多くの旅行者がオレと同じように感じていたのかもしれない。
しかしこれだけ旅行者が多いと、困ることもある。宿と移動手段の確保だ。
コーチンに限らず、この時期のインドは旅行者が多い。旅行シーズンなのだ。これまで何度も空き部屋探しには苦労させられた。しかし移動で困ることはなかった。これまでの移動はそれほど長距離の移動ではなかったため、すべてローカルバスを利用していたからだ。ローカルバスなら予約もいらないし満席で乗れないということもない。しかし、ここから先はそうもいかない。長距離移動が増えてくるからだ。
5年前のオレなら話も別かもしれないが、今のオレにはローカルバスで長距離移動をする気力がない・・・。そうなるとツーリストバスか、寝台列車の予約を取らなければならないのだが、これが面倒なのだ。やはりここでも空席を見つけるのに苦労してしまった。それに高い。しかも、オレの移動したい日よりも1日早くこの町を出なければならない。うまくいかないものだ。
ところで最近、どうも調子が良くない。カゼはようやく治った。しかし、体ではなく心の調子が良くない・・・。何日か眠れない日があったし、精神的に疲れている気がする。
インドでは心身ともに疲れてしまう旅行者は多い。濃いインドと濃いインド人に疲れてしまうのだ。しかし、オレの場合は違う。南インドはそれほど濃くはないし、ずっとビーチで疲れを癒してきたはずなのだ。インドに疲れたわけではない。
前々から感じている心のモヤモヤが原因なのだろう・・・。未だにそれはオレの中で消えないでいるのだ。
ここのところ考えごとをすることが多い。ケガをしたオヤジのこと。入院している祖母のこと。今のオレ。日本にいた時のオレ。前の旅の中のオレ。旅で出会った人のこと。あの人の言葉。この人の行動。ほんのささいなことまで深く考え込んでしまうこともあった。
それはそこから何かを得たいと思うからなのだろう。オレは何かを求めているのだろう。何かを欲しているのだろう。ヒントが欲しいのだろう。しかし、いったい何の??
自分自身それすら分からない。
具体的な悩みがあるわけではない。不安なわけでもない。困惑や迷いとも違うし、ましては絶望でもない。うまく表現できないが、とにかく何かがおかしい。違和感とでもいうのだろうか? 正体不明、原因不明の違和感・・・。
あの時と同じだ・・・。2002年のタイで感じていた心のモヤモヤと同じなのだ。あの時はその直後に旅に出る決断をした。
あの時、やはりオレは違和感を感じていた。タイで日本にいる時とは違ったものを見て、違った空気を感じ、違和感を覚えた。しかしそれはタイに対してではなく、自分自身に対して違和感を感じたのだった。つまり日本での生活に違和感を感じ、日本で働いている自分に違和感を感じた。そして旅に出た。
では今のオレはどうなのだろう? もしあの時と同じように、この違和感が自分自身に対するものだとしたら・・・。それは、今旅をしているオレに違和感があるということになってしまう・・・。
もしかしたら、あの時旅に出る決断をしたのと同じように、今は旅を終える決断をしなくてはいけないのだろうか・・・?
そもそも、今回の旅は前回の旅とは違うはずだった。多くのものを見たい。多くのことを感じたい。そして多くのことを考えたい。という前回の旅とは違うはずだった。今回はただ単純に楽しむことが目的だった。極論を言ってしまえば「前回の旅」と「今回の旅行」。そこまで言うと言い過ぎかもしれないが、そのくらいのつもりだった。
しかし、皮肉なことにそうはいかなかったようだ・・・。
結局のところ、これこそがオレの求めている旅の姿なのかもしれない。オレが旅に求めているものなのかもしれない。オレの旅の根底にあるものなのだから・・・。
バックウォーターをボートでいく / コーチンのチャイニーズフィッシングネット
191.パプアのオッサン 2008 1/17 (インド)
コーチンからバンガロールへのバスは、高いだけあって快適だった。バンガロールはデカン高原にあるため涼しく、街もインドにしてはキレイだし、都会で過ごしやすい。ソフトウェア産業で有名なIT都市で、人々も富裕層が多いのでインドらしくない町。という話だった。しかしそんなものは中心部のごく一部のみ。やはりどこへ行ってもインドはインド。バンガロールも紛れもないインドだった。
バンガロールではおもしろい人物と知り合いになった。
バンガロールは宿が高く、オレは駅にあるリタイアリングルームに宿をとることにした。これは列車に乗る人が利用できる、駅構内の簡易宿泊所だ。そこである男と出会う。彼はロバートと名乗り、なんとパプアニューギニア出身の旅行者だと言う54歳のオッサン。ホテルを経営していて奥さんは元フライトアテンダント、息子はアメリカでエンジニア、娘はドイツで医者、というエリート一家だ。もっともパプアニューギニアあたりではそれほどの人間でもなければ海外旅行などできないのだろう。
彼はオレが列車のチケットを取るのを手伝ってくれたり、一緒に食事をしたりして、好印象な人物だった。
パプアニューギニアパプアニューギニアへ来れば彼のホテルにも泊めてくれると言うので、アフリカへ行けなくなった今となっては、それもありかな? と思ったりもしていた。
ところが! やはり事件は起こった。
彼と出会った2日目のことだった。街をぶらついたオレがリアイアリングルームに戻ると、彼が深刻そうな顔をしてこう言いだした。
「満員バスに乗っていたらリュックをナイフで切られて、中身をすべてやられた。インドなんか大嫌いだ」
「すべてって何を?」
「現金、クレジットカード、TC、パスポート・・・、貴重品全部だ」
「えーーーっ!!」
「もしできたら金をいくらか貸してもらえないだろうか?」
やっぱりだ。最初からどうもウサン臭いとは思っていたが、その通りだった。そう思いながらも話は進める。
「貸すのは良いけど、それからどうするつもり?」
「インドにはパプアニューギニアの大使館がない。でも大使館の代行機関がカルカッタにあるから、まずそこへ行ってパスポートを再発行する。発行には時間がかかるが、その間にTCも再発行できる。パスポートがあればTCを現金化できるのでそれで金を返す」
「返すってどうやって?」
「昨日話したゴアのゲストハウスで待っていてくれ。必ず行ってそこで返す」
昨日、これからオレがハンピ、ゴア、ムンバイという順に旅をするという話をしたところ、彼の知り合いがゴアで宿をやっているということでその宿を教えてもらっていた。そこで落ち合って金を返すと言うのだ。この時点でオレは、昨日の話はこの事件に繋がる布石だったのだと感じた。つまりこの男がオレをダマしている確率はかなり高くなったと言えるだろう。
「じゃあいくら必要なんだ?」
「ここからカルカッタまでの移動費、カルカッタでの滞在費1週間分、パスポート代・・・」
2人で話しながら、いくらくらい必要なのか計算してみる。2000ルピー(約6000円)という数字が妥当だった。
しばらくオレは考えた。確かに疑わしい。いや、ほぼ確実にこの男はサギ師。だが、そうでないこともありえなくはない・・・。彼の残った荷物を調べさせてもらおうかとも思った。だが、彼が予想どおりサギ師だとすれば、ここまで計画的な犯行を実行するような性格からして、何か彼に有利に働くような品物を用意しているだろう。そうなれば逆に信じざるを得なくなる。
ん〜。困った・・・・・・。
オレは逆に彼の立場になって考えてみた。もしオレが誰かをダマすとしたら・・・。ここまで手の込んだことをするだろうか? しかも手が込んでいるわりには収穫はたったの6000円。たしかにインドで6000円は大金だが、もっと他に方法はあるだろう。それに、オレの荷物だって荷物ごと持っていこうと思えばそれも彼にはできたはずだ。
ただこうも考えられる。被害が大きければオレは警察へ行くし、事が大きくなってしまう。被害が小さければ「まーいっか」ということになる。その一番バランスの良い金額と言えなくもない。
ん〜〜。さらに困った・・・・・・。
そうこうしているうちに、彼の列車の時間が近づいてきた。列車のチケットは財布に残っていた金で買えたそうだ。それがまた怪しすぎる・・・。
とにかくオレは、もう一度冷静になって考えたかった。ひとりになって。
「わかった。でもオレは今持ち合わせがない。銀行へ行ってくるから待っていてくれ」
そう言って彼を駅に残し、ひとり街へ出た。そのまま帰って来ないことだってできた。しかし、オレはこの15分後に彼の所へ戻ることとなる。妙な考えが頭に浮かんだからだ・・・。
ひとりになって頭を整理して考えてみた。パターンは4つだ。
@彼の言っていることが本当でオレが金を貸した場合
彼は金を借りられてハッピーだし、オレも良いことをしてハッピーだ。
A彼の言っていることがウソでオレが金を貸した場合
彼は金をダマし盗れてハッピーだ。オレはダマされてハッピーではない。
B彼の言っていることが本当でオレが金を貸さなかった場合
彼は金を借りられなくてハッピーではない。オレも彼を見捨ててしまうのでハッピーにはなれない。
C彼の言っていることがウソでオレが金を貸さなかった場合
彼はダマしているので失敗してもマイナスにはならない。オレはダマされずにすんで一見ハッピーのようだが、結局は彼の言っていることが本当かウソか分からず終いなので、「もしかしたら彼を見捨ててしまったのでは」と考えることとなりハッピーにはなれない。
普通なら最悪なのはAだと考えるのではないか? 金をダマし盗られるのだから。
だが、この時のオレは違った・・・。最悪なのはBとCだと考えたのだ・・・。
困っている人を助けないのは最悪な人間なんじゃないか? 人をダマして金を奪うこと以上に悪なんじゃないか? 彼の言っていることが本当だろうがウソだろうが、オレは金を貸さなくては最悪なパターンになってしまう・・・。
そう考えた次の瞬間、こうも思った。もしダマされたとしても、彼は本当にハッピーなのだろうか? 確かにその時はそうだろう。ただ、その後必ず悪いことがある。 悪いことをしてハッピーになれるわけがない! オレはダマされてアンラッキーなのだろうか? 確かにその時はそうだろう。ただ、その後必ず良いことがある。
つまりダマされていようがいまいが、金を貸すということはオレがハッピーになるきっかけにすぎないのだ。
どうも旅をしてから宗教チックな考え方が身についてしまったような気もするが、とにかくオレはこう思った。それにインドでは大金とはいえ6000円なのだ。たかが6000円・・・、この時のオレはそう思った。
ダマされていようと、人助けをしていようと、そんなことはすでにどうでも良かった。ただオレはこれでハッピーになれる。本気でそんな気がした。
未だに消えない心のモヤモヤを振り払いたいがために、オレはこんな自己暗示をかけていたのかもしれない・・・。
バンガロールは都会 / この男がロバート
192.ハンピ 2008 1/20 (インド)
カルカッタへ向かったロバートを見送り、そのまま駅で待つこと3時間。30分遅れでオレの乗る列車が到着した。インドでは30分遅れは遅れのうちに入らない。これはラッキーだ。ここからホスペットという町まで夜行列車で行き、バスに乗り換えて目指すはハンピ。
ハンピはヒンドゥー教寺院の遺跡が点在する、田舎の小さな村。旅行者にも人気が高く、長期滞在者も多いと聞いている。
列車に乗って寝台に横になると、すぐに眠ってしまった。オレは考えごとをすると眠れなくなることがよくあるので、ロバートに金を貸したことを考えて眠れなくなるのではと思っていたが、それ以上に頭と気を使って疲れたのだろう。
朝、目ざましが鳴る前に目を覚ました。まわりのインド人たちが起きだして、近くの席の子どもたちが騒いでいたからだ。窓の外に目を向けると、朝もやに白く包まれた平野が果てしなくひろがっていた。草むら、農地、荒地が順に現れ、線路と並走している送電線がどこまでも続いている。
朝日が昇るころになると、農作業に向かう人々が歩いていく姿が目に入ってきた。その中でも特に目立つのは女性。色とりどりのサリーをまとい、頭の上に大きな荷物を乗せて歩いていく。その姿は朝もやの中でひと際美しく映る。
これだ! これがインドの風景なんだ! 荒々しい自然の中にたくましく強く生きる人々の姿。これこそがインドだ!! これまではビーチや都会、観光地ばかりだったので、今回の旅では初めて目にする風景。そうだ。オレはこんなインドが好きだったんだ!
この列車から見た風景そのものの中にハンピはあった。岩山、荒地、川、バナナ畑に囲まれ、ヒンドゥー寺院遺跡に囲まれた聖地。自然とヒンドゥーと共存している田舎の小さな村。それが本来の姿だろう。しかし、今では外国人旅行者に人気が出て賑やかになり、欧米人たちが夜な夜な騒いでいるというある意味不謹慎な聖地だ。その分オレたちは生活しやすいし、何より楽しい。これ以上ツーリスティックになれば問題もあるだろうが、今はそのギリギリのラインとも思える。
旅行者が増えると地元の人たちも旅行者擦れして良からぬ輩も増えてくるのだが、ここはまだ大丈夫だ。村の人はみな良い感じで、物売りもしつこくなければ宿でも不快な思いはしなかった。
人気がある理由が分かったし、オレもすぐに好きになった。久々に良い場所に出合えた気分だ。
小さなハンピの村の中心にはヴィルーパークシャ寺院がそびえ建っている。南インド様式の高い塔をもつヒンドゥー寺院だ。この寺院から東へのびるメインロードの両脇にレストラン、土産物屋、旅行代理店、ネットカフェが並んでいるが、賑やかなのはこの通りのわずか200mあまりの範囲のみ。そこから北へ向かうと川が流れていて、川の北側は店も宿も少ない静かな場所だ。しかし欧米人のヒッピー風の旅行者であふれていて、夜な夜な騒いでいるのもこちら側。そしてそのほとんどが長期滞在者のようだった。オレは川の南側に宿をとることにした。
こんな田舎の村ではのんびり過ごすのも良いが、相変わらずオレは観光が好きだ。やはり遺跡を見てまわることがメインとなった。
遺跡は広範囲に散らばっていて、レンタサイクルを借りなかったオレは近場の遺跡だけを訪れた。それでも主な遺跡の観光だけで3日もかかった。1つ1つ見ごたえがあり、遺跡好きのオレは充分に満足。
太陽が激しく照りつける中を歩くのは大変だったが、岩山が多いので疲れたらその影で休むことができた。どの岩山にも頂上には遺跡がある場合が多く、そこへ登るのも好きだった。遺跡の影にある石は冷たくて気持ちよく、そこで心地よい風に吹かれながら村の風景を眺めた。目に見えるのは美しい自然だけ、耳に聞こえてくるのは鳥の声だけ。とても良い時間だった。
村に戻ると顔見知りになった何人かのインド人たちが声をかけてくる。その度にオレは足を止めくだらない話をする。特に親しくしていた若者3人組とはチャイを飲んだり、川辺で話したり、寺を案内してもらったりしていたが、ある日彼らはオレを
「とても面白い秘密の場所へ連れて行ってやる」
と連れ出した。着いていくと彼らは、ハンピにはよくあるバナナ畑へ入っていった。その広いバナナ畑のど真ん中で腰を下ろし、
「ここだ」
と言う彼ら。何が? どこが? 秘密の場所って? と思いながら彼らと同じようにそこに腰を降ろすオレ。そこでただ何でもないような話をしていた。
「良いだろここ」
と言われても何が良いのかまったく分からない。ただ蚊が多いだけの普通のバナナ畑・・・。そのうち蚊の多さに耐えられなくなったオレは
「そろそろ戻ろう」
と彼らに言ったが、
「俺たちはまだここにいたいからひとりで戻ってくれ」
と言われたオレ。じゃあまた明日とその場を立ったが、次の瞬間あれっ? ということになった。バナナ畑の中は360°まったく同じ景色なのだ! どの方向から来たのかまったく見当もつかない! 3人があっちだと指さす方向へ向かったが、これまた不思議。その方向へまっすぐ歩くことさえできないのだ! バナナ畑が迷路になっているようだった。オレはあっちへ行ったりこっちへ行ったりして一向に外へ出られない。3人の方を振り返ると・・・、彼らはゲラゲラと笑っていた。
「やられた! 面白い場所ってこーゆーことだったのかっ!! それでひとりで帰れって言ったのか!」
オレは彼らのイタズラにまんまと引っ掛かったのだ! 考えてみれば畑に入ってからグルグルと周りながら中心まで来たような気がしてきた。彼らの笑っている姿を見て、そしてイタズラに引っ掛かった自分とまっすぐに歩けない自分に、笑いがこみあげてきた。バナナ畑の中で腹を抱えて笑いながら道に迷うオレ。久々に心から笑った。
やっとのことでバナナ畑から抜け出したオレは、今度は子どもたちに囲まれる。ハンピではよく子どもたちとも遊んだ。ここの子どもたちは特に人なつこくてカワイイ。オレも一緒になって無邪気に走り回っていた。
オレがハンピへ行った時、この村の子どもたちの間ではコマが流行っていた。コマなら日本にもある。何日か前にオレが子どもに借りたコマを回し、ヒモですくい上げて手のひらの上で回してみせると、一気に人気者になってしまったというわけだ。それから子どもたちはオレの姿を見つけると遠くからでも走ってきて、
「ボクのやるのを見てくれ、見てくれ」
「あれやってくれ、やってくれ」
と大騒ぎになった。そのうちデジカメの動画で彼らがコマを回す姿を撮ってみせると、ボクも私もと、もう大混乱だ。そんな楽しく遊んでいるうちは良かったのだが、そのうち子どもたちはオレにコマを買ってくれとねだるようになった。
「それはダメだよ」
と断固Noと言い続けたが、しばらくすると彼らの根気強さと可愛さに負けてしまい、お菓子くらいなら良いかなと思ってしまった。だがこれがまずかった・・・。
小さな袋に入った安いスナック菓子を5つほど買ってみんなで分けるように言ったのだが、年長の子どもがひったくるようにそれをすべて奪って走って逃げてしまった・・・。しかたがなく人数分を買ってひとりひとり手渡ししたが、それを見ていた他の子どもたちが次から次へと集まってきてしまったのだ! 駄菓子屋のおばあちゃんは英語を話さなかったが、その話し方と表情で
「旅行者が子どもに菓子なんか買ってやっちゃダメじゃぞ。それこそ旅行者にたかるようになってしまうじゃろ!」
と言っているのが容易に想像できた。うかつだった・・・。ちょっぴり反省・・・。
このところ精神的に疲れてしまっていたが、子どもたちと村の自然とに癒された。
子どもたちと遊んでから岩山に登り夕日を見て、宿に戻りシャワーを浴びてから夕食を食べにメインロードにあるレストランへ行った。ハンピに来てから毎日来ている店だ。最近ハマっているオクラカレーとチャパティ3枚、チャイをオーダー。ビールも飲みたいがヒンドゥーの聖地であるハンピではアルコール厳禁。
店のオーナーだと言うふとっちょのネーちゃんとは対照的にスタイルの良い妹と話しながら、オレは夕食を食べる。客が増えると妹も厨房へ入ってしまうので、オレはいつも客が少ない遅めの時間に店へ行くようにしていた。
食べ終わった後も話しをしていると、チャイを1杯サービスしてくれることもあった。
今夜はインドの女の娘のオシャレである、ヘンナと呼ばれるボディーペインティングの話で盛り上がって長話をし、オレが最後のひとりの客だった。金を払って帰ろうとすると、お釣りがないと言う。インドでは釣銭がないことがやたらと多い・・・。
「金は明日でいいから」
ふとっちょのネーちゃんがそう言う。逆に「お釣りは明日返すから」と言われてもおかしくないインドなのに、やはりハンピは良い人が多い。
「でも待てよ。これでオレは明日もハンピにいなきゃならないな・・・」
翌日もオレは村の外へ出て岩山に登った。やはりここから見下ろす風景が最もハンピらしい風景だ。
何時間もこの風景を眺めながら心を空っぽにした。ビーチでぼけーっとしている感覚に似ている。だからオレはハンピを好きになったのかもしれない・・・。
岩山を降り、川へ向かって歩いていた。オレの前方にはひとりの女性が歩いている。大きな荷物を頭に乗せ、さらに大きな袋を肩から掛けてゆっくりと歩いている。
しばらくすると彼女は荷物を地面におろし、その場に座りこんでしまった。荷物の重さに耐えられなくなったのだろうか? 良く見るとそれは老婆だった。老人の体には見るからにキツそうな大きな荷物。
オレがそのまま歩いていくと、老婆はオレの顔を見て何かを言いたそうな表情を見せた。しかし何も言わない。外国人のオレを見て、外国語を知らない彼女は何も言えなかったのかもしれない。しかしオレは、この老婆が何を言いたいのかをその表情だけで理解できた。
「おい、若いの! 荷物を持ってくれないかね。わしにゃ重くてかなわんよ」
オレは黙ってその荷物を手にする。座っていた老婆はそれを見ると立ち上がり、もうひとつの荷物を再び頭の上へと乗せた。そして、やはり何も言わずにオレの前を歩いて行く。
ただただ無言で歩くオレと老婆。
灼熱の太陽の下、10分も歩いただろうか? 川の近くに生えていた木の陰へ入ると、老婆は頭の上の荷物をおろした。オレもその隣に、重くて大きな袋をおろす。
老婆が荷物を開けると、中身はすべてバナナだった。日本で売られているバナナと比べると半分くらいしかない小さなバナナ。彼女はバナナ売りだったのだ。その中から4本のバナナをオレに差し出す老婆。そしてそれを受け取ると、無言でそれを食べるオレ。
オレがそれを食べ終えるのと同時に腰を上げた老婆は、そのまま何も言わずに去っていった・・・。
結局彼女とは一言も言葉を交わすことはなかった。しかし、心は通じ合っていた。そんな気がした。
何でもないような小さな出来事だったが、この時のオレには何かとても大きな、とても重要で、とても大切な出来事だったように感じられた・・・。
オレの旅はこのハンピから良い方向へ向かう。この老婆と出会ってナゼかそんな気がした・・・。
ハンピの自然に溶け込むオレ / ここでは子どもと良く遊んだ
193.やっぱり 2008 1/28 (インド)
ハンピを発ったオレは、しばらく離れていたビーチへ戻る。インドのビーチといえばゴア。次はそのゴアだ。
ゴアにはいくつものビーチがあり、オレはとりあえず一番ツーリストの多いアンジュナビーチへ向かった。ロバートと会う約束をしたのもこのビーチ。うまく彼と会えれば、その後はいくつかのビーチをまわって気に入った所へ移るつもりだ。
とにかく彼と会う約束をしている宿へ行ってみた。彼の友人がオーナーだという宿だ。
部屋は満室で泊れなかった。そこでオレはオーナーを呼んでロバートの話をしてみる。
「そんな男は知らない」
やっぱり。と思いながらもデジカメで撮っていたロバートの写真を見せてみる。
「見たことないな」
・・・「やっぱり」と言うより、「当然」オレはダマされていた・・・。
オレが彼に金を貸した時、「これがきっかけでオレはラッキーになる」ナゼかそんな気がした。あの時のオレはナゼかそう思った。
きっとダマされたと気づいた時の状況を始めから予想し、無意識のうちにポジティブな自己暗示をかけていたのだろう・・・。そして毎度のようにトラブルを楽しんでいたのかもしれない。
メールである友人にも言われた。
「お前はダマされていることを分かっていながら、楽しむために彼に金を貸したんだろ」
まさにそのとおりだったのかもしれない。
たしかに日本にいたらサギに遭うということはめったにない経験だ。それで10万円の大金を失ったとしたらショックも大きいだろうし、怒りも大きいだろう。だがオレが失ったのは6000円。オレはその経験を、いや旅の話のネタを、たったの6000円で買えたのだ。そう考えると、「おいしかった」といえるのかもしれない・・・。あの時のオレはそれを望んでいたのかもしれない・・・。
それに、トラベルの語源はトラブルだそうだ。トラブルのないトラベルほどつまらないものはない。そのトラブルを楽しめているうちはトラベルを続けていられる。
悪い結果ではあったが、結果が分かるとスッキリした。
そしてそんなオレはゴアのビーチを楽しむことができた。いくつかあったビーチはそれぞれ違った魅力があっておもしろかったし、オレの好きな土産物屋も多い。定期的に開かれるマーケットも楽しめたし、やはりビーチでのんびりするのは癒される。
それにゴアはビーチだけでなく、ポルトガル植民地時代の教会が多く残っていて、世界遺産にもなっているほどだ。あの有名なフランシスコ・ザビエルのミイラまである。
日本人とはあまり会わなかったが、韓国人のイさんや土産物屋の女の子とも仲良くなり、ゴアの8日間も楽しく過ごすことができた。
スリランカの後半からインドの前半はどうもテンションの上がらない旅をしてしまったが、ハンピとゴアで完全復活だ!! 心も体もリフレッシュできたし、精神的にも完全にフッ切れた!!
同時に、良いのか悪いのかは分からないが、心の中にあったモヤモヤは消えてしまっていた。そして、旅に対して前向きな気持ちが戻ってきた今だからこそ、インドの後のルートを決めることができた。
モロッコとヨーロッパ! やっぱり行こう!! 寒かろうが雨が多かろうが高かろうが、今しか行けないのだ!
精神的にまいっていた時期、オレは東南アジアへ帰ろうかとも考えていた。あるいはこのままインドで沈没しようかとも考えていた。しかし今考えてみれば、それはどちらもネガティブな発想だった。
やはり旅というものは前へ進まなければ! オレの旅は今までずっとそうだった。これからもそうでなければ!!
それにモロッコなんて、日本へ帰って働きだしたらそうそう行けるような国ではない。そうだ! 今行くしかないんだ!!
ビーチに牛これがインドだ / 海を眺めながらまったりできるお気に入りの店
194.インド最大の都市 2008 2/1 (インド)
ゴアの次の目的地は、インド最大の都市ムンバイだ。何日か前、韓国人のイさんと一緒にオールドゴアを観光したオレは、街へ出たついでにムンバイ行きの夜行列車のチケットも買いに行った。しかし列車は満席で、キャンセル待ちとなってしまった。ただ列車のキャンセル待ちはインドでは良くあることで、オレも今までに4,5回ほどキャンセル待ちのチケットで列車に乗ることができている。つまり、今回も席は確保できるだろう。そう考え駅へ向う。
ところが、今回は初めてキャンセルがオレまでまわってこなかった・・・。ビーチから駅まではバスを乗り継いで2時間もかかるというのに、ムダ足になってしまったのだ。1時間半かけてバスターミナルまで戻る。もうすっかり夜になってしまった。今夜はターミナルの近くで宿を探して、明日のバスで移動だ。
ツイてないな。と思いながら歩いていると、バスの客引きが大声をあげているのが聞こえた。
「ムンバイ! ムンバイ!」
「んっ!? ムンバイ!!?」
思いバックパックを背負ってダッシュするオレ。ギリギリでそのバスを止め、値段交渉。しかし予約もしていなかったし、発車寸前だったために足元を見られてしまった。列車とバスとを比較するために、事前にバスの値段も調べてあってあったのだが、その値段と比べるとかなり高い。それでも1泊する宿代を考えれば今このバスに乗るのが正解だろう。しかたがなくバスに乗り込むと、それと同時にバスは走りだした。
列車に乗れなくてツイてないと思いきや、バスにうまく乗れてツイていた。と思ったが、やはりこの時のオレはツイていなかった・・・。
オレの席は最後尾で、リクライニングができない。夜行でリクライニングなしはキツイ。それにバスは思った以上にボロく、すきま風が寒くて眠れたもんじゃない。
そして何よりツイていなかったのは翌朝だった。
オレが目を覚ますと、バスは都会の中を走っていた。もうムンバイだ。初めて来る場所だが、一目でここがムンバイだと分かるような大都会。もう着くのかな? と思っていたがなかなかバスは止まらない。それから30分も1時間も走り続けた。
「ムンバイはデカいな〜! 1時間以上走ってもずっとビルが建ってるもんな・・・。ところでこのバスどこまで行くんだろ?」
ムンバイの地図を見てみるが、現在地はおろか向かっている方角すら分からない。こんな時のためにオレは方位磁石を持っていたが、バッグにつけていたのでどこかで盗まれてしまっていた。まわりのインド人に聞いてもお決まりのパターンで、「あっちだ、こっちだ」といい加減な答えしか返って来ない。周囲の建物や標識からヒントを得るしかないのだ。
そして、それからしばらくするとヒントではなく、ズバリ答えそのものを見つけた。
「AIRPORT」
もう中心地はとっくに通り過ぎてしまっていたのだ!
慌ててバスを降りたオレ。
「あーっ! 面倒なことになった」
たしかに面倒だった。初めての街で中心街から遠く離れた場所からの移動。しかもこの場所はガイドブックに載っている地図の外。タクシーにでも乗れば話は簡単だが、金銭的にそんな余裕はない。意地でも市バスで行ってやる!
とにかくバス停を探して人に聞くしかない。比較的大きな通りへ出て人の集まっている場所を探す。バス停はあっさりと見つかった。問題はここからだ。インド人に聞いてまともな答えを得られるだろか? 一番答えに期待が持てそうな、若くてキレイな女性に聞く。するとあっという間に人だかりができてしまった。そして毎度のごとく、「あーでもない、こーでもない」とてんでに違うことを言い出す予想どおりの展開に・・・。オレはその中でも一番英語がうまく、身なりもちゃんとしていたビジネスマン風の男の話を信じてみることにした。それでダメならどれでもダメ。そう思うしかない。
彼の教えてくれたバスに乗り、彼の教えてくれた場所で降りる。そして彼の教えてくれたバスに乗り換える。乗る前に確認も忘れなかった。
「このバスは中心街まで行きますか?」
「行かない」
「・・・・・・。やっぱダメか・・・」
オレはバスをあきらめ、オートリキシャーを拾った。中心街までは距離があるが、ムンバイ市内を走っている市電の駅なら近くにあるはずだ。そこまでならそう高くないはず。
予想どおり近くの駅まで10分。妥当な金額で乗せてもらえた。もうあとは電車に乗るだけ。そう、乗るだけだった・・・。
その「乗るだけ」がどれだけたいへんなことか、オレはそれを駅へ入ってすぐに悟った。来る電車、来る電車がすべて超満員! 東京の通勤ラッシュの比ではないし、これまでに経験したインドの満員電車ともケタ違いの凄さ! 中はギュギュウ、外にも人がしがみついている。落ちたら大けがだ。とてもバックパックを背負ったオレが乗り込めるようなものではない。
ラッシュが終わるまでしばらく待とうと思い時間をつぶしたが、この状況が変わることはなかった。2時間後、意を決して突入を試みる。が、あえなく人の壁に阻まれてしまう・・・。
そんなオレの姿を見ていたのだろうか? ひとりの紳士が声を掛けてくれた。
「もうすぐ他のホームからこの駅発の電車が出る。それなら乗れるから着いて来い。急げ!」
助かった! そんなものでもなければ、オレはここから前に進めなかっただろう。
彼に着いていくと、ホームはすでに人で溢れていた。そして電車が来ると、あっという間にギュウギュウ詰め。この電車でこれなら、他の電車になんか乗れっこない・・・。
電車の中は壮絶だった。駅で停まる度に、降りる人と乗る人がメチャクチャになり、あちこちでケンカが起こった。オレもまったく身動きがとれず、指の1本すら動かすことができない。足は両足とも踏まれているがどうにもならず、自由に動く体の部分は目だけで、呼吸をするのも精一杯。毎日何人かは死亡者が出ているんじゃないのか? 本気でそう思えるほどだった。
なんとか終着駅まで耐え抜き、駅から出る。やっと中心街までたどり着いた。
しかし今度はその風景に驚くこととなる。そこはインドではなかった。まるっきりヨーロッパ! 写真や映像で見たことがあるロンドンそのもの!
この街はイギリス植民地時代に海を埋め立てて造られたものなのだ。街は欧風建築の建物であふれ、特に駅舎、大学、高級ホテルなどはすばらしい建築だった。車も良い車が多ければ、人々も裕福そうな感じの人が多い。歴史的な建造物が多い地域を外れれば近代的なビルが多く、店もキレイで物も豊富だ。その分物価は高い。地方の2〜3倍はするだろうか? だがそれに似合う街だと言えるだろう。
インドで最大にして最先端の都市。そこはオレの知っているインドとはかけ離れた場所だった。
しかし、街を歩くうちにやはりインドらしい光景にも多く出合った。キレイな教会の前を歩く野良牛。良く整備された道路に店を出すチャイの屋台。高層ビルの合間には雑然とした市場があり、一見キレイな海岸沿いの遊歩道はゴミだらけ。そんなミスマッチの風景はどれもおもしろかった。やはりインドはインドだ。
そしてムンバイで忘れてはいけないのがスラム。地方の貧しい人たちが大都会に仕事と豊かさを求めて殺到し、それに敗れて流れ着いた人たちが暮らす大スラム。世界最大のスラムとも呼ばれていたその地域は、政府が国の威信にかけて再開発した。今はもうその姿を消したというが、オレの泊っていた宿と駅の間にも小規模なスラムがあった。彼らは消えたのではなく散らばっただけなのだろう。
表通りでショッピングをする華やかな人と、その裏通りでひっそりと暮らす人。ここにはインドの光と影がある。
中国やインドといった大国では、ごくごく一部の大金持ちとその他大勢の貧困層という格差社会ができてしまっているが、ムンバイはまさにその縮図のような街だった。
大都会の通勤は辛い / ムンバイはまるでヨーロッパ
195.エローラ、アジャンタそしてハリジャン 2008 2/4 (インド)
インドへ入った当初、オレはムンバイからどこかへフライトするつもりでいた。東アフリカは暴動で行けなくなったので、行先はモロッコかヨーロッパと決めていた。しかし、オレはムンバイからフライトすることはヤメにした。理由は簡単。まだインドを離れる気にはならなかったからだ。このまま北上を続け、デリーから飛ぶことにする。
最初は気分が乗らない日々に悩んだが、ハンピからやっとインドの旅らしくなってきたところだ。こんな時にインドの旅を終えられない。
それでも参考のために旅行会社をまわって航空券の値段を調べた。ゴアにいる時にも調べたが、ムンバイで買った方が少し高いようだった。たぶんデリーはもっと安いでしょ・・・。と勝手な予想をたてる。どちらにしても先にチケットを買って、その日程に合わせるようなガチガチな旅はしたくない。特にインドではなおさらだ。
沿岸部にあるムンバイから再びデカン高原へ。アウランガーバードという町へ向かった。この町の近くにはエローラとアジャンタという2つの石窟寺院群があり、どちらも世界遺産になっている。
夜行バスで移動したオレは早朝のアウランガーバードに到着。寒い・・・。北上してきたし、標高も上がったのでかなり気温は低かった。
バスで良く眠れなかったオレは、宿のベッドでひと眠りしてからエローラへ向かった。ここには岩山を掘って造られた寺院が30以上あり、時代ごとに仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教と3つの宗教の寺院が掘られている。そしてそれらが共存しているという珍しい遺跡だ。遺跡は岩山に沿って点在し、端から端までは2km。往復で4km。昼になると暑くなり、その中を歩くのは大変だったが、遺跡好きのオレはひとつひとつ飽きずに観てまわった。
寺院はどれも洞窟のように岩山の奥へと続いていて、内部は薄暗い。そのため遺跡には照明が設置され、緑、青、オレンジ、黄色などでライトアップされている。寺や遺跡をライトアップすることに賛否両論はあるだろうが、「あまりにも雰囲気を壊してさえいなければ、キレイだし良いんじゃない?」とオレは思っている。逆にこのエローラはそのライトアップで雰囲気が出て、荘厳な感じが出ていた。そしてそれは目で見るよりも、カメラで撮った方がより色が強調されてキレイに映る。宿へ帰って写真を見直した時に、2度目の感動を味わうことができた。
翌日もう一方のアジャンタへ。彫刻のエローラに対し、アジャンタは壁画の美しさが評価されている。オレはどちらかというと、このアジャンタの方を期待していたのだ。しかし、壁画は時間とともに色があせてしまうものだ。しかもその保護のために照明は暗くされていて、柵もあって近くへ近づくこともできない。残念ながら壁画を良く見ることはできなかった。
それでも全体的には見ごたえもあり、満足できる場所ではあった。
オレはエローラを往復したバスから、アジャンタを往復したバスから、そしてアウランガーバードの街を歩いていて、ある同じような光景を何ヵ所も目にすることになった。
それは畑や空き地、荒地、時にはゴミ溜めのような場所で、大勢の人がテントを張って暮らしている姿だった。
どこでもだいたい5〜10家族ほどが共同生活を送っていて、アウランガーバードの駅前にあった大規模なものでは200人近くが暮らしていた。
彼らはアウトカースト。つまり不可触民で、かつてガンジーは彼らを「ハリジャン(神の子)」と呼んだ。
ムンバイの大規模なスラムが政府によって取り壊されたという話は聞いていたが、そこで暮らしていた人たちがここへ流れてきているのかもしれない。
ムンバイやアウランガーバードのあるマハーラシュトラ州は、このハリジャンが多い地域だそうだ。そしてそれは今に始まったことではない。昔からそうだという。カースト制度においてはハリジャンの子はハリジャン。そしてその子も、またその子も・・・。子孫代々ハリジャン・・・。
これがインドの現実なのか・・・。心を打たれる光景だった。
アジャンタは仏教遺跡 / ハリジャンたちの暮らす広場
196.喧嘩上等! 2008 2/6 (インド)
アウランガーバードから夜行バスでアフマダーバードへ。早朝アフマダーバードへ着いたオレは、1泊もせずにその日の夜行列車でウダイプルへと向う。少々ハードな日程だが、インドはデカいのでこんなこともしばしば。
ということでアフマダーバードでは、丸一日近くの時間をつぶさなくてはならなくなった。駅に荷物を預けたオレは街へ出た。この町にはムスリムが多く、モスクも大きなものがいくつかあるのでそれらを見てまわった。公園で昼寝もした。しかし、それでも時間は余ってしまったのだ。
この時間を使ってモロッコまでの航空券の値段を調べることにした。そう決めたとたんに1件の旅行代理店を発見。早速そこで聞いてみた。かなり高い。これでは手が出ないと思って店を出ようとしたところ、
「質問料で50ルピー払え」
と言う。アホか! どこの世界にそんなフザけた旅行代理店があるか! オレはさんざん文句を言ってやり、もちろん金は払わずに店を出た。
インドは北に来るにしたがって悪人が増えてくる。南インドは良い人が多く、それがうれしくもあったが反面、つまらなくもあった。やはりこの濃すぎる人こそがインドらしさなのだ。悪人にムカつかされ、悪人とケンカをする。これがインドだ。このところインド人とケンカをすることが多い。
ムンバイにいる時にはこんなこともあった。バス会社でチケットを買ったところ、
「このすぐ近くから夜の8時半に出発する」
と言われていた。
それでも早めに行っておこうと思い、8時頃そのバス会社へ行った。するとこうだ
「8時に出る! ここから遠いのでタクシーで行け!!」
ふざけるな! 話が違うじゃねーかっ!! と抗議したが、だからといってどうなるわけでもない。とにかくタクシーに乗るしかないのだ。しかしそんなタクシー代を払う気はさらさらない。
「よし、分かった。タクシーで行くからタクシー代をくれ」
「ダメだ!」
「何言ってんだ!? そっちのミスなんだから責任とれよ!」
「ダメなもんはダメだ」
最悪バスに乗れなくても良い。そう思ったオレはここでキレることにした。大声で怒鳴りつけ店の看板を蹴り破る! そして決めゼリフだ。
「I go police !! 」
これが効果絶大! 結局バス会社にタクシー代を出させることに成功した。
そしてアフマダーバードから向かったウダイプルでもまたケンカ・・・。
タチの悪い土産物屋はインドには多いが、ここでもそんな店の男とケンカをした。街を歩いていると、しつこい土産物屋に声をかけられる。いつもならシカトなのだが、この日は店を見てみることにした。オレは冬服を1着しか持ていなかったので、どこかで買おうと思っていたからだ。これから北へ行けばさらに寒くなるし、モロッコもヨーロッパも寒いらしい。
彼につかまって店まで行くが、やはりこの男はオレをナメていた。握手した手を放さなかったり、バカにしたような話し方をしたり、Tシャツをひっぱったり・・・。オレの怒りメーターは振り切れる寸前だったが、わざと笑顔でいた。その方がキレた時の効果がデカいからだ。
そして、彼がオレのブレスレットに触った瞬間、オレはキレた! 男の胸ぐらを掴みネックレスを引きちぎった! 彼は驚いて瞬間的に謝ったが、もちろん心からの謝罪ではなかった。オレが手を放した瞬間に侮辱の言葉を並べ立てた。
オレもいつになく本気でキレてしまっていて乱闘寸前だったが、店のオヤジに止められその場を去った。
前回インドへ来た時にもこんなことばかりだった。これがインドのやり方だし、オレはどこの国へ行ってもその国のやり方をマネしている。それが彼らを理解する近道だと考えていたし、実際その方法でうまく旅をしてきた。前回のインドでもそこから得たものは多い。
しかし・・・。オレが歳をとったからだろうか? 最近はこんなことがバカらしく思えてきた。今のオレは4年前のオレとは違うのかもしれない。今のオレではここから何かを感じとることはできない。何も見えない。何も生まれない。もうくだらないのでヤメようと思う。
ケンカして帰って宿の犬に癒される / ウダイプルの王宮
197.マハラジャの国 2008 2/9 (インド)
土産物屋とケンカをしたウダイプルだったが、街は気に入った。インドの喧噪とはほど遠く、静かな町。ウダイプル一番の特徴といえば、かつてこの町を治めていたマハラジャが水不足を解消するために造った人造湖があること。その湖畔にひとつ、そして湖の中央の島にもひとつ、宮殿が建てられている。今では湖畔の宮殿は博物館、湖に浮かぶ宮殿はホテルと姿を変えているが、その外観は当時のままだ。その湖を中心にひろがる街にはキレイな家が多く、そしてそこに住む人々は裕福そうな印象を受けた。想像するにマハラジャの末裔たちが多く暮らしているのだろう。
このウダイプルを含め、ここからはラジャスターン州の旅だ。ラジャスターンには砂漠が多く、マハラジャの存在が有名な地方だ。マハラジャとは藩王、つまり大名のような存在で、かつては強大な力を誇っていた。21世紀の今現在も直系のマハラジャはマハラジャを名乗っているそうだが、その多くは宮殿の維持費だけでも苦労しているという。今の時代は金にシビアだ。
そこで、現代のマハラジャたちは宮殿を博物館やホテルへ改造し、観光産業の道具として金を稼いでいるという。どうも夢のない話だが、これが現実。
ウダイプルの次はジョードプル。この町は外敵の侵入を防ぐための城壁に囲まれていて、その中央にそびえる岩山の頂にはやはりマハラジャの宮殿が建っている。町の家々は外壁を青一色で塗っていて、そのためジョードプルは「ブルーシティ」という異名を持つ。オレの泊った宿は宮殿に近い高台に位置していたため、この青い家々が良く見渡せて景色は良かった。
この町にはムスリムが多いようでモスクも随所で目にしたが、街の造りもイスラム世界のそれに似ていた。城下町は細い路地が複雑に入り組み、まるで迷路のようだ。オレも宿へ辿り着くのに一苦労してしまった。
そんな迷路のような街は、歩いていて楽しい。オレの予想では、モロッコの街もこんな感じだろう。ますます楽しみになってきた。
ジョードプルから向かったのはジャイサルメール。デリーを目指して旅を続けるオレだったが、少し大まわりをしてパキスタン国境付近の、ラジャスターン最深部までやって来た。砂漠の中にある城塞都市だ。
ジャイサルメールでは、オレは珍しく宿の予約を入れていた。ジョードプルで泊まっていた宿のオーナーに紹介してもっらたからだ。この宿の人たちはみな良い感じだったので、信用して勧められるがままに予約を入れてしまった。しかしこれが失敗だったのだ・・・。
ジャイサルメールではラクダに乗って行く砂漠ツアーが観光の定番となている。そこでこの町では、「宿代を安く設定して客を集め、その分ツアー代でボる」というビジネスパターンが生まれてしまった。それはしかたがないのかもしれないが、中には法外な値段のツアーを組んでいる悪徳な宿もある。オレが勧められて予約を入れた宿も、まさにそんな宿だった・・・。
オレは中国で同じようなツアーに参加しているし、この町のツアーは「高いし、トラブルも多い」と評判が悪かったので参加する気はなかった。宿の若い男に「オレはツアーに行かないよ」と言ってもしつこく勧誘は続くのだ。そのツアーの値段は通常の5倍の金額。誰が行くかボケ!
しばらくしてオレがまったくツアーへ行く気がないと悟ると、彼はこう言いだした
「ツアーへ参加しないなら、部屋代は300ルピーだ」
最初は100ルピー(約280円)と言われて予約を取っていた、それが3倍の300ルピー(約830円)。しかも部屋も変わると言われ、案内されたのは汚くて狭い暗い部屋。こんな悪質な宿に泊まるわけがない! オレは他の宿に移ることにしたが、困ったことがある。予約を入れていたのでバスターミナルまで迎えに来てもらってしまったし、宿に着いてからもチャイを御馳走になってしまった。ここで宿を移ろうとすれば、その分の法外な値段を請求してくるのは間違いない。それなら先に金を払っておこうと思った。そうでもしなければ、十中八九はまたケンカになる。オレは適正な金額の迎えの車代とチャイ代を考えていたが、その金額を払っても「もっと払え」と言われるに決まっている。
ウダイプルで、もうケンカはしないと決めたオレだった・・・。しかたがなく多めに金を払って宿を出た。今回ばかりはオレのミスだったのだ。オレの負け・・・。
宿を移って部屋で休んでいたが、さっきのことが気になってしょうがない。どうも気持ちが悪い。やはり納得いかない。
やはりケンカをしてでも自分の言い分を通すべきだった。そんな気がしてきた。オレは間違っていた。この国ではやはりケンカも必要なのかもしれない・・・。
今回はオレのミスとはいえ、もともとこんな悪どい商売をしている向こうが悪いのだから。
インドの子どもはカワイイ / ブルーシティと呼ばれるジョードプル
198.予定はお早めに 2008 2/14 (インド)
最初にイヤな思いをしてしまったジャイサルメールだったが、この町もおもしろかった。砂漠の中にあるジャイサルメールは、ジョードプル同様に町の中心にある岩山に宮殿が建っている。迷路のような街の造りといい、ジョードプルに似ている。ただ、まったくことなる点が2つある。
ひとつは家々が青く、「ブルーシティ」と呼ばれているジョードプルに対し、ジャイサルメールは「ゴールドシティ」と呼ばれていること。ゴールドといっても実際には黄土色なのだが、レンガと土で建てられた家々がゴールドに見えることからこの名がついた。夕暮れ時には一瞬だけ、その黄土色がまさにゴールドに輝く時間がある。その風景を見てオレもその名に納得。
もう1点の違いは宮殿。ジョードプルの宮殿は博物館として完全な観光用なのだが、ジャイサルメールの宮殿は開放されていて、宮殿の中にも人が住んでいる。宿やレストラン、土産物屋なども多く、オレの泊まっていた宿も宮殿の中。その屋上からの眺めは宮殿と街とを一望できて良いものだった。特に砂漠の夕日に照らされた街と、その後に訪れる星空が印象に残っている。
さて、次はいよいよデリー。オレはデリーからモロッコへ行く・・・つもりなのだが・・・、未だに航空券を買っていない・・・。
最初にモロッコ行きの航空券の値段を調べたのはゴアにいる時だった。27000ルピー(約76000円)。この時はまだ先の予定が立たず、チケットは買わなかった。次に値段を聞いたのはムンバイで30000ルピー(約86000円)。今考えるとここで買っても良かったのだが、やはりオレは予定の決まった旅はしたくなくて購入を後伸ばしにしてしまった。
その後アフマダーバードでは旅行会社とケンカをし、ウダイプルではとんでもなく高かった。ジャイプルとジャイサルメールではエアチケットを扱う店すら見つけられず、結局デリーまで来てしまった。
そしてデリーに着いてすぐに旅行会社へ。33550ルピー(約95000円)。高い! やってしまった! やはり航空券は早めに買わなくては・・・。ヨーロッパはもっと高いし、他の店でも安いチケットは見つからなかった。
しかしもうしょうがない。今しか行けないから行く! そう決めたのだ。今さら悩んでも時間が無駄になるだけだ。
翌日そのチケットをゲット! 幸い4日後には飛べるので、スケジュール的にはバッチリだ。それに乗り換え地のUAEでストップオーバーもできる往復チケット。そしてこのチケットに加えて、インドへ帰って来てから先のチケットも一気に購入した。また今回と同じ失敗をしないようにだ。
これで帰国までの日程がほぼ決まった。
4日後にデリーからモロッコのカサブランカへ飛び、モロッコとヨーロッパをまわる。1ヶ月後にUAEへ行き、1週間の滞在。デリーへ帰ってからそのまま国内線に乗り換えてカルカッタまで飛び、陸路バングラデシュへ。1週間でカルカッタへ戻ってタイのバンコク。今回買ったのはここまでのチケットだが、バンコクから日本へのチケットは何の問題もなく手配できるだろう。旅の最後はバンコクで「水かけ祭り」だ! ちょうど日程が合ってラッキーだった。ラストにタイ最大の祭りで燃え尽きて帰国!
旅の最後は、杏の花が咲き乱れる春の桃源郷フンザを予定していたが、パキスタンの治安情勢は悪化する一方なので今回は行かない方が良さそうだ。行きたい場所を残しておくのも今後のためには良いのかもしれない。
とにかくルートにはさんざん悩まされた今回の旅だったが、なかなかのスケジュールができあがった。
フライトまで4日あるし、デリーには前回も来ていてもう見る所もないので、どこか近くの町へでも行こうかと思った。が、デリーでゆっくりすることにした。デリーでは久々に日本人宿に泊まっていたため、ここが楽しくなってしまったからだ。今は学生の春休みで、宿にも大学生が大勢泊まっていた。
そして・・・この学生シーズンは、悪いインド人にとっても稼ぎ時なのだ。初海外の学生たちが簡単にダマされるからで、同じ宿の子たちも被害に遭っていた・・・。特に日本から直にインドへ来る場合、デリーへは深夜の到着になってしまうので、絶好のカモになってしまう。
「町を歩いていてもやたらと声を掛けられるのでうるさいし、怖い」
彼らの多くはそう言っていたが、そのうちみんな慣れるだろう。そしてそれがインドのおもしろさなのだと感じることができた人は、インドにどっぷりとハマるのだ。しかし、それにどうしても慣れない人はインドを大嫌いになってしまう・・・。それがインドだ。
ところで・・・オレはほとんど声を掛けられないんですけど・・・。風貌? いや貫禄かな?
ゴールドシティが黄金に輝くのは夕方 / 城門付近の風景
199.デリーでのできごと 2008 2/19 (インド)
インドは濃い。インド人も濃い。だが一番濃いのは、インドを旅する旅行者かもしれない。
オレはメインバザールにある日本人宿のドミトリーに泊まっていた。メインバザールは通称で、正式にはパハールガンジ。ニューデリーの駅前にある有名な安宿街で、ここには何でもそろっている。
デリーに来た何日目か、ドミに新しい旅行者がやって来た。早朝だったので、一瞬目を覚ましたがまたすぐに眠ったオレ。しかし、しばらくすると話し声でまた起こされた。その新しい彼が誰かと話している。何となく話を聞いていたが、オレはそのまま目を閉じているとまた眠ってしまった。
朝起きたオレは、この宿で仲良くなったユウジくんとベッドの上で話しこむ。他の大学生たちはみんな観光へ出かけてしまっていた。気になったのはオレの横のベッドに寝ながらガイドブックを読んでいる彼。早朝に入って来た彼だ。
彼はインドはおろか旅すら初めてで日本から来たばかりだと言ったが、いっこうに出かける気配はなかった。初海外でしょっぱなから沈没? そうだとしたらかなりのツワモノだ・・・。などと思っていたが、そのうちその彼が話しだした。
「すいません、ちょっと話聞いてほしいんですけど・・・」
何やら深刻そうな顔をしている。
「どうしたんですか?」
と、オレとユウジくん。
話を聞くと、彼(Aくんと呼んでおこう)はインドに来たその瞬間に悪いインド人にやられてしまったらしい・・・。
深夜デリーに到着したAくんは、空港からオートリキシャーに乗った。メインバザールへ行くつもりが、旅行会社へ連れて行かれてしまったそうだ。そこで高額なツアーを組まされてしまう。
まったく良く聞く話だ。未だにこんな古典的なワザを使っているインド人もインド人だが、そこで金を払ってしまったAくんもAくんだ。と言いたかったが、初海外だししょうがない・・・。
その後Aくんは旅行会社の用意したホテルに泊まっていたそうだ。翌日、ツアーの迎えがホテルへ行くことになっていたらしい。
ところが、Aくんはそのホテルを出てメインバザールへやって来た。彼が言うには
「なにやら様子がおかしくなってきたので逃げ出した」
ということだった。身の危険すら感じたそうだ。
「それで正解ですよ。取られた金のことなんか忘れて、旅を楽しみましょうよ」
「金を取り返したいのも分かるけど、そんなのにこれ以上関わらない方が良いですよ。金で済んで良かったのかもしれないですよ」
オレとユウジくんは言ったが、何の慰めにもならなかった・・・。
オレはユウジくんと昼メシを食べに外へ出た。食事をした後別行動をし、宿へ戻るとちょうどユウジくんも帰って来たところだった。2人で階段を上り部屋へ行くと・・・、いた。Aくんはまだガイドブックを読んでいる・・・。
「メシ食いました?」
「食べてないです」
どうやら彼は一歩も部屋から出ていない様子。
その後も彼はベッドに横になってガイドブックを読んでいた。外へ出ないことや、その表情から、かなり落ち込んでしまっていると感じられた。ショックも大きいだろうし、インドを嫌いになってしまわなければ良いが・・・。
しばらくするとAくんはガバっと起き上がり、
「俺がこの部屋にいるとみんなに迷惑ですよね、シングルルームに移ります」
と言って出て行ってしまった。
「迷惑じゃないけど、なんか落ち込んでるみたいだし、ひとりになりたいんだったらその方が良いかもしれないですね。でも、もし何か力になれることがあったら言ってくださいよ」
ユウジくんはそう言っていた。彼は良いヤツだ。
それから何時間かして、ユウジくんの言葉のとおりAくんがドミトリーに来た。
「俺、日本に帰ろうと思うんですけど、チケットの日付変更ってできるんですか?」
旅に出る前は旅行代理店で働いていたユウジくんがチケットを見る。
「あー、このチケットなら変更できるはずですよ」
その話を聞いていたケンジくんが
「俺も明日旅行会社に行くんで、一緒に行きますか?」
とAくんと一緒に行ってくれることになった。ケンジくんは世界一周旅行の最中という旅人で、彼が一緒なら安心だ。
Aくんがシングルの自分の部屋へ戻った後、3人で彼のことを話していた。
「たったの3日で日本へ帰るなんて・・・よっぽどショックだったんだろうね」
「なんか人ごとじゃないっすよ」
その夜、オレはユウジくんとユウコさんと3人で屋上へ上がり、話をしていた。ユウジくんは明日バンコクへ、オレは明後日モロッコへ。最後の夜ということで話しも盛り上がっていた。
そろそろ寒くなってきたな、という時間になった頃、下からAくんの声が聞こえる。
「すいませーん」
どうやらドミトリーに来ているらしいが、他のみんなはもう寝てしまったようだ。
ユウコさんが下に降り、Aくんを屋上へ連れてきた。
「すいません、やっぱひとりになったら怖くなってきて・・・、ドミに戻ってもいいですか?」
それからオレたちは4人で話しを続けた。ユウコさんがAくんのことをいろいろと気遣っている。Aくんもいろいろと話してくれた。
なぜ旅にでたのか。なぜインドに来たのか。騙された時のこと。そして日本に奥さんと、まだ3ヶ月の子どもがいること・・・。やはり何か訳ありの匂いがする・・・。
1時間も話していただろうか? どうもさっきからAくんの様子がおかしい・・・。物音やオートリキシャーのクラクションに敏感に反応し、しきりに屋上から下を覗き込んでいる。そのうち犬の鳴き声やインド人の会話にまで怯えるようになってしまった・・・。
「ツアーを途中で逃げ出してきたので、悪いインド人に追われている」
「日本の奥さんや子どもにも危害が及ぶかもしれない」
そんなことまで口にした。普通の思考回路ではない・・・。
この頃からAくんの眼つきはまったく別人のそれに変わってしまい、支離滅裂なことを言うようになってしまった。それは時間が経つにつれ悪化してしまい、階段を上ったり下りたり、物置を覗き込んだり、カメラを屋上から投げてしまったり・・・。完全に錯乱状態に陥ってしまったのだ! オレたちはとにかく落ち着かせるしかなかった。しかしまったく言うことを聞いてくれない。そして彼は
「奥さんに電話する」
と言い出した。真夜中のデリーの街へ飛びだしてしまいそうな勢いだ。力ずくでそれを止めるオレとユウジくん。
なんとか彼を屋上に引き留めた。そして日本が朝になる時間帯まで待って日本の奥さんへ電話をさせる。こんな夜中なのに電話屋が開いていて助かった。
これでAくんも安心するだろう。・・・・・・そう思っていたオレたちは甘かった。Aくんは
「奥さんがいつもの感じじゃない。たぶん悪い奴らにつかまって脅されているんだ」
と状況はさらに悪化・・・。
「駅に奥さんがつかまっている」
と言ってニューデリー駅の方へ向かっていってしまう。
オレとユウジくんでなんとか宿へ連れ戻し、他の客の迷惑にならないようにまた屋上へ連れて行った。しかしAくんはすぐに屋上から下りてしまい、宿の中をうろうろしだした。奥さんを探すと言って聞かない・・・。
この時点でオレたち3人は、Aくんは悪徳旅行会社で悪い薬の入った紅茶でも飲まされたのではないか? と思っていた。でなければここまでの状態にはならないだろう・・・。
苦労してAくんをドミトリーへ連れ戻したオレたちは、やっと眠ることができた。もうくたくただ。
しかし翌朝話を聞くと、眠っていたのはオレだけだったようだ・・・。すぐに起きだしたAくんはまた騒ぎ出し、ユウジくんとユウコさんはそれを止めるために一睡もしていなかったのだ。2人には悪いことをしてしまった。
そんなことを思う間もなく、オレたちの静止を振りきったAくんは駅へ向かって歩いて行く。やはり奥さんは駅にいると思い込んでいるのだ。オレとユウジくんで止めたが、Aくんも必至で抵抗した。そんなことをしていると周りのインド人たちもおかしな目でこちらを見るようになり、これ見よがしに悪そうなインド人が近寄ってくる。それを追い払っているうちにAくんは歩いていってしまい、結局ニューデリー駅まで来てしまった。
「昨日駅で奥さんの声を聞いた」
「駅の構内放送で奥さんの居場所を知らせている」
駅で騒ぎだしてしまったAくん。ここはヤバすぎる。警察も警備員もいるし、もしつかまりでもしたらそれこそ大ごとになってしまう。最終手段をとったオレとユウジくんは、Aくんを抱え込んで力ずくで宿へ連れ戻した。
ユウジくんはフライトの時間がせまっていた。もう行かなくてはならない。最後がこんな別れ方になってしまい本当に残念だったが、日本での再会を誓って彼と別れた。
オレたちが駅へ行っている間に、ユウコさんが大使館へ連絡を取ってくれていた。この日は土曜で休みだったが、緊急事態ということで特別に領事と医師が対応してくれることになった。オレたちではもうお手上げなのでAくんを大使館へ連れて行くのだが、Aくんはそれを拒んだ。なんとか説得したが、いつまた気が変わってしまうか分からない。その時にオレとユウコさんだけでは不安だ。朝はオレとユウジくんの力でも彼を止められなかったからだ。それを考え、ケンジくんにも手伝ってもらうことになった。またひとり巻き込んでしまって申し訳なかったが、どうしても必要だった。
大使館へ着いてしばらくすると、領事と医師が駆けつけてくれた。やはり頼れるのは大使館、そして日本人だ。
大使館の中へ入り安心したのか、Aくんはこの頃になると落ち着きを取り戻した。オレ、ユウコさん、ケンジくん、Aくん、領事、医師の6人で話しをし、Aくんを日本へ帰すことになった。Aくんもその気になってくれた。
領事が航空会社へ連絡をとってくれ、Aくんのチケットの日付も変更できると確認。あとはAくん本人の最終決定を待つのみだった。
が・・・、オレは正直それも危ないと感じた。朝までの様子では、飛行機に乗れるような状態ではない。オレ個人の考えでは、一刻も早く病院へ連れて行くべきだ。しかしAくんも同席しているこの場でそんなことは言えない・・・。
「どうしますか? Aくん。日本へ帰りますか?」
「その方が良いと思うよ。早く奥さんと子どもにも会いたいでしょ?」
しばらく無言でうつむくAくん・・・。そして・・・。
「インドに残る」
そう言うとAくんは部屋を出て行ってしまった。しかしオレたちは追わなかった。大使館はセキュリティが厳重で、領事の持つカードがなければドアは開かない。それにドアは二重になっているのだ。
Aくんがいなくなった今がチャンス! オレは彼がいない間に、彼の前では話せないような昨日からの出来事をすべて伝えた。領事も医師も、オレの話を聞いて「それならば病院へ入れましょう」と考えを改めたのだった。
ところが・・・・・・。なんと、Aくんはそのまま外へ出てしまった・・・。事情を知らないインド人の警備員がドアを開けてしまった・・・。
最悪なことになった。みんなで後を追ったがもう姿はない・・・。
待つしかなかった。大使館か宿か、どちらかに戻ってくることを待つしかなかった。
領事がAくんのパスポートから実家の電話番号を調べ、日本へ連絡してくれた。そしてオレたちは衝撃の事実を聞かされる・・・。
「あのね、Aくんのお母さんが言うにはね、彼は日本にいる時から精神に障害を持っていたらしいよ・・・」
まさに一同唖然だった! 薬を飲まされたのではなかった! 精神に障害って!? それで海外をひとり旅しちゃったわけ? 家族も行かせちゃったわけ? しかもよりによってインド!
ひとりインドへ来てしまったAくん。ひとり海外へ出してしまった家族。彼を守ってやれなかった自分たち。そんなことを考えていると、ほとんど眠っていない、そしてショックを受けているオレの頭はオーバーヒート寸前だった・・・。こっちまでおかしくなりそうだ・・・。
領事と医師は大使館で、オレたち3人は宿で、戻るか分からないAくんを待った。どちらかにAくんが戻れば連絡を取り合うことになっている。
オレたち3人はドミトリーではなく、シングルルームに泊まっていたユウコさんの部屋で話をしていた。他の旅行者、特に若い大学生たちにはAくんの話を知られない方が良い。そう思ったからだ。ここでこんな話を聞いてショックを受ければ、インドの旅も楽しめなくなってしまうかもしれない・・・。それにしても最初にAくんと話したのが、旅の経験が長いオレたちで良かった。
しばらく話した後、オレたちは眠ることにした。疲れた・・・。
夜、宿のインド人に起こされた。
「ヒロ! 電話だ!」
当然大使館からだろう。Aくんが大使館に戻ったのだろうか? それとも・・・。
恐る恐るオレは電話にでた。
結果は悪い方だった・・・・・・。Aくんは・・・線路に架かる陸橋から飛び降りてしまった・・・・・・。命は助かったそうだが、全身を骨折し、近くの病院で応急処置をしたという。今は大きな病院へ搬送中だそうだ。
予想していたうちの最悪の結果になってしまった・・・。
宿の人、ケンジくん、ユウコさんにそれを伝えると、オレはまたすぐに眠ってしまった。今はもう、何も考えたくない・・・。
翌朝、やはりAくんの話をしていたオレたち3人。
「なんでインドに来ちゃったのかな」
「インドに来たら人生が変わるって言うじゃん? 私たちだって少なからず変わったでしょ? きっとAくんも変わりたかったんだよ」
「そういや精神を病んでる人が、ショック療法でインドに来たりするらしいっすよね」
「Aくんもそうだったのかな」
「そうだと思うな。Aくんも、家族も。だからひとりで行かせちゃったし、Aくんもまだ帰れなかったんじゃない?」
「インドはやっぱ濃いっすね」
インドは濃い。インド人も濃い。だが一番濃いのは、インドを旅する旅行者かもしれない。
デリーのパハールガンジ、ここで事件は起こってしまった・・・
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